取り出し - みる会図書館


検索対象: 蒼海 2018年
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1. 蒼海 2018年

私の七分の一 奈々子だけだよー」 たぶん誰にでも言う安っぽい言葉を私に向けて、簡 単に騙されてくれる彩子に心の中で感謝した。私は精 一杯残念そうな顔をしてみせて、手を振りながら彩子 に背を向ける。 夕方の七時を告げる腕時計をちらりと見て、胸の内 で湧き上がる期待を必死に静めた。 毎週金曜日、この時間から三時間、私は私じゃなく なる。 駅のトイレのドアを、バタンと閉じる。通学バック に無理やり詰め込んでいた紙袋を引っ張り出して、中 身を取り出した。 「う 1 ん、ちょっと皺になっちゃったかも : : : 」 からだ 私は独り言を言いながら、躰をひねらせて左腰に手 をやり、スカートのホックを外す。 うちの学校の夏服は、真っ白なシャツに赤い紐リボ ン、膝まですっぽり覆うグレ 1 のボックスプリ 1 ツの スカートという、地元で一位、一一位を争うほどダサい こんなもの、一秒でも早く脱ぎ捨ててしまいたい。 紐リボンの端っこをピッと引っ張って、シャツのボ タンもすばやく外す。クシャっと丸めて通学バックに 押し込んだ瞬間、鬼の形相をした母親の顔が頭をよ ぎったけれど、さっき紙袋から取り出したものが視界 に入り、すぐにそのことで頭がいつばいになった。 私は、恍惚とした表情でそれを目の前に広げる。白 のラインが三本入った紺色の襟がついた上服に、胸元 を彩る真っ赤なリボン。襟と同じ色のプリーッスカー トは、ウエスト部分を少し折り込むと、普段はスカ 1 トの下に秘められている膝が露わになるくらいの長さ こうこっ 0

2. 蒼海 2018年

蒼海 2018 年 りはしないがとりあえず呟いた。なるほど、なるほど。 私は心の中でこの町から消え、話題にも上らない自分 周りを見渡してみると、ハンバ 1 グばかりだった。つまの中の、自分だけの消えた思い出探しをすることに決め り自分は異端者だったわけだ。なるほど、なるほど。な た。固い決心とともに、箸袋から箸を取り出し、ハンバ るほどなあ、釈然としないが。 ーグを割る。そして、ロに含んで一一言。 ただ、同時に懐古主義的な自分の中のかび臭い古臭さ ハンバ 1 グ滅茶苦茶うまいなあ」 も感じた。物が変わるのは当たり前、ましてやメニュー はほかの者より余計に変わっていくじゃないか。 ハンバーグ & ェビフライのラン 改めて店員を捕まえ、 チセットを注文した後、水で一服。考えた。 気持ち悪い懐古主義できっと昨今話題になる老害と いうのはこういうものだろうと感じた。ただ、である。備考】グリル生研会館 誰の胸の内にも変わってほしくない、代わってほしくな 下鴨神社横の生産開発科学研究所ビル一階で商う洋 いものがある。生まれ育った町で気づかぬうちに消え去食屋。今年で六十周年を迎える老舗である。ちなみに生 ったものがあるはずだ。 研、とはこの生産開発科学研究所の略称である。文面で 到着したランチセットが運ばれてきた。ハンバ 1 グのはピラフはもはや失われたものの様に扱ってしまって ドミグラスソースは黒々として艶々しい。ェビフライも いるが、店主に聞いたところ、予約すれば材料を用意し 気持ちいいほどの立ちつぶり。 て作ってくれるとのこと。あまりの優しさに感涙。

3. 蒼海 2018年

蒼海 2018 ら。わたしは、現実世界の私以外のわたしに関するこ とは、すべて包み隠さず話した。彼もわたしに続いて、 よく通る涼しげな声で話してくれた。 現実の世界では、女の子であること。時に自分が女 の子であることに疲れてしまうこと。だからこんな風 に週に一度だけ、男の子として呼吸をするんだ。そう 言った彼の穢れのない笑顔が頭の中を過ったとき、聞 きなれない着信音が静けさの中に響き渡って、わたし ははっと我に返った。 わたしの話に耳を傾けていた彼は、慌ててカバンの 中から携帯電話を取り出して、申し訳なさそうな顔を する。 「ごめんな、ちょっと電話でてくる」 わたしたちが座っていた階段と正反対の階段まで駆 けていった彼を横目で見送ったあと、ふと開きつばな しの彼のカバンの中に視線がいった。黒いカードケー スの中に、生徒証が入っているのが見える。無意識に 手を伸ばしそうになって、慌てて姿勢を正す。 お互いの現実の世界には首を突っ込まないという ルールを決めたんだから。そう自分に言い聞かせたけ れど、やつばり誘惑には勝てなくて、おそるおそる手 を伸ばした。 彼の名前と高校名を、すばやくメモ帳に書き込む。 彼が戻ってくる足音がして、わたしは胸元のリボンを 直すふりをして、必死に平然を装った。 「たぶんこの角を左に曲がって : : : 」 地図を頼りに、見知らぬ土地をどんどん進んでい く。彼の通う高校は、私の住んでいる町から電車で一一 時間の場所にあった。 3