ヨーロッパ - みる会図書館


検索対象: 政治・社会人物事典
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1. 政治・社会人物事典

ていこくふっこうけつい ・西口一マ帝国の復興を決意 みんぞくおう 西ヨーロッパを統一したゲルマン民族の王 おうこくおう カールは、フランク王国の王ピピンの長男とし て生まれました。フランク王国は、古代ローマ帝 たいてい みんぞく やばんじん 国時代から野蛮人とされてきたゲルマン民族の ちゅうおうぶ いつば 一派フランク族が、西ヨーロッパ中央部に建て みんぞく た国です。そのゲルマン民族の血を受け継いだ じようば せいか、カールは、子どものころから乗馬や狩り ゆうかんしようねん とくい が得意で、勇敢な少年として知られていました。 当時の西ヨーロッパでは、キリスト教を保護 ねん した西口一マ帝国が、 476 年にゲルマン民族によ しようこくわ ・つ - つ・ あと ほろ って滅ばされた後は、小国に分かれて争いを続 けていました。また、キリスト教徒をまとめる きようかい ローマ教会も西口一マ帝国という後ろだてを失 みんぞくかくは って、しだいに異教徒であるゲルマン民族各派 の圧迫を受けるようになったのです。カールは、 きようおし 真のキリスト教の教えと信仰を説いたアウグス つよえいきよう かみくに テイヌスの『神の国』を読んで強い影響を受け、 きようしゅごしや じぶん てい 自分がキリスト教の守護者となり、西口一マ帝 くふっこっ 国を復興しようと決意します〇 とういつ ちょうなん カール大帝 てい ねん 742 ~ 814 年 きよう みんぞく あらそ ていこく きようと うしな ていこく いきようと あつばく けつい おうこくおうじ みんぞくくに ゲルマン民族の国フランク王国の王子 きようあっしん として生まれたが、キリスト教に厚い信 きようほこ っ 仰をもち、キリスト教を保護した西口一 ていこくふっこう りそう マ帝国の復興を理想とするようになる。 つきつきい ねんちちおう 768 年に父王のあとを継ぐと、次々に異 きようとくに せほろ 教徒の国を攻め滅ぼして西ヨーロッパの きようこう たいはんとういつ ねん 大半を統一し、 800 年にローマ教皇か ていこくこうていちい にし ら西口一マ帝国皇帝の地位をさずけられ ていこくいらい こてんぶんか いご た。以後ローマ帝国以来の古典文化・ ぶんかゆうこうっと キリスト教・ゲルマン文化の融合に努 ぶんかけん きず め、西ヨーロッパ文化圏のもとを築いた。 にし みんぞく 【ゲルマン民族】 ほくぶちゅうしん げんじゅうみん ヨーロッパ北部を中心とする現住民だったが、 けいゆうほくきばみんそく ぞくお アジア系遊牧騎馬民族フン族に追われて、 375 ていこくりようないしんにゆうかくちおうこくた ねん 年にローマ帝国領内に侵入。各地に王国を建 ねんにし ていこくほろ て、 476 年に西口一マ帝国を滅ぼした。 ていこく 【西口一マ帝国】 はんとうちゅうしんちちゅうかいせかい しはい こだい 古代にイタリア半島を中心に地中海世界を支配 ねんぶんれつ ていこく したローマ帝国が、 395 年に分裂してできた。 きようこっきよう ほこ キリスト教を国教として保護したが、ゲルマン みんそくあつばく ねんほろ 民族に圧迫され、 476 年に滅んだ。 そくえいゆう ねんひっしていこうつづ 785 年、必死の抵抗を続けたザクセン族の英雄ビ みきうえ せんれいあた こうふく トキントを降伏させ、洗礼を与えるカール ( 右上 ) 。

