近ごろ、高齢化が言われる時世に符節を合わせるように、「遺言書」がよく持ちこまれ 「父はもっと上手な字を書くんです。こんなに乱れた不審な字を書くことはない筈です ・ : 」と言いながら、生前の、かなり前に書いたという書面 ( 筆跡資料 ) を、照合用と して示される。 なるほど、当人の健康な頃の文字は、書き慣れた達筆な筆づかいをしていることが判 る。 その「遺言書」は、文字の体様が乱れて、極めて大きかったり、配字もバラバラで不 揃いである。誤字もあるし、中には文字の書線が二重に書かれており、たしかに異常的 な筆跡を呈している。 このような遺言書も、丹念に調べていくうちに、示された健康な頃の本人の筆跡と同 書 じ書字傾向があることを発見し、「同一筆跡」らしいという結論になることが多いのであ 定 跡る。 筆 偽筆ということもある。けれどもその場合は、似たように書くことに熱心で、わざわ ざ誤字にしたり、書線を二重にして作為するなどのことは、そう多いことではない。 る。
進めてゆくことになるが、大体はこのような過程を経る。 原本の筆跡文書と、その拡大文字とを併せて調べながら、細かいところを明らかにし ていくのだが、 具体的にどのような部分に注目し、どのように解明し、それを依頼者に 分かって貰うために、どう書いたらよいかは、そう容易なことではない。 これをみると、まあ、同じ筆跡とみられるのだが、いつもこういう簡単なものばかり ではなく、拡大分類しただけで直ちに同じ筆跡や異筆などと言えるものではない。 「これは間違いないと思いますよ」と依頼者が主張する。「ほら、ここの書き方に特徴が あるでしよう」と一言う。 よく見ると、一見して何となく似ているところもある。しかし、目を転じて別な文字 を調べると、ど、つも違、つところもある 依頼者の目はそこまでは行かないで、「似ている」部分だけを強調するが、要するに 定「主観的」に観ていることが多い。 跡「筆跡鑑定」は、現認された状態の書かれた文字を、そのまま比較検査に用いてよいも 筆 のかという「記載上の条件ーの吟味も必要である 「自然に書かれた文字」であれば、素直な書体のものとして、これに内在する「書きぐ
時代のものらしい。 「鑑定事項」として、被検文書「沼田子龍書」の氏名文字。それと照合する対比文書を 代 塒「童蒙示訓 ( 内容文 )- として、この「氏名文字ーと「童蒙示訓」の両筆跡は同じ人が記 草載したものかどうかを鑑定することにする。 章 どちらの記載文字も、ほば同じくらいの大きさで、配字よくまとまり、毛筆の細字で 第 一字一字を丁寧に書き、古文書らしい特有のくずし字体も多く用いられている。 いわゆる、「書を能くする」というような、書き慣れた達筆な筆づかいで、ごく自然に すらすらと書き進めているようで、普段どおり、ありのままの筆跡状態がここで表現さ れたものとして、その比較照合に支障のない、良い筆跡資料と一一一一口える。 両文書内で、「沼・田・子・龍・書ーという、同字体の五文字を調べながら探すと、 「童蒙示訓ーの二行目に「沼」字、三行目に「田」字、六行目に「子 - 字、九行目に「書」 へん 字がある。そして「龍 , 字については、同じく九行目の「新」字の偏部分があるので、 これらの文字に〇印をつけておく。 このようにして、いつの場合も同じ字種字体の文字を探しながら、その文字形状を通
