子どもたち - みる会図書館


検索対象: 政治・社会人物事典
16件見つかりました。

1. 政治・社会人物事典

しぜんなか し、自然の中でのびのび にんげんせい と人間性をのばす新たな きよういくしめ 教育が示されていたから です。 のうぎようつう にんげん 農業を通じて人間らし しやかいひろ い生き方を社会に広めよ おも うと思い立ったヨハン ねん は、 1771 年、チューリヒ こうカ { し、 郊外のノイホーフという のうじようひら のうそん 農村にまず農場を開く ねん のうじよう と、 1774 年には農場にめ ぐまれない孤児たちの学 のうじよう こうひら 校を開きました。農場で べんきよう はたら 働きながら、勉強すると いう新しい教育のやり方 をめざしたのです。しか のうじよう し、農場をまかせた支配 にんげん 人がずるい人間だったた しつばい め、経営は失敗し、 1780 カゞっこっ 年には、とうとう学校を 閉じることになってしまいました。 はんせいかえり その後、ヨハンは、それまでの半生を省みて、 いんじゃゆうぐ 『隠者の夕暮れ』『リーンハルトとゲルトルード』 しっぴっぱっとう なか などの執筆に没頭します〇それらの中で、ヨハ じはっせいそんちょう かていてき ンは「子どもたちの自発性を尊重し、家庭的な しんらいかんけい 信頼関係によって、子どもたちの様々な能力を そうごうてき しやかい はってん はったっ 総合的に発達させることが、国や社会の発展に つながる」と説きました。 ぜんりようせいがっこうせつりつ ・全寮制の学校を設立 ねんきようし あら せいかっ 1798 年、教師としての新たな生活がヨハンを ないらん おお 待っていました。スイスに内乱がおこって多く じいんいん の孤児が生まれたため、シュタンツ孤児院の院 ちょうむか 長に迎えられたからです。 ねん さらに 1800 年、ヨハンは、プルクドルフの古 じようぜんりようせい こうちょうしゅうにん がっこつひら 城に全寮制の学校を開くと、校長に就任し、 2 ねん じふん 年後には学校をイベルドンに移して自分の理想 きよういくりろんじっこう とする教育理論を実行に移しました。どんな子 おし どもでもわが子のように愛情をもって教えるヨ ハンは、子どもたちから「お父さん」と呼ばれ てしたわれました。 そうした教育のやり方は、しだいにヨーロッ じゅうちゅうもく ひと さんかんおとす パ中で注目され、各国から多くの人が参観に訪 し、 きよういく あたら しはい がっこう こじいんこ シュタンツの孤児院で子どもたちと遊ぶべスタロッチ。学校をふつう ばしょ かんが じぶん かていおな とう の家庭と同じような場所として考え、自分を「お父さん」と呼ばせた。 じゅう れるようになりました。しかし、あまりにも自由 きようし じゅんすい おも と純粋さを重んじるヨハンの考え方は、教師た はんはつまね ちの反発を招くようになります。 1825 年、ついに がっっ ヨハンは学校を閉じると、なっかしいノイホー ねんしようがい フへもどり、そこで 81 年の生涯を閉じました。 あそ けいえい ねん かんがかた ねん さまざまのうりよく ベスタロッチの教えを世界に きよういくりろん ベスタロッチの教育理論は、死後、ドイツ・フ せかいかくちひろ めい ランス・アメリカなど、世界各地に広まった。明 いざわしゅうじ りゆうがく ねんだい 治 1 0 年代には、アメリカへ留学した伊沢修ニらに たいしようじだい った にほん よって日本へも伝えられた。その後、大正時代に たまがわがくえんおばらくによし せいじようがくえんさわやなぎまさたろう 成城学園の澤柳政太郎、玉川学園の小原国芳らに しどうりろん ひろ じゅうきよういく よって、自由教育の指導理論として広まり、今で しようがっこうきよういくなか も小学校教育の中に取り入れられている。 いま 、マ平・三一 あいじよう やがいじゅきようおこなたまかわがくえんおはらくによし 野外授業を行う玉川学園の小原国芳。 きよういく かっこく おお 35