2. 政治・社会人物事典

とういつ おう ・西ヨーロッパを統一 ねん ちち 768 年、父の死後、王の座につ いたカールは、ます 772 年に異教 こうけ、き 徒の国ザクセンを攻撃し、また きようこうりようしんりやく よくねん 立年、ローマ教皇領を侵略した おうこくせいふく ランゴバルド王国を征服。さら ねん にドイツ諸侯を討ち、 801 年に きようとせんりよう はイスラム教徒に占領されたイ こうげき はんとう べリア半島を攻撃するなど、異 きようと たいりつ 教徒の国や対立する国を次々に せいふく 征服し、西ヨーロッパの大半を ・せし、こう とういつ 統一することに成功しました。 こうせきみと その功績を認められて、 800 年、カールは、ローマ教皇レオ ていこくこうていかんむり 3 世から西口一マ帝国皇帝の冠 ゆめ をさずけられました。夢にまで たいていいっしようつう きようはってんつ ていこくふっこっ じつげん 教会を建てさせるカール大帝。一生を通じてキリスト教の発展に尽くした。 みた西口一マ帝国の復興を実現 ほうけんせいど しはい したのです。以後、カールは、「大帝」と呼ばれ 支配するしくみが整えられ、のちの封建制度の きそきす るようになります。 基礎が築かれました。 しやかい いっぽう たいてい きゅうていがっこっせつりつ ・西ヨーロッパ社会の その一方で、カール大帝は、宮廷学校を設立し きそきず きようがくもんさか かっこく がくしゃ てキリスト教の学問を盛んにし、各国から学者 基礎を築く がくもんげいじゅっさか とうし、つ ぶんかじんまね 統一を成し遂げたカ や文化人を招いて学問や芸術を盛んにしました。 りよう たいてい けっか ール大帝は、広大な領 その結果、西ヨーロッパでは、古代ギリシア・ きようかんが しはい せいどせい し、らし、 てんぶんか ローマ以来の古典文化とキリスト教の考えにゲ 地を支配する制度の整 びちゃくしゅ みんぞくせいしん ルマン民族の精神がとけあって 1 つの大きな文 備に着手します。アー ちゅうせい うつか しゆと ヘンを首都として、各 化圏がつくられ、古代から中世へと移り変わっ ちいき 地域に伯と呼ばれる地 ていったのです。 ほうぎようせいかんにんめい ねん とういつ 方行政官を任命して年 しかし、カールによって統一された西ヨーロ さいばん ッパも、カールのあとを受け継いだルートウィ 貢の取り立てや裁判、 おうこく しようしゅう おこな ねんひがし ・、し、し ヒ 1 世死後の 834 年、東フランク王国 ( 今のドイ 兵士の召集などを行わ おうこく こくおうちよくぞくじゅんさっし ツ ) 、西フランク王国 ( 今のフランス ) 、イタリ せ、国王直属の巡察使 おうこく ていきてき はけん を定期的に派遣して伯 ア王国の 3 つに分かれることになります。 かんとく を監督させました。ま どりようこうおも た、度量衡 ( 重さ りようめんせき 量・面積などの単位 ) しじよう とういつ や貨幣を統一し、市場 けいざい かつばっ を設けて経済を活発に しました。こうして、 フランク王国では、国 りようち なかだ 王が領地をイ中立ちとし はく りようみん て伯 ( 領主 ) と領民を つぎつぎ たいはん きようこう ねん せい きよう力も、た ととの たいてい にし おお ぶん かけん いま せいし 200 歳まで生きた ( ? ) カール大帝 たんい かたっ じんふつ たいてい カール大帝は、死後も偉大な人物として語り継 つく せいき がれた。 1 2 世紀にフランスで作られた『ローラン の歌』にも、すでに 200 歳をこしたカール大帝が とうじよう たたかえいゆう イスラム教徒と戦う英雄として登場する。当時西 きようこくじゅうじぐん ヨーロッパのキリスト教国の十字軍が、イスラム しゅごしや きようと きようぐんたたか 教軍と戦っていたことが、キリスト教徒の守護者 とうじよう ろうえいゆう カールを老英雄として登場させる背景となったと かんが 考えられている。 たいてい とうしにし うた きようと おう はいけい りようしゅ

