ヨーロッパ - みる会図書館


検索対象: 産業・技術人物事典
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1. 産業・技術人物事典

かつばんいんさついぜんしゆっぱん ・活版印刷以前の出版 かみ 紙ができるまでのヨーロッパでは、羊や子牛 かわの の皮を延ばしたものにペンで文字を書き写し、 本を作。ていました。そのため、本の覈は少な ひじよう く非常に高価なものでした。 12 世紀に中国から かみふきゅう せいしほう った 製紙法が伝わり、紙が普及するようになると、 せいき もくはんいんさつおこな 14 世紀には木版印刷が行われるようになります。 もくはんいんさつ はんがおな しかし、木版印刷では、版画と同じように 1 もじひとひと いんさつ ページごとに文字を一つ一つ版木に彫って印刷 たいへんてま ほんつく するため、本を作るには大変手間がかかりまし とちゅうしつばい はじ つえ た。その上、途中で失敗したら初めから版木を なお ほ 彫り直さなければなりません。 30 代のころ、『聖 いんさったの 書』の印刷を頼まれたグーテンベルクは、 1 ペー しつばい ぶんほ ジ分を彫り終えようというときに失敗したことか かつばんいんさつおも ら、活版印刷を思いついたともいわれています。 かつばんいんさつはつめい 活版印刷を発明した グーテンベルク ひつじ せいきちゅうごく ( ヨハン = グーテンヘルク ) ねん 1397 ? ~ 1468 年 はんぎ ほ はんぎ せい きそくいえう ドイツのマインツで貴族の家に生まれ しようがい ふめい せいねん る。生年をはじめ、その生涯には不明な しきんぐ くろう てんおお 点が多いが、資金繰りに苦労しながらも、 こうきんせいかつじ ゆせい せいきなか 1 5 世紀中ごろに合金製の活字と油性イ かつばんいんさつじゅっかん いんさつきはつめい ンク、印刷機を発明して活版印刷術を完 いこかつばんいんさつ せい 成させた。以後、活版印刷はヨーロッパ たいりよう せいしょ じゅうひろ 中に広まって聖書をはじめ、大量の しゅうきようかいかくすい ほんつく 本が作られるようになり、宗教改革の推 がくもんぶんか はってんおお こうけん 進、また学問や文化の発展に大きく貢献 もくはん すべ 木版では全ての文字を彫らなければなら たいへんてま なかったため、大変手間がかかった。 かつばんいんさっと 0 活版印刷に取り組む きぞく し、ん グーテンベルクは、マインツの貴族の家に生 かへいちゅうぞうしよくにん まれました。やがて優れた貨幣鋳造職人とし おも うであ て腕を上げたものの、マインツでは思うように商 売ができなかったため、 30 歳ごろにシュトラス プルクへ移りました。 ほうせきみが かがみづく そこで鏡作りや宝石磨きの職人として名をあ かつばん いんさつぎよう いつばう げると、その一方で印刷業にも乗り出し、活版 きんぞくせい かっ いんさつはつめい 印刷の発明に取り組みます。やがて金属製の活 かつばん ちゅうぞうほう いんさつき かいはつ 字や、その鋳造法、印刷機などを開発し、活版 印刷を始めましたが、協力者や金に恵まれず、 かえ ねん 1 囀 5 年ごろマインツへ帰りました。 ほ すぐ しよう ゴ一マ かつばんいんさつ 【活版印刷】 もじきざ きんぞくへん いちじ かつじ 活字 ( 一字ずつ文字が刻まれた金属片 ) を組み はつ はんつか いんさつ 合わせた版を使う印刷。グーテンベルクの発 いんさっしゆりゆう さいきん めいいらいなが 明以来、長らく印刷の主流だったが、最近は はんつくいんさっと か つか コンピュータを使って版を作る印刷に取って代 わられている。 しよくにん 18

2. 産業・技術人物事典

