216 「・ : : ・やめろ」 「聞こえねえなあー うそぶくと男は食器を蹴り飛ばした。 食器は商店の柱にぶつかって粉々に砕けちった。 息を呑んで顔を上げた流は、日比野の横顔をかいま見た。 おにび またた 瞳にちらちらと瞬くものがあった。鬼火のように揺らめく光は、だが次の瞬間見えなくなっ 「誰の差しがねかは見当がつく。今のうちに引いとけ 押し殺した声は流の知らないものだった。 一体この男は誰だ ? そう思わすにはいられなかった。さっきまで一緒に話して笑った男は ここにはいない。 店先の騒ぎに、店員が出てきたが、からんでいるのがやくざだとわかるとすぐに店に戻っ た。通行人も皆、目を合わせないようにして通り過ぎていく。 ぼ、つ強、よや ハンチパーマの男の暴挙は止まなかった。 「誰に向かって口聞いてんだ。ああ卩」 下から睨めつけ、もうひとつの食器の束に足をかけようとした。 と こなごな
138 玄関前に車がつけてあったが、それを無視し、歩きはじめる。 「日比野さん、乗って下さい かけられた声に振り向くと、木佐が車のドアを開けていた。 「木佐、俺はもう四代目候補しゃない」組の者でもないんだ」 「だからといって私とあなたが他人になるわけしゃないでしよう。送らせてください ゆる 厳しかった日比野の表情が緩んだや 「 : : : わかった。送ってもらおう」 すべ - ・ーこ 頭をかきながらため息をつき、日比野はべンツの車中に体を滑り込ませた。 おくさわ 「奥沢にやってくれ」 うなず つら 運転手の男は頷くと、窓から顔を出し、行き先を前の車に伝えた。三台の車は連なって走り 出した。 「総長、そうとう悪いのか」 車中、日比野はすっと腕組みをし、何かを考え込んでいたが、突然ばつりと聞いた。前置き のない切り出しに、木佐が日比野の方を見た。眉を寄せたその目は暗い。 「あの痩せ方は尋常しゃない」 久しぶりに会った日比野は正宗の体の変化を敏感に感じ取っていた。 嘘はつけない。だが、真実を口にするわけにもいかない。
「 : : : 身内贔屓で一一 = ロうわけしゃあないがな」 しえん 煙草を吸い、紫煙を吐き出し日比野が顔を上げた。 「お前は違うんだよ : 多分、俺なんかとも違う」 あいまい 曖昧に言い、日比野は窓の外を眺めた。 何が、と聞こうとした時、車が急停車し、一一人は前につんのめった。 「すいません。花屋が : : : あったんで」 花屋を見つけたら停めるように言っておいた。見ると左先に小さな花売りスタンドがあっ 「墓参用に花買って来い。釣りはとっとけ ひがし 一万円札を渡すと、東は頭を下げ、花屋に走っていき、しばらくして仏花を一一つ持って戻っ てきた。 寺に着いたのはそれから間もなくだった。まわりに民家は少なく、広い境内にも本堂にも人 前影はなく、ひっそりと静まり返っていた。 みち 緒べンツを門前の駐車場の隅に停め、木佐と日比野は墓地への径をたどった。あたりを警戒す おけ 継るように花と桶を持った東が従、フ。 みち 疵 墓地内の径を行くと奧まった場所に四堂家の墓が見えた。一段高くなっている区画はきれい ゅうこん みかげいし に刈り込まれた灌木に囲まれている。黒光りする御影石に四堂家之墓と雄渾な文字が刻まれて びいき かんぼく け・いい
意識がない時ならまだしも、美貴のべッドを奪って彼女をソファーに寝かせるなんて。そん なこと、させるわけにいかない。眠れるわけがない。 「わかったわ。じゃあ、ソファーを使って」 流が聞きそうもないので、美貴は仕方なく折れた トレイを運ぶ美貴の後に続き、リビングに移動した。バルコニーに面した十畳程の部屋にリ ーフ模様のついたべージュのソファーがあった。 ひざ そこに座って膝を抱え、ガラス戸の向こうをばんやりと眺めた。部屋は高層階なのだろう。 早朝だから灯は少ないが、うっすらと明けはしめた空にビルの輪郭が浮き上がって見える。 おかしかった。 あんなに悲しくてもつらくても、腹はヘるし、眠くなるんだ。 じぼうじき おだ 自暴自棄だった気持ちがゆっくりと静まって、 しく。心の底に残るのは穏やかな悲しみだけだ 前 人の気配を感した。顔を上げると美貴がシーツを抱えて立っていた。 者 「これ、使って。枕はクッションでいいわね」 を「あ : ・うん。ありカとう」 シーツをソファーに置き、腰を下ろした美貴を流はしっと見つめた。 「なあに」
