る。私もそのとおりだと思うし、そうであるとすれば、地方振興のための条件が何であるか、答 えも自ずから出てくるはずである。 岐阜県が日本の真ん中 」関東から東北については、少なくとも戦前については、地方圏のなかでは順調に人口が伸び ている。この原因のひとつは、江戸時代後半の人口減少の反動ということかもしれないし、寒冷 地での農業に向いた品種の改良が進んだということでもあろう。また、西日本の人間ほど、東京 へ出て行く意欲がなく、そのひとつの理由が明治体制について東北などの人が時折主張する、薩 年長土肥支配体質ということだったのかもしれない。 〇しかし、これらの地方は新政府が東京に置かれたことのメリットを、農産物の出荷や出稼ぎな のどのかたちでフルに利用した。優遇されたはずの西日本の人口が同時期に減少しているのと比較 本しても、少なくとも結果的には、明治体制のもとでこの地方が冷遇されたわけでないことがわか とる。 島 列一方、北陸の各県は比重低下が著しい。江戸時代に盛んに開拓が行われた結果、開発余地が小 日 さくなったこともあるだろうが、より根本的には海路米を関西へ運ぶことで成り立ってきたこの 二地方の経済が、陸上輸送の時代にあって優位性を失い、その陸上輸送は豪雪地帯であるがゆえの 第 不利がっきまとい、しかも市場である関西の地盤低下が追い打ちをかけたということかと思う。
なれる医学部の人気が急上昇したのも当然である。主要な大学で医学部が最難関になったのは昭 和四〇年ごろだが、その結果、戦後生まれの世代においては、全国的にも優秀な人材、とくに理 科系のそれは極端に医学部に偏ることになった。 ここへきて、昭和四〇年代後半以降に進められた医学部の大増設の結果、どうやら医師過剰状 況も生まれつつあり、相対的には医学部の人気も下降気味のようであるが、それでも地方におけ る医学部指向には根強いものがある。これは、地方においては、故郷にとどまりたいと考える人 間にとって、医学部と他の選択とのギャツ。フが収入という面からも、名誉という観点からも大き すぎるからにほかならない。 力なり人材を地方にとどめることに貢 そうしたなかで、地方公務員の人気が上昇したことは、、 献したといってよい。地方公務員の給与水準についてはいろんな批判もありうるが、ともかく地 き方で良質の職場が提供されたということは、それなりに評価されるべきことなのだ。 にそれはともかくとして、これから、地方が人材を確保するためには、学校秀才についてだけで 台 舞よ、・、、優秀な人材のスケールにあった職場を地方に創り出す必要があろう。そのためには、、 界ろいろな工夫があると思う。 世 たとえば、通常よりかなり条件のよい奨学金や留学資金を卒業後、地元へ戻ることを条件に用 八意するというのも一案である。それは、東大や京大といった一般的な大学を対象にしてもよい し、東京芸術大学でもいいわけである。留学ということなら、もっと広い分野が可能であろう。
万の新潟で、兵庫、愛知、広島、大阪と続き、東京が一〇七万で六位、そのあと、千葉と福岡も 一〇〇万を越していた。最低は、まだ琉球王国時代で正確な統計がとれなかった沖縄とか、開拓 が始まったばかりの北海道を別にすると、鳥取の三六万であった ( ここではすべて現在の境界を前 提としている ) 。 それが、現在ではどうなっているかというと、全国平均 ( 三・六倍、ただし沖縄をカウントしない ) より高い伸びをしているのは、案外少なくて、北海道、神奈川、東京、大阪、埼玉、愛知、千 葉、福岡、兵庫、宮城、静岡、それに沖縄が入るくらいである。逆に、伸びが一番小さいのは島 根県で、六三万が七九万に増えただけで、わずか二六パ ーセントの増加。全国シェアは、一・九 1 セントから〇・七パ 1 セントに落ちている。 さて、ごく最近の動向はあとでまた触れるとして、とりあえず、以上のようなデータに基づい て近代日本の人口地域間移動を概観するとどういうことになるだろうか。まず、最初に目だつの は大都市およびその周辺部への人口集中である。しかも、その原動力となったのは、工業ではな く第三次産業的なもの、とくに官公庁ではないか、という感触が出てくる。 冒頭で紹介した ( 株 ) 社会工学研究所のレポートでも、「相関分析の時系列別結果を学際的に 解釈した」結果として、人口の地域分布の要因からみて古代から中世にかけては農業主導時代、 江戸時代は都市集積主導時代だったのに対し、明治以降は行政権主導時代で、公務員の配置状況 が人口分布を決める最強要因であり、しかもその傾向はますます強まりつつあると明言してい