3. 政治・社会人物事典

かくめいえいきようどくりつけつい 0 フランス革命の影響で独立を決意 ねん はつけん 1492 年にコロンプスがアメリカ大陸を発見し て以来、スペイン・ポルトガル両国は南アメリ しんりやく たいはんしよくみんち 力を侵略し、その大半を植民地としました。そ ちいき ごやく ねんかん れらの地域では、その後約 38 年間にわたって白 つぎつぎ だいのうえんぎんざんひら 人たちが次々に移住して大農園や銀山を開き、 げんじゅうみん こくじんどれい きび 原住民のインディオや黒人奴隷たちを厳しい労 おお とみほんごく 働にかりだし、多くの富を本国へ持ち去ってい はくじんいじゅうみん たのです。ポリバルも、そんな白人移住民の子 そん ねんとうじ 孫クリオーリョとして、 1783 年に当時スペイン りよう 領だったベネズエラのカラカスで生まれました。 だいのうえん そのころのベネズエラは、大農園でカカオや ねったいせいさくもっさいばい のうぎようおも コーヒーなどの熱帯性作物を栽培する農業を主 さんぎよう な産業としていましたが、クリオーリョたちの なか 中には、イギリス領やオランダ領西インド諸島 じゅうぼうえき とみひとり との自由貿易を求め、富を一人じめする本国か はな ものおお ら離れようとする者が多くなっていました。ボ どくりつきうんたか なかそだ リバルは、そうした独立機運の高まる中で育ち、 さい りゅうがく 16 歳でヨーロッパへと留学します。そこで見た おうせい しみん ものは、王政のもとでしいたげられていた市民 かくめい じゅう きふう がおこしたフランス革命後の、自由な気風に満 ちたヨーロッパでした。 どくりつうんどうしつばい 0 ベネズエラ独立運動に失敗する かくめい こんらんなか じつけんうば 革命後の混乱の中でフランスの実権を奪った しんにゆう ナポレオンが、 1808 年、スペインへ侵入すると、 どくりつ み これを独立のチャンスと見たボリバルは、 1810 ねんほうめいちゅう どくりつうんどうせんくしゃ 年、亡命中のベネズエラ独立運動の先駆者ホ あ きこくせっとく セ = ミランダとロンドンで会い、帰国を説得し なんべいしよこくどくりついっしよう 南米諸国の独立に一生をささげた ポリバル ( シモン = ボリバル ) ねん 1783 ~ 1830 年 たいりく し、らし、 りようこくみなみ いじゅう りようにし もと ほんごく ャおを一 りよう はくじんいみんし スペイン領ベネズエラで白人移民の子 そん りゆうがくちゅう 孫として生まれ、ヨーロッパ留学中にフ かくめいえいきようう どくりつうんどうみ ランス革命の影響を受けて独立運動に身 とう ねんどうし を投じる。 1811 年、同志らとベネズエ かいほうせいこう だいじしん せい ラ解放に成功するが、大地震にあって政 けんうしな かくちてんてん 権を失う。その後も、各地を転々としな どくりつこころ しつばいせんりやくてんかん がら独立を試みたが、失敗。戦略を転換 どくりつうんどうせいりよくけっしゅう かくち して独立運動勢力を結集し、各地のスペ ぐんつきつきやぶ ねん イン軍を次々に破って、 1819 年にはつ だい きようわこくせいりつ いに大コロンビア共和国を成立させた。 ないぶたいりつ かいたい しかし、内部対立によってそれが解体す しつい いんたい ると、失意のうちに引退した。 み つ ねん きんさんはたら 銀山で働くインディオ。ボリバルは、インディオや こくじんどれいほんこく ぎせいしゃ しゅちょう 黒人奴隷も本国スペインの犠牲者であると主張した。 朝ことばのまど こくじんどれい 【黒人奴隷】 ちゅうなんべいせいふくいらいだいのうじようこうざんかい スペインの中南米征服以来、大農場や鉱山開 はっこくし せんじゅうみん じんこうげき 発で酷使されて先住民インディオの人口が激 げん 減したため、それにかわる労働力として、アフ せいぶこくじんどれいつ リカ西部の黒人奴隷が連れてこられた。 ろうどうりよく 38

4. 政治・社会人物事典

ていこく モンゴル帝国 こうげん モンゴル高原 だいとベキン 大都 ( 北京 ) うらい サマルカンド 高麗 にほん 日本 りよう チンギス = ハンが初めに築し りようど ー最大になったときの領土 ( 13 世 . 半 ) さいだい はん 1206 年、テムジンは畠帝に選ばれ、チンギス = ハンと名を改めた。 だいていこく ゆうかんたたか ・それまでにない大帝国 奪い取ってしまいました。その勇敢な戦いぶり ぶぞく ぞくしたが ぜん を見て、モンゴル族はもちろん、他の部族の 全モンゴル族を従えたチンギス = ハンは、西 人々も、続々とテムジンのもとにま。てくる 方の国々を滅ばし、中国北部にある金の領土の はんぶんうば ぶか ようになりました。 半分を奪い取りました。さらに部下をつかわし こっかいえんがん ねん ぜん なんぶ 力、し、 てロシア南部のカスピ海や黒海沿岸まで領土を 1 188 年、テムジンは、人々におされて全モン ぞくちょうハン せいかせいふく ひろ ゴル族の長 ( 汗 ) に選ばれます。やがて、千戸 広げ、金のとなりにある西夏を征服します。し きんしんにゆう やさきやまい ぐんだんととの ぞくおう せい かし、再び金へ侵入しようとした矢先、病にか 制と呼ばれる軍団を整え、再びケレイト族の応 えん ねんかんしようがい ぞくせ 援を得てタタール族に攻め込み、滅ばしてしま かり、 65 年間の生涯を閉じました。 かくこうてい みなみ たいりつ そのあとを継いだ各皇帝は、南ロシアやハン いました。さらに、そのケレイト族とも対立し、 ていこく せほろ ねん これを攻め滅ばします。 1206 年、モンゴル帝国 ガリーに攻め込み、ヨーロッパ諸国をおびやか うんなん ぶぞく ぜん が建国されると、テムジンは全モンゴルの部族 しました。また、チベット・雲南・ベトナムな ちょうかいぎ こうてい えら なまえ せいふく しんしゆっ どを征服する一方、西アジアにも進出。フビラ 長会議で皇帝に選ばれ、名前をチンギス = ハン ちゅうごく だいと いまベキン あらた イ = ハンの代には、中国の大都 ( 今の北京 ) に ( 偉大な汗 ) と改めました。 ちょうをんはんとう こうらい みやこうつ げんあらた 都を移して国名を元と改め、朝鮮半島の高麗や なんそう ねん したが ほろ ビルマを従えます。 1279 年、ついに南宋を滅ば ちゅうごくぜんどとういつ して中国全土を統一し、アジアからヨーロッパ だいていこく きず にまたがる大帝国を築きました。 こうていえら ねん なあらた うば せい りようど ひとびと きん ふたた せん えら ふたた ほろ けんこく いっぽう こくめい 言 : げんぐん ちょうせんはんとう 朝鮮半島の高麗を支配したフヒライ = ハンは、交 えき もと ししゃ 易を求めて日本へ使者をつかわしてきた。しかし、 かまくらばくふ しつけんほうじようときむね きょひ 鎌倉幕府の執権北条時宗が、これを拒否すると、 たいぐんにほんせ ねん 1274 年、 1281 年の 2 回にわたって大軍で日本へ攻め ばくふぐんあっ もち 寄せた。火薬兵器を用いるなど、初めは幕府軍を圧 だいひがい かえ とう 倒したが、暴風雨などで大被害を受けて逃げ帰った。 田本へもやらてきた元軍 こつらし、 にほん しはい かし、 ねん かやくへいき ほうふうう ぐんかやくだまはくはつ にほんぶしたたか 日本の武士と戦うモンゴル軍火薬玉を爆発させる にほんぐんおどろ つか 「てつはう」を使って日本軍を驚かせた。 29 ー