せいしよいんさつ グーテンベルクは、ようやく聖書の印刷にこぎつけたわ こうじようとうぐすべしやっきん・ , 、 とあ 工場も道具も全て借金のかたに取り上げられてしまった いんさつき グーテンベルクの印刷機。プトウしぼり き、 - 。かいりよう きほんてき 機を改良したものだが、基本的なしく ねんかんか いんさつ きようせいしょ みは 350 年間変わることはなかった。 グーテンベルクが印刷した 42 行聖書 せいしよ かんせい かつばんいんさつ はじ グーテンベルクが始めた活版印刷は、やがて 0 『聖書』の完成 ぜんどひろ ほんつく ねん 1450 年、グーテンベルクは、マインツの商人 ヨーロッパ全土に広まり、たくさんの本が作ら しきん いんさっこうじようせつりつ ぶんか れるようになりました。これによって文化や学 フストから資金を借りて印刷工場を設立し、 わかもの もんおお かやく らしんばん でし せいしょ しゆっ はってん シェッファーという若者を弟子に『聖書』の出 問が大きく発展したため、火薬、羅針盤ととも すうぶんしよう ばんと せいしょ さんだいはつめい 版に取り組みました。『聖書』はページ数も文章 に「ルネサンスの三大発明」といわれています。 ちが ぼうだい いんさつぶつ おお も、それまでの印刷物とはけた違いに多く、膨大 りようかつじ ろ、りよくつい ねん な量の活字と髣力が費やされましたが、 1455 年、 しゆっぱん いんさつ ついに印刷までこぎつけました。こうして出版 かつばんいんさつぶつ せいしょ された『聖書』は、今でも最古の活版印刷物の 1 っとして残されており、 1 ページか 42 行ある ぎようせいしょ ことから『 42 行聖書』と呼ばれています。 ところが、出版ま業が軌道に乗りかかった矢 先、グーテンベルクは工場から追い出されてし とっぜん かねかえ まいました。フストが突然、「貸した金を返せ」 いんさつき かつじ と訴えを起こし、工場はもちろん印刷機も活字 すべと も全て取り上げてしまったのです。 こうじようて その後、工場を手に入れたフストは、シェッ さまざま ほんしゆっぱんつづ ファーと組んで、様々な本の出版を続けました こうじようや ねんないらん が、 1462 年に内乱がおこって工場は焼け落ちて いつほうついほう じぶん しまいました。一方、追放にもめげずに自分で いんさつぎよう ないらん 印刷業を始めたグーテンベルクは、その後、内乱 こうせきみと だいしきようはつめい をおこした大司教に発明の功績を認められ、家 よせいす 臣に取り立てられて静かに余生を過ごしました。 しようにん がく をとうようをいんさつぎじゅっ ; 進んでいた東洋の印刷技術 ちゅうごく げんざいどうよう かみはつめい 2 世紀ごろに現在と同様の紙が発明された中国で もくはんいんさつおこな は、 7 世紀ごろから木版印刷が行われるようになっ ぎじゅっにほん ねん ひやくまん った た。この技術は日本にも伝わり、 770 年には『百万 さし、こ いんさつぶつ とうだらにきようねんだいとくてい 塔陀羅尼経』 ( 年代が特定できる最古の印刷物 ) が せいきちょうせん いんさつ 印刷されている。また、 1 3 世紀の朝鮮ではすでに きんぞくかつじつく 金属活字が作られており、クーテンベルクに先立っ かつばんいんさつおこな せいきこうはん にほん て活版印刷が行われていた。 16 世紀後半、日本に どうじかつばんいんさつった ちょうせんせいよう も朝鮮と西洋からほほ同時に活版印刷が伝わった。 せいき いま さい せいき ぎよう さきだ さき うった ふくげん ちょうせんどうかつじ いんさつき 復元された朝鮮の銅活字。まだ印刷機はなく、 てす つか バレンのようなものを使って手で刷った。

3. 産業・技術人物事典

