「世界からの接近を謝絶し、鎖国して独立を守ってきた日本民族は、およそ二五〇年の平和の うちに高度の国民文化を形成、普及せしめたが、一九世紀半ばに国際的力関係から開国の避け られぬことをさとり、自主的に大胆に西洋文明をとり入れて、近代国家をつくるために一つの 文化革命を行った。これが明治維新である」 ( 桑原武夫『明治維新と近代化・ーー現代日本を産み出し たもの』昭和五九年小学館 ) 明治維新の評価については、昔から王政復古としての側面と市民革命としての側面をどうみる かという論争がある。だが、実はこの一見矛盾するように見えるふたつの要素は、もちろん部分 的にではあるが、同じル 1 ツをもっていた。つまり、王政復古とは律令制に帰ることである。律 令制はいうまでもなく古代中国から輸入されたものである。一方、明治日本が模範とした近代フ きランス流の地方制度とか官僚機構は、イエズス会の宣教師を通じて紹介された中国の制度に影響 にされて構築されたものである。だから、少なくとも制度的には、王政復古と市民革命の間に根本 台 舞的な矛盾はなかったのではないか。 史 現代の日本文明が獲得した、それなりに高い文明水準の証明にあたっては、江戸時代以前から 界 世 日本がレベルの高い文明をもっていたということを重視するか、それとも明治以降″脱亜入欧〃 八に成功したことに重点を置くか、意見が分かれることである。これは、どちらが正しいとか間違 っているとか、決められるものでもあるまい。 277
合だけでも、さまざまである。通産省、運輸省などは基本的には名古屋の局の管轄に入れてい る。大蔵省や農水省、建設省は北陸局をおいている。 しかもどの範囲を北陸とみるかがまちまちである。歴史的には現在の福井、石川、富山、新潟 四県で律令制のもとにおける北陸道を形成していたが、現在では新潟を除く三県をさすことの方 がむしろ多いようである。関西を中心に・フロック割をしていけば交通体系上新潟も入ってくるわ けで、経済的にも船舶輸送が重きをなしていた時代には関西とのつながりが圧倒的だったが、昭 和六年の上越線開通で流れがかわった。 しかし、気候風土からいっても新潟は北陸そのものであるし、北陸自動車道の完全開通、北陸 新幹線の実現があった場合には、四県を一プロックとしてみる意味がまた大きくなってこよう。 代ともかく、旧前田藩およびその支藩の領地であった石川、富山両県を中心とした北陸というの のは、明治以来の近代日本でいちばん冷遇されてきた土地かもしれない。原因としては、明治維新 ガに際して加賀藩が指導的役割を果たしていたわけでもなく、それがゆえの論功行賞も期待でき 地 ず、かといって戊辰戦争を戦った東北各藩のように要注意地域であるがゆえの慰撫策的配慮もな 紀 世かった。各省の行政単位としての北陸プロックを形成させず、また、帝国大学が地元の熱烈な要 望にもかかわらず設立されなかったことに、それが表われている。 一 ~ 同じ雄藩の城下町である金沢と仙台を比べて、少なくとも明治維新の段階では金沢の方がすべ 第 ての面で上だったはずである。ところが、いまは決定的な差がついている。宮城県は明治維新以 223
しかし、それにもかかわらず、関東地方が鎌倉時代以来首都機能を分担するようになったの は、なぜであるかといえば、ひとつには、なんといっても関東が関東平野という広い平地からな る日本最大の農業生産力を誇る地方だからである。その地方自体の経済規模は首都としての有力 な条件である。 しかも、関東地方にはその開発の経緯から強力な武士階級が成立していた。かれらは、厳しい 気候と質素な生活に耐えることができ、団体行動に慣れ、東北という軍馬の産地を控えていると いう条件にめぐまれて優秀な軍人集団となり、早くから京都へも進出して中央政界にも係わって いた。