5. 政治・社会人物事典

であ まず ひと ・貧しい人たちとの出会い せいざいこうじようせいふんこうじよう おお ジェーンは、大きな製材工場や製粉工場を経 営する豊かな業家の末っ子として、アメリカ しゅう ははおや のイリノイ州で生まれました。幼いころに母親 びようじゃく かぞく を亡くし、しかも病弱であったことから、家族の あいじよういっしんあっ ころやさ そだ 愛情を一身に集めて心の優しい子に育ちました。 ちちおやばしゃ ある日、ジェーンは、父親と馬車に乗ってい やさい ひんみんがいあそ たとき、ごみや野菜くずにあふれた貧民街で遊 ふくそう ぶ汚れた服装の子どもたちを目にします。「ノヾパ、 きたなところす あの人たちは、なぜあんな汚い所に住んでいる ます の。」「それはね、ジェーン、貧しいからだよ。」 ちちおやおし ちい むねいた そう父親に教えられて、小さな胸を傷めたジェ ーンは、いつかしい人たちのために尽くそう ころき と心に決めたのです。 ふくししせつ せつりつ 0 福祉施設「ハルーハウス」を設立 じよがくいん やがてジェーンは、ロックフォード女学院を そっぎよう びようき 卒業すると、医学を学び始めますが、病気はひ どくなるばかりで、ついに手術を受けることと なってしまいました。手術後、療養を兼ねて家 たび 族とヨーロッパ旅行に出かけたジェーンは、旅 さき ひんみんがい めそむ 先のロンドンの貧民街ィーストーエンドで目を背 ます ひとびと けたくなるほど貧しい人々の群れを目にし、い ても立ってもいられなくなりました。 ゆうじん 帰国後、友人からイーストーエンドにトインビ し、え ーホールと呼ばれる貧しい人たちのための家 ひと しようがいまず 生涯を貧しい人たちにささげた ーアダムス ジェ - ン一 えい おさな ねん 1860 ~ 1935 年 ひと UPI•サン・毎日 しゅうじきようか アメリカのイリノイ州で事業家の子と ます ひと ひさんせいかっ して生まれ、貧しい人たちの悲惨な生活 ふくしみちこころざ こころいた を目にして心を傷め、福祉の道を志した。 ひんみんがい ロンドンの貧民街にあるトインビーーホ けんがく かんげき ねん ールを見学して感激し、 1889 年、シカ ひんみんがい はつふくししせつ ゴの貧民街にアメリカ初の福祉施設ハ せつりつまず ひと せいかっ ルハウスを設立。貧しい人たちの生活 かいぜんきよういくぶんかこうじようっと せかいさい 改善、教育・文化の向上に努め、世界最 だい はってん 大のセッルメントへと発展させた。 まな いがく しゅじゅっう しゅじゅっご りようよう ひと ます 【セッルメント】 えいこ ていじゅう いみ もともと英語で「定住」という意味。イギリス だいがくきようじゅ のオックスフォード大学教授トインビーを中 しん がくせい ねん 心に、学生らが、 1887 年にトインビーーハウ せつりつ ふくしかつどうおこな いらいちしきじん スを設立し、福祉活動を行って以来、知識人や がくせいひんみんがいす おこな かっ 学生が貧民街に住みついて行うボランティア活 どう 動をさすようになった。 」 1 冫 ちゅう ひんみんがい ようすみかな 貧民街の子どもたちの様子を見て悲しむジェ ーン。

