し読むようになってから、タイニン、ショウニンと読むのだということがわかった。しかし、普通 はロに出して言う必要がないから、心の中ではオトナ、コビトなどと読んでいても一向にかまわな いわけである。正しい読みはと聞かれて答えられる人は昔でも少なかったのではなかろうかそう いうこともあってか、最近は「大人」「子ども」という表示か多くなっている 会議で、ある議案を出すことを「発議」というか、これをホッギという人もあり、ハッギという 人もある。辞書でも、現在では両方の読み方を認めているものが多い若い人がハッギというのを 聞いて、内心ではホッギと言ってもらいたいと思う年配者や、逆にホッギというのを聞いて古めか しい言い方だなと思う若者もいるだろうか、どちらにしても意味は通じるので、文句をいう人はま このように両様の読み方か通用している語ははかにもいろいろある すいない 「発議」は「発」を漢音ハッと読むのと、慣用音ホッと読むのとの違いだが、音で読むのと訓で 読むのとの違いという場合もある。「明日」のアスとミョウニチ、二夜」のヒトヨとイチャなどが それである。音読みの方がやや改まった固い表現であることが多いか、どちらの読み方をしてもか まわない、従って読みが決められないこともある。漢字で書かれているものを読むとき悩まされる 間題である 清濁についても厳密でないことが多い例えば、人の姓で「中島」はナカシマかナカジマか、「前沢」 はマエサワかマエサワか、「高田」はタカタかタカダかということは漢字を見ただけではわからす、 その人に尋ねるはかはない。ナカジマさんと呼ばれて「ナカシマです」と読みをただす人もいるが、 9
辞書を読むことの好きな人は存外沢山ゐる。自分の知ってゐる人の中でも、大抵な小説より 字引を読む方が面白いと云ふ人が、少なくとも五六人はある 断って置くが、これは勿論実際上の目的ばかりで読むのではない。詩人や小説家の中には、 単に字面の美しい、調子の滑な語をさがす為に、字引を読む人が大せいゐる。が、これは字引 を読む人の中では、寧ろ小乗嘗糞の徒に属するらしい はんたうに字引を読む人は、字そのもの、語そのものが面自くて、読むのである。云はば植 物学者が温室へはひったやうな心もちで、字引の中を散歩すると思へば間違ひないかう云ふ 人は、あをざけ ( ※「あをだけ」の誤植 ) ーあをだまーあをちーあをちくーあをとーあをとか げと云ふやうな語の序列を感心したり、微笑したりしながら、眺めて行く。読んで行くと云ひ たしか、どうも眺めて行くと云ふ方が適切なのだから、仕方がないさうして珍しい語に逢着 二一口 典すると、子供が見たことのない花を見つけでもしたやうに嬉しがる。その時は字面、調子、語 語 原、用例などが、蘭科植物の葉や蔓や花のやうに、いづれも妙な匂を漂はせ〔るのに相違ない 国 レ」 介 龍その行の変わるところで、「小乗嘗糞の徒」というような難しい言葉が使ってありますが、これは、 荊「非常に見方の狭い、何かものにへつらうような人」という悪口の表現です。さっき「あをざけ」 2 と書いてあるのは、「あをだけ」だと直しましたが、実はこの「あをだけ」、「あをだま」、「あをち」、 235
が挙げられる。『邦訳日葡辞書』によってその項を引くと、 ( ローマ字以外は縦書きにして示す ) 〇 Bunin, プニン ( 無人 ) Fitonaxi ( 人無し ) 人が少ないこと とある。これによるとプニンは人が全くいないというのではなく、人が少ない、人手があまりない という意味と受け取れる。明治以降のプニンの例を挙げると、 〇私が都合が出来ると、些と来てゐて世話をして上げたいのだけれど、内も無人でね : ・ ( 尾崎紅 葉『多情多恨』前・四・二、明治四年 ) 〇無人で食事の世話まではして上げることは出来ないが ( 田山花袋『田舎教師』一四、明治年 ) 〇もとからの自分の持家だったのを ( 略 ) 父が死んだので、無人の活計には場所も広さも恰好だ らうといふ母の意見から ( 夏目漱石『彼岸過迄』停留所・二、明治年 ) 人 右に三例示したが、すべて人手が足りないというような意味で使われている。そうなると人の住ん レ」 でいない島をフニントウとは言いにくいということになりそうだ。 無人のいないことをいうムニンの確かな例は、今のところ明治以降のものばかりである 4