2. 政治・社会人物事典

第①ス ~ ・芸能人物事司 アベべ、ヘップバーン、コロンブス・・・。人生の目標に挑み続け たヒーロー、ヒロインたちの栄光と挫折の生涯。 ②芸術 9 文学人物事典 アンデルセン、アンネ = フランク、べートーヴェン、ピカソ・ 波乱に富んだ人生そのままがドラマであり、魂の叫びが名作と なった。 みる全 5 巻 監修 / 山口昌男 仕様 / A4 判・上製カバー装 各巻平均 52 ページ ( カラー 44 ページ ) 第③産 ' 技術人物事典 エジソン、シャネル、ビル = ゲイツ・・・。成功の陰には人知れな い努力と失敗があり、一瞬のひらめきが人類の発展につながる こともあった。 第④巻政渹し人物事島 ガンジー、チンギス = ハン、ヘレン = ケラー、マサー = テレサ 。祖国と人類を愛し続けた一人の人間の強い意志が世界を動 かした。 第⑤巻霧間し宗教人物事 キリスト、シュリーマン、キュリー夫人、ファーブル・・・。そこ には、真実を究めようとする子どものころからの深い愛と情熱 があった。

3. 政治・社会人物事典

學者らし ) 風姿て 3 のにしたいへです」と 來したアダムス女史 日本婦人にお目にか、って・ , , ・ヾ」、、 の贐と鑒のある醺の芒に 4 が明辮恥塀が ' へるはくんで ににのへてゐた、にはのがに出 ジ 1 ン・ア - タムス女史は廿の照をって第にった叫の合をした も女史は長途の旅行に疲勞して居 をト厖洋ちにすを齢のに積ーて = / タル・ホテルにした、都ゐた、鏨を曜ましたに「るに拘らす流石市俄古の貧民竄 がに〈ると女史は一のについて篠か瞬、はあり現在では十 = の建案を有し日 谷恥のつきにてゐた、ませんか」とくと「萍には三々千五百人の青年男女に凡ゆる には第糶で莊ゐたかそん髓を皿する警を施してゐるだけに常に平 ~ 絨であるク 1 ・スミ = をたかった」としに静で米婦人に有り勝の頭面 基無嚠に動かしての表情澪山 な風を見せす學者らしい風をし ( るに ねんらいにち かのじよかつどう 1 923 年に来日したジェーン。彼女の活動は、 にほんしやかいふくしじきよう おお えいきようあた 日本の社会福祉事業にも大きな影響を与えた。 さまざま 様々な方面の人たちがハルーハウスで働くよう ひとびときようりよく 子どもたちに本を読んできかせるシェーン。 になると、ジェーンは、それらの人々と協力し いりようかつどうぶんかかつどう かつばっ いつほうねんしよう があることを聞いたジェーンは、再びロンドン て医療活動や文化活動を活発にする一方、年少 がくせい しやろ、どうほ カゞっこっ ほうせいりつ しよくぎようあん 者の髣働保護法を成立させ、さらに国の職業安 を訪れます。そこでは、学生たちが学校に行け 定所の設立や髣働条筰の改篝、禁酒法の制定な ない子どもたちに勉強を教えたり、食べ物を与 よる おとな おんがくどくしょ せいふはたら えたり、また、夜には大人たちが こを珀 ( 志 : 聿 : どを政府に働きかけました。 、日 : ィくべつⅱ儿日 たの せつりついらい を楽しんだりするなど、いこいの場所となって こうして、ジェーンは、設立以来、 74 歳で亡 いることを知りました。「叙も、シカゴにあんな ねんかん くなるまで 45 年間もハルーハウスに住んで負し いえ ひと ほうしつづ あいだ 家をつくろう ! 」そう固く決意したジェーンは、 い人たちに奉仕し続けました。その間には、婦 ごきようりよくしや 帰国後協力者をめて駆けずり回ります。 まわ じんさんせいけんうんどう はんせんへいわうんどう こくさいてき かつやく 人参政権運動や反戦平和運動でも国際的に活躍 ねん こうせきみと ジェーンは、まずチャールズ = ハルという人 し、 1931 年には、その功績が認められてノーベ ふるべっそうていきよう ねんまず へいわしようじゅしよう の古い別荘を提供してもらうと、 1889 年、貧し ル平和賞を受賞しました。 ひと い人のためのセッルメント しせっ せつ 施設「ハルーハウス」を設 りつ はたら 立。そこに住みついて、働 ははおや あす く母親のために子どもを預 せわ りよう かって世話し、女性には料 さいほうおし おんがく 理や裁縫を教え、また音楽 かいが えんげき かんしようかい や絵画、演劇の鑑賞会を 開くなど、しい人々の生 かっかいぜんきよういくぶんか 活改善や教育・文化の雇」上 っと に努めました。 へいわしようじゅしよう ・ノーベル平和賞を受賞 やがて、ジェーンたちの きふ きようかん おお かんが 考えに共感して多くの寄付 きんあっ かつどう 金が集まり、活動はセッル うんどう ぜんこくひろ メント運動として全国に広 がっていきました。また、 いしおんがくか ほうりつか 医師や音楽家、法律家など、 ほうめんひと はたら ふたた おとす し、 さい けつい ひと みイ 日本のセッルメント めいじ にほんはつ 日本初のセッルメントーハウスは、 1897 ( 明治 30 ) ねんしやかいしゅぎしやかたやませんとうきようかんだみさきちょうせつりつ 年、社会主義者片山潜か東京の神田三崎町に設立 した興望館セッルメントだといわれている。その しやかいしゅぎうんどうむす きゅう 後、セッルメントは、社会主義運動と結びついて急 そくはってん ねんたいしよう ねん とうきようていこくだい 速に発展し、 1925 年 ( 大正 14 ) 年には東京帝国大 がくいま 学 ( 今の東京大 がくせい 学 ) の学生セッ ルメントが東京 ほんじよたんしよう の本所に誕生し しやかい た。しかし、社会 しゅぎ きけんしそう 主義は危険思想 とされたため、し だんあっ ばしば弾圧を受 ねんだい け、 1930 年代に はい おとろ 入ると、衰えて いった。 じよせい こうほうかん とうきようだい とうきよう かたやませんせつりつ 片山潜が設立した興望館セッルメント。 何セ「ルメント こうほうかん

