人心を必ず失う。京都、大坂の人々がたとえ動揺して新政府を恨んだとしても、数千年にわたり 皇室の恵みを受けて感化されている土地のことだから関東とはわけが違う。関東は古来より皇室 の恵みを受けること少なく、しかも三〇〇年も徳川の支配にあり、今もなおそれを偲んでいるか ら、一度新政府から心が離れるとあとがむずかしい。東北の戦いが終わったといっても人心は安 定しないし、エゾで反乱も起きている。そんなときに京都へ帰ってしまえばたいへんなことにな るー しかし、孝明天皇の三年祭が近づき、また立后の儀式を行う必要もあったので、「とりあえず 京都に戻るが、来年には帰ってくる」ということで関東の人々を安心させておいたうえ、一二月 には京都へ戻った。明けて、明治二年一月二四日、再び天皇が東幸されることが発表されると、 京都ではこんどこそ遷都ではないかということで反対の声が次々と上がった。 そこで政府は京都府に対して論告書を公付させ、「新しい時代にあって、世界各国と交わって いくためには皇室の威光が日本国中に行きわたらなくてはならない。しかるに、関東にはこれま でそれが十分に及んでない。そこで、昨年、天皇が行幸されたのであるが、行うべきことの中途 で、先帝の三年祭、立后の儀をとり行うため京都へ戻られた。そこで、再び関東へ行こうという のである。京都は千有余年の都であり、陛下におかれても大切に思われているのだから心配する 必要はない」とした。 それでもなお反対の声が強かったが、三条実美が、再幸を中止すれば東国の騒乱が勃発するに しの 170
しかし、それにもかかわらず、関東地方が鎌倉時代以来首都機能を分担するようになったの は、なぜであるかといえば、ひとつには、なんといっても関東が関東平野という広い平地からな る日本最大の農業生産力を誇る地方だからである。その地方自体の経済規模は首都としての有力 な条件である。 しかも、関東地方にはその開発の経緯から強力な武士階級が成立していた。かれらは、厳しい 気候と質素な生活に耐えることができ、団体行動に慣れ、東北という軍馬の産地を控えていると いう条件にめぐまれて優秀な軍人集団となり、早くから京都へも進出して中央政界にも係わって いた。そのうえ、関西と違って山によって細切れにされることのない広い平地を有するまとまり 救の良い地方であり、しかもまわりを険しい山岳と波荒い海に囲まれた天然の要塞であったため、 全統一的で強力な政治・軍事勢力が成立しやすかった。 日そのため、鎌倉時代以降は関東を制する者が日本を制するという図式ができあがったのであ 西 る。その関東を制する者が、自らの根拠地である関東に留まるか、あるいは日本の中心地である 欟 復関西へ進出するかによって、いいかえれば、軍事的判断か経済的、あるいは文化的判断かどちら 関 を優先させるかで、政府の所在地は決められてきたといえよう。 章 五それでは、明治維新で武家支配体制が崩れたにもかかわらず、どうして東京遷都が行われたの 第 だろうか。そのあたりの経緯を、昭和一六年に文部省が発行した『明治維新史』を主要な資料と こ 0 167
決めるだろうということにもなった。さらにそこから、「大都市部や西日本はこれ以上人口を増 やせまい」、「水のある東北や北海道にもっと住まねばならない」という結論も引き出された。 しかし、この点についてのその後の展開はまったく予想外のものであった。水を多く使うよう な産業が衰退傾向となったうえ、再利用も飛躍的に進んで、昭和五三年以来、工業用途の水需要 は減少を続け、民生用を含めた水需要全体でも横這いに近い程度にとどまるということになった のである。 昭和五五年に国土庁出向を終えフランスに留学し、二年後に通産省に戻ってついたポストがエ 業用水課の課長補佐だったが、状況の変化に本当に驚かされた。今後とも、水の使用量は微増し ていく可能性が強いし、これからも、今年の関東地方のような局地的な水不足はありうる。