「忘れちゃいねえさ」 「それよりもー 一一人の会話に京也が口を挟んだ。 「目先の楽しみだけしゃなく、少しまわりを気にした方がいいんじゃないか比嘉くん」 人をばかにした京也の物言いは気に入らないが、比嘉はあたりの気配を探った。 「比嘉さんー 流とフェンウェイを取り囲んでいた仲間が差し迫った声を上げた。比嘉は光の輪に目をやっ たが、変わったところは見受けられなかった。 が、次の瞬間、目を見張った。 仲間の後ろに誰かいる。一人ではない。仲間一人一人の背後にナイフを突きつけている。 編自分の背後にも気配を感じ振り向く。 前 三階の闇の中から数人の少年が現れた。一一階からも少年達がこちらを睨み付けていた。 者 いつの間に忍び込んだのか、いや、忍び込んでいたのか、工事現場のあちこちから〈百鬼夜 を行〉のメンバーだろう少年達が姿を現した。人数は軽く比嘉側を超えている。 けいせいぎやくてん かしん 「形勢逆転だね。あんまり自分の力を過信していると寝首を掻かれるよ 今や、比嘉を見上げる京也の立場は、立っ位置とは逆だった
142 うらしんじゅく 久しぶりの〈裏新宿〉だった。 厳密に一言えば、〈裏新宿〉を離れていたのは数日の事でしかなかったが、気持ち的には一年 にも相当する気がした。 しんくうかん 〈真空管〉の開け放ったドアからドンドンと音楽の低音部が響いている。階段の途中でフロア いちい を見下ろすとフェンウェイと市井の姿が見えた。 「フェンヴェイ ! 市井ー ながれ 大声で呼んだが、鳴り響く音楽に二人は気づかない。流は二人の背後から肩に腕をまわし 「流 ! 、「まだ準備中だろ。こんなに音楽かけてていいのかよ、 のんき えり 呑気なセリフが終わらないうちに、フェンウェイが流の襟を締め上げる。 「お前、ここんとこどこ行ってたんだよっ ! ケ 1 タイ鳴らしても出やしないしー 会わなくとも必す連絡は取り合って声を聞いていた。それが〈裏新宿〉で相手の無事を確認 する一一人の方法だったのだ。 げんみつ
おい、フェンウェイ 「わからない。 流の呼びかけにフェンウェイは頷き、一一人が歩きだす。 「おい、流、フェンウェイ : : : 」 「京也、後ろ振り向くな。俺たちと歩調合わせて歩け」 どうやら一一人のしようとしている事が飲み込め、京也は流の言葉に従った。 五十メート ル程歩いただろうか。後ろにまだ気配がある。やはり間違いない、 つけられてい る。 まぎ 確信して、流はっと一一人から離れ、路地を曲がった。人波に紛れる尾行者は一瞬迷ったよう だが、真っ直ぐ、フェンウェイと京也の後を追った。人波に紛れて誰かまではわからないが、 ちらりとニット帽が見えた。 狙いはフェンウェイか ? 路地から通りに取って返し、通行人の間から見え隠れする尾行者に近づいていった。 前背はかなり低い。ニット帽以外に尾行者のいる気配はない。 者 たった一人で仕掛けるつもりか。もしそうなら甘く見られたもんだ : くちびるか 継唇を噛み、流は尾行者との距離を少しすっ縮めていった。一人とはいえ、用心に越したこと 疵 気を引き締めたその時、尾行者の右手がポケットに近づくのが見えた。瞬間、流は通行人の