4. 政治・社会人物事典

まひといえ かんじゃみま 「死を待つ人の家」で患者を見舞うテレサ。 きようし の教師となり、豊かな家庭のインド人女学生た ちりれきしおし ちに地理や歴史を教えました。その後、校長と ひびおく いそが して忙しい日々を送ることとなりますが、まぶ まず たの裏に焼き付けられた貧しい人々の姿を決し わす て忘れることはありませんでした。 ねん れっしゃ 1946 年、ダージリンへ向かう列車の中で、テ とつぜん したが カゞし、 レサは、突然「キリストに従い、スラム街に入 こえみみ かみ りなさい」という神の声を耳にします。その 2 へいわしよう ノーベル平和賞を ひとり しゅうどうかい じゅしよう 年後、テレサは、 1 人で修道会を出てカルカッ 受賞したテレサ。 カゞし、 へや タのスラム街に小さな部屋を借りると、そこで なか ねん おし なりました。その 2 年後には、ヒンドウー教の 子どもたちに文字の読み書きを教え、お腹をす じゅんれいしゆくはくじよ まず じいんちか カーリーガート寺院の近くにある巡礼宿泊所を かせた子どもにミルクを与えるなど、貧しい ろじよう まひと いえ せつりつ ひとびときゅうさいかつどう はじ 借りて、「死を待つ人の家」を設立し、路上で行 人々の救済活動を始めました。 ひとびときゅうさいの やがて、テレサの真な活動に共感して、女 き倒れになった人々の救済に乗り出します。 じいん せい つぎつぎ がっこうじだいおし 初めは、ヒンドゥー教側から「聖なる寺院を 学校時代の教え子たちが、次々にテレサのもと はんばっ あっ ねん けがすもの」として反発を受けましたが、当時 へ集まるようになります。 1947 年、インドはイ びようかん でんせんびようかんが おそ どくりつ どくりつ 恐ろしい伝染病と考えられていたハンセン病患 ギリスから独立しますが、独立後のカルカッタ かつどう けんしんてきかんびよう みす なんみん 者を献身的に看病するテレサらの活動は、しだ は難民であふれ、路上にはだれからも見捨てら ひと おお かんじゃ いに多くの人の理解を得るようになりました。 れたハンセン病や結核の患者などが横たわり、 かみあいせんきようしやかい かつどう こうけい ひさん こうして、「神の愛の宣教者会」の活動は、イ 静かに死を待っているという悲惨な光景があち せかいじゅうひとびと ひとびときゅうさい ンドばかりか世界中の人々の心を動かし、各国 こちに見られました。そうした人々の救済へと、 おお しゅうどうじよ さんか かつどう はんい ひろ から修道女が参加するようになって、多くの孤 テレサは活動の範囲を広げていきました。 せかいじゅうひとびときようかんよ びようりようようしせつけんせつ じいん 児院、ハンセン病療養施設が建設されていきま ・世界中の人々の共感を呼ぶ しゅうきよう かつどう しんあい ほうおう かみあい ねん した。真の愛に生きるテレサの活動は、宗教を 1950 年、テレサは、ローマ法王から「神の愛 たかひょうか ねん せんきようしやかいせつりつきよか かいそうちょう 超えて高く評価され、 1979 年、ついにテレサは、 の宣教者会」設立の許可を受けると、会の総長 へいわしようじゅよ しゅうにん ノーベル平和賞を授与されたのです。 に就任し、「マザー = テレサ」と呼ばれるように じんじよがくせい かてい ゆた こうちょう ひとびとすがた うら なか ねん ちい きよう し、 きようがわ ろじよう けっかく りかい