典「あをちく」、「あをと」、「あをとかげ」というのは、『言海』の見出しの順番なのです。ですから、 語これが『言海』だということは、この並び方ですぐに分かるんですね。 この『辞書を読む』というのは、芥川龍之介か何か自分の知り合いとか友人とかにこんな人かい 学 代る、というふうに書いていますけれども、私が読み取るところでは、これは龍之介自身だと思います。 近 ですから、芥川龍之介は、『言海』というのを非常に楽しみながら、引いたというよりは、読んで 講いたのではないかと思うんです。読んでいないと、「猫」というところで、おもしろい説明かある なんて指摘できないはすなんですよね。「猫」なんて引かないでしよ、普通の人は。結局、頭から『言 海』を読んでいった人でないと、見つけられないようなところを見つけて皮肉ったりしているとい うことは、この『辞書を読む』の中に出てくる人物は、実は作者自身であると私は思います。 この文章は、辞書を作っている人間にとっては、非常にありがたい芥川龍之介の意見なんです 実は、辞書を読むという人か少ないのではないか、辞書は必要があって引くのであって、必要がな ければ見ないものだと思っている人が多過ぎるのではないか、と思うんですね。辞書というのは必 要がなくてもときどき読み物として読むということかあっていいのではないか、それに耐えられる ような辞書が本当こ ) ( しい辞書ではないか、と思っています。ですから、そういう点では、皆さん方 にもときどき読んでいただきたいと思うわけです 数年前のアンケ 1 ト調査ですと、本を読むときたびたび辞書を使うという人は、五、六 トしかいません。書く時に使うという人が、四十パーセントくらいになるんですね。ところが、そ 236
3 「とても」と「全然」 ( ついて の四十パーセントの人は、いったいどういう目的で使うかというと、漢字を確かめるという目的で 使う人が、だいたいそのまた五十パーセントくらい。意味を知るために引くという人が、三十二パ ーセントという結果になっているんです。ですから、意味を知るためにという人もいるにはいるは すなんですが、それでも三十二パーセント程度ですから、日本人はわりあい辞書を引かない、読ま ないということになると思うんです 3 「とても」と「全然」について 龍之介の話に戻りますか、こういうふうに辞書を楽しんで読んだりしている龍之介でしたから、 言葉についてもいろいろ関心がありまして、先ほどの随筆集の『猫』の前に出てくる、『とても』 という文章があります。この『とても』は、国語学をやっている人にたびたび引用されたりしてい こる有名な部分なんですが、ちょっと読んでみます 「とても安い」とか「とても寒い」と云ふ「とても」の東京の言葉になり出したのは数年以 前のことである。勿諭「とても」と云ふ言葉は東京にも全然なかった訳ではないか従来の用 法は「とてもかなはない」とか「とても纏まらない」とか云ふやうに必す否定を伴ってゐる イの「とても」は三河の国あたりの方言であらう。現に三河の国の人のこのお 肯定に伴ふ新流彳
がはかにないだろうかと、少し探しまくったのかも知れません。『続春夏秋冬』というのは、明治 時代にこんな小さな本で出ているんですが、『続』ではなくて『春夏秋冬』というのもありまして、 それは正岡子規が明治時代の人の作った俳句を、春、夏、秋、冬の部に分けて編纂した句集なんです それに続いて河東碧梧桐が集めた句集が、この『続春夏秋冬』なんですね。その『続春夏秋冬』 確かに芥川龍之介が引いている「市雛やとても数ある顔貌」が載っています。「市で売っている雛 人形、それは非常にいろんな顔形のものがある」というんで、「とても数ある顔貌」としているん ですが、この「とても」は、「とても寒い」と同じように、「非常に」という意味ではないかとい うように龍之介は述べているわけです。だけど、やはりこれは方言からきたのではないかという考 えは捨てきれないらしくて、この「とても数ある顔貌」という俳句を作った人は、どこの国の人で あろうかと最後に言っているわけです。これを作った人の出身地が分かったらば、そこから東京へ て 「とても」という言い方が人ってきたのではないか、と考えようと芥川龍之介はしているわけです っ 『広辞苑』の編纂をしました国語学者、言語学者の新村出さんという方がいますが、この人がこ 然の芥川龍之介の書いた『とても』に目を付けて、「とても」について少し研究をされたんです。そ れで、『山言葉』という題名で新村さんが書いている文の中に、こういうことがあるんです。これ A 」 かまた甲斐の国といくらか関係があるんです て レ」 3 近年日本アルプスあたりの山言葉から出て都会にも広がり急速に新代の人々に普及した言葉づか
読まれるとい、つことだろ一つか み な〇「輸人」は「ゆにふ」「しゅにふ」どちらにも説明があるが、「輸出」は「ゆしゆっ」も「しゅ 多 しゆっ」も載っていないという不備がある う③について ま〇「輸人」は「ゆにふ」の見出しの項で〔本音しゅにふ〕と示し、「しゅにふ」の見出しも別に を ある。一方、「輸出」は「ゆしゆっ」の見出しの項に〔本音しゆすゐ〕と示しながら「しゆすゐ」 の の見出しはないという不統一が見られる 二一口 町〇「運輸」は「うんしゅ」か主で、「うんゅ」の見出しでは「うんしゅノ百姓ョミ」としてある 章④について シュ 5 ともに認めて同じような説明が付せられている 第〇「輸出」「輸人」はユ 5 〇「運輸」は「うんしゅ」が主たる見出しになっていて、「うんゅ」では、「うんしゅ」の転訛と 説明している ⑤について 〇「輸人」は「しゅにふ」「ゆにふ」ともに立てているが、「しゅにふ」には「誤りて、ゆにふ」 とある。一方「輸出」は「ゆしゆっ」の見出しだけあり、「しゅしゆっ」はなく、「輸人」の処 理と異なっている 〇「運輸」は「うんしゅ」の見出しがあるだけで「うんゅ」はない。「輸出」とは逆の処理で、「輸
