して去るべし 『世界には二通りある。最初に出会うものと、それ以外るたびに夥しい数のコメントと評価が付けられる。今や 2 彼はネット小説家として、その界隈では根強い支持を集 のものだ。』 緋野海児の運営するホームペ 1 ジのトップには、素つめ始めているのだ。 気ない字体で、そんな文言が小さく書かれている。彼の 何かの間違いでも、どこかで書籍化の話なんて持ち上 日々成しうることの多くと比べれば、それなりに意味のがらないことを、切に祈りたいものだった。その会社は わかるものではあると思う。少なくとも、私はそう思っきっと相当な難儀を強いられるだろうし、そもそも彼の ている。 小説が、手に持てる本になって書店に並ぶなんて、想像 バ 1 で作ったというそのプログするだけで目眩がしてくるようだ。 無料のレンタルサ 1 は、今でも一日に一度、必ず更新されている。開設して彼を知ったあの冬から、しばらくたった今でも、時々 一年も経っていないのにそこそこの人気があって、アク考えることがある。私達の前からああした去り方をして、 セス数は日毎に増えているようだ。 本当に彼は満足だったのだろうか。そもそも、彼を生身 で受け入れてくれる場所なんてあるんだろうか、この地 現実の事柄に関する記述はない。運営者のプロフィ 1 ルさえも空欄だ。タイトルと序文を除いた、それ以外の上に : 。しかし、当の彼自身が、そんなことを真面目 余すところなく全ての内容が、一定の骨組みに沿って記に考えはしないだろう、とすぐに思い直して、たちまち 馬鹿らしくなってしまうのだ。 述される虚構ーーーっまり、小説なのだ。 何十。ヘージにもわたる長編にも、三・四部構成の中編 にも、三分あれば読み終えるような短編にも、投稿され
京都ないものねだり 通りを走るバスの車中から今でもふと、表に目をやり、 あの美しくも迫力のある手描き看板の面影をどこかし らに探してしまうのである。 備考】京都の映画館 京都の映画館は一九〇八年の最初の映画館の誕生、そ して一九一〇年の京都八千代館という常設活動写真館 開館からその歴史の端を発する。それ以来歓楽街として 一八七二年に作られた新京極通が発展すると同時に京 都最大級の映画館街としてもその名を轟かせた。特にそ の絵看板が通りに並べられる風景は新京極の風物詩で もあり、通行人の目を楽しませたという。しかし、映画 というメディアの発信力が低下すると同時に閉館や統 廃合が相次ぎ、一一〇〇一年に近隣地区に誕生した大型シ ネマコンプレックスに客を取られる形で更に窮地に追 い詰められた。こうして娯楽の街、映画の街として知ら れた新京極から老舗映画館は姿を消し、今ではその居抜 き物件としての姿を今に残すのみとなった。 ( 了 )
述して去るべし 「えっ ? 」 穴のようにぼっかりと開いていた。 「はは、ありがとね。ほんとに、ね」 声を上げそうになる私を、菊ちゃんの手が制した。既 菊ちゃんは不意に体を離すと、いつも通りの明るさでに寝間着を着こんでいて、虚ろなケージの横に腰かけて 笑った。 いた。私も、菊ちゃんの横にいそいそと三角座りになっ 「葉ちゃんが来てくれたから、もう大丈夫。ちゃんと歩た。 けるからさ。葉ちゃんはそのままそこで脱いで、体あっ 隙間風が渦を巻いて、私達の後ろを通り抜けた。 ためてなよ。ちょっと休んだら着替え、持ってくるから」 「 : : : 最初に会った時、あいつ、いきなりあたしを見て もう、何も変わりないように見えた。水を吸った私のたんだ。店の中に人った時から、なんだかすつごい首元 服を抱えて、菊ちゃんが浴室を出た後も、私はそのままがちりちりする感じがして、気が付けばあいつが見てた。 立ち尽くしていた。 : 密かに思ったことがあるんだ。こいつは自分から進 んでこんなところにいて、人ごみの中から何かを見出そ うとしてたんだ、って」 「 : : : 見出すって何を ? 」 「わかんない。単にカワイイ飼い主を探してただけかも」 「シュミ偏ってる。お猿なのに」 「こら」 浴室から戻ると、ケージはあっさりと開け放たれてい て、何者もそこには居なかった。玄関の小窓が、夜の風何となくひねくれたことを口にしたら、案の定、軽く ◇ 0 4