まるうち 日比野に教えられた通り、地下鉄丸の内線に乗り、赤坂見附で地下鉄銀座線に乗り換えた。 路線の窓の外はえんえんと暗闇が続くだけだ。窓外を眺め、車内にづりさがる雑誌広告もあ らかた読みおえ、それでも目的地はまだだった。 たわらまち ようやく田原町駅についたのは病院を出てから一時間以上たっていた。 階段を駆け登ると改札が見えた。その向こうに柱に寄りかかり立つ日比野の姿があった。 「日比野さんー はず 息を弾ませ、流が走っていくと日比野は笑って手を上げた。 「ごめん、遅れた」 「いや、こっちも今来たとこだ。それに坊ちゃんは病院、寄ってたんだろ」 日比野は腕組みをし、流の制服を珍しそうに眺めた。高校の制服姿を見るのはこれがはしめ てだった。 「総長の具合はどうだった ? 歩きだした日比野が何気なく聞いた。 じようとうく それは見舞いに行・つた者への常套句だったが、流の胸にぐさりと突き刺さった。 この事実を知っているのは自分と木佐だ 日比野は正宗が余命いくばくもない事を知らない。 けなのだ。 あかさかみつけ
しゃ まだ子供だと思っていた流の斜に構えた言い方に、日比野は時の流れを感じた。だが、十代 の少年の上に流れた時間と自分のそれとでは全く違う意味を持つ。 そんな風に考えてしまうのは年をとった証拠だろうか。 日比野には子供はいなかった「もし自分に息子がいればこんな風に言葉を交わすものなのだ ろうか。『鬼』と異名をとった自分がまるで亡くした子の成長に想いを馳せているようでおか ごくどう しかった。日比野孝之を恐れる極道が聞いたら笑うかもしれない。 なっ よし 日比野が何を考えているかなど知る由もない流は店内を懐かしそうに見渡し、前にここでコ コアを飲んだことを思い出した。 「場所、うろ覚えだったけど、忘れてなかった」 「小学生の頃は坊ちゃん、たまに来てたなあ おく おとな わかがしら 当時、若頭だった日比野は、大の大人を前に少しも臆さないやんちゃ盛りの流を気に入り、 なっ 編四堂邸に行く度に何くれとなく目をかけた。流も日比野に懐き、たまに自宅まで遊びに行く事 前 もあった。 涼子がここで喫茶店をはしめてからは一度だけ来た。その後彼女が病気で伏せるようになっ をてからは開店休業状態だという話を人づてに聞いた。 「学校の帰りか ? 」 「いや、親父の見舞いの帰り。そこで聞いたんだ。日比野さんが喫茶店のマスターやるって。 ふう
。あいまい 街をふら 美貴の寝室に寝かされていたのだ。流は曖昧な前後の記憶を取り戻そうとしたが、 みちばた ついて道端に倒れこんだ後の記憶はどうにも取り戻せなかった。 ドアが開く音がして、美貴が入ってきた。 「美貴さん、俺 : ・ 「いいから、とりあえずこれ食べなさい」 手にしたトレイが流の前に置かれた。トレイには具がたくさん入ったスープとチャーハ 水のはいったタンプラーが乗っていた。 「話はそれから。睡眠不足と空腹が名医の見立てよ。食べなさい , ほとん そういえば、数日間殆ど眠っていなかったし、食べていなかった。言われてみてはしめて自 分が空腹だった事に気づき、遠慮がちに料理を食べはしめた。が、すぐに夢中でかきこみ、あ っという間に平らげた。空腹が収まり、水を飲み干し、ようやく人心地つい 編「おいしかった ? うなず 前 美貴に聞かれ、流はこくんと頷いた。本当はあまりに急いで食べたせいで、味などわからな 者 かったのだが。 にがて を「よかった。料理、苦手だから。まずいって言ったらたたき出すつもりだったの。命拾いした わね」 しんみようおもも そう言って笑い、それから神妙な面持ちになった。 ンと