こっきよう ねん さらに 1916 年には、スペイン国境 ほんかくてき よりのビアリツツに本格的なオー じようりゆうかいきゅうむ トークチュール ( 上流階級向けの高 きゅうしたてふくてんかいてん 級仕立服 ) 店を開店。やわらかなジ きじつく ち ャージー生地で作る、着心地のいい うわぎ ・つ ドレスやポケット付きの上着などで だいせいこうおさ しゆっし 大成功を収め、出資してもらったお じつぎようか かねへんさい けいざいてき 金も返済して、実業家として経済的 にも占立を果たしました。 きゅうせいちょう この時期、シャネルが急成長した はいけい ねんはじ だいいちじせ 背景には、 1914 年に始まる第一次世 かいたいせんえいきよう せんじよう 界大戦の影響もありました。戦場に じよせい 行った男たちに代わって女性が看護 ぐんじゅこうじよう はたら や軍需工場などで働くようになり、 じつようてきふく もと 動きやすい実用的な服が求められた のです。 0 トップデザイナーとして せん き おとこ か かん つ つね 戦後、シャネルの生み出すスタイルは、常に ちゅうもく まと かぎ 注目の的となります。パンツルックや限りなく とうじ シンプルなリトループラックードレスなど、当時 じようしき ざんしん つぎつぎ はっ やぶ つ の常識を打ち破る、斬新なデザインを次々に発 びよう 表。古い慣習から解放され、より活動的になっ かつどうてき かいほう ふるかんしゅう つか を使ったアクセサリーや その一方で、模造の宝石 もぞうほうせき いつほう 支持を受けました。 つ た女性たちから圧倒的な じよせい あっとうてき ふち みつつ はんたい しゅうい ばん ばくだい とみ その後シャネルは、 1954 年に 71 歳でファッショ ねん 長い休業に入ってしまいました。 ながきゅうぎようはい 大戦がおこると、周囲の反対をよそに店を閉め、 みせし たいせん 位に君臨し続けましたが、 1939 年に第二次世界 ねんだいにじせかい くんりんつづ こうしてシャネルは、トップデザイナーの地 ち になりました。 の 5 番」の大ヒットで莫大な富をもたらすこと ディガンスタイルのジャケットは、その後の定番となった。 こていはん シャネルースーツに身を包んだシャネル。縁どりをつけたカー かえ ン界に帰ってきましたが、 力、い とうしょ 当初ヨーロッパでの 1 ショルダー型ノ、ンドノヾ がた せい ッグなど、女性の じよせい 個性をひきたて ます。なかでも香 でま業を拡大し る服飾品 ふくしよくひん 水業は、「シャネル かいほう ふく じよせい 解放した。 ゆったりした服で女性を 1920 年代のシャネル ( 右 ) 。 ねんだい みき さんざん せんぜんか 評価は散々なものでした。戦前と変わらないス かん タイルが時代遅れと感じられたのです。 ひょうか じだいおく だいぜっさん みごとふっ しかし、ツィード製の機能的で上品なシャネ せい きのうてきじようひん 25 みが こうさい し ストラヒンスキーなど様々な芸術家でにぎわった。 さまざまげいじゅっか 画家のピカソやダリ、詩人のコクトー、作曲家の しじん さっきよくか 家たちに惜しみない援助を与え、彼女のサロンは、 お か かのじよ えんじよあた その一方で、事業に成功したシャネルは、芸術 じぎようせいこう いつばう げいじゅっ 磨き、大きな力を身につけていった。 ちからみ おお 貴族や実業家、芸術家との交際を通してセンスを とお きぞく げいじゅっか じつぎようか 恋多き女性としても知られるシャネルは、上流 こいおおしよせい じようりゆう 恋に生き、芸術家と交流したシャネル げいじゅっか いま は ています。 やデザインは、今なお多くの人々に影響を与え おお ひとびとえいきようあた アッション界の第一線で働き続け、その生き方 力、し、 だいいっせんはたらつづ 帰を果たします。以後、 87 歳で亡くなるまでフ さい な き ルースーツがアメリカで大絶賛されて見事に復

4. 産業・技術人物事典