6. 政治・社会人物事典

ねんじゅうとう はじ ばし始めると、 1904 年に自由党へ移り、 ねん しようむちょうかんないむだいじん 商務長官、内務大臣をへて、 1911 年に かいぐんだいじん さいわか は 37 歳の若さで海軍大臣の地位につき ました。 ねん 1914 年、ドイツやトルコがイギリ れんごうこく ス・フランス・ロシアなどの連合国を あいてだいいちじせかいたいせんはじ 相手に第一次世界大戦を始めると、ウ せんせんりくせんたい インストンはヨーロッパ戦線に陸戦隊 おも せいか を送りますが、思うような成果をあげ せんそうゆう ることはできませんでした。戦争を有 ちちゅうかい だいきば りすす 利に進めるために地中海へ大規模な陸 かいたん こっかいえんがん しつばい ぐんぶたいおく 黒海沿岸のヤルタでルーズベルト ( 中 ) 、スターリン ( 右 ) と会談するウインストン。 軍部隊を送りましたが、これにも失敗 かいぐんだいじんざうしな り、最後までヒトラーの全体主義と戦い続けよ し、ついに海軍大臣の座を失ってしまいました。 ほしゆとう りくぐんだいじんおおくらだいじん せん う ! 」と呼びかけました。 戦後は、保守党にもどって陸軍大臣や大蔵大臣 れんとうぶせんせん ねん やぶ かつやく っと 1943 年、ソ連が東部戦線でドイツを破ったの を務めますが、たいした活躍のないまま、 1931 れん いんたい をきっかけに、ウインストンは、ソ連のヤルタでア 年にはいったん政界から引退しました。 しようりみちび だいとうりよう たたか れん メリカのルーズベルト大統領やソ連のスターリ ・ナチスとの戦いを勝利に導く よくねん はなあ はんげき かいし ひき ねんたい はい ン首相と話し合って反撃を開始しました。翌年、 1930 年代に入って、ヒトラーの率いるナチス ぐん ぐん きゅうそくせいりよくの イギリス軍はアメリカ軍とともにフランスのノ が急速に勢力を伸ばすと、ウインストンは、「こ ぐん ふたたせんそう ルマンディーに上陸してドイツ軍を追い詰め、 のままでは、再び戦争になる」と警告しますが、 こうふく ねんがっ だいいちじせかいたいせん ひと おお 1945 年 5 月、ついにドイツを降伏させたのです。 多くの人は「第一次世界大戦に負けたドイツに、 しゅしようっと むし ちから 戦後も、ウインストンは首相を務めながら、 そんな力があるはずはない」と無視しました。 だいにじせかいたいせんかい しっぴっ ねんだいにじせ こくどお 『第二次世界大戦回顧録』を執筆しました。これ しかし、警告通りドイツは、 1939 年に第二次世 ぶんがくてき れきしてきしりよう かいたいせんはじ は、歴史的資料としてばかりでなく、文学的に 界大戦を始めると、たちまちポーランド・オラ たかひょうか ねん さくひん すぐ つぎつぎせんりようよくねん も優れた作品として高く評価され、 1953 年にノ ンダなどを次々に占領。翌年にはフランスを降 ぶんがくしようじゅしよう くうしゅうかいし ーベル文学賞を受賞しました。 伏させ、イギリスへの空襲を開始しました。 こんらんなか こうした混乱の中で、 ウインストンは、海軍に だいじん 大臣として政界に復帰 よくねんしゅしよう します。翌年、首相に こくみん えら 選ばれると、国民に向 じゅうせかい かって「自由世界を守 ! を内、 0 鬥 おく みき なか ぜんたいしゅぎたたかつづ せいかい ねん しゅしよう じようりく せん ふく まも ししようさいたいさくせんよ ノルマンディーに上陸する連合国軍。 300 万人の兵士が参加し、史上最大の作戦と呼はれた 27 まんにんへいしさんか れんこうこくぐん しようりく

