首都 - みる会図書館


検索対象: 「東京集中」が日本を滅ぼす
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1. 「東京集中」が日本を滅ぼす

相違ないと強硬に主張したのが通り、三月七日、天皇は再び京都を出発し、三月二八日東京入 城、太政官をここに置いた。 しかし、ここに至っても遷都の発表はなく、一〇月に皇后が東京へ出発されるときにも、京都 府は遷都ではないとの論告を出している。その後、京都における政府機関は逐次廃止されていっ たが、なお遷都の発表はなく、それどころか、翌年三月には「西還延期」が発表されている。こ うして、東京遷都はついに正式に発表されることなく、いつの間にか事実の積み重ねで、東京が 首都ということになったのである。 関西はいまも都 救の朝のテレビ小説で「都の風」というのがあった。このことに限らず、京都はいまでも 全しばしば「みやこ」と呼ばれる。東京遷都以来、一〇〇年以上が経過した今日になっても、なお 日「みやこ」というのは不思議なことには違いないが、京都には「かって都であった」というだけ がでなく「いまも都だ」といえる何かがあるということであろう。 復そして、実際に京都や大阪には、明治以降も現在に至るまで、首都機能、あるいはナショナル 関 ・センタ 1 機能ともいうべきものがかなり残存しているし、人々の精神構造にもいまのところ都 章 五の人間としての性格が保持されているのである。 明治体制における、関西の首都機能というものを考えると、天皇陛下こそ関東に移られたもの 171

2. 「東京集中」が日本を滅ぼす

第六章ー一一一世紀は地方復活の時代ー 遷都こそ内需拡大の決定版ー 伊勢湾周辺にニ一世紀の新首都をー 札幌と福岡を副々都にー四 九州プロ野球リーグー 中国四国は田園都市構想の故郷ー 明治一 00 年でいちばん損をした北陸ー 「奥の太道」と東北インテリジェント・コスモスー 関東各県の課題はプランド・イメージー 東京再開発は住宅優先でー 関西夕暮れ族の哲学ー 文化首都論の落とし穴ー 大阪と京都はベストパートナーー 平安建都一ニ 00 年にこれだけすべきことがあるー 大企業本社の東京移転にストップー 西日本軽視に異議ありー 236 201

3. 「東京集中」が日本を滅ぼす

して探ってみたい。 ドキュメント東京遷都 東京がいっから首都とされたのかを確定的にいうわけこよ、 冫をしかない。なぜなら、東京遷都はな し崩し的にことが運ばれた結果そうなっただけで、正式に京都から東京へ遷都するということが 宣言されるということはついになかったからである。 明治政権における本格的な首都移転議論は、慶応四年正月に大久保利通によって「大坂遷都建 白書」が提出されたことに始まる。「上下の区別なく国民が力を合わせて新しい国をつくってい みす くためには、これまでのように天皇が御簾の奥におられて少数の殿上人としか会わぬというので は困ります。外国では、帝王が一、二の従者を連れるだけで国内を歩いておられる。日本でも、 仁徳天皇のころは皇室と国民の間がもっと近かったはずです。この際、国民の父母としての皇室 なにわ を確立するためには遷都が必要です。場所は外国との交際、富国強兵の観点からも浪速しかあり ません」というものであった。 これに対して木戸孝允らは賛成したが、慎重論も多く、また公家のなかには「薩長の影響力を 強めようという企てだ」とする反発も出た。そこで、岩倉具視、三条実美らは「とりあえず関東 平定のための″車駕親征〃ということで天皇を一時的に大坂へ移し、あとは様子を見よう」とい うことにした 0 168

4. 「東京集中」が日本を滅ぼす

なると、水運上のメリットは鉄道の開通でかなり減殺されたが、そのかわり、大陸への近さとい うのが新しいメリットとなった。また、商業、工業の蓄積が関東と比べると格段に充実していた から、そのようなハンディ・ゲームをしても関東に十分対抗できたのである。 しかし、いまや航空機や新幹線、高速道路といった高速交通手段の出現と、それが東京中心に 整備されたことで地理的な優位性が十分に生かせなくなっている。新しい産業を興す力も関西の 方が上ともいえなくなってきた。 そういうなかで、あいかわらずハンディを背負いながら戦っても勝ち目がないのではないか。 大阪は国税に対する、受益・負担比率が全国最低だそうである。「税金はお上に差し上げたよう なもの」という徳川時代の浪速商人の感覚のままなのである。この辺でもっと国庫から資金を引 救き出し、また国に要求を積極的に出していく姿勢に転じることが不可欠だと思う。 わいしようか 全この関西の特性についての認識不足は、発想の矮小化にもつながる。現在、京都は一九九四年 日の平安建都一二〇〇年祭に向けて準備を進めているが、ともすれば、地方都市の市政一〇〇年祭 がと違わないようなレベルの志の低さを感じさせる議論にも出会うのが残念である。 西 関 文化首都論の落とし穴 五「文化首都」という言葉は、元来、京都商工会議所の塚本幸一会頭が、建都一二〇〇年に向けて の京都のあり方として提案したものである。古い文化を守り、それを土壌としながら、新しい文 177