5. 政治・社会人物事典

であ まず ひと ・貧しい人たちとの出会い せいざいこうじようせいふんこうじよう おお ジェーンは、大きな製材工場や製粉工場を経 営する豊かな業家の末っ子として、アメリカ しゅう ははおや のイリノイ州で生まれました。幼いころに母親 びようじゃく かぞく を亡くし、しかも病弱であったことから、家族の あいじよういっしんあっ ころやさ そだ 愛情を一身に集めて心の優しい子に育ちました。 ちちおやばしゃ ある日、ジェーンは、父親と馬車に乗ってい やさい ひんみんがいあそ たとき、ごみや野菜くずにあふれた貧民街で遊 ふくそう ぶ汚れた服装の子どもたちを目にします。「ノヾパ、 きたなところす あの人たちは、なぜあんな汚い所に住んでいる ます の。」「それはね、ジェーン、貧しいからだよ。」 ちちおやおし ちい むねいた そう父親に教えられて、小さな胸を傷めたジェ ーンは、いつかしい人たちのために尽くそう ころき と心に決めたのです。 ふくししせつ せつりつ 0 福祉施設「ハルーハウス」を設立 じよがくいん やがてジェーンは、ロックフォード女学院を そっぎよう びようき 卒業すると、医学を学び始めますが、病気はひ どくなるばかりで、ついに手術を受けることと なってしまいました。手術後、療養を兼ねて家 たび 族とヨーロッパ旅行に出かけたジェーンは、旅 さき ひんみんがい めそむ 先のロンドンの貧民街ィーストーエンドで目を背 ます ひとびと けたくなるほど貧しい人々の群れを目にし、い ても立ってもいられなくなりました。 ゆうじん 帰国後、友人からイーストーエンドにトインビ し、え ーホールと呼ばれる貧しい人たちのための家 ひと しようがいまず 生涯を貧しい人たちにささげた ーアダムス ジェ - ン一 えい おさな ねん 1860 ~ 1935 年 ひと UPI•サン・毎日 しゅうじきようか アメリカのイリノイ州で事業家の子と ます ひと ひさんせいかっ して生まれ、貧しい人たちの悲惨な生活 ふくしみちこころざ こころいた を目にして心を傷め、福祉の道を志した。 ひんみんがい ロンドンの貧民街にあるトインビーーホ けんがく かんげき ねん ールを見学して感激し、 1889 年、シカ ひんみんがい はつふくししせつ ゴの貧民街にアメリカ初の福祉施設ハ せつりつまず ひと せいかっ ルハウスを設立。貧しい人たちの生活 かいぜんきよういくぶんかこうじようっと せかいさい 改善、教育・文化の向上に努め、世界最 だい はってん 大のセッルメントへと発展させた。 まな いがく しゅじゅっう しゅじゅっご りようよう ひと ます 【セッルメント】 えいこ ていじゅう いみ もともと英語で「定住」という意味。イギリス だいがくきようじゅ のオックスフォード大学教授トインビーを中 しん がくせい ねん 心に、学生らが、 1887 年にトインビーーハウ せつりつ ふくしかつどうおこな いらいちしきじん スを設立し、福祉活動を行って以来、知識人や がくせいひんみんがいす おこな かっ 学生が貧民街に住みついて行うボランティア活 どう 動をさすようになった。 」 1 冫 ちゅう ひんみんがい ようすみかな 貧民街の子どもたちの様子を見て悲しむジェ ーン。

