新しい時代における経済活動が見込まれない地域でいくらやったって、一時的な失業対策のよう なものにしかならない。 地方のなかには、「東京との距離を縮め、東京を活用する」というところもあるが、それもう つかりすると、地方同士での足の引っ張り合いに終わりかねない。 やはり、地方経済の発展のためには、東京集中抑制のための断固とした意思が必要なのであ る。 さらに、東京集中が進むことによって文化の全国画一化が進み、それがこれからの経済社会の 発展の源泉となるべき、発想の柔軟性と創造的な活力を低下させるという指摘もある。 世界の歴史を振り返っても、それそれ違った自然や歴史的な特色をもった地域が、新しい人類 発展のための力を生み出してきた。それは日本においても同様である。西日本と東日本とだけを 考えても、新しいものへの柔軟性に富み個人主義的な西日本人と、忍耐強く重厚で集団行動に向 いた東日本人は、それそれの時代にあって相互補完関係を成してきた。日本文化にしても、あち こちの地方において生まれたものが集まって、豊かな日本文化を形づくっている。 東京への過度集中は東京の住民からも強い反発が出ている。昭和六二年地価公示では、全国的 には地価が落ち着いているなかで、東京区部の商業地では対前年比七六・二パ ーセント、住宅地 も都心では二倍以上の上昇となった。マネーゲームで東京の土地が買いあさられた結果は、東京 の住宅事情を極端に悪化させ、持ち家のない人からはマイホームの夢を奪い、すでにマイホーム
ートの建設等により、世界各地との国際交流拠点としての機能の強化を図る」と書き換えられた。 関西経済の地盤沈下が問題になっているときに、中間報告で経済の問題を軽く書いたのも、適 切さを欠いていたが、そもそも文化の中心になるためには経済の裏づけが不可欠である。 下河辺淳氏が関西文化学術研究都市をめぐる議論のなかで、「関西をフィレンツェに」といっ たことをいっている。だが、フィレンツェでは少しばかり学術活動や国際会議が多いというもの の、基本的には人口五〇万ほどで中クラスの地方中心都市にすぎない。観光地としての格もベネ チアなどよりだいぶ落ちる。たしかにウフィッイのような華やかだった過去を展示するためのイ タリア最高の美術館はもっているが、その貧弱な経済力ではスカラ座のような世界一の芸術活動 の場はもてない。 フィレンツェは金沢あたりの目標として手ごろで、関西にとって少しは参考に 、くレセロナ、レニングラード、カリフォルニアあたりであろう。 救なりそうなのはミラノ , ノ 全経済軽視は論外としても、関西を東京と同じようなタイプの都市圏として開発していくのか、 日別のタイプをめざすのかということについて多様な議論が展開されている。 西 「東京一極集中はセキ = リティ面からも危険。双眼構造の実現を」という議論もあれば、「東京 復と対抗しようといったって無理。関西には独自の良さがあるのだから、独自の道を」という人た ちもいる。こうした議論に、どちらが正しいという形で黒白を云々することは無意味であろう。 五私はやはり、関西が東京のもっているような機能とよく似たものを、ワンセットもっことは必 第 要だと思う。日本全体としてのセキュリティの問題として、東京に、もしものことがあった場合 179
鎌倉時代から一 000 年続くニ極構造 歴史的にみて、日本列島の関西と関東という二極構造というものが、どのようにして成立した ものであるかについては、第三章で見たとおりである。最初、古代日本国家は大和と北九州の二 極構造で出発した。しかし、律令制成立あたりを機に強力な首都としての畿内と、副都としての 北九州と関東という三極構造となり、遣唐使の廃止を境に北九州が脱落し始め、鎌倉幕府の成立 によって、完全な二極体制が確立した。 その後、政治の中心は関東と関西の間を行きっ戻りつしたが、重要なことは、鎌倉時代以来、 関東と関西で首都機能を分担する二極構造が一貫して継続してきたことである。朝廷が京都に、 幕府が関東にあった鎌倉時代については自明のことであるが、室町時代にも、鎌倉では足利一族 の一人が鎌倉公方として関東を治め、京都の細川、畠山、斯波の三管領に対して、上杉氏が関東 管領としてこれを助けた。文化センターとしては京都五山に対する鎌倉五山というのも定められ こ 0 南蛮船の渡来による経済構造の変化と豊臣秀吉による全国統一は、畿内を中心にして九州など 西日本と東日本がバランスをとるという人口分布を忠実に反映した国土構造を出現させるかにみ えたが、徳川幕府の成立と鎖国により、江戸、京都、大坂の三都体制が成立した。 この三都体制については、政治・軍事の首都である江戸、文化・宗教の首都である京都、経済 164