7. 政治・社会人物事典

、、・ cy. に 6 ざいにち たいしかんもん 在日コロンビア大使館の門 どうぞう ぜんた 前に立つボリバルの銅像。 どくりったたか えが へきか ベネズエラの首都カラカスにある独立の戦いを描いたモザイク壁画 ぐんつぎつぎやぶ どうしあっ しはい 各地を支配するスペイン軍を次々に破ってベル ました。帰国後、 2 人は同志を集めると、ミラン さんみやく どくりつぐんしようこう ねん ーを解放、 1824 年には、ついにアンデス山脈の ダの指導のもとでボリバルは独立軍将校として ぐんせ さんがくちたい よくねんそこくかいほうせいこう かつやく 山岳地帯に立てこもる最後のスペイン軍を攻め 活躍し、翌年祖国解放に成功します。しかし、そ きようわこく よくねん だいじしん ほろ の直後、ベネズエラは大地震に見舞われて独立 滅ばし、翌年ボリビア共和国の独立を勝ち取り くがい ばうめい せいけんほうかい 政権は崩壊し、ポリバルは国外へ亡命すること ました。 ねん さらに 1826 年、ボリバルは、パナマでスペイ となります。 かいぎ はか くにぐにれんたい ン領から独立した国々の連帯を図るための会議 その後もポリバルは、コロンビアや西インド きようわこくないぶ きょてんうつ ひら を開きますが、このころから共和国内部でしだ 者島のハイチ・ジャマイカなど各地に拠点を移 もと こえたか ぶんり こんきづよ いに対立が生じて分離を求める声が高まるよう しながら、根気強くべネズエラ独立を試み、し けんめいせっとく ねん きようりよくつよ しゅうへんしょこく になりました。 1830 年、ポリバルの懸命の説得 だいに周辺諸国との協力を強めていきました。 きようわこく こくじんだいぶぶん にもかかわらず、ついに大コロンビア共和国は 黒人が大部分を占めるジャマイカで ながねんひろ、 こくぶんれつ しえん しど、しゃ 3 国に分裂してしまいます。長年の疲髣のため は、指者たちの支援を取り付ける しつばう けっかく かいほう こくじんどれい 結核に体をむしばまれていたボリバルは、失望 とともに、黒人奴隷の解放に尽くし いんたい けつい のうちに引退を決意し、ヨーロッパへ向かう途 ました。 なんべいしょこく きようわこくけんこく 中で亡くなりました。しかし、今でも南米諸国 ・大コロンビア共和国を建国 そんけい かいほうしや がわ ねん では「解放者」と呼ばれて尊敬されています。 1817 年、ボリバルは、オリノコ川 りゅういきばくちくみんみかた さかのば を逆上って流域の牧畜民を味方につ け、イギリスから武器を買い入れて へいりよくととの ねん 兵力を整えると、 1819 年にはコロン せんりよう ちゅうしんとし ビアの中心都市ボゴダを占領しま す。さらに、ベネスエラ・コロンビ りようど ア・エクアドルを領土とする大コロ きようわこく どくりっせんげん ンビア共和国の独立を宣言し、その だいとうりようえら 大統領に選ばれました。その後も、 しゆと かくち ふたり かいほう さい どくりつか どくりつ みま ちよくご どくりつ かくち し一三ロ たいりつしよう どくりつ からだ ちゅう ボリバルの名にちなむボリビア共和国 ぶき し、 どくりつまえ ホリヒアは、独立前までは、アルト = ベルーと ねんどくりっせんげん かいほう 呼ばれていた。 1825 年、独立宣言とともに解放に こくめい なまえ 尽くしたポリバルの名前を取り入れて、国名をポ きようわこく きようわこく リヒア共和国とした。また、コロンヒア共和国の たいりくはつけん 国名は、アメリカ大陸を発見したコロンブスにち なんでいる。 こくめい 39

8. 政治・社会人物事典

ロシア軍の反撃を受けて、モスクワから撤退するナホレオン。 れんごうぐんやぶ - つつ・ 戦ではオーストリア・ロシア連合軍を破ります。続 いてプロイセン ( ドイツ ) ・オランダ・スペインを せんりよう たいはんしはいか 占領してヨーロッパの大半を支配下におき、ナ ぜんせいきむか ポレオンは全盛期を迎えました〇 えんせいで えんせい ねん アルプスを越えてイタリア遠征に出かけるナポレオン。 そして 1812 年、はるかロシアへ遠征したナポ おうとうは せんりよう きび かくめい しかし、革命に反対する王党派は、イギリス・ レオンは、首都モスクワを占領しましたが、厳 たす ふゆさむ うしな たいきやく おお ′、、し、し しい冬の寒さと飢えで多くの兵士を失って退却 スペイン・オーストリアなど、他の王国の助け ねんどうめいぐん かくめいせいふたお ねん たたか やぶ を借りて、革命政府を倒そうとしました。 1793 年、 します。さらに 1814 年、同盟軍との戦いにも敗 ぐん しえん おうとう ちちゅうかい イギリス軍・スペイン軍の支援を受けて、王党 れると、皇帝の座を追われ、地中海のエルバ島 ぐんこうせんりよう なが 派がツーロン軍港を占領すると、ナポレオンは に流されました。 ほうへいたいひき よくねん せんじゅっ 翌年、ナポレオンは、ひそかにエルバ島を脱 砲兵隊を率いてかけつけ、たくみな戦術でツー せけんちゅうもく ふつき げつ しゆっ 出し、再び皇帝として復帰します。その 3 か月 ロンを奪い返して世間の注目をあびました。 おうとうは ねん はんらん 後、ベルギーのワーテルローでイギリスのウェ さらに 1795 年、パリで反乱をおこした王党派 えんせいぐんしれいかん どうめいぐんたたか よくねん やぶ やぶ を打ち破り、その翌年からは遠征軍司令官とし リントンの指揮する同盟軍と戦って敗れると、 えんせい たいせいようじよう なが てイタリア・エジプトなどに遠征 はるか大西洋上のセントーヘレナ島に流され、 たいふつだいどうめいぐん そこで最期を迎えました。 します。しかし、対仏大同盟軍が フランスに攻め込もうとしている にもかかわらず、政府が無盞な内 ぶあらそ 部争いをしていることを知って、 ねんきこくぶりよくせいふたお 1799 年に帰国。武力で政府を倒し だいいちしっせい ふたた て第一執政になると、再びイタリ いちゃくこくみんえいゆう えんせい アに遠征し、一躍国民の英雄とな りました。 てんらく ・皇帝の座からの転落 ねん 1802 年、ナポレオンは国民投票 しゅうしんしっせい えら で終身執政に選ばれ、『ナポレオン ほうてん さだ こくないせいじ かいかく 法典』を定めて国内政治を改革し こくみんあっとうてきにん ねん ます卩 804 年には国民の圧倒的人 よくねんがつ うていえら 気で皇帝に選ばれると、翌年 10 月、 じようりく イギリス上陸をくわだててトラフ かいせんやぶ アルガーの海戦で敗れたものの、 さんていかい がつ 12 月のアウステルリツツの三帝会 てったい せん しゆと はんたい おうこく うてい ぐん は こうてい ふたた うばかえ むか さい エジプト遠がもたらしたもの えんせい ナポレオンは、 1799 年のェシプト遠征では、アプ わん キール湾でイギリス艦隊に敗れるなど、大きな成 がわかこう 果をあげられなかった。しかし、ナイル川河口で古 こうせきか 代ェシプトのプトレマイオス 5 世の功績を書いたロ ふんしよう セッタストーンを発見した。それらの文章は、象 けいもじ みんしゅうもじ しゆるい 形文字・民衆文字・キリシア文字の 3 種類 で書かれていたことから、 1822 年 がくしゃ フランスのェシプト学者シャ ンポリオンによって、象 けいもじ かいどく 形文字が解読されるきっ かけとなった。 ねん かんたいやふ せい おお せい しよう はつけん こうてい ねん こくみんとうひょう しよう 古代エジプト文字が書か れたロゼッタストーン。 33