6. 政治・社会人物事典

しんぶんきしや ぐんじん ・軍人から新聞記者に ウインストン = チャー だいにじせかいたい チルは、第二次世界大 せんれんごうこくがわしようり 戦で連合国側を勝利 みちび せん せかい に導き、戦後の世界の せいじ 政治を動かして、 20 世 きさいだい 紀最大の政治家の一 人といわれています。 ウインストンは、 ちちおおくらだいじんっと 父も大蔵大臣を務め せいじか た政治家という、イ めいもんきぞく 子どものころのウインストン。 ギリスの名門貴族の べんきようぎら 家に生まれたものの、子どものころには勉強嫌 どめ じゅけん せいせき いで、成績もあまりよくなく、 3 度目の受験で りくぐんしかんがっこう ごうかく ようやく陸軍士官学校に合格したといわれてい りくぐんきへいたいしようこう しかんがっこうそっぎよう ます。士官学校卒業後は、陸軍騎兵隊将校とな てんせん ってキューパ・インド・スーダンなどを転戦し、 いっぽう かつやく ぐんじん 軍人として活躍します。その一方で、キューバ せんきようしんぶんか ぜんせんとくはいん ぶん では前線特派員として戦況を新聞に書くほど文 しようとくい 早を侍意としていました。 しんぶんきしゃ ねんりくぐん 1899 年、陸軍をやめて新聞記者になると、南 せんそうじゅうぐんきしゃ アフリカでおこったプーア戦争に従軍記者とし しゅざいちゅう で て出かけますが、取材中、捕虜になってしまい ほりよしゅうようじよ しかし、すきをついて捕虜収容所から ました〇 いちゃくこくみんえいゆう だっそう 脱走し、一躍国民の英雄になりました。 しつばい かいぐんだいじんじにん さくせん ・作戦に失敗して海軍大臣を辞任 ねん ゆうめい 有名になったウインストンは、 1901 年、保守 かいんぎいんりつこっ 党から下院議員に立候 とうせん 補して当選し、 の 政界に乗り出 します。しかし、 じゅうとうせいりよくの 自由党が勢力を伸 じゅうせかいまも こうげき ナチスの攻撃から自由世界を守った チャーチル せい ひと ( ウインストン = レナード = スペンサー = チャーチ 1874 ~ 1 965 年 ねん せいじか り いえ りく めいもんきぞく いえう イギリスの名門貴族の家に生まれ、陸 ぐんしかんがっこうそっぎようごぐんじん こしん 軍士官学校卒業後軍人となる。その後新 かいんき ほしゆとう ぶんきしや さい 聞記者をへて、 26 歳で保守党から下院議 うつ しようむない いんとうせん じゅうとう 員に当選。のちに自由党に移って商務・内 だいいちじせ むかいぐんかくだいじんれきにん 務・海軍の各大臣を歴任するが、第一次世 かいたいせんせんりやくしつはい かいぐんだいじん じ 界大戦の戦略に失敗して海軍大臣を辞 りくぐんだいじんおおくら にんせんごほしゆとう 任。戦後、保守党にもどり陸軍大臣・大蔵 ねんいんたい だいじんっと 大臣を務めたが、 1931 年に引退。 1939 だいにじせかいたいせん ねん 年、ドイツが第ニ次世界大戦をおこすと、 かいぐんだいじんしゅしようっと ふつき せいかい 政界に復帰して海軍大臣、首相を務め、ア きようりよく れんいま メリカやソ連 ( 今のロシア ) と協力して れんこうこくがわしようりみちび 連合国側を勝利に導いた。 みなみ ほ し、カ、し、 0 た っ な と 英 的 民 国 て し 走 脱 よ斤 容 う い収 : 虜 ほ捕 ン ト ス ン イ ウ せんそう 【ブーア戦争】 けいいみん 1 899 ~ 1 902 年。オランダ系移民ブーア人が きようわこくたい きず 築いたトランスパール・オレンジの 2 共和国に対 しんりやくせんそう して、イギリスがしかけた侵略戦争。イギリス ざんぎやくせんとうおこなしようり たいぐんとうにゆう は大軍を投入して残虐な戦闘を行い、勝利した。 【ナチス】 ろうどうしゃとうつうしよう こっかしやかいしゅぎ 国家社会主義ドイツ労働者党の通称。 1 921 年 いらいきゅうそくせいりよく とうしゅ にヒトラーが党首になって以来急速に勢力を ないかくつく ねん の 伸ばし、 1933 年にはヒトラー内閣を作って議 じんはくがいぐんびかくちょう おこな かい 会の廃止・ユダヤ人の迫害・軍備拡張などを行 ねんだいにじせかいたいせん い、 1939 年に第ニ次世界大戦をおこした。 じん ねん ねん はいし こくみんてきえいゆう たっそう 26