蒼海 2018 ら。わたしは、現実世界の私以外のわたしに関するこ とは、すべて包み隠さず話した。彼もわたしに続いて、 よく通る涼しげな声で話してくれた。 現実の世界では、女の子であること。時に自分が女 の子であることに疲れてしまうこと。だからこんな風 に週に一度だけ、男の子として呼吸をするんだ。そう 言った彼の穢れのない笑顔が頭の中を過ったとき、聞 きなれない着信音が静けさの中に響き渡って、わたし ははっと我に返った。 わたしの話に耳を傾けていた彼は、慌ててカバンの 中から携帯電話を取り出して、申し訳なさそうな顔を する。 「ごめんな、ちょっと電話でてくる」 わたしたちが座っていた階段と正反対の階段まで駆 けていった彼を横目で見送ったあと、ふと開きつばな しの彼のカバンの中に視線がいった。黒いカードケー スの中に、生徒証が入っているのが見える。無意識に 手を伸ばしそうになって、慌てて姿勢を正す。 お互いの現実の世界には首を突っ込まないという ルールを決めたんだから。そう自分に言い聞かせたけ れど、やつばり誘惑には勝てなくて、おそるおそる手 を伸ばした。 彼の名前と高校名を、すばやくメモ帳に書き込む。 彼が戻ってくる足音がして、わたしは胸元のリボンを 直すふりをして、必死に平然を装った。 「たぶんこの角を左に曲がって : : : 」 地図を頼りに、見知らぬ土地をどんどん進んでい く。彼の通う高校は、私の住んでいる町から電車で一一 時間の場所にあった。 3
私の七分の一 「それでね、昨日の部活終わった時にさ、松本先輩が ボールの片づけ手伝ってくれたんだよ ! 」 あやこ 学校からの帰り道、私の左隣を歩く幼馴染の彩子が、 今にも飛び上がりそうな勢いでまくしたてる。反応が ない私をよそにして、彼女は憧れの先輩の話を続けた。 この話を聞いたのは、今日一日だけで四回目。昨日 現実の世界に、うんざりしていた。私が私であるこ とにも疲れてきた。雑誌に載っているわけのわからな い流行のモノと、つまらない噂を常に片手に持って、 醜い笑顔を張り付けながら、嫉妬と自尊心から作られ た女の子たちと話を合わせるくらいなら。 もう私は現実から逃げ出すの。 の部活の帰り道と夜中の電話もカウントしたら、六回 さすがに勘弁してほしい。私はロをついて出てきそ うな言葉を必死に飲み込んで、祈るように彼女の横顔 を盗み見る。さっきまで嬉々とした表情でまくしたて ていた彩子は、いつの間にか打って変わってどんより とした顔つきをしていた。 あ、またか。嫌な予感が身体中を駆け巡り、私は瞬時 に身構える。案の定、彩子の口から出てくる言葉は、私 を不快にさせるのに十分なものだった。 すすか 「せつかく先輩と一一人きりになれたのに、急に涼花が 割り込んできてさ。この間も彩子ちゃんに片付け任せ ちゃったから、今日は私も手伝うよ、だって」 彩子は嫌味たつぶりに涼花の声真似をしてみせたあ と、同意を求めるように、私の横顔に鋭い視線を向け ここで私が涼花の肩を持つような発言をしたら、彩 8
