し 41 つ / 、ム 子どもの時の すがた 姿しか知らん 立派になった のう おまえと なんれん 別れて何年に なるのかのう ノい ところで おまえは昔の はくいしゆくせい・よだい 伯夷叔斉兄弟の ことをどう思う 伯夷と叔斉の ・ようだい 兄弟はたがいに 国君の位を ゆずりあって ついにニ人ながら くにさ 国をつた し噛くせい のらしルう 後に周の武王が らゆうおうう 付王を討とうとするのを はんやく 反逆だといさめ 聞かれなかったため しょようざん 首陽山にかくれ しがいし穿あわ 生涯周の粟は こ・再した 食わぬと志を立て ついには餓死を してしまった ふたり だがニ人は 生きてるうちも 死ぬ時もいっしょで な 名はいまにいたる のこ まで残っている 0
けっこう 結構な もてなし かんしゃ 感謝いたします じんらゆう くち 口にあうものが あるかどうか いろいろと お智恵を 拝借いたして ござる ああ いますとも ところて 孔明がきてる はずでござい ますが さよ、つで ござい ますか の m ところで どうであろう これからは りルうよしゅうどの 劉予州殿とも ともらャり 共に力をあわせて 戦わねばならん 一度ここにお越し 願って打ちあわせを したいと思うのだが たたか
らようしどの 張昭殿は ・一うよく はうほう 降伏しか方法 なしとのご意見か そうだ そうそう なせ曹操に 呉はすでに 三世をへた強国 そうそう 曹操のごとき時流に の 0 乗って出てきた 男とは違う 0 2 0 昨き提ミし 夜ゃ督そか で らが 0 あれは なり行き上の 0 0 じーう 、 1 そうぐんまん 曹軍百万に はたして この呉が たちう 太刀打ちできると 思うのか お ! みまえ わが君の前で 決まった 一とカ 決定である 7
おきたいのは しようかん この蒋幹 こうは′、 江北からきたと いっても そうそう 曹操のもとから きたのではない わしは しゆっじんいらい 出陣以来 酒はつつしんで いたが今日は ・疆うゆう 旧友のために こころ むゆくまて の 飲むつもりだ 0 0 たいしじ 太史慈 そうそう 曹操にたのまれて わたし 私をくどきに きたなどと思っては 客に対して これほど失礼はない はっ 5 はっ そうそう 今日は曹操と くにかっせん わが国の合戦など の わす 忘れて飲みたい もし酒がまわって 合戦のことを くち 口にするものが けん いたらこの剣で す 斬って捨てい ー 199 ー
あなたの弟は ぐんじどうめい 呉と軍事同盟を はかりともに そうそう 曹操にあたらんと いう使命をもって きてるそうだが しよかっ ! んどの 諸葛理殿は どう考えて おられるのかな それゆえ 私は困って おります なだ見み孔吐は私 がから明ごいが められのて意ぃ て外て兄も見 るらまか のいら で それは どうかな くに 国の一大事だ 兄であるとか 等弟であるとか それは私ごとで あろう 孔明はすでに 他国の臣 貴公は呉の重臣 きこうかいせん 貴公は開戦か 伏かを考える べきでござろう たたか わたしかんが 私の考えは こうふくやす 降伏は易く 戦いはし 呉のを かん第 考えますと 戦わぬにかぎる おし と思います 0 6
の。 Q なんだ この手圧は わしの みよん 身分を保障 すればを ひっこめると 思っているのか 自分のことを かんだいじようじよう 漢大丞相と しよめい 署名し していとく わしを周提督に 任命するとは ど、つい、つことだ いつわしが そうそう 曹操の家来と なった にんめい 0 イ灯 こやつを 斬れいっ ひーっ 提督 くにあらそ 国が争っても ししゃ 相互の使者は 斬らないのが さはう 作法 ー 157 ー
そこで拙者は 曹操と戦い つづけている ぐんし 劉予州の軍師 しよかつりようこうめい 諸葛亮孔明を つれて参り ました しつ 実はいま呉国は かいせんこうふく 開戦か降伏かで いけん 意見がニつに 分かれて います お聞さあ て 9 6 ニ 孔明は りうびげんとく 割備玄徳と , み わが君とが て 手をにぎれば そう ( 人 曹軍を打ち破れると 申すのでございます 500 ツ彡 なるほど おぬしのいわんと してることは わかった 拙者も そうそうこうふく 曹操に降伏したら もはや地上に 呉はないも どうようおも 同様と思うて ございます 0 6
きたる 十一月のニ十日 らよううんはやふぬ 趙雲に速船を なんがん 出させ南岸で 待つようご指示 くだされ いまは帰らす とも ひとうなん その日東南の かせの 風に乗って 帰ります かえ とうなんかせ 東南の風が どうして吹くと わかる りうらゆうす 隆中に住んで十年 皿のや雲を らようこうなが かんそく 長江の流れを観測して くらしていたのです そのくらいの ことはわかります・ さあさあ それでは そうそう 早々に おひきあげ くだされ 帰りを 待って おるぞ ー 154 ー
まんもう 百万と申し ましたのは その数を聞いて くにひとびとみ この国の人々が驚き おそれてしまうと おも 思ったからで ございます さらにいま くわ 州の兵を加えまして これもニ三十万 これらを合計いたし まん ますと百五十万は くだりますまい ・イ・冫イ ふむう たいしよう して大将の」團 かす ちほ・フゆた 智謀豊かな者 もの 武勇にすぐれた者 ニ三千はいるで ございましよ、つ 車に積み ますではかるほど もの ) ノいト ノを・ ぐんせん いま軍船をととのえ 印は数百里にも およぶ兵力 呉を奪わんとする 以外にあの兵力の 向け場がございますか そうそうけいしゅう 曹操は荊州を 平げたあと さらこむを 抱いていると 田 5 、つか
第らー それにくらべ おまえと私は ようしようはや 幼少早くから ・ようどわか 郷土と別生い長じて は別々の主君に仕え たまたまあったと おおやけ しせつ 思えば公の使節と はうしんたらば 一方の臣の立場 かた 親しく語りあうことも できぬ 伯夷叔斉の ・ようだいあ、 美しい兄弟愛を 思、つ一と 人の子として 恥しいとは思わぬか わたしかん第 私の考えは 違います あにうえ 兄上のおおせられ るは義理のすじ と存じます さりながら ーりらゆう・一う 義理と忠孝とは どちらが重いと 考えられます 忠仕兄き玄ー中私父ふ兄 2 をえ上 1 孫山の母は上 1 まれがに靖仕のも つばもあ王弩え子こ私き と同要したのるでも うじ呉ごら御は漢 す漢をせ末粤予ょあ朝 3 る室と捨すらに州りの のてれてはま人 と臣わる景せた にとがお帝こぬる なし君方のか ま す もちろん らゆっこう 忠孝がもとだ しかし義理を彡 ~ 欠いても なるま、 0