すいりよぐまうせききはつめい げんはくちちょ 水力紡績機を発明した 原爆の父と呼ばれた アークライト ( リチャード = ) オッペンハイマー ( ジョン = ロバート = ) ねん ねん 1732 ~ 1792 年 1904 ~ 1967 年 さんぎようかくめいき はつめいか きぎよう りろんぶつりがくしゃ イギリス産業革命期の発明家、企業 アメリカの理論物理学者。ハーバー ほうせきぎようさか ちほう だいがくそっぎようご さいしんぶつ 家。紡績業が盛んなランカシャー地方 ド大学卒業後、ヨーロッパで最新の物 の鬢しい家に生まれる。理髪師として りがくおさ 理学を修める。帰国後、カリフォルニ ばうせきき はつめい はたら と ねん かんせい おし たいへいようせんそう 働きながら、紡績機の発明に取り組み、 1768 年に完成さ ア大学などで教えていたが、太平洋戦争が始まるとロ ばうせきこうじようけいえい けんきゅうじよしよちょうしゅうにんおお ねん かがくしゃ せると、紡績工場経営に乗り出した。さらに 1771 年に スーアラモス研究所所長に就任。多くの優れた科学者を どうりよくすいりよく たいりよういと こうりつよ ひき げんしばくたんかいはっと ねんせかいはつげん は、動力に水力を取り入れ、大量の糸を効率良くつむげ 率いて原子爆弾の開発に取り組み、 1945 年、世界初の原 せいこうおさ ばくじつけんせいこう げんばく ちち えいゆうし せん るようにして成功を収めた。それによって、職を奪われ 爆実験を成功させた。戦後、「原爆の父」として英雄視 ばうせよくにんこ覚ようおそ ねん じようききかん かくへいき すいばくじつけんはんたい ひろ た紡績職人に工場を襲われたが、 1790 年には蒸気機関を されたが、核兵器が広まるのを恐れて水爆実験に反対し ど、にゆう じぎよう かくだい こうじようせいきかいこうぎようかくりつ こうしよくお 入して事業を拡大、工場制機械工業を確立させた。 たため、スパイの容疑をかけられ、公職を追われた。 かくしん はつえきたいねんりよう うあ スポーッシューズを革新した 初の液体燃料ロケットを打ち上げた アドルフ = ダスラー ゴ、タ、一ド ( ロバート = ハッチングス = ) 1 900—1973 年 1882 ~ 1945 年 そうぎよう こうがくしやしようねんじ ドイツの企業家でアデイダスの創業 アメリカのロケット工学者。少年時 しやしようねんじだい とくい しようせつよ 者。少年時代からスポーツが得意で、 代にウェルズの SF 小説を読んで于宙に じぶん っく くっしよくにん がくせいじたい 自分に合う靴を作ろうと靴職人にな あこがれる。学生時代からロケットに ねんあに しようかいせつりつかれ きようみ そっぎようこ ぶつりがくきようじゅ たいがくおし る。 1920 年に兄とともにダスラー商会を設立、彼らの靴を 興味を持ち、卒業後は物理学教授として大学で教えな せんしゆっぎつぎ こうせいせきおさ にんきあっ じつけんすす えきたいねんりよう ねん せかいはつ はいたオリンピック選手が次々に好成績を収め、人気を集 がら、実験を進めた。 1926 年には世界初の液体燃料ロ ねんきようだい どくりつ あ ・せし、こう じつけんつづ しせいせい めた。 1948 年、兄弟がそれぞれ独立し、兄は現在のプー ケットの打ち上げに成功、その後も実験を続けて姿勢制 しやせつりつい どくりよくかいはつ せんこう か マ社を、アドルフはアデイダス社を設立。以後、取り替え 御装置などを独力で開発。フォン = プラウンに先行する 式のスパイクなど、々な新機能の発明、改良を重ねて ぎじゅっかくりつ 技術を確立していたが、当時のアメリカではほとんど評 ようひんせかいてき きずあ ねん みなお 価されず、死後 15 年をへてようやく見直された。 スポーツ用品の世界的なトップメーカーを築き上げた。 せかいはつでんちはつめい じつようか 世界初の電池を発明した ヘリコプターを実用化した ヴォルタ ( ァレッサンドロ = ) シコルスキー ( イゴール = ィヴァノヴィチ = ) ねん ねん 1745 ~ 1827 年 1889 ~ 1972 年 ぶつりがくしゃ ねんかいほう こうくうこうがくしゃ イタリアの物理学者。 