発法」とかいうのが制定されて「〇〇地区」が定められるというのは、アメリカのをモデ ルに昭和二六年に開始された「特定地域」が最初である。しかし、日本に統一国家が成立してか ら千数百年のあいだ、やはりそれそれの時代の地域開発策があった。 中国の制度を導入して、七世紀から始まった律令制のもとでは、国・郡・里という地方自治制 度が確立され、行政の中心としての国府や、宗教・文化センターとしての国分寺が設立された。 広域プロックの考え方もあったようで、北陸、東海、東山、南海、山陽、山陰、西海の七道が置 がんじんわじよう かれたし、唐から鑑真和上が来日すると、僧侶の資格を与えるための戒壇を奈良東大寺だけでな 、太宰府観世音寺、下野薬師寺にも置いた。 年土地は当初、「班田収授法」により国有化を図ったが、やがて人民に分け与えるべき農地が不 8 足したので、「三世一身法」や「墾田永世私財法」により民活方式による開発を進めることにな のった。その結果、貴族や社寺の所有になる荘園が成立し、地域運営のひとつの単位として重要な 本意味をもつようになっていった。 日 と鎌倉時代には武士が守護や地頭として各地におかれたが、荘園制など古代社会の秩序と共存し たままで、警察兼軍隊の性格が強く、統一的な地域開発策は弱体であ 0 た。それが、室町時代後 日 期になると幕府の力が弱体化する一方で戦国大名の領国支配が強まり、優れた地方文化の発展も 章 二見られ、これら戦国大名による地域開発も積極的に進められた結果、日本史上最も地方の力が強 第 い時代となった。
た。農業社会では農地が不足すればどうしようもないし、少し前には水が足りないから沖縄のよ うなところでは人口を増やせないといわれていた。しかし、雇用面での農業の役割は減少してい 2 るし、水も本当に足りないのならダム開発だけでなく、下廃水の再利用、海水淡水化にも取り組 め・はよい 0 また昔なら大都市への就職や海外移住は仕送りという形で沖縄経済を潤したが、今日そういう 期待もできまい。むしろ結婚だ、住宅だ、子どもの学校だということで逆に送金しなくてはなら ないことも多い それに対して、人口さえ増えれば財政による所得再配分効果は、やや後退気味とはいえ、大き いものである。それに限らず、国内のことであるから所得が極端に開かないようにさまざまな形 で平準効果が働いてくる。それに、人口が増えるという見通しは、なにより県内市場拡大への明 るい見通しを企業に与え、経済に活力を与える。 最近、国鉄民営化に伴って、北海道や九州での余剰人員を大都市に移すというようなことも行 われようとしている。いろいろ事情はあろうが近視眼的対応だと思う。国鉄だけではないが、極 端にいえば、人員整理に伴う給付だけしか収入がなくとも、地元においておけば、そこから各産 業への波及効果が出てくる。たとえば、離職者三〇〇〇人なら、家族を入れれば一万人、それに 直接対応する地方公務員だけでも三〇〇人、その家族を入れれば一〇〇〇人である。 もちろんより好ましくは、より直接的に雇用をつくることだ。国鉄の離職者の受け入れについ
地域主義と地方の時代 ここ一〇年ほど、「地域主義」とか「地方の時代」という言葉がもてはやされてきた。このうち、 地域主義というのは、主唱者のひとりである故玉野井芳郎沖縄大学教授の言葉によれば、「一定 地域の住民が、その風土的個性を背景に、自分の政治的自立性と文化的独自性を追求すること」 。こ A 」し一つ 一方、「地方の時代」というのは、昭和五三年に横浜で開かれたシンポジウムのテーマで、会 議のイニシアテイプをとった長洲一二神奈川県知事の造語だといわれているが、長洲知事自身は その問題意識を、「現代先進工業社会に共通する難問のすべてが、″地方〃、″地域〃、″自治“の問 題を正面に据えることなしには解けないものとなっている」と説明している。 また、昭和五三年に政権の座についた大平首相は、かねてよりの持論としての「田園都市国家 構想」を提唱した。これは、戦後の経済成長の成果を評価しつつも、「家庭や社会における連帯 感の欠如、経済優先の弊害等を克服し、都市と農村が高次に結合され、精神的なゆとりをもった 心と心のふれあう地域社会を全国につくり、その多数の地域社会が有機的な結合体として連帯す るところに、重厚で落ち着きのある国家社会をつくっていく」ということを国家形成の基本理念 としようというものであった。 この田園都市国家構想は、しばしば列島改造論と比較されたが、列島改造論のようにフィジカ