7. 政治・社会人物事典

せんせい であ ・サリバン先生との出会い きゅうせい さい ヘレン = ケラーは、 1 歳 7 か月のとき、急性 おもねつびよう のうまくえん 脳膜炎という重い熱病にかかり、見ることも、 はな 聞くことも、話すこともできない子どもになっ てしまいました。 両親は、ヘレンをあわれみ、しつけらしいしつ けもできないまま育てました。ヘレンは手づか てあ みで物を食べ、気に入らないことがあると、手当 たりしだいに もの 物を投げつ け、「アー、ア ー」とけもの のように泣き 叫ぶというあ りさまでした。 7 歳のとき、 そんなヘレン わか のもとへ、若 かてい い女性が家庭 きようし まね 教師として招 サリバン先生のしつけをいやがるヘレン。 かれました。 うんめい それが、ヘレンの運命を変えたアン = サリバンで せんせい じいん した。サリバン先生は、みなし子として孤児院で きせきひと 「奇跡の人」と呼ばれた ヘレン = ケラー りようしん そだ ねん 1880 ~ 1968 年 し、 さけ じよせい せんせい しゅうぐんじんこ アメリカのアラバマ州で軍人の子とし げつねつびよう さい て生まれたが、 1 歳 7 か月で熱病のため、 しかくちょうかくうしな はな 視覚と聴覚を失い、話すこともできなく さい なる。 7 歳のとき、アン = サリバンを家 ていきようしまね しわほう 庭教師に招き、 10 歳のときに指話法を しゅうとく どくしんほう 習得、さらに読唇法をマスター。ハーバ だいがくふぞく そっ ード大学付属ラドクリフーカレッジを卒 きようご せかいかくちこうえん からだふじゅう 業後は、世界各地で講演して体の不自由 ひと しえんうった かつどう あお な人への支援を訴えた。その活動は「青 とりうんどう はってん かっこく い鳥運動」へと発展し、各国でヘレン = きようかいせつりつ ふくしかつどうかっ ケラー協会が設立されて、福祉活動が活 ばっ 発になった。 か さい 朝ことばのま , ど しわほう 【指話法】 ゆび かたちつく あいて 指でアルファベットの形を作って相手の手のひら ことば かいわ ほうほう に押しつけながら言葉をつづり、会話する方法。 【アン = サリバン】 ねんははおやしべつ ちちおやす 1866 ~ 1936 年。母親と死別し、父親に捨てられ こじいんそだ ふじゅう て孤児院で育つ。 3 歳のときに目が不自由になっ しゅじゅっ しりよくかいふくどりよく たが、手術によってわずかに視力を回復。努力の すえもうがっこうゆうしゅうせいせきそっきよう 末に盲学校を優秀な成績で卒業してヘレンの家 ていきようし いっしよう 庭教師となり、一生をへレンとともに過ごした。 さい か ウォーター みす ヘレンが初めて口にした言葉は「 water ( 水 ) 」であった。 ことば くち 36