1791 年に解剖 アメリカの航空工学者。ロシア生ま どうぶったいないでんき かいはつ 学者ガルバーニが動物の体内に電気か れ。 20 歳ころからへリコプター開発に あると発表すると、ら実験を行い、 しつばい 取り組んだが、失敗を重ねたため、飛 きんぞく どうぶつ かんけい ちがしゆるい でんき こうきせいさくてんかん ねんせかい はじ 動物とは関係なく、違う種類の金属がふれただけで電気 行機製作に転換し、 1913 年、世界で初めて 4 基のエンジ はつけん きんぞくえきたいあいだ でんき もおおがたひこうき かんせい かくめい がおこることを発見。さらに金属と液体の間にも電気が ンを持つ大型飛行機を完成させる。ロシア革命後、 1919 なが はつけん ねん こうくうがいしやせつりつひこうていせいさく ぬの ねん 流れることを発見し、 1799 年には、湿った布をはさんだ 年にアメリカに移住し、航空会社を設立、飛行艇の製作 あえんいた なんくみかさ でんち かいはついど はつめい はげ 銅と亜鉛の板を何組も重ねてヴォルタ電池を発明した。 に励んだ。その後再びヘリコプターの開発に挑み、 1939 でんきがくでんじきがくきゅう せかいはつでんち はつめい ねんりりくせいこう ねん たいくうきろく ふんかん この世界初の電池の発明により、電気学や電磁気学が急 年に離陸に成功。 1941 年には滞空記録を 92 分間にのばし、 でんあったんいポルトかれな げんざい はってん げんけい かくりつ 速に発展した。電圧の単位 v は彼の名にちなむ。 現在のヘリコプターの原型を確立した。 せつきやくじよせいこころ たく せかい でんしやはし 巧みな接客で女性の心をつかんた 世界で初めて電車を走らせた 工スティ = ローダー ソーメノス ( ェルンスト = ウ = ルナー = フォン = ) 1910 年ころ ~ 1 816 ~ 1892 年 じつぎようかおさな でんきぎじゅっしゃ そうごうでんきがい アメリカの実業家。幼いころから化 ドイツの電気技術者で、総合電機会 こうこうざいがくちゅう しようきようみ も しやそうぎようしやほうへいがっこう 粧に興味を持ち、高校在学中から叔父 社ジーメンス社の創業者。砲兵学校で けしようひんがいしやちょうごうほう ぶつり まな しかん っと の営む化粧品会社で調合法やビジネス 物理や科学を学ぶ。士官として務める 之社きゅうけしようひん ねんき ねんおっと でんしん を学ぶ。 1946 年に夫とともに局級化粧品メーカー、工 かたわら、優れた電信システムを完成させ、 1847 年に機 こうきゅうひやっかてんしゆってん そうぎよう 力、し一こう しやせつりつ ひんしつ ステイローダーを創業。高級百貨店に出店し、品質の 械工ハルスケとともにジーメンスーハルスケ社を設立。 あ こうはんいでんしんもう きすあ じつえんはんばい だんせい せい 良さと巧みな実演販売で冗り上げをのばす。また、男性 ロシアやイギリスなどで広範囲の電信網を築き上げ、成 じゃくねんそうむ こうおさ ねんはつでんき げんり はつけん 用の「アラミス」や若年層向けの「クリニーク」など多 功を収めた。また、 1867 年に発電機の原理を発見して新 しうん おく かっこくしんしゆっ はつでんき ねん せかい はじ でんしや かいはつ 彩なプランドを世に送り出すとともに、各国に進出し、 式の発電機を開発、 1879 年には世界で初めて電車の試運 せかいゆうすう けしようひんがいしやそだあ てんせいこう えいぎよううんてんはじ ねん 世界有数の化粧品会社に育て上げた。 転に成功し、 1881 年から営業運転も始めた。 ノ . . 07 か だいがく の と く うば 彡 ねん きぎようか ねん 7 、ちゅう も げんざい と よ し か がくしゃ かさ く と いじゅう ごふたた はじ ねん ねん かがく いとな かんせい まな よ た よ 44