大石 - みる会図書館


検索対象: 瀬戸内晴美随筆選集〈2〉芸術・滅びぬ死
5件見つかりました。

1. 瀬戸内晴美随筆選集〈2〉芸術・滅びぬ死

要するに、長次郎さんの器用な血筋が受けつがれていたのだろう。 「こういう職人仕事っていうのは教えてもらったんじゃだめでしようね。ものを教わると、教えられ た域までしか達しませんよ。自分で考え、工夫し、苦しんで研究していけば、きりもなく発見が出来 る。そこで仕事の腕が磨かれるんじゃないですかね」 つのまにか大石さんも長次郎さんの二代目に 木屋の仕事を、片つばしから手がけているうちに、い なってしまった。 「ただ、私はそんななり方だったから、何でも屋になってしまったのが駄目なんです。基礎をやって おかなかったということの口惜しさがこの頃わかってきましたよ。人に出来ないということがいやな 負けずぎらいなので、何でもひきうけてしまう。そのため、専門的でなく、和家具の金具もやれば、 かんざしもうてる。このごろのアクセサリーのデザインから製作もやるという何でもやになってしま ったんです。ただ、何をやる時でも、平凡なものは興がのらなくて、変ったものや、難しいものだと やりたくなってしまう。これが病気ですね」 と笑う。従って、現実的なアクセサリ 1 や、実用家具の錺には力が入らない。大石さんの好きな仕 事は、古いものの修理だ。そういう意味で、四年前、古い文筥の錠前直しを頼まれたのがきっかけ で、文化財修理の仕事を頼まれるようになったのは、大石さんにとっては幸運だった。 私のこれまで逢った文化財修理にたずさわる人たちはロを揃えて、割のあわない仕事だといった 職が、大石さんがただひとり、 「文化財の仕事は、私なんかは決して手間が悪いとは思いませんね」 という。それだけ、大石さんの仕事の、手間賃が他の職業に比して安いということになるのではな

2. 瀬戸内晴美随筆選集〈2〉芸術・滅びぬ死

幻 0 現実にようやく錺職大石長治さんを紹介され、浅草は鳥越に訪ねていったのは、師走に入ったたい そう冷え込む日であった。途中で急に曇って来て、鳥越に入った頃から降り出してきた。 いかにも江戸の下町という感じが残っているこの辺りは大型 ( イヤーなどで入っていくのが気がひ けるような、つつまし、 しいきいきした庶民的な生活の匂いが、家並から商店の飾りつけ商品の並べ 方にも滲み出している。 食料品屋の軒先に、あずきゃうずらや、いんげんや大豆が、なまのまま並べられているのに、経木 に書いた値段札がさしこまれている。その字が一合いくらでなく一デシいくらとあるのが、おやと、 そぐわない感じがするような、古風な大正の匂いがするのだった。 そんな町で、大石さんの家は訪ねあぐねた。それもその筈で、大石さんのおうちは、通りから更に 入った路地の中にあるけれど、その路地が人ひとりようやく通れる狭さで、路地というより、家と家 のすきまといった感じのものだから、道という観念でさがしていたら、何度でもみすごし通りすぎて しまうのである。 貧しいということは恥ではなく、まして、一筋の道を貫いてこの現世に生きぬく人の上ではむしろ 誇りだとさえ私は考えているので、あえて、大石さんのくらし方を、失礼をかえりみず、ここにはっ きり書いておきたい気がするのである。 その路地の中に、硝子戸をあけると、いきなり土間も何もなく、家の台所という構えだった。どの 家もそういう構えらしく、セメントで固められたその細い道がそのまま両側の家の土間の役目を果し ているようだった。けれどもずっと並んだその両側の家々は、昔の棟割長屋などという貧弱なもので はなく、堂々とした二階建の、しつかりした建物だった。大石さんの家も磨きこまれた台所の板はび