それ に対してはダム開発だけでなく、再利用の促進、地下水の有効利用、ミネラルウォーターの流通 合理化、海水淡水化の広範な実用化、渇水時の需要抑制策の向上などのベストミックスで積極的 に対応していく必要がある。しかし、三全総時に考えられたような形で水が人口配置決定要因に なることはないのではないか。人口一人あたりの上水道使用量を全部海水淡水化でまかなっても コストは一日あたり一〇〇円余りである。再利用ならその半分くらいでしかない。 四全総への反響を総括する 四全総の策定作業は、このように三全総の重要な前提が崩れ、しかも、わが国経済社会の国際
ないのは雇用が不足しているからではなく、生活や文化の環境が悪いからだ」などといわれてい た時代だったから、いきおい経済面への配慮は希薄であった。国土庁ではこれに先だち、全国の 市町村長にアンケートをしたが、圧倒的に生活環境整備の要望が強く、産業の誘致とか雇用機会 の創設ということに対する関むは、非常にうすかったという。 もうひとつの柱となったのは、「人は水のあるところに住み働くべきだ」という哲学である。 世間一般では定住構想というのは「みんな故郷にずっと住めるようにしてくれるということだろ う」といったぐらいに受け取られ、またそれがゆえに支持されていた。 だが、実は三全総における地方別の人口予想では、西日本から大量の人口が流出し、東北や北 年海道をはじめとする東日本に移り住まなくてはならないことになっていたのである。その率は、 ーセント、四国八・五パーセント、九州三・五 〇昭和五〇年から七五年までで、沖縄で一七・一。、 ーセント、中部〇・ ーセント ( 大阪圏六・五パーセント ) 、中国一・三パ ーセント、近畿二・二パ 本八〇パーセントという大幅なもので、しかも各地方の数字を積み上げると全国べースの予想人口 日 とを四パーセント超過していたので、流出率は実質的にはさらに大きなものであった。大都市や西 列日本では水不足から、人口や産業活動の収容能力に限界があるというのがその理由であった。 日 ところが、定住構想の特色を形づくっていたふたつの前提は短期間のうちに修正を余儀なくさ 一一れた。もともと雇用問題軽視の地域開発論には無理があったが、昭和四九年のマイナス成長のあ 第 と回復基調にあった景気も昭和五三年からは停滞、五五年からはダウンし始め、昭和五一年には
ところが、江戸時代後半になると、日本列島は寒冷期に入り、また農村経済の諸矛盾に有効な 対策を打てなかったことも響いて飢饉が相次ぎ、とくに数十万人規模の死者を出したという享 保、天明、天保の三大飢饉は東北日本に大きな被害を与えた。それでも、北陸の人口の対全国比 は大幅に伸びたし、出羽も横這いの水準を維持したが、陸奥は絶対数でも二割近くのダウンとな って対全国比でも慶長年間のレベルに戻ってしま、 し北関東も人口の全国シェアをかなり低下し てしまった。 これらの地方では、一種の米だけのモノカルチャ 1 的経済が、年貢の減少を心配した幕府によ り政策的にも維持されたため、西日本各地と違って産業構造の転換が行われなかった。明治維新 は、半ば成されるべくして成されたということが、人口動態からもわかる ( 図 1 ) 。 公務員の多いことが地方発展の鍵 明治維新以後は、食糧貿易が可能になったこともあり、農業生産力がわが国の人口規模を強く 支配するということがなくなった。また、医療水準の急上昇などもあり、わが国の人口は急激に 増加を始めた。明治六年 ( 一八七三年 ) に三三〇〇万人台であったのが、昭和一五年 ( 一九四〇年 ) 、かなりの数の南米や大陸への移民もあったにもかかわらず、二倍以上の七三〇〇万人台に まで達した。そして、戦争による減少と引き揚げによる増加を経たあと戦後は一貫して増加し、 昭和六〇年 ( 一九八五年 ) の国勢調査では一億二〇〇〇万人余りに達した。
