ねん しようじよ びじゅっかん 23 羊飼いの少女 1862 ~ 64 年 81X101Cm パリオルセー美術館 ひつじか と、つじのヨ 1 ロッパの国々は たがいに争いがたえす、 フランスの国内でも きぞく かねも 貴族やお金持ちと の、つみんろ、つど、つしゃ たいりつ 農民や労働者が対立し しかい リの市街でなんども ば、つ」、つ おおきな暴動がおこりました。 つほ、つ、 ふあんせいじよう このような不安な政情のもとでも、 ゅうふくせいかっ 裕福な生活をしている しんさいん サロンの審査員や批評家のなかには の、つみんろ、つどうしゃ 1 の絵を 農民や労働者を描いた ひと きら、つ人もいました。 ねんはっぴょう しかし、 1863 年に発表した しよ、つじよ 『羊飼いの少女』をけなす人は だれもいませんでした。 ちゅ、つもん そして絵の注文もたくさん くるよ、つになりました。 ひつじか あらそ こくない えカ ひひょうか
ヤ一 びじゅっかん 羊飼いの星 ( 宵の明星 ) 42 1864 年 オーギュスタン美術館 トウールーズ 129 x 160Cm よいみようじよう ひつじか ねん
いしがき ねんごろ 25 古い石垣 1862 年頃 につほん 52X35Cm 日本個人蔵 ふる じんぞう いと ねん 26 糸つむぎ 1868 ~ 69 年 92.5 x 73.5cm びじゅっかん パリオルセー美術館 こころいた はげしい頭痛、眼の痛み、 こうねっ 高熱になやまされ あるときは血をはきなから、 それでも、けんめいに絵を 描きつづけました。 い AJ ようやく『糸つむぎ』を描きあげたのは 刃歳のときでした。 よく年の 18 7 5 年 1 月、ミレ 1 は と、つと、つ亡くなってしまいました。 歳でした。 ちよくぜんかりゅうど 亡くなる直前、狩人に追われて となりの家の庭に逃げこんだ 鹿を見て、ミレ 1 は 「かわいそうだ」といって 心を痛めていたということです。 すつう ねんがっ
ハリの貧しい画学生 がいせんもん そのころのパリは、凱旋門や どお シャンゼリゼ通りができたばかりで とお 通りはにぎわい、馬車がゆきかい AJ' っ よる 夜はおそくまでガス燈が かかやいていました。 しかし、道路はせまく、 ごみがすてられ そのにおいやよごれた空気で 息もつまりそうでした。 あか たいよう ノルマンディ 1 の明るい太陽や くさ うみかせ さわやかな海風やかぐわしい草の 。おいになれた かっかりしました。 そのうえ、美術学校の勉強も 1 にはおもしろく ありませんでした。 びじゅっかん もしル 1 プル美術館がなかったら、 き 」、つろ まず びじゅっがっこ、つ ばしゃ がか / 、せ べんきよう まち さっさとこの街から 逃げ出していたことでしよう。 1 は毎日美術館にかよい、 さくひん 巨匠の作品をくりかえしくりかえし もしゃ 模写をして勉強しました。 と、つじ、 リの画学生のおおくは 1 はとくにひどく 貧乏でしたが、 食べることもまんぞくに できませんでした。 しかし、 1840 年、歳のときに しよ、つぞう にゆうせん 『ルフラン氏の肖像』がサロンに入選して、 よ、つやく、 1 は画家としての 一歩をふみだしました。 てんらんかい サロンは政府のひらく展覧会で、 にゆうせん ここで入選しないと世間には 画家とみとめられなかったのです。 を」よ 1 ) よ、つ びんばう 、刀、刀 し まいにちびじゅっかん せいふ べんきよう 、カ、刀 / 、せ一い ねん 、刀、刀 せけん
ねんごろ ル 1 アンという町の中学校へ 入学しました。 歳になるまで、 ふうけい ル 1 アンの美しい風景にかこまれ、 しぜんあい 自然を愛するセヌゴン氏のもとで すごしたことは、コローのその後の おお 、んい」よ、つ じんせい 人生に大きな影響をあたえました。 画家になってからのコロ 1 は、 じんせい 目的かあるだけだ。 ふうけいが えカ それは風景画を描くことだ」 といっていますか、 ふうけいが こうした風景画へのあこがれは、 ちゅ、つかっこ、つじだい ル 1 アンでの中学校時代に めばえていたのです。 カっこ、つ けれども、学校の勉強のほうは、 まったく好きになれないコロ 1 でした。 「ばくには人生にたったひとつの 、もて」 にゆ、つカく 、つつ′ まちちゅ、つがっこ、つ べんきよう