私製原稿用紙のマス目に、同じ文字ごとに分類して貼付する。このようにまとめること によって、各字体ごとの「筆致」 ( 筆づかい ) や「くずし方ーなど、筆者の運筆傾向が表 代 塒現され、どのような「書きぐせ」があるかなど、およその書きぶりを知ることができる。 草 章 このように検索した結果、両書面の筆跡を比較検査するのに「適当な文字ーがあれば、 第 次に、各個文字の接写撮影の作業に入る。小型カメラを複写台に装着し、写真照明用リ フレクタ 1 ランプをセットする。レンズは拡大縮小に便利なマクロタクマ 1 レンズを用 いる 感光材料は、ミニコピーフィルムを装瞋し、書字体様の大きい文字は、三五ミリの枠 内に納まるように縮小し、極めて小さな文字はべロ 1 ズ ( 蛇腹式接写装置 ) をつけて、 これも三五ミリの枠まで拡大して撮影している できるだけピントを深くするため、レンズはぐらいに小さく絞り、露光時間は八 分の一秒のスローシャッターを押す。このミニコピーフィルムは複写用で、筆跡書線な どの白黒の階調がよく現出する低感度のものだが、動きのない筆跡などの被写体では、 それ相応の照明をしつかりセットしておきさえすれば、いつでも同じ露光条件で写真撮
寧に書かれた横画、縦画のいろいろな字画線については、まずこれを線質的な面で ( 書 線から受ける感じで ) 受けとめ、「線質的に似ている」とか「異質感がある」などとして 分別している。 硬筆書きであっても、一筆ごとの書線の起筆・送筆・終筆までの間に、それぞれのカ の加え方や、曲りがある。同じ書面内で、同じような運筆傾向をくりかえしているもの があるとすれば、線質的な一貫性として参考にすることもある。 8 書法類型の分類 ( 類似の型 ) 。 ( し力ないのも当然である 普段、字を書くとき、いつも漢字学習見本のよ、つこよ、、 例えば、文字内の縦画線について「宮・郎・方」などの第一筆の短い書線の頭部 ( 起 筆 ) に、力を加えて曲りをつけて書くものがある。 ( 一四三頁参照 ) 書 また、「倉・今・合」字の頭部の組み方が「人・入・八」状などに分かれているのも、 定 跡よく見る書字類型である。 筆 これが、書面内の多くの文字にくりかえして書かれているとすれば、これもひとつの 「書きぐせ」としてみることができる。
せ」とか「書字傾向ーを調べながら比較照合を行うことになるが、次に、それら「筆跡 分析、上の着眼点について考えてみよう。なお、「書きぐせ。とか「書字傾向」というの 代 塒は、筆跡説明上、よく使われる用語である。 草 章 4 文字を分析する ( 分析識別 ) 第 各書面の中には、 かなり多くの文字が書かれているけれども、比較照合を行う上で適 当な文字がないこともある。 「田中一三」という署名の入った被検文書があるとする。当然、対比文書の中から、照 応する文字を探して調べることになるが、平仮名が少ない文章内には、照応する文字は 少ない。このような場合には、「町・界・畑。字などの「田」部。あるいは「忠・虫・ 患・史 , 字の「中」部などをとりあげて、それらの筆づかいから、運筆傾向の一端を知 ることもできる。 つくり ただし、「田」字と「町」字の「田」は、同じ字体ではあるけれども、やはり偏と旁と しさ当、 を並べて一気に書く「町 , 字は、単一に書かれる「田ー字とは、外見上、聊かの変化が あるのも当然であろう。
は出来ることになる。 このように、両資料の内容の良し悪しが、検査結果に大きく影響するのである 「各人の手書き文字」には、たしかに上手さの違いや個性がある 学校で教育漢字や平仮名を大勢の児童が一緒に教えられて育つが、二千字程もある漢 字等のすべてを、見本どおりに正確に写し、書き続けられるものではない。 自分の書きやすい好みの書き方、少しでも綺麗に書けるようにと習う人、職場で使う 頻度の高い書式、数字を扱う人の算用数字の配字や、形のつくり方の巧みさ : : : など、 次第に自分自身の「筆跡型 , をつくりあげ、定着していくのだが、これを筆跡の「恒常 性 , とか「常同性」などと呼んでいる。 定現に、毎年お正月に配達されてくる「年賀状」をとっておき、トランプのように並べ 跡て、自分宛の住所氏名の筆跡をもとに比べれば、差出人を見なくとも、容易に「筆跡型。 ごとに分けられるのは、やはり、筆跡には人によって「型」のあることが判る ( 書きにくい書式の用紙に、使、 しにくいペンで書くと、思うように字が書けず、普段の
