ぐんし 軍師 だいじようよ 大丈夫か 軍師 なせこんな きしようわるうま 気性の悪い馬に 乗られる だいじよ 大丈夫で ござる ともかく 馬をかえられ 余の馬を こんなことは はじめて
・り′、はうは 落鳳坡で ぜんしん 全身に矢を あび無惨な ご最期・ ななんと ぐんし 軍師が 死んだと 統が 死んだと : 之ミを ー 147 ー
シ朝 -- ト わあっ 猿のように げんとくぐん 玄徳軍に おそ 襲いかかった さ人ぺいせん 山兵戦と なると 蜀の兵は お手のもの それにひきかえ 軍師を討たれた けいしう′、・ん 荊州軍は だいこんらん 大混乱となった ー 1 31 ー
冖“み 3 メ この時 こうめい 荊州から孔明の 使者として 馬良が やってきた はっ けいしルう 荊州は 無事で ございます な荊馬ばお い州良 は 000 おう ャて、つカ はや 早く見せよ 今日は ぐんし 軍師より てがみ 手紙を あすかって 参りました
・第い 破は流れ、 軍ーれま 星星どの は 軍師 どうなされた しよ、一う 諸公よ 今日から皆 とお 遠くへは 出ぬように 数日のうちに か′よ当ーうはう 必ず凶報が くるであろう みな それから 七日後 かんう 関羽の養子 かんべい 関平が荊州に ーいし ー 152 ー
ぐんし 軍師 せきへきたいせん 赤壁の大戦には れんかんさくしんげん 連環の策を進言し そうぐんたいはい 曹軍を大敗させ ーまげんとく 今玄徳のもとで大きく はばた , フとしてなカら一一 さいのうはっき その才能を発揮する ことなくこの世を去った レ」、」 2 うト」う この時廠統三十六歳で あった ョマ ー 129 ー
ぐんしほうとうせんし 軍師統は戦死 きみ わが君以下は ふじよう 立ル城にこもるも てき 四面みな敵 しんたい 今は進退きわ まっておられます これが きみ わが君の しよかん 書簡で ございます 救 ! わおだ わがらが ね君殳れ悲 ばのぬし 窮ん 地らで 、、つか は・ノー、う 層統が死んだか さいのう 稀世の才能を 、だいた土 6 ま 6 死んでしまった ー 153 ー
なるほど これが かくしみら 秘密路か らくざんきた 離山の北にあり それを踏み越えれば ・、じようリがしもん 離城の東門に 達すということです さんみやくみ ( み また山脈の南にも どうかんどう もう一道の間道が ありそれを進めば ・りくじようにしもん 同じく離城の西門に 出るとい、つことで ございます 軍をニつに分け り↓つはう 両方から 進もう ぐんし 軍師は きたかくしみち 北の秘密路を みなみ 余は南の かんどうすす 間道を進む はっ クも 0 ク
、つらやまし、 きみ わが君は ぐんし こころ この私は 軍師を心の これほど 底から信頼してしんら 信頼されて いな一さる いるので あろうか ふむふむ ンこ ノノ 1 0 0 のう統 こうめい てんもん 孔明は天文を みらうこく 見て忠告をして きてくれた せ、はう こうせいかがや 「西方になお恒星輝き こうばうよわ 客星の光芒弱く 健いぐん 今年はなお征軍に たいしようみ 利あらず大将の身には 凶事のきざしすらあり くれぐれも身命を つつしみたまえ」 とある どうであろう よ けいしう 余も荊州へ一度 たかえ 立ち帰って ・」よ′めい 孔明と会った上で よく協議してみたい と思うのだが
桃園の誓いを もちだされては なに 何もいえませぬ わかりました 留守はひきうけ - まーしよ、つす・、に ぐんし 軍師は蜀に いそ お急ぎくだされ 貴公のことだ まらが 問違いは ないだろうが そんけん もし呉の孫権と きたそうそう 北の曹操とが どうじ 同時にこの荊州に せ 攻めてきた時は ふせ どう防がれる 0 ロ 死ぬまで : たたか ときへい その時は兵を 分かれて死ぬまで 戦いぬ - 土 - ー ) よ、つ しよう′、・ん こくだいじ 将軍よ一国の大事を もの つかさどる者が かるがる 軽々しく死ぬなどと 申してはならぬ よろしい それがしが 八字の戒めを 申すゆえ きおく よくご記憶 なされい ー 155 ー