卑弥呼の時代は人口三〇〇万人 「細文時代の日本の人口は何万人くら、どっこ、 しナナカ ? 」などと想像を巡らすことは、たいへん楽し いことである。もちろん、当時は人口統計などなかったから、正確な数字を知ることは不可能だ が、それでもさまざまな方法で、ある程度の推定はできる。そして、大化の改新による律令制確 立以降になると、かなり確度の高い数字を知ることが可能になるが、鎌倉、室町時代については やや信頼性が低くなる。それが豊臣秀吉による天下統一以降は再び精度が高まり、八代将軍吉宗 の命により公式の人口調査が行われた一七二一年 ( 享保六年 ) からはほ・ほ正確な数字を得ること ができる。ここでは、昭和四八年度に、経済企画庁からの委託に基づいて ( 株 ) 社会工学研究所 が行った「日本列島における人口分布の長期時系列分析 , ーー時系列推計と要因分析ーを参考にし つつ、日本列島における人間居住の歴史的移り変わりをながめてみたい。 縄文時代、食糧を調達する手段は、狩りをして動物や鳥類を獲ること、魚を捕まえること、植 物や貝類を採集することであったので、人口規模は、野生の動植物の分布状況によって制約され ていた。そして、シカやサケなど獲物が豊富なのが東北日本の針葉樹林地帯だったことから、こ の時代の遣跡は東日本に集中しており、一〇万からせいぜい二五万と推定されている当時の人口 の八割程度は東日本のものだった。 それに続く弥生時代は、米作がわが国にもたらされた時代である。この、農業の導入によっ
けばなんとかなる」と、あてもなく流入してくるケースも多いし、外国人も急増している。 しかし、なによりも今後も東京集中が進行する可能性が高いことを感じさせるのは、企業を始 めとする世の中での一般的なムードがそうなっているという事実である。建設省が昭和六一年一 二月に全国の上場企業一八四六社を対象に行った調査では、「金融、国際、情報機能がこれから もいっそう東京に集中するとみている企業」が八〇・九パーセントにものぼっている。土地の値 上がりが東京圏で飛び抜けて顕著であるというのも、世間が東京集中が今後とも集中するという 「感触」をもち、その予想のもとに「将来性のある土地としての東京」へ活動を集中する方向で、 動き出していることの現れにほかならない。 工場の立地条件をみても、南東北、関東内陸、東海における伸びが目だち、これに関東臨海を 加えたいわゆる東京三〇〇キロ圏での立地が、昭和六一年には全国の五〇パ 1 セントを超えてい る。既存工場でも、構造不況のなかで生産部門を縮小する場合、新日鉄なら君津、川崎製鉄なら 千葉というような東京周辺の工場への機能集中を狙っているケースが多い。 このような傾向に歯止めをかけることができるとすれば、それは政府の強い意思しかない。そ して、その断固とした決意を世の中が真剣なものと受けとれば、東京への集中にストツ。フがかか るのである。 もしそれがないとすれば、東京集中は加速度的に進行するであろう。東京圏の人口について、 四全総では趨勢値で三五〇〇万、地方分散策が成功したときの目標値で三三〇〇万としている
ばこの銘文がかけられている。 しかし、南蛮船の渡来、中国や日本の商人による海外進出の活発化などにより沖縄の東シナ海 海域での優位性は失われ、一六〇九年には薩摩による実質的な征服が行われた。 しかし、薩摩は琉球王国を間接支配することにとどまり、むしろ独立国として琉球に中国への 朝貢関係を維持させることを通じて、貿易による莫大な利益を確保した。しかし、幕末から明治 維新にかけて欧米列強が来航し、また中国との間における近代的な外交関係の確立が緊要となる に至り、琉球の日清両属関係など許されるものでなくなり、一八七九年 ( 明治一二年 ) に最後の琉 球王尚泰が東京へ連れ去られて、沖縄県がおかれたことで最終的な決着がつけられた。