ロ主要人物の系図ロ 前漢六代中山靖王陸城亭侯沛侯潼侯沂水侯 景帝ー勝ー貞ー昻 祿ー恋図 系 欽陽侯安国侯広陵侯膠水侯祖邑侯 英ー建ー哀ー憲ー舒 氏 曹 祁陽侯原沢侯潁水侯豊霊侯済川侯 誼ー必ー達ー不疑ー恵 く劉氏系図 > 劉備玄徳 〇ー厚 夏侯嬰ー 中常侍太尉 曹参・ー 0 ー安民 魏武帝 文帝①明帝②廃帝③ 丕叡ー芳 東海安王廃帝④ 植霖ー髦 献帝皇后 女 燕王元帝⑤ 宇ー奐 曲日。罘齒む ノ 87
といった称号と似たようたものだ。 には、王、公、侯の三種類があり、さらに侯が、 正規の侯、郷侯、亭侯にわかれていた。 「王」は皇族のみに限られ、王の封地を「国」 ・火から土ヘーー五行説とはどういうものか そうそう りかくかくし ちんりゅうおう ・ようおうじ けんてい という。のちに献帝となる協皇子は、陳留王と 曹操が李確、郭汜軍を破り、献帝を迎え入れ なり、陳留を国として与えられた。 たあと、天文官から、星の運行によって判断す じゅん 「公」も、よほどの大官でないとなれない。 るのに、新しい天子が出現する、といわれ、荀 公の封地を「公国」という。「侯」の封土は「県」彧にむかって「漢室は元来火性の家だったな」 と問い、荀彧が「はつ、そして殿は土性の家で ( 侯国 ) 、「郷侯」の封土は「郷」、「亭侯」の封 ございます」というところがある。曹操は、「天 土は「亭」である。これらの列侯は、封土とし らくよう た土地の地名を冠して呼ばれる。関羽は、漢寿の声かもしれん。余はこの洛陽から、都を許昌 にうっそうと思っておった。許昌の方向は土性 の亭侯だから「漢寿亭侯」である。 志封土をもったといっても、実際にその土地をの地、そしてこの曹操は土性の家、びったりだ 三治めるわけではなく、いずれも代官が支配する。 とは田 5 わんか」といい、荀彧は「あ : : : 」と驚 げんとく く ( 横山光輝『三国志』「土性の地」 ) 。 学「国」の代官を「相」という。玄徳は平原の相 雑 『三国志演義』では、筍彧が、「漢は火徳をも となっている。これは州の長官の刺史や、都知 かなんいん し って王となったものでありますが、殿は土徳の 事にあたる河南尹と同格の高官であった。 の 運命にございます。許都は土の方角にあたりま も実際の支配は代官が行ない、列侯は名目だけ すれば、かの地に至りますれば必ず興ることを 章の領主で、租税を受けとる権利をもっているに 第すぎなかった。その意味で、日本の「〇〇の守」得ましよう。火はよく土を生じ、土はよく木を けんてい どせい
しかも我が部下の秦琪まで斬ったと聞く。もうつ捕えてこいということだろう」と、夏侯厚は X 関羽との戦いをやめようとはしなかった。 】《 X 許せん。この夏侯惇がその首をもらう」と言い しいか、けんにしつ」 *X はなった。 「夏侯惇、強情もゝ ちょうりよう そう声をかけ、近よってきたのは張遼であっ 関羽が、「おれは曹操と約束をした。もしわ た。張遼は、「これ以上戦うと曹丞相にさから - 》ハれ帰らんとする日、じゃまをする者があれば、 一フことにな 死人の山をきずき、血の河を渡っても帰るであ るそ」と、 ろうとな。おぬしも血のはなむけにや「てきた {XX 『夏侯厚に釘 のか」とやり返す。夏侯厚は、「おのれ人もな XX をさした。 けなる大言 / 許せん。その首、拙者がもらっ た」と叫ぶや、打ってかかった。 しばらく斬りむすんで、関羽は、「さすが歴 つわもの :XX 負 勝戦の強者、みごとだ」と夏侯厚をほめた。「ほ 鼕 X 番 十ざくな」と夏侯惇が言う。 そこへ曹操の使者が、告文をもって駆けつけ のた。関所をすべて通せとの告文である。 夏侯惇は、その告文は関羽が六将を殺す前の XX 者 ものだと聞いて、なおも関羽にいどみかかった。 :XX 章そこへ第二の使者がきた。曹操はつぎつぎと三 XX 第度も告文を発したという。「ということは、ひ XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX , せんつわ、の 戦の強者 みごとだ ほざくな 7 お 1