9. 政治・社会人物事典

ほんこくこ ・「本国の子たちに負けるな ! 」 えいゆう 今でもフランスの英雄とされるナポレオンは、 ねんちちゅうかい 1769 年、地中海に浮かぶコルシカ島で生まれま とうじ した。この島は、当時フランス領となっていまし りようど たが、もともとはイタリアの領土で、負しいイタ けいじぬし ちち いちじ リア系地主だったナポレオンの父も、一時はフ どくりつうんどう さんか ランスからの独立運動に参加していました。 ちほうじぬし 恵まれない地方地主の子が世に出るには、軍 人になるしかありません。ナポレオンは、 9 歳 ようねんへいがっこっ にゆうがく でフランス本国にわたり、幼年兵学校へ入学す ほんごく ることとなりました。「本国の子どもなんかに負 ちちおや けるな ! 」そう父親にいわれて、送り出された ほんごくゆた きぞく さべつ ナポレオンは、本国の豊かな貴族の子らの差別 けんめいべんきよう しかんがっ を受けながらも、懸命に勉強し、 15 歳で士官学 こうすす さいそっぎよう りくぐん 校に進みます。そこを 16 歳で卒業すると、陸軍 しようい ほうへいたい にゆうたい 少尉として砲兵隊に入隊しました。 かくめいぐんしかん こくみんえいゆう 0 革命軍士官から国民の英雄に ねん こくおう きぞく しはい 1789 年、それまで国王や貴族に支配されてき かくめい た市民が立ち上がり、フランス革命をおこしま こくおう せい す。国王ルイ 16 世と、きさきのマリー = アント しよけい きぞく ワネットは処刑され、貴族たちも殺されたり、 とうばう カゞし ) こ かくめい 外国に逃亡したりしました。革命によって、身 さいのう はっき ぶん 分にとらわれず才能を発揮できる世の中になる かくめいぐんしかん かつやく と、ナポレオンは、革命軍士官として活躍します。 こくみんてきえいゆう フランスの国民的英雄 ナポレオン ( ナポレオン一ボナバルト ) ねん 1769 ~ 1821 年 りよう ぐん ほんごく おく さい とう りよう しかん フランス領コルシカ島で生まれ、士官 がっこうそっきよう ほうへいたいしかん 学校を卒業し、砲兵隊士官となる。フラン かくめいごかくめいぐんしかん おうとうは はん ス革命後、革命軍士官として王党派の反 らんしず こくみんにんき ねん 乱を鎮め、国民の人気を得た。 1799 年に せいふたお だいいちしっせい ねん 政府を倒して第一執政となり、 1804 年 けんりよく に皇帝となって権力をにきると、ロシア・ うやぶ オーストリア・プロイセンを打ち破り、イ くる ねん ギリスを苦しめた。しかし、 1812 年のロ えんせいしつばいたいふつだいどうめいぐん たたか シア遠征に失敗、対仏大同盟軍との戦い やぶ とうなが にも敗れてエルバ島に流された。 なか こうてい れんこうぐん フランス軍がオーストリア・ロシア連合軍 うやぶ さんていかいせん を打ち破ったアウステルリツツの三帝会戦 たいふつだいどうめい 【対仏大同盟】 かくめいたいこう ちゅうしん フランス革命に対抗し、イギリスを中心にヨー しょこくむす どうめい ねん ロッパ諸国が結んだ同盟。 1793 ~ 1797 年の だいかいたいふつだいどうめいいらいすうかい むす 第 1 回対仏大同盟以来、数回にわたって結ばれ はじ おお せいか だいかい た。初めは大きな成果がなかったが、第 4 回で しよこくたいはんさんか はヨーロッパ諸国の大半が参加し、ナポレオン やぼう くだ の野望を打ち砕いた。 ほうてん 【『ナポレオン法典』】 ねんがつ せいてい 1 804 年 3 月にナポレオンが制定したフランス みんぼうてんしゅうざいさんほこ こじんいし じゅうほう 民法典。私有財産の保護・個人の意志の自由・法 まえびようどう かくめいせいか の前の平等など、革命の成果が取り入れられた。 ことばのまど 32