しかし、 太平洋戦争では、国内唯一の地上戦の場となり、米軍上陸に伴い十数万人といわれる非戦闘員戦 死者を出した。さらに、戦後も米軍統治下におかれ、昭和四七年に至り、ようやく本土に復帰し たのはよく知られているとおりである。 言語については、沖縄方言を耳で聞くと標準語とかなり違うもので、本土出身者にはほとんど 理解できないものである。 たとえば、「沖縄」という名称にしても方言では「ウチナー」と発音して母音と子音の両方が 違うのだから、耳で聞いただけではまず同一の単語だとは思えない。しかし、東北の方言につい ても同じようなことがいわれるが、沖縄の方言がむしろ古代の日本語に近いという面もあるよう である。言語学者の説ではだいたい応神天皇とか仁徳天皇とかの古墳時代に京都方言とたもとを 242
た、灯ろうが綿帽子で、二の字、三の字で下駄の跡などなどといったら、それはもう豪雪地帯の 子供達は唖然として、外国の政府が来たのではないかと思うぐらい違うのであります」 ( 下河辺淳 氏 ) という意見も出るわけである。 しかし、明治以降の体制のなかで西日本出身者が影響力を行使しやすいポジショノこ、 、冫したし J い うことや、西日本的感覚が文化を支配してきたということは、西日本が優遇されてきたことを意 味するものではない。すでに、第二章でも分析したように、明治以降西日本からの人口流出は激 しい。国の事業というものも、第六章でみるように西日本優遇とはいい難く、むしろ東北などか なり優遇されているのである。西日本人が権力を握っていただけに、余計に東日本には気を使っ たということがいえる 0 一方、東京で権力を握った西日本出身者は故郷に対して「同郷の者の栄達を助ける」以上の貢 献を十分に行わなかった。そのことは、薩長土肥が明治以降、最も地盤が沈下した地域に属し、 人口も伸びず、所得も低いという事実が如実に示している。 明治体制が西日本的な性格をもっていたとしても、首都が関東に置かれたことの影響は当然に 出てくる。官僚組織には江戸幕府的感覚が色濃く存在する。かっ、それは太平洋戦争後むしろ強 化されたことは第三章で述べたとおりである。そういう伝統が浸透しやすかったのには、明治政 府の中心になったのが、西日本出身者とはいえ、武士であったがゆえに、幕府政治からの脱却が 不完全となったのである。 196
西と両方でやるし、マドンナのコンサ 1 トも大阪球場と後楽園球場であった。の朝のテレ ビ小説も東京と大阪と交互である。京都大学の総長の給与は東京大学総長のそれと同額で、他の 大学の学長より高い 私が首都機能と呼ぶのは、こういうものであり、関西の現在の地位というのは、関東に次ぐ第 二の人口および経済規模をもつ一地方である関西のローカルな活動の大きさに基づかない副都と しての部分が大きいのである。また、一見、関西口 1 カルのカのように見えるものでも、実際に は過去に首都機能をもっていたことの遣産であるものも多い。文化財はだいたいそうであるし、 人材の厚さにしても、一〇〇〇年以上も都があって、全国から集まってきた志のある優秀な人材 の子孫が住んでいるのだから当然である。ノウハウの集積についてもそうである。 しかし、いまや関西はこうした首都的機能を喪失し、東京に対して東北や四国と同じような を 全「地方」として相対化される瀬戸際にある。「東西の横綱」としての関西と関東の関係は急速に 日「横綱と大関」の関係に変質しつつある。 欟政府にしても、民間にしても東京と関西とのパランスをとるという感覚を喪失しつつある。と くに政府がそうすることは、鎌倉時代からの二眠レフ的国土構造、そしてまた明治体制において 東京首都、関西副都という関係を置いたということを変更する一種の遷都を意味するものであ 五り、日本国家の基本的な仕組みをゆるがす重大な問題である。 前章でも書いたことだが、政府が東京で何かするについては、地元の熱意とは関係なしなの 173