そのうえ、関西と違って山によって細切れにされることのない広い平地を有するまとまり 救の良い地方であり、しかもまわりを険しい山岳と波荒い海に囲まれた天然の要塞であったため、 全統一的で強力な政治・軍事勢力が成立しやすかった。 日そのため、鎌倉時代以降は関東を制する者が日本を制するという図式ができあがったのであ 西 る。その関東を制する者が、自らの根拠地である関東に留まるか、あるいは日本の中心地である 欟 復関西へ進出するかによって、いいかえれば、軍事的判断か経済的、あるいは文化的判断かどちら 関 を優先させるかで、政府の所在地は決められてきたといえよう。 章 五それでは、明治維新で武家支配体制が崩れたにもかかわらず、どうして東京遷都が行われたの 第 だろうか。そのあたりの経緯を、昭和一六年に文部省が発行した『明治維新史』を主要な資料と こ 0 167
ところが、江戸時代後半になると、日本列島は寒冷期に入り、また農村経済の諸矛盾に有効な 対策を打てなかったことも響いて飢饉が相次ぎ、とくに数十万人規模の死者を出したという享 保、天明、天保の三大飢饉は東北日本に大きな被害を与えた。それでも、北陸の人口の対全国比 は大幅に伸びたし、出羽も横這いの水準を維持したが、陸奥は絶対数でも二割近くのダウンとな って対全国比でも慶長年間のレベルに戻ってしま、 し北関東も人口の全国シェアをかなり低下し てしまった。 これらの地方では、一種の米だけのモノカルチャ 1 的経済が、年貢の減少を心配した幕府によ り政策的にも維持されたため、西日本各地と違って産業構造の転換が行われなかった。明治維新 は、半ば成されるべくして成されたということが、人口動態からもわかる ( 図 1 ) 。 公務員の多いことが地方発展の鍵 明治維新以後は、食糧貿易が可能になったこともあり、農業生産力がわが国の人口規模を強く 支配するということがなくなった。また、医療水準の急上昇などもあり、わが国の人口は急激に 増加を始めた。明治六年 ( 一八七三年 ) に三三〇〇万人台であったのが、昭和一五年 ( 一九四〇年 ) 、かなりの数の南米や大陸への移民もあったにもかかわらず、二倍以上の七三〇〇万人台に まで達した。そして、戦争による減少と引き揚げによる増加を経たあと戦後は一貫して増加し、 昭和六〇年 ( 一九八五年 ) の国勢調査では一億二〇〇〇万人余りに達した。
いたし、関西を一地方として扱う傾向が強まっているのが目だつ一方、仙台に東京に災害があっ たときなどに機能を代替させるようにしようとか、東北に遷都しようという提案まである。 こうした傾向の背景としてひとつあるのは、明治の薩長土肥支配以来、政府の政策は西日本重 視で東北は冷遇されてきたという認識である。しかし、それは正確ではない。結論からいえば、 明治体制下では西日本出身者が優遇されたという傾向はあるが、西日本の開発は東日本の開発に 比して遅れ、むしろ東日本重視路線がとられたといってよいのである。 明治維新に際しての東京遷都の経緯については、前述したとおりだが、そこから明治政権の本 質というものが浮かび上がってくる。日本では、鎌倉時代以来一〇〇〇年近くにわたって、貴族 的、町民的な西日本式論理と武家的、農民的な東日本式論理のふたつの世界が一国のなかに併存 救し、そのうち東日本式論理の担い手である関東の武士団が軍事力に優れていたがゆえに政治的に 全は優位にあった。明治維新というのは、江戸時代後半以降着実に進行し、開国によって決定的と 日なった経済的優位を背景に西日本勢力が東日本勢力から権力を奪取した過程である。 西 がそして、その支配をより強固なものとするため、西日本勢力が関東へ乗り込んだ。それ以来、 復日本の指導的な人々というのは圧倒的に西日本出身者が多い。 関 このため、文化面でも西日本的な感覚というのが基準になる。だから、「日本人の国土観とい 五うのは、かなりに西日本の気象条件に恵まれたところに生活を打ち立てていった人達の感じ方で 第 あるということ。教科書などでもそうですし、国民唱歌などでもそうでしよう。 ( 中略 ) 雪が降っ 195