8. 政治・社会人物事典

こころやさ おんなこ そだ 0 心の優しい女の子として育つ フローレンスは、イギリスのシェフィールド だいぎんこうかむすめ ほんしゃ に本社をもつ大銀行家の娘として生まれました。 おさな ひとびようにんみ 幼いころから貧しい人や病人を見ると、助けす やさ ころもぬし にはいられない優しい心の持ち主でした。 のみちはし ある日のこと、フローレンスが馬で野道を走 あせ ひつじお ろうじん っているとき、汗だくになって羊を追う老人と であ ばんけんあし 出会いました。わけをたずねると、番大が足を こっせつ じぶんばんけんか 骨折して死にかけているので、自分が番大の代 ひつじあっ わりに羊を集めているのだといいます。フロー レンスは、 さっそくいえ 早速家へも くすり どると、薬 を手にして ろうじんいえ 老人の家を おとずに 訪れ、古し そうに横た いぬ わった大の てあ はじ 手当てを始 めました。 それからと しゅうかんあいだいぬかんびようつづ 2 週間もの間、犬の看病を続けたフローレンス。 いうもの、 まいにち いぬかんびよう げんき 毎日のように大を看病し、とうとう元のように元気 な姿にもどしたといわれています。 てんし 「クリミアの天使」と呼ばれた ナイチンゲール ます ( フローレンス = ナイチンゲール ) ねん 1820 ~ 1 910 年 きんこうか イギリスの銀行家の子として、イタリ アのフィレンツェで生まれ、子どものこ かんご かんしん さいかんこふ ろから看護に関心をもち、 30 歳で看護婦 しかく ねん の資格を得た。 1853 年にロンドンの慈 ぜんびよういんかんこふちょう よくねん 善病院の看護婦長となったが、翌年、ク せんそう びようきくる へいし リミア戦争でけがと病気に苦しむ兵士た ひさんようす やせんびよういん ちの悲惨な様子を知り、野戦病院にかけ てきみかた けんめいかんごおこなへい つける。敵味方なく懸命の看護を行い、兵 てんし 士たちから「クリミアの天使」としたわ ごかんこがっこうそうりつ きんだいかん れた。その後も看護学校を創立し、近代看 ごほうかくりつ こうせき ねん 護法を確立し、その功績により、 1920 年 しよう そうせつ に「ナイチンゲール賞」が創設された。 もと すがた せんそう 【クリミア戦争】 ねん ねんちちゅうかいとうぶ 1853 年 ~ 1856 年に地中海東部への南下を はんばっ ねらうロシアとそれに反発するトルコ・イギリ あいだおこな せんそう ス・フランスとの間で行われた戦争。ロシアが なんかせいさくそし 敗れて南下政策は阻止された。 なんか やぶ 30

9. 政治・社会人物事典

とうほうえんせいだいていこくきず 東方遠征で大帝国を築いた たいおう アレクサンドロス大王 きげんぜん ぜん 紀元前 356 ~ 前 323 年 ねん こだい 古代マケドニアの王子として生まれ ちちおうあんさつ はたちそく る。父王が暗殺されたため、 20 歳で即 いたいりつ しよとしこっか 位。対立していたギリシアの諸都市国家 せいふく しゆくてき せほろ を征服し、さらに宿敵ベルシアを攻め滅 とうほう えんせいつづ ぼした。その後も東方への遠征を続け、 だいていこくけんせつ ギリシアからインドまでの大帝国を建設 ねつびよう したが、熱病のため 33 歳で亡くなった。 おうじ さい 【ベルシア】 きげんぜん ねんいま しゅうへん 紀元前 550 年に今のイラン周辺におこった国 か きげんぜんせいきまっ せい 家。紀元前 6 世紀末、ダレイオス 2 世のときに せいふく しよとしたいりつ 西アジアを征服し。ギリシア諸都市と対立して せんそう ベルシア戦争をおこしたが、アレクサンドロス とうほうえんせい ぜん ねんほろ の東方遠征により、前 330 年に滅んだ。 きよういく 0 アリストテレスの教育を受けて ねんちか まえ アレクサンドロスは、今から 2400 年近く前、 だいぶんめいたんじようち 古代文明誕生の地ギリシアの北にあるマケドニ おう アで王フィリッポス 2 世の子として生まれまし た。子どものころから賢く、また、あばれ馬さ ぶゆうすぐ え巧みに乗りこなすほど武勇に優れていたとい われています。アレクサンドロスが 13 歳になっ ちちおう だいてつがくしゃ たとき、父王は、ギリシアの大哲学者アリスト かていきようし まね さい ねん テレスを家庭教師として招き、 17 歳までの 4 年 かんせいじれきし てんもん おう 間、政治・歴史・地理・天文など王となるため けっか の教育をさずけさせました。その結果、アレク きようよう ゆた サンドロスは、豊かな教養と偉大な人格を身に つけていったのです。 じんいつば マケドニア人は、ギリシア人の一派だともい とうじ やばんじん われていますが、当時はギリシア人から野蛮人 たいりつ として軽べっされ、対立していました。アレク おう サンドロスは、 18 歳のときに王とともにギリシ えんせい ぐんつぎつぎ やぶ アに遠征し、各都市の軍を次々に打ち破りまし よ、す みちちおう た。その様子を見た父王は、「おまえにはマケド おお じぶんた ニアは小さすぎる。もっと大きな国を自分で建 てるがよい。」と言ったといわれています〇しか ちちおう しゆくてき えんせい まえ し、その父王も、宿敵ベルシア遠征を前にささ いちきぞくあんさつ いなことから一貴族に暗殺されてしまいました。 とうほう えんせい だいていこくけんせつ ・東方への遠征で大帝国を建設 はたち ちち おう 20 歳で父のあとを継いで王となったアレクサ しゆっぺし、 せんどせいふく ンドロスは、ギリシアに出兵して全土を征服す いま せい うま きよういく じんかくみ かくとし ちい し、