しかし、領国支配の確立に成功した戦国大名たちは次のステップとして天下統一をめざすこと となり、南蛮人の到着によってもたらされた変革のなかで、その成果をいち早く取り入れること に成功した織田信長、豊臣秀吉、徳川家康によって強力な統一政権が確立された。 この近世武家政権下における地域開発のあり方は、三代将軍家光の統治初期である寛永年間 ( 一六三〇年前後 ) あたりを境に大きく変化する。前期にあっては大名の領国変更も頻繁で、他の 大名の領国の工事を助けることを命じられることも多く、全国的な規模で開発が進められた。武 士が農村に住むことが認められなくなって城下町が成立し、街道や港湾の整備も進んだ。それに 対して、寛永以降は大名領国もほぼ固定化し、各大名はその領国内の新田開発、特産品的農作物 や地場産業の振興を図るようになった。 開国による新たな西欧文化流入のなかで成立した明治体制は、当時の西欧各国がめざしていた 方向をまねて強力な中央集権制を実現した。どこの国をまねるかについては、幕末にはナポレオ ン三世のフランス第二帝政がモデルと考えられていたが、普仏戦争でビスマルクに敗れたので、 それ以降は新生ドイツ帝国へ眼が向くこととなった。しかし、ドイツの新しい制度が確立される には時間がかかったし、しかもビスマルクの理想はドイツをフランスのような中央集権国家にす ることであった。そんなわけで、結局明治体制はフランスをまねたり、あるいはドイツがフラン スをモデルに構築しようとした学習の成果を導入して、非常にフランスに似た統治機構をつくり あげた。
う。現に、住宅についてはそういう傾向がかなり進んでいるが、洛北と北大津を結ぶトンネルの 計画を進めることによって、京都を広げることができるのだ。自然景観も東山連峰の裏だから京 都とたいへん似ている。 さて、その滋賀県、それに奈良県、兵庫県といったあたりは、地域開発という観点からは成功 者だと考えられている。滋賀県と奈良県は京阪のべッド・タウンとして住宅開発が進み、工業生 産も高速道路の開通によって大阪と名古屋の中間にあるという点も評価されて成長性の高い分野 を中心に大きく伸び、人口も全国でもトツ。フクラスの増加を見せている。しかも、それそれに古 い歴史に基づく豊かな伝統文化をもち、自然の美しさにも恵まれ、景観でも優れた地域となって / 1 、カ - し いる。奈良県の場合の近鉄、滋賀県の場合の京阪や西武といった、中心的なディベロツ。、 救るということも幸運であった。滋賀県の場合、琵琶湖を軸にするということで、総花的にならな 全い特色ある地域づくりにも成果をあげている。 日神戸の場合は、企業的感覚にあふれた市政を展開して、埋め立て、宅地造成、ポートビアの開 西 催などに大きな成果をあげ、全国の自治体の模範として知られている。さらに、和歌山も出遅れ 権 復はしたが、関西新空港をてこに発展が期待される。 関 しかし、これらは関西地域における相対的な成功という面も強い。関西の地盤沈下のなかで、 五大阪や京都がもっていた機能を一部とったにすぎないというところもある。今後、さらに東京集 第 中が進むようなことがあれば、これらの地域の発展可能性もまた小さなものにならざるをえない 189
第二章日本列島と日本人の二〇〇〇年 図 2 ■明治 18 年でどの県の人口が増加したか 1873 年を 18 としたときの 1 5 年の人口の増減の状況 ~ 激增 ~ 増加 359.0 ~ 微増 38 ~ 微減 28 ~ 減少 28 未満激減 359.0 が平均 0 0 しかし、出生率の低下と平均寿命の 計 韭伸びの鈍化により、今後それほどの増 年 加はないと考えられ、四全総では、約 三〇年後に一億三六〇〇万人台で頭打 沖 し ちとなるという見通しを採用してい る。が、外国人の居住や帰化を大幅に 年 認める政策に転じたなら、変わってこ ざるをえないことになる。 明治以降の、地域別の動きについて は、ここでは主として、明治政府によ る最初の統計である明治六年の数字、 戦争直前の数字として昭和一五年のも の、そして昭和六〇年に行われた最新 の国勢調査の結果を主たる分析の対象 まにしたい ( 図 2 ) 。 明治初年にあって、人口が最も多か ったのは東京ではない。一位が一四四
して探ってみたい。 ドキュメント東京遷都 東京がいっから首都とされたのかを確定的にいうわけこよ、 冫をしかない。なぜなら、東京遷都はな し崩し的にことが運ばれた結果そうなっただけで、正式に京都から東京へ遷都するということが 宣言されるということはついになかったからである。 明治政権における本格的な首都移転議論は、慶応四年正月に大久保利通によって「大坂遷都建 白書」が提出されたことに始まる。「上下の区別なく国民が力を合わせて新しい国をつくってい みす くためには、これまでのように天皇が御簾の奥におられて少数の殿上人としか会わぬというので は困ります。外国では、帝王が一、二の従者を連れるだけで国内を歩いておられる。日本でも、 仁徳天皇のころは皇室と国民の間がもっと近かったはずです。この際、国民の父母としての皇室 なにわ を確立するためには遷都が必要です。場所は外国との交際、富国強兵の観点からも浪速しかあり ません」というものであった。 これに対して木戸孝允らは賛成したが、慎重論も多く、また公家のなかには「薩長の影響力を 強めようという企てだ」とする反発も出た。そこで、岩倉具視、三条実美らは「とりあえず関東 平定のための″車駕親征〃ということで天皇を一時的に大坂へ移し、あとは様子を見よう」とい うことにした 0 168