5. 「東京集中」が日本を滅ぼす

の首都である大坂というように首都機能が分担されたというように受け取られていることが多い が、そういう分担論は必ずしも正しくない。 政治的にいっても京都には皇室と、それに伴う政治機能があり、さらに京都所司代は畿内の天 領の管理、西国大名の監察などを任務としていた。大坂城は徳川将軍第二の居城としての性格を 与えられ、一四代将軍家茂がここで息を引き取ったことで幕府の衰亡が明確となり、伏見鳥羽の 敗軍の将慶喜がこの城を棄てて逃げ出したことによって政権の交替が決定的なものになるとい う、重要な歴史の舞台となっている。 文化的には三都がそれそれに独自の文化を華開かせたし、経済的にも江戸も京都もそれぞれに 首都的役割を分担した。宗教的には京都の比叡山延暦寺に対して江戸にも上野寛永寺が置かれ 救た。京都と大坂については若干の分担関係はあるが、それそれの機能ごとに濃淡こそあれ、三都 全がそれそれひと通りの首都機能をもっていたというのは、今日の問題を考えるうえでも重要な視 日点である。 がさて、この関西と関東というふたつの地域が日本の首都機能を分担するに至ったのは、これら の地域が日本列島において占める優れた自然的条件によるものである。ただし、関西と関東では 少し異質なものである。それは、一言でいえば、関西は日本列島における交通の中心地としての 五条件が首都機能を呼び込み、関東は関東平野という日本最大の平野を擁する地方であること自体 の力がものをいった、ということである。

6. 「東京集中」が日本を滅ぼす

、。ハッチワーク的対応には限界が 無秩序な発展をしてきた現在の日本の大都市の姿を考えると あるので、二一世紀のしかるべき時期に、名古屋周辺への遷都がなされるべきだということは、 すでに論じたとおりだが、それと同じ理由で新しい副都的都市の検討がなされていくべきであ る。 その場合、もし新首都を伊勢湾周辺に想定して、ジャパン・コリド 1 ルを首都圏にすれば、く ランス上も東北地方と中国四国地方あたりが適当ということであろう。どのようなポイントがそ れにふさわしいかといえば、新首都の条件としてあげたのと同じような点を列挙できるだろう が、それに当てはまるのが西瀬戸地域のどこかと北上地方である。 西瀬戸については、かって新全総で大規模工業地域の候補としてあげられ、その後環境問題で 放棄された経緯があるが、本四架橋に次いで九四架橋が実現すれば、福岡、大分、愛媛、広島に わたる広い地域を総合的に開発していくことが可能となる。そうしたなかで、山口県西部地域は 将来の西日本の中心として格好の条件にある。 一方、東日本では北上川中流域が最適であろう。かって奥州藤原氏の本拠であった平泉もこの 地方であり、東北日本の中心地として歴史的にもふさわしい。西瀬戸地域の山口についても同じ ことがいえるが、近代的大都市の近隣に歴史的景観が存在することが、都市での生活に潤いを与 えるものであることは、東京郊外に鎌倉、大阪近傍に京都、福岡郊外に太宰府、広島郊外に宮島 があることの貴重さをみても、明らかなとおりである。 232

7. 「東京集中」が日本を滅ぼす

鎌倉時代から一 000 年続くニ極構造 歴史的にみて、日本列島の関西と関東という二極構造というものが、どのようにして成立した ものであるかについては、第三章で見たとおりである。最初、古代日本国家は大和と北九州の二 極構造で出発した。しかし、律令制成立あたりを機に強力な首都としての畿内と、副都としての 北九州と関東という三極構造となり、遣唐使の廃止を境に北九州が脱落し始め、鎌倉幕府の成立 によって、完全な二極体制が確立した。 その後、政治の中心は関東と関西の間を行きっ戻りつしたが、重要なことは、鎌倉時代以来、 関東と関西で首都機能を分担する二極構造が一貫して継続してきたことである。朝廷が京都に、 幕府が関東にあった鎌倉時代については自明のことであるが、室町時代にも、鎌倉では足利一族 の一人が鎌倉公方として関東を治め、京都の細川、畠山、斯波の三管領に対して、上杉氏が関東 管領としてこれを助けた。文化センターとしては京都五山に対する鎌倉五山というのも定められ こ 0 南蛮船の渡来による経済構造の変化と豊臣秀吉による全国統一は、畿内を中心にして九州など 西日本と東日本がバランスをとるという人口分布を忠実に反映した国土構造を出現させるかにみ えたが、徳川幕府の成立と鎖国により、江戸、京都、大坂の三都体制が成立した。 この三都体制については、政治・軍事の首都である江戸、文化・宗教の首都である京都、経済 164

