ヨりンンツド・ ど恩汝 3 糜びこ、も う賞に芳弩こし じをはをに糜び や加えさ厚連。芳弩 えらくれを るに用とて説と ゅうじよう では友情をもって びはう 糜芳を説くことは 汝の義務だと いえるな 7 イ . わかりました さっそく 南郡へ 参ります , 立にめノ それこそ 活かした 人の使い方で ございまする フフフ これで傅士仁も けんめい びはう 懸命に糜芳を 説くであろう 0 ミミヾ二ミ ー 127 ー
そればかりか ふしじん こうあん 公安の傅士仁 なん ( んびはう 南郡の糜芳も すでに呉に 降っておりまする くだ なんと けいしゅうじよう 荊州城は そんけん 孫権の手に 落ちたと 何たること ななんと′ . ふしじ人 傅士仁 びよう 糜芳も 呉に降ったと
びはうどの 糜芳殿 これでも食糧 まん・ア、 十万石が調達 できまするか 三日遅れは打ち首 もう考える 余地はござる むむつ かおく かんが しよくリよう らようたっ くび なせ 生きることを 歓ばぬ わかった ( だ 呉に降ろう ミし こうして びほう 糜芳も じようもんひら 城門を開いて 呉に降った【、 くだ ー 137 ー
び ん じ し 傅士仁と糜芳 おお りくそんどの 陸遜殿 これもそなたの 知恵のおかげ じゃ しようぐん 将軍 けいしゅう・り′、じよっ 荊州落城 喜ばし、 艮り・」に ございまする だがのう こうあんらはう 公安地方には まだ傅士仁があり びはう なんぐん 南郡には糜芳の ぐんう ) 」 一軍が動かすにいる これを討たねば けいしうぜんど 荊州全土を手に 入れたとはいえぬ
3 こ 身当ー ふしじん 傅士仁 しルび 首尾は どうであった おう困った なったぞ ・み勢 : り、・編 41 。乍をツ 4 ? 難 呉侯は なんだい わしに難題を 出された 呉侯は びはう 糜芳を説き伏せて ここに連れて こいといわれた びはう 糜芳はな はたあ げんレ」′、 玄徳が旗上げ した頃からの しくしよう 宀佰将だ かんたん そう簡単に くだ 降るわけはない それが なんだい 難題か 、 1 ろ ー 128 ー
傳士仁は ぐはん 虞飜に入れ知恵 なんぐん されて南郡へ 向かった びはう 糜芳は 快く傅士仁を むか 迎え入れた ー 130 ー
さんごく もくし 三国志殕 めいかんじゃ 4 ふかく 4 名医名患者 けんぎようひょうじよう 9 関羽の不覚 建業評定 関羽と陸遜 けいーレゅ・ - つじよ・つ一か・ん・ら・、 9 荊州城陥落 8 にわか莊 傅士仁と糜芳 8 ・ 3 大敗北 こうしゅてんとう 8 ・ 6 攻守転倒 しんりよえんほ - っ ・ 8 深慮遠謀 〔月刊コミックトム』掲載〕 かんう ・たいはいば , 、 かんう ふ しじん あ りくそん びほう
ツ・ めいくん どうかの 貴公もそれがしと ともそんけんまえ 共に孫権の前に 出てみぬか わか 呉侯はまだ若くて 将来があるし 名君らしいぞ で ふしじん 傅士仁 ひと 人を見て ものをいえ み ノ それはよく わかっている だが今や 申しあげます ただいまかんうしようぐん 只今関羽将軍から はやうま 早馬の急使で ございまする たねん びはう 糜芳が多年 こうおん 厚恩を受けた かんらルうおう 漢中王をこの期に なって裏切ると 思うのか lj ro コ すぐ行く 急使 / ー 132 ー
ノ・をまをのを・をををみ総物 0 を ーイ 4 ィ びほう たしかに糜芳は げんとく 玄徳の宿将だだがな かれ せ ! よっ 彼とて石仏ではない かれ ぞく 彼の一族はもともと こなん・一うしようおおがわも 湖南の豪将で大金持ちで まいにんたいくっせいかっ 毎日退屈な生活を おく 送っていたところに げんとく ふううんじ 玄徳という風雲児が 当ようみ 現われ興味を得られて くつついただけ しつかりせし ふらんわか じぶん 自分の浮沈の別れ ふむ、つ 名も命も らぬという にんげん 人間なら口説き しようにん 商人であったのだ りがい 利害は明瞭に はんだん 判断できるはす わしからも ~ 呉侯に あっ なんぐん 南郡を威圧 - するよ、つ 申しあげる けんめい だから懸命に 口説いてみよ 、つむ わかった やって みよう ー 129 ー
ははっ おう よくぞ参った これから ( に らか 忠誠を誓うならば まえとお 前の通り こうあんしルしよう 公安の守将を にん 任じるぞ ところでそちは 南郡の糜とは 親交があるで あろ、つ はっ 今まで 味方でござり ますれば みかた ー 126 ー