ものだが、とくに地方では中学、高校で英語以外を学ぶことが事実上不可能である。 戦前は旧制高校での第一外国語が何種類かあ 0 たから、もう少し状況はよか 0 たとい 0 てよい かもしれない。アメリカ占領軍は「民主化」という名目に隠れて、かなりヨーロッパの影響を排 除することに成功したが、これはそれが最も成果をあげた例といえよう。 言葉の問題を通じた国際化の一環として、建設省は道路表示をローマ字でもするような作業を 進めると聞く。よいことだと思う。しかし、できればついでに住居表示を外国のように、街路別 にしてほしいものである。あれこそは、日本社会の閉鎖性の象徴的存在なのだから。 パリはなぜ燃えなかったか 開国と明治維新を経て世界に登場した日本は、二〇世紀末の今日、世界の頂点に立っている。 「はるかな坂の上の雲をみつめて、細くけわしいひとすじの坂道をわきめもふらずにのぼってき た日本経済は、峠の上で世界をみはるかすにいたった」のである。 経済の中心的国家となることは、世界の文明に対してもより大きな影響を及ぼす存在になった ことを意味する。そして、そのとき西欧文明とわれわれの文明の関係というものが、新たな観点 から問われてくるのではないか。 西欧文明と日本の本格的な出会いは幕末維新である。このとき、日本は政権交替に伴い、諸制 度改革のチャンスが与えられた幸運にも恵まれて、西欧文明の速やかで効果的な受け入れに成功
がもはやなかった。たとえば、近江の国は慶長年間には陸奥の国 ( 現在の青森、岩手、宮城、福島 の各県 ) の約一二〇万石に次ぐ約八〇万石の米の生産を行っていたが、東北や北陸のいくつかの 国で徳川三〇〇年の間に石高が数倍になったのに対し、近江や尾張ではほとんど数字の変化はみ られなかった。そこで、農家の次男、三男は都市へ出ていったり、行商人として全国を巡回する ようになり、これが近江商人、伊勢商人などが経済の世界で活躍する素地となったのである。 それに対し、中国、四国、九州などの西日本各県の人口は、江戸時代を通じてほ・ほ一貫して伸 び続ける。これらの地方では、有明海や児島湾の大規模な干拓に象徴されるような農地開発が順 調に進んだ。 また、西欧や大陸の文明との接点が長崎や琉球を通じて細々としたものであるにせよ保たれた 結果として、サツマイモに代表されるような新しい農産物や工業技術も導入されていた。さらに これらの流通を通じて都市経済が拡大し、藩財政も専売制によって潤い、それがまた新しい投資 を可能にするという好循環がもたらされ、都市も順調な成長をみせた。徳川三〇〇年の間に、い わゆる薩長土肥の人口は、それそれ大幅な伸びを示しており、明治維新を可能とした西南雄藩の 国力充実ぶりが、人口の増加という面からも窺える。 東日本の人口については、前半と後半で大きく様相を変化させた。前半においては東北、北関 東、北陸の開発は、とくに稲作の飛躍的な拡大によって順調な進展をみせる。ことに東北につい ては、古代における植民地的経営以来、統治機構の仕組みにしても後進性から脱却できなかった
しい時代を生み出すのはそれを生み出すにふさわしい風土に身を置く方がいいに決まっている。 この意味でも東京集中は新しい時代の到来を阻害するものである。 国際的な観点からみた場合にも西日本の東日本に対する優位は明らかである。現在でも製造業 の分野などでは東アジア各国間での分業体制というのはかなり進んでいるのだが、今後、中国や 韓国が経済的に発展し、物やサービスの面での自由が進んできたとき、東アジア経済において も、ヨーロツ。 ( 経済に近い一体化も徐々にではあるが進んでくるだろう。そうしたとき、距離的 にも太陽の昇り沈みのリズムからいっても、東アジア世界の辺境に位置する東日本に対する西日 本の優位性が出てくるだろう。