8. 「東京集中」が日本を滅ぼす

しかし、そうしたなかでも最高の適地は名古屋の周辺、とくに伊勢湾、知多湾、三河湾に面し た海岸地帯だと考える。というのは、首都移転に必要な土地の確保は、空港用地も含めてかなり の部分埋立地で捻出するのが現実的だからである。そのなかでも、ひとつだけ選ぶとすれば、豊 橋あたりもよいが、三重県の鈴鹿市、四日市市あたりがベストではないか。このあたりなら、名 古屋の都市機能をそのまま活用できるし、大阪とは東京・水戸、京都とは東京・筑波ほどの距離 だから、通勤は無理だが、ほどよく連携可能な範囲である。東京との間は超高速の中央新幹線を 通せば一時間程度で結べる。「ザ・ジャパン・コリドール・プラン」の提唱のようにリニアモー ターカーを活用すれば、関東から関西までを一体とした都市圏のまん中に位置することになる。 水資源も比較的余裕のある木曾三川を控えているので確保に不安がない。伊勢神宮があるので皇 室との関係でも好ましい。皇居は伊勢市あたりにすればよい。松坂牛や伊勢湾の海産物を活用し た優れた料理文化をもち、高級な観光地としての風格もある。 土地は平坦であるし、四日市のコンビナート地帯は最良の省庁用地になる。しかも、伊勢湾に 架橋すれば、さらに広域的に無理なく土地が確保できる。 首都移転のための具体的なプログラムは次のようなものであるべきである。 一、三〇年後の遷都を宣言するとともに、一定区域について土地利用を制限する特別立法を行

9. 「東京集中」が日本を滅ぼす

しかし、それにもかかわらず、関東地方が鎌倉時代以来首都機能を分担するようになったの は、なぜであるかといえば、ひとつには、なんといっても関東が関東平野という広い平地からな る日本最大の農業生産力を誇る地方だからである。その地方自体の経済規模は首都としての有力 な条件である。 しかも、関東地方にはその開発の経緯から強力な武士階級が成立していた。かれらは、厳しい 気候と質素な生活に耐えることができ、団体行動に慣れ、東北という軍馬の産地を控えていると いう条件にめぐまれて優秀な軍人集団となり、早くから京都へも進出して中央政界にも係わって いた。そのうえ、関西と違って山によって細切れにされることのない広い平地を有するまとまり 救の良い地方であり、しかもまわりを険しい山岳と波荒い海に囲まれた天然の要塞であったため、 全統一的で強力な政治・軍事勢力が成立しやすかった。 日そのため、鎌倉時代以降は関東を制する者が日本を制するという図式ができあがったのであ 西 る。その関東を制する者が、自らの根拠地である関東に留まるか、あるいは日本の中心地である 欟 復関西へ進出するかによって、いいかえれば、軍事的判断か経済的、あるいは文化的判断かどちら 関 を優先させるかで、政府の所在地は決められてきたといえよう。 章 五それでは、明治維新で武家支配体制が崩れたにもかかわらず、どうして東京遷都が行われたの 第 だろうか。そのあたりの経緯を、昭和一六年に文部省が発行した『明治維新史』を主要な資料と こ 0 167

10. 「東京集中」が日本を滅ぼす

一一、中部新国際空港、中央新幹線、伊勢湾架橋などを、将来の遷都を前提に、長期的に一一一世 紀にふさわしい先進的なインフラとして整備する。 三、教育機関、文化施設、住宅などを先行的に整備し、一部政府機関の移転も行う。 四、三〇年後に遷都を行い、その場合、すでに新首都に移転していた政府機関のうち一部は東 京ないし他の都市に移転させる。 このような地点選定と手順だと、名古屋のために進めたインフラ整備をそのまま新首都のため に生かせるし、ソフトランディングすることにより、遷都による混乱を最小限にとどめることが できよう。ともかく、これだけの予告期間をおけば、個人も企業も、あるいは外国公館も十分な 代対応ができるし、自ずから東京に残るものと新首都に移るものとの整理ができる。また、この点 活が非常に重要なのだが、三〇年先であってもいずれ首都が移る、ということになれば、さしあた 方っての東京集中もかなり鎮静化するはずである。 地 は 紀 世札幌と福岡を副々都に 関西が副都として西の横綱であるとすれば、札幌と福岡は東西の大関として、副々都というべ き性格をも 0 ている。それぞれ北海道、九州というかなり独立性が強く、まとまりもよい経済、 文化圏の中心であるし、陸路、空路の要地としての性格ももっている。とくに中心部から便利な 209