につほん 「わたしは鵞鳥の鳴き声が 画面いつばいにひびきわたるように 描きたかった」と かちょ、つばんしよ、つじよ 鵞鳥番の少女』を描いたとき 友人におくった手紙に書いています。 人と動物と自然が調和しあった せかい 心のなごむ世界を ゅめ 夢みていたのでしよう。 絵はだんだん売れるようになり、 みと 人びとからやっと認められるように なってきたのに、 ミレ 1 は浦歳のころから からだわる 体を悪くしてしまいます。 このころのミレ 1 の絵には どうぶっしゅやく 動物を主役にしたものが おおくなりました。 こころ ひと ゅうじん がめん ひとどうぶつ 、刀斗つよ、つ しせんちょうわ てがみ えカ ごえ
びじゅっかん 16 刈り入れ人たちの休息 ( ルッとボアズ ) 1850 ~ 53 年 67.3X119.7cm ポストン美術館 きゅうそく びと ねん 1850 年、『種をまく人』で 画家として力強くふみだしたものの、 ミレ 1 の貧しさはあいかわらずでした。 しよくじだい 食事代もなくて 3 日も食べないことも あったほどでした。 おばあさんの死の知らせをうけても ねんご 2 年後に、お母さんが亡くなったときも かえ ミレ 1 は帰ることかできませんでした。 りよひ 旅費がなかったのです。 かな ミレ 1 の悲しみは、はかりしれません 18 5 3 年、サロンに出品した 『刈り入れ人たちの休息』か はいそいで 売れると、ミレ 1 むら かえ グリュシ 1 村へ帰って、 お母さんやおばあさん、 A 」、つ そして早く亡くなったお父さんの墓を つくり、とむらいました。 は ちからづよ たね 」ゅ、つみ、 しゆっぴん は
歳のとき、 ナ 1 リ 1 ヌ・ウイルジニ 1 ・オノ けっこん とい、つ女性と結婚しました。 ふたりはパリのアパ 1 トで なかよく暮らしましたが、 1 の絵はあいかわらず 、つ 売れませんでした。 くる 生活はいつも苦しく、 びよ、つ」 1 リ 1 ヌよ やがて病気になったポ わか 歳の若さで亡くなってしまいます。 わずか 3 年にもみたない けっこんせいかっ 結婚生活でした。 せいかっ さい じよせい ねん 神さまのために描きなさい」 とはげましてくれました。 ふうけい そして、ふるさとの明るい風景が しだいにミレ 1 の心を いやしてくれました。 「フランソワ、だれのためでもない、 かみ ポ 1 丿 1 ヌを、つしなったミレ 1 18 4 5 年、ふるさとの グリュシ 1 村へかえりました。 かあ おばあさんとお母さんは やさしく 1 をむかえてくれました。 おばあさんは、 ねん むら こころ あか
そのような家族のもとでそだった しよ、つがっこ、っそっぎよ、つ 1 は小学校を卒業すると てつだ 農業の手伝いをするかたわら 0 よ、つ・カし 教会でラテン語を学び、 たくさんの本をよみました。 また、そのころから だいす 絵が大好きだった 畑しごとを終えたあと 絵を描くのを たのしみにしていました。 1 が画家になってから、 のうみん 農民たちを えカ たくさん描いているのは け . いけ・ , ル こ、つした経験かもとに なっているのです。 の、つぎよう かぞく まな は 2 田園風景個人蔵 いしに 、 , 羅 4 朝 .4 な - い第い・ じんぞう でんえんふうけい
びじゅっかん 33 ティヴォリのヴィラ・デステ庭園 1843 年 43.5 x 60cm パリルーヴル美術館 ねん ていえん 歳のとき、 」り - よ一」、つ 2 年ぶりにイタリア旅行から フランスにもどったコロ 1 は、 きせつ あたたかい季節には たび しやせい 各地を旅して写生をし、 さむくなるとアトリエにこもって えか 外では描けない大きな絵を描く、 せいかっ という生活をつづけました。 フォンテ 1 ヌプロ 1 にも たびたび出かけています。 大好きなイタリアへも どたび その後、 2 度旅をして、 ふうけいが たくさんの風景画を描いています。 『ティヴォリのヴィラ・デステの庭園』は , り・よ一」、つ 最後のイタリア旅行のときに 描いた絵です。 かくち だいす ていえん