10. 政治・社会人物事典

ていこくきず こうだい 広大なモンゴル帝国を築いた チンギス = ハン ねん ねん 1 162 年ごろ ~ 1227 年 ていこくそうししや ぞく モンゴル帝国の創始者。モンゴル族の ぶそくちょうこ さい 部族長の子として生まれる。 8 歳のとき ちちおや そくころ くろう に父親をタタール族に殺されたが、苦労 すえいちそく そく の末に一族をまとめなおし、ケレイト族 しえんう そく の支援を受けてタタール族・メルキト族 ほろ ねん てい などを滅ぼした。 1206 年にモンゴル帝 こくけんこく こうてい ぐんだんととの 国を建国して皇帝になると、軍団を整え ちゅうごくほくぶきんにし て中国北部の金や西アジアのホラズムな こうりやく みなみ せいか どを攻略。さらに南ロシアや西夏などを りようどひろ せいふく ふたたきんこうげき 征服して領土を広げたが、再び金を攻撃 とちゅうびようし に向かう途中で病死した。 せんこせい 【千戸制】 つく ぎようせいぐんじせいどせんこく チンギス = ハンが作った行政・軍事制度。全国の ゆうほくみん せんこしゅうだんわ 遊牧民を 95 の千戸集団に分け、さらにそれを ひやっこじゅっこわ ちょうおさ 百戸・十戸こ分けてそれぞれの長に治めさせた。 なんそう 【南宋】 しはい そう ほっぽう ねんいらいちゅうこく 960 年以来中国を支配した宋が、北方から金 ちゅうこくなんぶみやこうつ しんにゆうう の侵入を受けて中国南部に都を移してできた。 こうなんかいはつ はってん 江南を開発して発展したが、フビライ = ハンが げんほろ 建てた元に滅ほされた。 ことばのまど きん 28 しそん あお そだ ・青きオオカミの子孫として育つ まえ チンギス = ハンは、今から 88 年ほど前、アシ きす アからヨーロッパにまたがる大帝国を築いたモ えいゆう ンゴル族の英雄です。もともとモンゴル族は、 ちゅうごくほっほうひろ こうげんだいそうげんうま 中国北方に広がるモンゴル高原の大草原で馬や うしひつじ はな そだ 牛、羊などを放し飼いにして育て、くらしをた ゆうばくみん ててきた遊牧民でした。チンギス = ハンは、ア がわじようりゆう がわ ムール川上流のオノン川のほとりでモンゴル族 ぞくちょう ようめい の族長の子として生まれました。幼名をテムジ ンといいます。 そうげん そのころ、草原ではモンゴル族のほか、タタ ゆうばくみん ール族、メルキト族、ケレイト族などの遊牧民 ゆうばくおこな さい が遊牧を行っていましたが、テムジンが 9 歳のと ちち たいりつ き、父のエスガイは、対立するタタール族によ どくさつ いらし、 って毒殺されてしまいます。それ以来、テムジ ー . ろうかさ たいへん ンは、母や弟たちとともに大変な古労を重ね、 いちぞく むかし 一族をまとめていきました。昔からモンゴル族 あお には、天からっかわされた青いオオカミがオノ がわ せんぞ ン川のほとりに住みついて先祖になったという った 言い伝えがあり、テムジンも、そのオオカミの しそん だかそだ つよ ほこ 子孫として、強く、誇り咼く育てられたのです。 ていこくけんこく ・モンゴル帝国を建国 せいちょう せいねん やがて、たくましい青年へと成長したテムジ つまむか ンは、妻を迎えますが、ある日、メルキト族に しゅうげき なかま つま うば おお 襲撃されて多くの仲間を殺され、妻も奪われて ぞくおうえん しまいます〇ケレイト族の応援を受けたテムジ ぞくおそ てっていてき ンは、メルキト族に襲いかかると、徹底的に打 かえ ざいさんとち つま やぶ ち破って妻を取り返し、すべての財産と土地を ねん だいていこく ははおとうと てん さいきようきはぐんたんしゅうへんしよこくほろ チンギス = ハンは、最強の騎馬軍団で周辺諸国を滅ぼしていった。