かわば が、返事はない。窓際のデスクの向こうで革張りチェアーに腰掛ける木佐はびくりとも動か りんかく なかった。声が聞こえていないのか、木佐は椅子の背もたれに体を預け、暮れゆく街の輪郭か ら目を離さない。物思いに耽っているにしては険しい目だった。 はばか 島はもう一度名を呼ばうとして憚られた。木佐の全身から気のようなものがゆらりと立ちの どき ばったように見えた。それは険しい表情と相まって怒気にも感しられた。 うわさ 組長衆の間でも木佐は極道らしからぬ極道と噂されていた。極道が好む、強さを誇示する派 一目で木佐がやくざ 手な恰好をするでもなく、ぎらぎらとした攻撃性を見せるわけでもない。 だと見抜くカタギはいないだろう。 おおかみ だが、一度事が起きた時の飢えた狼を思わせる恐ろしいまでの迫力は他を圧するものがあっ た。それをして、他極道に木佐を『黒狼』と言わしめた。 うわず 一一度目に呼びかけた声は上擦っていた。が、今度こそ木佐は振り向いた。 した 前「そろそろ出る時間だ。階下に車、待たせてる」 緒「わかった」 つばの 継 かいま見た気は嘘のようにかき消えていた。島はごくりと唾を呑み込み、ドアを閉めた。 を 疵 ごくどう
ろうか 廊下には他クラスの女生徒達が行き過ぎる京也に視線を送っていた。京也も慣れたもので彼 女たちに微笑みを投げかけてやった。 なが 京也の後ろ姿をうっとりと眺めていた女生徒達は、教室から出てきた香織と目が会うと途端 に表情を固くした。 「真っ黒。黒こげつてかんし。バカしゃないの、いい気んなって」 「宝は似合うって言ったんだよーだ。宝と話したいんなら話しすりやいいじゃん。そんなとこ でつるんでないでさ 女生徒達の憎まれ口に香織はあっかんべーで対抗した。 ばせい 途端に女生徒達の間からはじけるように罵声が飛ぶ。香織は一度振り向き、中指を立てて反 撃の意を示すと階段を駆け降りていった。 「宝ー ! 四堂、待てよー ! 」 昇降口を出た先で京也と流に追いついた。 編 前「もおーっ。ちょっとくらい待っててくれてもいいじゃんかあ」 緒「 : : : お前、ついてくんなよ。うるせえんだから」 つぶや 流の呟きを香織は聞き逃さなかった。 疵 「それはあたしのせいじゃないよ。他のクラスの女どもが勝手にぎゃあぎゃあ言ってんじゃ ん」
ざっとう フェンウェイは雑踏を歩きながら、なんとか梅姿を取り戻す方法を思案していた。 「ああっー どうしろってんだよっ ! 」 ちゅう 比嘉の恐ろしさは一一度刃を交えて、身に沁みている。やつは自分の目的の為ならなんの躊 ちょ 躇もしない。それは梅姿が相手でもだろう。 比嘉がどうやって梅姿を知ったのか 甘かった。梅姿にもっと〈裏新宿〉が危険である事を言い含めておくべきだった。 ヨーーーー・ーどうする ? どうすれば : : : ? そむ あせ 焦り、考えながら、フェンウェイは自分がある事から目を背けているのに気づいていた。気 づいていて、気づかないふりをしている事にも。 市井に電話の内容を聞かれた時、答えようとしたが、途中でやめた。 なぜ言わなかった。比嘉が流を要求している事を。交換条件が流である事を。 編市井達に話して、対応策を考えるべきではなかったか。なのに、それをしなかった。 前 流を引き換えにして : 者 そんな事はできない。流は『仲間』だ。「仲間』を売ることなんかできない。 継 を だけど梅姿はどうなる ? 比嘉はやるだろう。一一度だけだったが、あの男の目はいまだに忘 疵 れられない。あれは凶暴に燃える狂った目だった。梅姿などあの男にしたらただの道具だ 俺が流を連れていかなかったら梅姿は : メイチ 1