蒼海 2018 年 横合いからの、ちょっと言い訳じみた響きを帯びた説 明が、ひたすらにありがたかった。中身の方ではなくて、 普段からよく聴き慣れた声の方だ。 硬質で軽やかな短い音が、ひたすらに淀みなく流れ続私に話しかける声の主ーー野島菊は、三つ年上の従姉 けた。誇示する様子も停滞する様子もなく、そのリズムにあたる。豪快で大雑把な内面に反して、彼女の発する は律々と空間を支配しきっていた。だんだん頭の中の脈声には、いつも硬さや鋭さがまるで見当たらない。のど がそれに順応していくような気がして、私は思わず耳をかなアルトを含んで、常に柔らかく間延びした菊ちゃん 塞ぎたくなったが、人目がある手前そうもいかなかった。の声を、私は昔からたまらなく好いていた。 目の前の光景を私に現した張本人でなければ、そのま 冬の昼間のアパートの一室。六畳間の片隅を私は覗き 込んでいる。足の裏に触れる畳の柔らかさも忘れるくらま安心のあまり泣きついていたかもしれなかった。 艮一 ) , い対ヒ一、ソ一コノ人、ガレい , ーザ 1 ーの」、 , 一」こ「、 いに、私は凝視している。目か宮セなかったし、目タ もあるかのように微細な振動を続けていた。キーボード の体だってろくに動かせそうにはな、 「こんだけ図体大きいし、煩くして大家さんに見つけらがとても速く、なおかっ弱いカで打たれ続けているせい れたらぶっちやけアウトなんだけどさ。まー見ての通り 小さな手と小さな指先が休みなく、迷いなく振り下ろ ちょっと変わった奴だから、その心配はないんだ。いや 、インドアな葉ちゃんと気が合うかなーって思ったんされ続けた。ピンク色に浮いた五指の動きが、明確に意 味を持ったそれであることが、辛うじて分かった。そし だけど」 ◇ 9 ワ 1
京都ないものねだり 映画館の手描き看板 れた大判の手描き看板だったように感じる。 京都は河原町といえば昔から映画館が乱立する一大 この頃はコンピュ 1 タグラフィックスの技術も目ま歓楽街であった。特に三条と四条、それに寺町通と河原 ぐるしい進歩を続けており、全くどこからどこまでが現町通りに囲まれた地区の映画館の多さといえば尋常で 実なのかが曖昧になってきた。例えばテレビのコマ 1 シはなかった。 , 往年の京都地図を見てみると、その数の多 ャルを見たときに飲料水などに関わるシ 1 ンなどではさに仰天する。なんとこの狭い区画内だけで二十六館を 水が縦横無尽に飛び散る瞬間が再現されるがああいっ確認することができた。とはいえ、その脅威的な数字を たものも全てそうしたコンピュ 1 タグラフィックスだ打ち出していた時期はオリンピックだ万博だと日本が というのだから驚きだ。いわんや映画をや、である。映敗戦国から一等国へ成り上がろうとしている頃の京都 画のそうした技術は特に目を見張るもので、先日見に行の景色であり、私が覚えている映画館達は衰退の一途を ったスティープン・スビルバーグ作品などでも存分に使たどっていた。この頃の寺町通にはとうとうシネマコン われており、現実には再現不可能な映像を我々観客に届プレックスができるかできないかという時期だった。確 け続けているよ一フに思う。 か幼稚園の卒園頃か小学校に入学した頃にはそうした こうした甲という対象と乙という甲を模した対象と新型の映画館が京都に開館していた気がする。 が見分けられなくなり、頭の中がモヤモャする経験は誰近年の映画館がどことなく合理化しすぎて味気ない にでもあることと思う。ではそうした経験のきっかけはように感じるのは小さな時分にお世話になった映画館 いっ頃始まっただろうか・私の場合は映画館の表に飾らの影響があるのかもしれない。当時私の親は映画を見て
蒼海 2018 子はどんな顔をするのだろう。瞬く間に私の隣から姿 を消して、今度は私が涼花になる。 でも、もうそれでもいい気がしてきた 時折こんな風に投げやりな気持ちになるけど、結局 いつも彩子の焼けつくような視線に負けて、私は鉛の ように重たい口を開く羽目になるのだ。 「そうだよね : : : 。涼花ってたまにそういうズルいと ころあるよね」 「そう ! やつばり奈々子はよくわかってる ! 」 彩子は一段と大きな声を出し、私の左肩をバシンと 強く叩いた。痛いよ彩子、と苦笑いで抗議しながら、私 は心の中に暗い影が差すのを感じていた。 涼花の悪口を言ったって、何も解決するわけじゃな い。彩子の嫉妬心が、ほんの少し紛れただけで。