驀三辞典の役割 国語辞典で、新語や流行語の取捨はどのようにするのかと聞かれることが時々ある。常識的には、 年々出現する多くの新語のうち、今後も相当長い間使われると推測されるものを選んで採り人れる 新というような答えになるだろう。しかし、何十万項も収める規模の大きな辞書では、どんな言葉も 章載っているというのが理想だから、可能な限り人れることにしていると答えたい。たとい、二、 第年で消えてしまう流行語でも、何十年か後に、その語の使われている読み物を目にした人が、どう いう正体の語か知りたいと思ったときに役立つようにしておきたいからである。ただ、大きい辞書 の問題点は、短い期間でたびたび増補するということが困難なことにある。現在のように物事の変 化が激しく次々と新しい事象が生じると、新語の発生も多くなる。新聞、ラジオ、テレビなどの発 達により短期間での流行語の消長もはなはだしい。その点、あまり小回りの利かない大辞典はそれ に追いついて行くことがむすかしいという事情がある。そこで、この穴を埋めるべく新語や流行語 を集めた辞書が作られることになる 明治になって西欧文化がどっと人ってきて学問のあらゆる分野で新しい言葉を作らざるを得なく なった。このため、明治時代には外国語との対訳専門用語辞典がたくさん作られた。これらは、 わば当時の新語辞典であったと一言える。しかし、それはなにぶん一般の人には極めて縁遠いもので あり、多くの人のロにのばるような新語を集めた辞書が現れるのは大正初期である。以後、昭和十 三ロ 130
②群集ー「ぐんしゅう」はヌエ的な読み ? 『福翁自伝』の「緒方の塾風」の章に、 ①塾中の書生に身なりの立派な者は先づ少ない其くせ市中の縁日など云へば夜分屹度出て行く、 ぐんしふ 行くと往来の群集、就中娘の子などはアレ書生が来たと云て脇の方に避ける其様子は ( 一〇二 ②火の周囲だけは大変騒々しいが火の中へ這人ると誠に静なもので一人も人が居らぬ位、どう ぐんしふ もない只其周囲の処に人がドャドャ群集して居るだけである。 ( 一二五ページ ) 右のうち①では「群集」をグンシュウとし、②ではグンジュウと読ませている。これはどちらか一 方が誤りなのだろうか現在はグンシュウと読むのが普通だから、②の読みはおかしいと思うかも 集しれないが、明治時代にはグンジュウの例がほかにも見られるのである。また、①は名詞で人々の 集まり、②は動作性の意味で大勢が集まることだから、意味の違いで読みを使い分けたのではない 部かと思う人もいるかもしれないしかし、次のような名詞用法でグンジュウの例もある。 3 〇かくの如き群集の中にお住居なされる足下なればまた他の人々の心をはかりてその妨害とな ぐんしふ
『源氏物語』の言葉、せいぜい時代が下がっても、『徒然草』の言葉というくらいまでで、それ以後 の言葉というのは、あまり取り上げられもしないし、したがって実例としても載せてないというの が、国語辞典の状態であったわけです。 その時代はすいぶん長く続きまして、先ほど御紹介いただきました私の祖父松井簡治のやりまし た『大日本国語辞典』も、江戸時代の言葉までは、不十分ながらも人れてありますし、そこに江戸 時代の実例が添えたりしてありますが、そこまででして、現代語が人れてあっても、現代の実例に は及んでいないわけなんですね。それは、おそらく明治の頃の人は、「明治時代の言葉なんていう のは分かり切っていて、今更説明するまでもない」、「今使っている言葉の実例なんてあまり価値は ない、だれだって分かるじゃないか」という考えが一つにはあったと思います。それで、国語辞典 というのも、近代文学は非常に軽視されてはとんど取り人れられないまま終戦になってしまったわ けです。 それで、これはおかしいのではないかというふうに考えまして、私どもがやりました『日本国語 大辞典』という一一十巻の辞典では、初めて近代の作品からもたくさん言葉を取り人れて、実例もそ れに添えたわけです。それ以後、最近では金田一春彦さんと池田弥三郎さんの名前で出ております 『学研国語大辞典』は、現代作家にまで及んで新しいところの作品をすいぶん実例として使ってい ます。そういうことがだんだん行われるようになってきているというのが現状なんです。 227