そんなとき、東京が東アジアの中心だというのは、ワルシャワを ヨーロツ。、 / の中心にするようなものである。 救最後に、国土全体のバランスをみても、東京は首都として日本全体のなかで著しく東に偏って 全いないだろうか。日本の人口重心は平安時代から今世紀前半に至るまで一貫して滋賀県内にあ 日り、政府のかなり強引な東京集中政策にもかかわらず、現在でも岐阜県内である。交通の便から いっても関東は首都としての適格性に欠ける。それにもかかわらず、東京をなぜ首都にしたかと 欟 復いえば、前述したように、明治維新に際して関東の反乱を防止するという軍事的判断を優先させ 関 たからであった。 五もはや東京を首都にしておく合理性はないのである。そうした観点からいっても、今後、遷都 とか首都機能の分散を図っていくのなら、東京より西、国内の人日 ( ランス、交通の便を考える 199
分、岐阜県郡上郡美並村、の駅でいえば越美南線美濃下川駅西南西約三キロの地点である。 ちょうど、名古屋の真北の方角、東京の真西ということになる。これは、沖縄も計算に入れた場 合だが、歴史的にみる場合は、沖縄をカウントしない方が便利なので、それでいうと緯度、経度 がそれぞれ五分程度北と東にずれてきて、現在だとだいたい、郡上八幡の南東方向あたりにな る。 歴史的には、八世紀初めには三千院などで有名な京都市左京区の大原付近にあり、平安時代の 始まったころ大津市下竜華あたりから滋賀県に入り、東北日本の開発が進行するにつれ徐々に北 東方向へ移動していった。ただ、逆行現象も何回か起こっている。そのなかでいちばん大きなも のは、さきにも触れた、徳川後期の飢饉などによる東北地方などの人口減と、西日本経済の発展 による人口増がみられたときで、いったん享保年間に長浜市あたりまで東進していた人口重心 は、明治維新のころ琵琶湖西岸の高島郡安曇川町付近にまで戻っていた。 それが東京遷都で再び北東へ向かい、明治中ごろには謡曲で有名な竹生島付近、そして、大正 時代に入ってから一〇〇〇年以上留まった滋賀県に別れを告げて岐阜県に入り、その後も東京集 中の進行に伴い、少しずつ東へ進んでいる傾向にある。 国土開発ニ 0 〇〇年物語 地域開発政策が日本で始まったのは、太平洋戦後だといわれている。たしかに、「〇〇地域開
ばこの銘文がかけられている。 しかし、南蛮船の渡来、中国や日本の商人による海外進出の活発化などにより沖縄の東シナ海 海域での優位性は失われ、一六〇九年には薩摩による実質的な征服が行われた。 しかし、薩摩は琉球王国を間接支配することにとどまり、むしろ独立国として琉球に中国への 朝貢関係を維持させることを通じて、貿易による莫大な利益を確保した。しかし、幕末から明治 維新にかけて欧米列強が来航し、また中国との間における近代的な外交関係の確立が緊要となる に至り、琉球の日清両属関係など許されるものでなくなり、一八七九年 ( 明治一二年 ) に最後の琉 球王尚泰が東京へ連れ去られて、沖縄県がおかれたことで最終的な決着がつけられた。しかし、 太平洋戦争では、国内唯一の地上戦の場となり、米軍上陸に伴い十数万人といわれる非戦闘員戦 死者を出した。さらに、戦後も米軍統治下におかれ、昭和四七年に至り、ようやく本土に復帰し たのはよく知られているとおりである。 言語については、沖縄方言を耳で聞くと標準語とかなり違うもので、本土出身者にはほとんど 理解できないものである。 たとえば、「沖縄」という名称にしても方言では「ウチナー」と発音して母音と子音の両方が 違うのだから、耳で聞いただけではまず同一の単語だとは思えない。しかし、東北の方言につい ても同じようなことがいわれるが、沖縄の方言がむしろ古代の日本語に近いという面もあるよう である。言語学者の説ではだいたい応神天皇とか仁徳天皇とかの古墳時代に京都方言とたもとを 242