「いや、やつばり君ってやつは思っていた以上に面白い。退屈しないやつだ」 「どういう意味だよー どな 怒鳴りつけても笑い続ける態度に我慢ならなくなって、流は床を踏みならして歩き去った。 「おーい。僕も一緒に帰るよー 「うるせえ ! 今日は用があるんだー 「おーい。流」 「用があるつつってんだろ ! 「明日の化学、小テストあるだろ。勉強しといた方がいいよ , 化学ー・・・ーーー流の「この世で嫌いなものベスト 3 」に入る科目だ。運悪く、化学教師小池は何 もここまでとうほど意地悪くこねくりまわした難解なテスト問題を作る あや 彼のテストによって進級が危ぶまれた生徒も一人や一一人ではない。そして流もその一人だっ 「今夜、電話くれればテストのヤマ、教えてもいいんだけどな」 ためら 今の今まで京也の言動に怒っていた自分がすぐにしつばをふるのは躊躇われたが、背に腹は かえられなかった。 「・ : : ・で、電話 : : : するー かっとう 京也への怒りと進級。流の中での葛藤は京也の思った通り後者が勝った。 こいけ
うなが しばらくすると係官がや ? て来て番号を呼んだ。女は慌てて立ち上がり、促されるまま面会 室に入っていった。 なが・ たばこ 一人になると木佐は煙草を取り出し、火を点けた。煙草をふかしながら室内を眺めるともな く眺めた。 すみ 待たされる面会人の為に待合室にはテレビと飲み物の自販機がある。部屋の隅には差し入れ の窓口があり、その横にはガラスケースに雑誌、菓子、下着などの品が並べてある。面会人が 受刑者に差し入れる為の販売物だ しえん 紫煙の向こうの窓から曇り空が見えた。この敷地内に数百人の受刑者がいるとは思えい静 けさだった。 ちょ、フえき 木佐自身、懲役を食らい「内側』に立った事があり、知らない世界ではなかった。最初の 『内側』は十六の時、少年院だった。やはり灰色の塀が施設を囲んでいた。 よみがえ 最近では思い出す事もなくなっていた記憶が蘇りかけた。 「五番の方、どうぞ」 われ 自分の番号が呼ばれ、我に返った木佐は煙草を灰皿に押しつけ面会室に入った。 すで 一坪程度の狭い部屋の中央を透明なプラスチックポードが仕切っている。その前のイスに既 ぎいかんしゃ に面会相手である在監者が座っており、後ろには立会看守がいた ひびの 「日比野さん」 あわ
近づいている。道端の雑草もこころなしか緑が薄れてきているようだった。 だが、季節の変わり目を楽しむ余裕は今の木佐にはなかった。 流は未だに家に戻らない。 一日二日戻らない事は今までにもあった。友人の家にでも泊まっ ているのだとよい方に考えようともした。だが、あの告知の直後だっただけに不安でならなか そうこうしているうちに週が明けてしまった。今夜までに流からなんらかの連絡がなければ 木佐はそれなりの方法をとるつもりでいた。 「あ、兄貴ー こうちしょ ひがし 車の外で拘置所の門を見ていた東が声を上げた。拘置所の通用門が開くのが見えた。最初に 刑務官が出てきた。その後、しばらく間があり、グレイのジャケットを着た男が続いた。ネク ひびの タイはしていない。日比野だ。 木佐はドアを開け、車を降り立った。 ・三人目の男はネクタイをしめたスーツの男だった。日比野は刑務官とスーツの男二人に向か い合い 一一言三言喋り、頭を下げた。一一人も何か話しかけ、やがて拘置所に戻っていった。 きびす 通用口が閉まるまで一一人を見送った日比野が踵を返した。と、べンツの前に立っ木佐に気づ いた。ゆっくりした足取りで近づき、木佐の前で足を止めた。 「出迎えはいい と言っただろ、つ」 みちばた