料理については、武士的な論理の世界では、おいしいものを求めるということ自体が罪悪なの だからどうしようもない。地方ではいまでも、同じような規模の都市がふたっ並んでいれば、だ いたい城下町より港町かなにかの方が料理がおいしい。 そんなわけで、江戸時代には参勤交代という大文化交流のチャンスがあったにもかかわらず、 行き先が江戸では地方の文化水準の向上にもうひとっ役に立たなかった。それは、京都と地方の 交流が盛んだ 0 た戦国時代から江戸初期にかけて各地方の城下町が、京風文化の影響のもとに優 れた地方文化の華を咲かせたのと対照的である。もし、関が原の戦いで西軍が勝利を収めていた ら、日本の地方文化ははるかに実り豊かなものになっていたであろう。 江戸時代に文化の中心地京都と地方との交流が、十分に行われなかったこと、それに後述する ように海外文化と地方文化の交流がほとんどなかったこと、この二点は豊かな地方文化発展の阻 灯害要因になった。 地方文化を語るにあたって、「地方の独自性を生かしていくべきであり、小東京になるな」と 代いったことがよくいわれる。しかし、これにはあえて異を唱えたい。最近、たいへん魅力的な伝 方統文化をもつような地方都市が、「小京都」などと呼ばれて人気があるが、このことには非常に 地 有益な示唆が含まれている。というのは、これらの都市、つまり角館、山口、金沢、津和野、土 三佐中村、飛騨高山といったところは、かって必死のおもいで京都を模倣し、やがて、いつのまに 3 かそれそれの地方の風土にあった独自性を獲得していった都市だからである。
熊本県知事、それに「技術立県」をめざす中沖豊富山県知事、「ルック・ローカル」を標榜する 学者出身の恒松制治島根県前知事であるが、それ以外にも知事、市長、あるいは自治体の職員で 全国的に注目される人が多く出てきた。 しかし、それから数年の月日を経たいま、最も意欲的な県政を進めて「知事」というもののイ メージを変えたほどの平松知事ですら「地方試練の時代」といわざるをえない現実の厳しさがそ こにある。「いま、もっとも現代的な熱つぼい息吹を肌身に感じようとすれば、それは東京や大 阪の繁華街やビジネス街ではなくて、山村の村や漁港、古都の街角や農村を歩いてみるべきであ る」 ( 小坂橋氏前掲書 ) という言葉が一年前に書かれたとは思えない急速な様変わりようである。 それでは、このような状況がどこからきたかといえば、ひとつには意外に早かった国際化、情 報化、サービス経済化といった日本経済の変化がもたらした東京集中である。地域が自己完結型 の方向へ向かうのでなく、むしろ経済社会活動は広域化していった。文化の流れも、素朴で重厚 いな民芸調でなく、軽薄短小、美感遊創の都会型が主流となった。 AJ しかし、もうひとつ見逃してはならないのは、地方の時代というのが盛んにいわれた際に、日 の本の歴史的風土とかポテンシャルについての認識の甘さがなかったかということである。 地 当時普通に認識されていたところによると、「日本はもともと地方分権的であったのを、明治 三政府の政策によって無理矢理に中央集権化された」とか、「地方には実に豊かな地方文化が存在 第 してきたのだから、これを生かしていけば地方発展のポテンシャルは高い」ということであっ
ートを満足に開けるホールなどまずない。しかし、日本の地方の文化会館は単なる集会所にすぎ ない。地方文化の水準を高くして、魅力ある街造りをするなら、まず商店街である。さらに、文 化会館を豪華にするより、音楽会を開くことである。 それから、地方における文化政策で気になるのは、文化政策であるよりは、「文化人対策」に なりがちであることである。地元在住の「文化人」に、補助金をばらまいたり、もちあげたりす ることが文化政策だと誤解されている。地方自治体の首長の票集め目当てにはそれがいいのだろ うが、そういうことでいい文化が生まれてくると思わない。 地場産業の発展は「消商工農」主義で 同様の観点から良くないと思うのは、特産品開発の場合にみられることであるが、消費者の方 灯からでなく、生産者側、とくに第一次産業サイドからの発想に傾きすぎることである。各地の一 しようちゅう 村一品運動などでも、もうひとっ良い品物が生まれてこないのは、焼酎、みそ、漬物が「三種 と 代の神器」といわれるように、地元の第一次産業の産品へのこだわりが強すぎるからではないか。 のもちろん、地元の特産品で使えるものは活用すればよい。しかし、それを使うことから出発して 地 はいけないのだ。 章 この点に関して、私の通産省の同期生で、宮城県地域振興課長を務めた加藤周二君がその著書 第 『失うものはないちゃー , ・・東北の地域振興を考える』 ( 行政問題研究所 ) でまことに優れた事例紹介 109
増え、アリタリア航空の乗り入れとか、領事館をつくるというのも可能になる。また、観光客も おいしいスパゲティが楽しみで鹿児島へやってくるということになろうし、イタリアの香りのす る地場産品というのも生まれてくる。 こういうのは、ともかく徹底しなくてはいけない。沖縄には、インドネシア独立を助けた縁で スハルト・インドネシア大統領などとも親交の深い稲嶺一郎アセアン協会会長 ( 元参議院議員 ) の 尽力で、アセアンからの研修生に日本語や情報技術の教育を行う国際協力事業団のセンターが設 置されている。しかし、那覇の中心部から離れた交通不便な郊外住宅地などに立地したものだか ら地元との交流はもうひとつである。それに続くプロジェクトが不十分だから、波及効果も十分 でない。センターの立地だけで満足してはなるまい 日 なお、ここで文化というのは、「文化か文明」かというように使われる「文化」ではない。 本語で文化といえば、むしろフランス語のシビリザシオンにいちばん近いくらい広い意味をもっ ているのだ。 しかも、文化は商業的に提供されても文化に違いない。そして、地域発展のためのキーポイン トになるのは、図書館よりも本屋、音楽会よりもテレビのチャンネルがたくさんあるかである。 都市インフラの整備にあたって、専門家はすぐに欧米流に考えて、公園、図書館、文化会館など と考えるが、日本人は公園や図書館などには興味が少ないということを忘れている。おそらく、 日本の地方の文化会館は世界一ではないか。ョ 1 ロッパの地方都市では、オーケストラのコンサ 108