第二項は毛筆で書かれた「投書。の筆跡を検査したものと思われ、資料である投書の 封筒と中身の手紙に書かれている文字を、全般的に通観した概観的所見を表しているよ 代 時うである。 創 草各個文字の字画の「結体、 ( 字画構成 ) とか、どこが「書きぐせ」なのかとか、あるい 章 は「配字」関係などについて、具体的な分析照合についての説明がないので、詳しいこ 第 とは分からないが、第一項で検査した毛筆の対照用文と見比べて、「投書の文字は女性的 に偽装したもの、で、書道上の修練を普通よりも積み、慣熟した筆致 ( 筆づかい ) で、 両資料の書面は、ともに同じ筆跡であると結論づけている あたかも「書画類」などを批評するような文面である。 これは、前述した『鑑識学』の「筆跡ーの項にあった「古来、経験ある鑑定の直感に より為され : : : 断定的な場合においても : : : 理論上承服し難き場合多かりしも : : : 」と いささ いう一節を連想させる点が聊か多い「鑑定書」と一一一一口えるかも知れない。 『鑑識学』の文章を見て、昭和十九年に警察に入ったばかりの私が、年とった先輩から 聞かされた、昔の「報告書文例」の面白い一節を想い出した。或る婦人の身元調査の中
つくり 「達」という字の旁の一部である「羊」の横画を、「幸。状に二画横線で書いたものも、 昔はよく見かけたものである。学習漢字の「羊、 ( 三画横線 ) からみると一画不足し、た しかに「誤字・略字」と言える。 しかし、近世古文書や、昭和前期までの毛筆書や、万年筆で書かれた「達」字は、「く ずし字」の場合、「羊」ではなく「幸、状に書かれたものも多かった。いわゆる「異体字。 である 若い人が、「これ、書き方が間違っていませんか ? 」という 古い人は「いや、昔からこう書いているのだが : : : 」と答える つまり、昔から慣習的に使われていた漢字を、「学習漢字表」が制定されたあとも、 「誤字・略字」「異体字」という意識がなく書きつづけていたことになる また、「点・魚。字などの下の点々 ( 連火 ) のところを「大」状にしているものもよく 定見られるが、「こんな書き方、あるのですか」と問われて、戸惑う先輩もいた。 鑑 気がっかないままに、ずっと書きつづけていた「誤字・略字」「異体字」も、筆跡検査 跡 筆 においては個人識別上の参考にしている ただし、何かのきっかけで途中からその習癖が直って、「正しい (•)- 漢字になるこ
このような条件が整っている文書資料をもとに検査して、その筆跡の中に特異な筆致 ( 筆づかい ) を認めたならば、 ①「それは一般的に、その個人内で固定的なものとみられるものであるか」 ②「誰にでも、稀には時々起こるものであるか」 ③「特定個人内でも、例外として起こる偶発的なものであるか」 などの観点について考え、 ①については、大体特徴的なものとしてとりあげることができる これに対し②の点については、同じ人か書いたという証明にはならない。 また③については、そのような筆致が一方にあって、他の一方には存在しないという 研だけの理由で、直ちに異筆との証明にはならない。 ち の というように、筆跡内容を概観し、「勘案」すべき要点項目を並べている 研 捜 これには、充分な研究と経験を重ねた鑑定人が、「相当な」資料を手元においた状態で、 科 はじめて当を得た判断に至るものであり、その資料が不足のときには、決して〈異同〉 について意見を述べるべきではなく、意見を述べない勇気も必要になる。