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX XX XX XX XX ** 死人の山をきずき血の河を渡っても XX XX XX XX XX 亠番夏侯惇の強情に関羽は困惑 XX XX XX ・時建安五年三〇〇 ) ない。冀州に向かって、ひたすら進めばよかっ きしゅう XX ・所黄河の渡口から冀州への街道 XX XX ・背景関羽は五関を突破し玄徳のもとへ向か 背後に馬蹄のひびきが聞こえた。関羽はちら XX っていた とふりかえり、まだ自分を追 かこうし 0 ん XX ・戦った人関羽夏侯惇 う一隊があるのを知った。お XX ・判定関羽には戦うつもりはなく、夏侯惇がそらく戦わずにはすむまい XX XX 斬りかかってきたので応戦しただけ。 関羽は、ここまで守りぬいて 夏侯惇の勇み足であり、千里行の後できた玄徳の妻たちを先にやり、 XX あるにもかかわらず「さすか歴戦の強一騎で敵兵を待ちうけた。 XX 者、みごとだ」と相手に言う余裕があ 馬けむりをあげて近づいた った関羽の貫禄勝ち 人物を見て、関羽は、「ほう、 五関を突破し、玄徳との再会を目ざして千里夏侯、おぬしか」と言「た。 ル : っ 21 かんう XX の道を踏破してきた関羽は、ついに黄河を渡っ夏侯厚は、「おぬしはみだり そ・つそう XX た。ここから先には、もはや曹操のおいた関は に関所を破り、六将を殺し、 XX けんあん こうが もの かんう わたし げんとく
羽をはなはだ重んじて、「偏将軍」に任命する。軍、左将軍、右将軍があった。そのほかに名誉 ぞうごう このシーンは横山光輝『三国志』にも描かれて職として、越騎将軍、破虜将軍などの雑号将軍 ( そのときどきに応じて名称をつけた ) がある。 『三国志演義』では、その後、関羽が顔良を 「偏将軍」というのは、副将軍のことだが、 さほど高い地位ではない。総大将の下にある各討ったので、曹操は天子に上奏文を奉って、関 かんじ 0 ていこう 部隊の将軍を「偏将軍」ということもある。テ羽を「漢寿亭侯」に封じる。立間祥介訳では、 レビ・ドラマ『水戸黄門』の「天下の副将軍」 「雲長を漢寿亭侯に封じ、印を鋳らせて関公に と同じく、関羽も実際に兵馬の権を与えられた与えた」となっているが、原文 ( 上海古籍出版 わけではないので、名誉職といったおもむきが社版一九八〇年、など ) には、曹操が初め「寿 かんの 8 亭侯之印」を贈ったところ関羽は受けず、「漢 5 後漢時代、軍は常置の官ではなく日 、ト常寺寿亭侯之印」に改めたら受けた、というエピソ ードが記されている。「曹操に降伏せず漢に降 にだけ任命された。その最高位が大将軍である。 もともとは、官制の上での最高の官は三公 ( 大伏する」といった関羽らしい しくう ・司徒・司空 ) であったが、和帝の時代 ( 西しかし、「漢の寿亭侯」ではなく、「漢寿」 暦一〇〇年前後 ) に三公より上となり、霊帝のという土地の亭侯とする説もあり、現在ではこ かんがん 時代には窿武が大将軍となって宦官と対立し、 ちらの方が有力だ。「亭侯」というのは、爵位 の最下位のものである。 争った。 皇族や、功臣で、封地を与えられた ( 大名に 大将軍の下には、驃騎将軍・車騎将車・衛好 れつこう なった ) ものを「列侯」という。後漢代の列侯 軍があり、ちょっと位が下がって前将軍、後将 とうぶ ひょうき へんしようぐん えっき
く孫氏系図〉 静ー暠 ^ 景帝〉〈烏程侯・帰命侯〉 休ー皓 権和 ( 南陽王 ) 登 〈廃帝・会稽王 ) ③④ 恭綽 峻糸林 孫堅文台 孫策伯符 孫権仲謀
夏侯惇 ( かこう・じゅん ) しよう そうそう 字は元譲。浦国の人。曹操の 年いとこで、曹操の挙兵以来数々の 渊 9 侯幻戦いに参加してきた歴戦の勇士。 げん′、 呂布の攻撃を受けた玄徳を救援に 年 行き、敵兵に矢で左目を射られる と、矢もろとも目を引き抜いた。 ・えんしよう ? から加わっている。袁紹との単い 『三国志演義』では、このとき「父 洋一ちょう で名をあげ、韓遂が馬超と組んで母からもらったものだ。もったい 戦いを挑んできたときに活躍した。ない」と言って喰らったとされて いる。曹操亡きあと、曹丕に仕え 曹操の妺を妻としている。のちに 楽進 ( がく・しん ) ようへ、 かんち 0 う 字は文謙。陽平郡衛国の人。曹漢中で玄徳軍と戦ったとき、玄徳て大将軍に任ぜられる。 1 : っちゅう そう 第 : った / 、ル一・つ ) っ 操か董卓討伐の兵を挙げたときに、の部将・黄悪に討たれる。 