実際、 彩子は満足げな顔をしながら、再び松本先輩の話を始 めていた。 何で私は他人を満足させるために、思ってもいない、 求められた答えを出さなきゃならないの ? 口を開け ば不満と悪口ばかりで、生物学上で女と分類される もの 人間すべてに嫉妬して。そんな彼女たちを嫌悪すると 同時に、自分も彼女たちと同じ女であるという事実に、 これまで何度も打ちのめされてきた。 私はやつばり現実で生きていくには、圧倒的に何か が足りないのかもしれない。進んでいるのか止まって いるのかわからないくらいの彩子の歩調に合わせて歩 いていた私は、びたりと足を止めた。 「奈々子どうしたの ? 何か顔色悪いけど」 突然足を止めた私に気づいて、彩子はやっと先輩の 話をやめた。私は残っている力を振り絞って、につこ りと笑顔を向ける。 「大丈夫だよ。今日は本屋による予定があったなあっ て思い出しただけで : : : 」 「あ、じゃあ行っておいでよ ! 今日はいつばい話聞 いてくれてありがとう。こんなに話聞いてくれるの 9
蒼海 2018 私はさっきと対照的に、それらを慎重に身に纏う。 ちょっと左右によろけながら、片足ずっ黒いハイ ソックスをはいて、後ろでひとつに縛っていた黒髪を 解き放った。私は荷物を引っ掴んで、トイレから飛び 出す。 夜はさっきよりも深くなっていて、ネオンがいっそ う存在感を増していた。 「やつばりこっちは、居心地がいいな」 ここにいる人たちは、私のことを知らないし、今は 私がわたしであることさえ知らないのだ。その事実が、 わたしをどうしようもなく高揚させた。 夜の街のにおいを思いっきり吸い込んで、虚構の世 界に溶け込んでいく。 赤レンガで作られた花壇に悠然と腰かけて、何だか 小難しげな書籍に視線を注いでいる彼の姿を見つけた わたしは、行きかう通行人を押しのける勢いで彼に駆 け寄る。 ローファーが地面をテンポよく叩く音に気づいた彼 は、切れ長の目で射止めるようにわたしを見て、につ こりと微笑んだ。 「ナナコは、いつも駆け足だな」 夜に溶け込みそうなほど真っ黒な学ランを身につけ ている彼は、真夏だというのに少しも暑い素振りを見 せず、いつものように涼しげな声を出した。 「そ、そんな、そそっかしいみたいに言わないでよ」 彼とは、もう片手で数えられないくらい顔を合わせ ているはずだけど。今でも彼を目の前にすると、どう しても緊張してしまう。 : 彼の現実の姿が、女の子だとわかっていても。
私の七分の一 わたしの知らない彼を、もっと知りたくて。 ただその一心で、彼とのルールを破って今日はここ まで来た。 「ここをまっすぐ行ったら : 。あれが校門かな」 地図から顔を上げて、校門の位置を確認しようとし た時、ちょうど校門から二人の女の子が出てきた。聞 き覚えのある声がスッと耳を貫いて、わたしはとっさ に近くにあった塀に身を隠す。 あれは、間違いなく彼だ。 数日前に目にした彼の生徒証の顔写真を、目の裏に 描き出してみる。何度確認してみても、今数メートル 先を歩いている女の子は、彼に違いなかった。 今にも胸を突き破りそうな心臓を、胸の上からゆっ くり撫でる。 盗み聞きをするつもりは全くなかったのだけれど、 彼の良く通る声は一音漏らさず全て、わたしの耳に注 がれていく。 信じたくなかったけれど、彼は私なんかよりずっと 上手に女の子を務めていた。根も葉もない噂も、雑誌 に載っているような流行の洋服の話も、ぜんぶぜん 上手くできないからって、いつまでも逃げていたの は、私だけだった。彼は彼なりにちゃんと向き合って いるのに、私は虚構の世界をただの避難場所として、 自分を甘やかしていた。 自分の愚かさに気づいたわたしは、とてつもなく恥 ずかしくなって、その場から逃げ出した。 初めて訪れた場所だというのに、地図を見ることな くひたすら走って逃げてきたわたしは、最終的に港に ヾ 0 4