10. 政治・社会人物事典

まず がっこう 0 貧しい子どもたちにも学校を ! ヨハン = ベスタロッチは、 1746 年、スイスの チューリヒで医者の子として生まれました。し ちちおやびようき かし、 6 歳のときに父親が病気で亡くなったた まず ははおやせいじつ め、その後は、貧しいながらも、母親と誠実な てつだ てじゅんすいしようねん そだ お手伝いさんの手で純粋な少年へと育ちました。 しようがっこうにゆうがく やがて、ヨハンは小学校へ入学しますが、ど さんすう ういうわけか算数がうまくできません。そのこ カぐっこっ べんきよう きび ろの学校は、勉強ばかりかしつけにも厳しく、 にがて せんせい 勉強の苦手なヨハンは、よく先生にむちでおし りをぶたれたものでした。 むら そんなヨハンの心をなぐさめたのは、村で牧 師をしているおじいさんでした。おじいさんは、 ます ひとびようき ひとおとす はげ ヨハンを連れて貧しい人や病気の人を訪れ、励 たいけん ましたりなぐさめたりしました。そうした体験 ひんぶ の中で、ヨハンは、世の中には貧富の差があり、 しい家の子は学校にさえ行けないことに気づ おとな たの きます。「大人になったら、貧しい子でも楽しく カゞっこっ 学べる学校を作ろう ! 」ヨハンは、そう心に決 めたのでした。 のうじようこじ がっこうひら ・農場に孤児のための学校を開く 迂を一ごがくてつがく まな 大学で言語学や哲学を学んだヨハンは、ある ふか かんどう 日、ルソーの『エミール』を言儿んで深く感動し きび きよういくひはん ます。そこには、ただ厳しいだけの教育を批判 きんだいきよういくちち 「近代教育の父」と呼ばれた ねん さい ベスタロッチ ( ヨハン = ベスタロッチ ) ねん 1746 ~ 1827 年 べんきよう なか なか スイスのチューリヒで、医師の子とし ちちおやびようし まず しようねん て生まれるが、父親が病死し、貧しい少年 じだいおく ねん だいがく 時代を送る。 1764 年にチューリヒ大学 にゆうかく に入学、ルソーの『エミール』を読んで自 ゆうきよういくめざ ねんじぶんのうじよう 由教育に目覚め、 1774 年に自分の農場 こじがっこうひら のうじようけいえいしつばい に孤児学校を開いた。農場経営に失敗し がっこっ ごてつかくきよういく て学校を閉じるが、その後、哲学や教育に ちよしよしっぴっ どくじきよういくりろん ついての著書を執筆して独自の教育理論 かくりつ ねん こじいんちょう を確立。 1798 年、シュタンツ孤児院長に しゅうにん ぜんりようせいがっこうせつりつ ねん 就任。 1800 年には全寮制の学校を設立 じぶんりそう きよういくりろんじっ して自分の理想とする教育理論を実せん ちゅうもくまと きようしたい し、注目の的となった。しかし、教師と対 りつ がっこうへいさ きよういくかい しりそ 立して学校を閉鎖し、教育界から退いた。 まな つく だいがく 、こよ士冖 のうじようのうさきようで ノイホーフの農場で農作業に出かける孤児たち。 のうさきようつう はたらよろこ まな 農作業を通じて、働く喜びを学んだ。 【『エミール』】 けいもうしそうか フランスの啓蒙思想家ジャン = ジャック = ルソ しそうしょ にんげんう じゅうびようどう ーの思想書。人間は生まれながら自由・平等だ しやかい が、のちに社会がそれをゆがめるとして、子ど じしゅせいおも しぜんおし したがきよういく もの自主性を重んじ、自然の教えに従う教育の かたとな やり方を唱えた。 34