3. 瀬戸内晴美随筆選集〈2〉芸術・滅びぬ死

2 ノ 2 「貧乏していますー と、ロにしてもさわやかで一向に惨めなひびきはしてこない。先代は大石長次郎といって三越の隣 にあった木屋の仕事をしていた錺職だった。長次郎さんの代に静岡から東京に出て来たので、先祖は 静岡の大地主だった。長次郎さんが好きで錺職になった頃が、この仕事の全盛時代で、仕事はいくら でもあったし、いい仕事も多く、腕さえよければ収入も悪いものではなかった。長次郎さんは名人と いわれる腕の持主だったので、錺職としては成功者だったけれど、自分の仕事を息子には継がせたが らなかった。錺職の将来というものに悲観的な観測をしていて、息子には他の道で立つようにといし 暮していた。大石さん自身も錺職になる気はなく、電気のことを勉強したりして十九歳の頃にはもう 一かどのセミプロのラジオ屋になって、その組立や修理で結構一人前の稼ぎをしていた。ところが長 次郎さんが急逝したので、木屋で大石さんをどうしても長次郎さんの後継者に仕立てようとした。 「おやじは木屋で雛道具一切をやっていたんです。今の雛道具なんてろくなものありませんが、当時 は今の金で二、三百万のものじやろくなものはなかったくらい、凝っていたんですよ。一口に錺職と くり : : : もいるし、さまざま いっても、和家具専門の者もいるし、装身具つくり、かんざしや指輪っ です。おやじはかんざしや指輪づくりは一番つまらながっていました」 大石さんもせつかく腕を惜しまれるほど名人だった長次郎さんの仕事を人に渡してしまうのも惜し くなり、いきなり、十九の年から錺職に転業した。 「おやじは私に仕事のことは一切教えませんでしたので、全く、見様見真似で、道具を持ったんで す。どういうわけか、最初から、いきなり仕事にとりかかって、何とかやれたんですよ。全く手さぐ りですが、何とかやれてきてしまったんです」

4. 瀬戸内晴美随筆選集〈2〉芸術・滅びぬ死

かびか光っていて、ステンレス張りの近代的な大きな流しが場所をとっていた。流しと反対側にすぐ 階段のロが開いている。 「二階ですからどうそ」 といわれてすぐ暗い階段を上っていく 。上は一一間だった。上り口の六畳が大石さんの仕事場で、奥 の一間に簟笥やこたつがあり、居間になっている。私はすぐその生活のたたずまいに、講釈師の神田 松鯉さんと、煙管作りの吉田省吾さんのくらし方を思い出した。その両方の住いに通じるものを、大 石さんの二階暮しが漂わせていた。 大石さんは、背がすらりとしていて猫背でもなかったけれど、全く私の空想の中の錺職という人物 と、そっくりなので、私はかえってどぎまぎしてしまった。痛ましいほどやせているし、顔色が悪い し、病人か、病み上りの人のように見える。栄養失調かと思われる驅つきだけれど、そうでないのは 奥さんが、ころころ肥られ、見るからに健康そうな、のどかな顔つきと驅つきの方なのをみてもわか った。神経が皮膚の表面に全部むきだされているような、鋭い繊細な感じのする大石さんは、箱火鉢 の向うに壁を背にして坐る。そこが仕事をするいつもの席らしく、手をのばせばすぐとどく右側に、 ずらりと仕事用の道具が並んでいる。みんな掌の中に入ってしまう短い丈の、たがねや、鑿や錐、や すり、金槌などであった。火鉢も炭火も、仕事中は、道具の一つにする寸法なのだろう。火鉢につづ いている机が仕事台。 職大石さんは話しはじめるとやせた顔の中に大きな目がいきいきと輝きだして精神の若さが急に光り だす人であった。明治四十三年生れというから、これまで訪ねた人の方では若いほうである。話し方 は職人というより芸術家の感じがする。

5. 瀬戸内晴美随筆選集〈2〉芸術・滅びぬ死

いだろうか。物価の値上りなどこの人は考えないらしい。手間賃は、ほとんど据置きの値で、上げる ことなど考えっかないようだ。 最近の仕事で一番楽しかったという鎌倉の尼寺の舎利塔の修理について語りだすと、大石さんはう っとりした表情になる。三センチ幅に五本も下っているような瓔珞や風鐸の一かけら一かけらを修理 する時は、時計屋のかける拡大めがねなんかあっても役にたたないという。 「もうそこはカンしかないんですよ。顕微鏡でみなければならないような小さな穴をあける時なん か、肉眼じゃだめです。カンだけで手さぐりですね。道具はその時その時で、自分でつくるんです。 昔の人だってめがねなんかなくそんなこまかい仕事をしていたんですよ。カンだけです。どうしたっ て、昔のものがいいですね。徳川時代のは、細工はこまかいけれど、きちんと整いすぎて面白くない ですなあ。もっと古いものはと・ほけてぬけたところがあって、味がありますよ。文化財の修理では、 いっか香炉の足を直した時、あんまりそっくりに直したら、直したのがどれだかわからないからいけ ないって文句がっきましてね。おかしなところですよ」 この仕事も後継者はなくなっている。 袋物師 戦災にも焼け残った根岸のそのあたりは、まだ古い東京の下町の俤が色濃く漂っていた。趣味の美 術裂地袋物の看板の出た古川さんの店構えも、一一間間ロの軒下半分に腰高の飾り窓が出ていて、入口 を入ってすぐが一坪の土間、ウインドウつづきの左半分が畳敷の店、壁よりにすすけた商品簟笥とい