原宿をまねることから新地方文化が生まれる 「地方文化」という場合の「地方」というのは、ふつうローカルという意味でなく、英語のプロ ビソスであろう。「田舎風」というのもびったりこないが、いってみれば「首都風」、「都会風」 に対する概念ということになろうか。 日本の首都機能については、第五章で論ずるように、関西と関東という二眠レフ構造で受け持 っという状況が、鎌倉時代から続いている。 しかし、二眼レフ構造といっても、伝統文化の領域においては、関東のナショナル・センター 機能は、非常に弱体であった。そこで、京都の貴族たちのレジャー ( 寺まいりなど ) の行動範囲で ある、近畿地方全域を「みやこ文化圏ーと考え、そこの「みやこ文化」と地方文化を比較したと き、わが国の優れた文化活動が、類を見ないほど「みやこ」に集中したものだったことを発見で きる。 ーセント ) たとえば、国宝の地域別分布をみると、近畿が実に六〇。 ( 1 セント ( 建造物では七三パ AJ を占めている ( 表 1 ) 。しかも、関東地方における国宝のうち東京に所在するものは、そのほとん 方どが明治以降他の地方から移されたものだから、それを除外すれば、七七パーセントが近畿地方 地 に集中している。また、地方へ行けば、たいてい観光名所は山や海の自然景観であり、自慢の名 三物料理は刺し身である。 第 たしかに、わが国の自然は美しいし、海産物の豊富さ、多様さは類をみないものではある。し 101
では、たとえば、「おたくの町のあの店のお菓子は東京でもたいへん評判がいいですよ」とか、 「あのレストランは六本木にそのままもってきても通用しますよ」などとせつかく教えても、「へ え、そんなものですか」で終わってしまう。 これがフランスだったら、ミシュランのガイド・フックで星をもらったレストランでもあれば、 その町へ行けば必ず、「市役所前のホテルのレストランはミシュランの二つ星ですよ。うちの町 の誇りですからぜひ行ってみてください」ということになる。 、 0 0 、 フランスの地方文化のあり方というのは、中央集権的な体制の良い方の面が良く出てしる リからの文化伝達が敏速で、全土にわたってまんべんなく文化水準が高く、それに刺激された形 で地方が独自の文化を育て、それがまた全国的に広がっていく。しかも、全国的な評価を得なが ら地方に留まる人も多く、典型的なケースとしては、二〇ほどある三ッ星レストランのうちパ 想には四店しかないのである。 ともかく、文化面に限った話ではないが、地方は全国的に評価されるような人材が、地元に留 と 代まって活動していけるような環境をつくっていく必要がある。 の なにはともあれ地方文化の水準は、明治以来著しく向上した。とくに、テレビの普及以降は根 方 地 本的な格差は解消したといってよいかもしれない。地方出身の学生が都会へ出てきて、見るもの 三聞くもの初めてのものばかりということはもうない。那覇の国際通りにだってイタリアントマト 5 第 もあれば、クーレージ、もあるし、飛騨の山奥の喫茶店の。ヒザもコーヒーも原宿のカフェのもの
とほとんど変わるものでもない。 しかし、文化的な情報の発信源として地方が機能しているかということになると、いささか疑 問である。問題はふたつある。ひとつは、地方としてのオリジナリティが高く、しかも全国的に 通用するものがどれだけあるかということである。「地方の時代」から「東京の時代」になって しまったかにみえる今日であるが、これを再び克服して「第二期地方の時代」を実現していくた めには、全国的、国際的な評価を受けるだけのものを、地方がつくり出していくことが課題であ る 0 次に、地方のものが評価されるといっても、それが東京経由でしか全国に広まっていかないこ とである。情報発信機能の東京偏在というのは、まったくひどいものである。 スパゲティを鹿児島名物にできないか 日本に特色ある地方文化が十分に育たなかったのは、外国と直接国境を接することなく、また 第一章で論じたように、世界との接触の窓口が非常に限定された都市に限られていたのが大きな 原因である。たとえば、フランスにおいて、東部ではドイツの、南西部ではスペインの、南東部 ではイタリアの、北東部ではケルトの影響の強い地方文化が発達しているというのと同じような 状況が生まれえなかったのである。 そのことは、少数の例外的な国際都市に、外国文化の影響のもとで独特の地方文化が育ってい 106