120 自分自身も日本に来た当時は友達もいなくて、日本語も喋れず、いつも一人で寂しかった。 梅姿の孤独を分かってやれるのは自分しかいないのだ。 ほんそう メイチー 流と連絡がとれなくなり、仲間と情報収集に奔走していたが、梅姿の事も気に掛けてやら なければ。 だが。 ふと母の言っていた事を思い出し、フェンウェイは足をとめた。夕食を取りに来ないし、家 に帰るのも遅い あいつ、どこでメシ食ってんだ ? 友達もいないはずだし、一人で何してんだ あんなに自分にまとわりついていたのに最近は何も言ってこない。現れもしない。 友達ができたとか : いや、それはないはすだ。同じ中国人仲間に友達ができたとしたら、その情報はフェンウェ イにも聞こえている。それほど新宿近辺における中国人社会は狭い。 だとしたら : いやな予感がした。だが、形を成さない予感でそれ以上想像する事は難しかった。 フェンウェイは頭をふり、再び〈裏新宿〉へ向かって歩きはじめた。
「そうだ、俺がコーヒーを淹れるんだ。おかしいか」 しいえ」 たび 戸惑い気味に首をふったが、木佐には「鬼」と異名をとり、抗争の度に先頭に立ち、命を張 ってきた男がコーヒーを淹れている図は想像できなかった。 「いや、おかしい。俺だっておかしいと思う」 日比野の口から笑いが漏れた 命張って組を護って 「あいつの為にしてやりたいんだ。総長の頼みを蹴ってまでしてな : ・ ぐさ きたが、 自分の女房一人護れなかったなんざお笑い種だ。何を護らなきゃならなかったか、今 になって気づくなんて」 木佐は黙って日比野の独白を聞いていた。 「木佐、お前は俺みたいなるなよ。護るべきものを護りぬけ 編 , ・ー・ーーーー護るべきもの : 前 目の前の日比野には「鬼ーと呼ばれた頃の気迫はまったく感しられない。ただ妻の死を悲し 者 む一人の男がいた。 継 を そんな後悔など俺はしない : 疵 自分が護らなければならないもの。 それがなんであるか、木佐には既にわかっていた。 すで いみよう
130 声が聞こえる。何度か来ているが、このドアを開ける時は緊張する。梅姿は大きく息を吸って ノブを回した。 開けた途端、それまで聞こえていた話し声が止んだ。 ク 1 ニャン 「おう、来たな。こっち来いよ、枯娘」 びがえいせい 狭い店内で四、五人がカウンターを囲んでいた。輪の中心は比嘉英青だった。 「どうした。ガッコ始まったか ? 「うん」 「友達できたか ? 」 言いながら比嘉が手近のイスを引き寄せた。梅姿はそこに座り、首をふった。 「あんまり。ガッコウ面白くないし : : : 」 「それだけ日本語ができりゃあガッコなんか行く必要ないだろう。どこで覚えたんだ ? 」 「自分で。アメリカいた時に自分で本読んで、ケープルテレビ見て勉強シタ」 「へえつ、すげえなあ。俺なんか金もらっても勉強なんかしたかねえけどな。えらいな、枯 娘ー 頭をばんばんと叩き、比嘉が笑った。 「ほら、これ飲めよ。」 仲間の一人がカウンター内でなにやらソーダのようなものを作って出してくれた。青いソー
かば あの流という少年を庇っていたのがもっとショックだった。自分の一一一一口うことは全然聞いては くれなかった。 ュイリンおば あいつ、王林叔母さんが働いてた家の子・ : 仲がよくて、ずっと一緒にいた『親友』だとフェンウェイが話していた。 アタシがずっとフェンウェイに会いたくって一人だった時、フェンウェイはアタシ の事なんか忘れて、あいっと一緒にいたんだ。 ずっと寂しかった。友達と話してても、笑ってても、すっとフェンウェイに会いたかった なのに、フェンウェイは日本人の『親友』と楽しくやってたんだ : ・ くちびるか メイチー 見開いた瞳から温かいものが伝った。でもそれを認めたくなくて、梅姿は強く唇を噛みし めた。 テレビではマイクを持った二人のタレントの早ロの日本語が聞こえる。きっと面白い事を一言 っているのだろう。どっと観客の笑い声が起きた。 メイチ 1 だが、梅姿には何を言っているのかわからない。 メイチー 梅姿は目元を拭い、テレビのスイッチを乱暴に押した。