いち早く馳せ参じた勇将。呂布と 関羽 ( かん・う ) げんとく うんらよう かとう とうえん の戦いや、玄徳との戦いで活躍し 字は雲長。河東郡解の人。桃園 ちょうひ けいしゅう た。史書によると、のちに荊州の の誓い以来、張飛とともに玄徳を じようよう かんう 年ささえ、あらゆる戦いに武勇を発 襄陽で、関羽を撃退する。 ル 1 ・つた′、 侯揮する。董卓車の華雄を討って武 しーしのう 名をとどろかせた。徐州が落城し 夏侯渊 ( かこう・えん ) しよう かこう」ふん みようを、、 字は妙才。市国誰の人。夏侯厚 た際、下郵を守っていて孤立し、 そうそ・つ 旱・・つニ : っ 曹操に降るが、曹操の誘いをこと と同族で、曹操が兵を挙げたとき 争い、意志の統一を見ることがで ( 「 きなかった。 0 かんすい 7 02
かんちゅう 曹操は漢中に兵を進めた。玄徳に奪われた漢中を奪還しようとしたのだ。 しかし玄徳は、曹操が着く前に周辺の軍勢をすべて要害にたてこもらせ、 単おうとせずに守備を固めていた。 ばちょう 曹操は、軍を進めようとすれば馬超にはばまれ、かといって引き揚げよ ざ うとすれば蜀の笑いものにされるので、それが口惜しくて思いまどってい わ と 事 ある日、料理番が鶏の吸い物を出した。曹操は碗の中の鶏の肋を見てい る かこうじゅん にその時、夏侯惇が来て、「今夜のご命令は ? 」とたずねた。 けいろく 志 国 曹操はとっさにロにした。夏侯厚は大将たちにそれを伝え、全軍にその命令が行きわたった。し ようしゅう かし属官たちはなんのことだかわからない。 ところが、行軍主簿の楊修は、ただちに荷物をまとめ 章て引き揚げの準備をはじめた。 第夏侯厚が楊修にその理由をたずねると、楊修は答えた。 鶏肋 よ一フになった。 五兄弟のうち、いちばん年下は馬謖で、のちに街亭の戦いで、孔明の指示にそむいて大敗し、孔 明は「泣いて馬謖を斬る」ことになる。 けいろく そうそう しよく 7 73
〔索 くあ > 阿斗 ( あと ) 36 , 88 , 113 , 129 伊籍 ( いせき ) 33 , 98 , 172 夷陵 ( いりよう ) 128 , 130 , 161 于吉 ( うきつ ) 98 , 117 于禁 ( うきん ) 98 , 103 , 128 烏林 ( うりん ) 161 , 162 , 164 潁川 ( えいせん ) 48 , 109 , 110 , 161 , 163 益州 ( えきしゅう ) 克州 ( えんしゅう ) 161 袁術 ( えんじゅっ ) 28 , 67 , 96 , 98 , 160 , 166 袁紹 ( えんしよう ) 25 , 46 , 99 , 107 , 108 , 111 , 115 , 117 , 120 , 125 , 129 , 130 , 154 , 157 , 162 , 165 王允 ( おういん ) 26 , 95 , 99 , 136 , 156 王美人 ( おうびじん ) 99 , 106 , 139 くか〉 街亭 ( がいてい ) 173 , 177 賈 ( かく ) 69 , 70 , 100 , 118 , 126 , 116 111 , 114 , 131 , 118 , 124 , 161 , 郭図 ( かくと ) 鶴整 ( かくしよう ) 郭嘉 ( かくカ ) 138 101 楽進 ( がくしん ) 102 , 127 154 郭汜 ( かくし ) 101 , 131 , 159 101 , 111 , 122 207 引〕 夏ロ ( かこう ) 161 夏侯渊 ( かこうえん ) 66 , 102 , 118 何皇后 ( かこうごう ) 99 , 100 , 111 127 , 139 夏侯惇 ( かこうじゅん ) 54 , 55 , 73 , 98 , 102 , 122 , 146 , 173 , 174 何進 ( かしん ) 99 , 100 , 112 , 123 , 139 華陀 ( かだ ) 100 , 117 合汜 ( がつひ ) 98 , 161 刮目 ( かつもく ) 174 下郵 ( かひ ) 69 , 70 , 80 , 102 , 106 , 120 , 125 , 140 , 161 葭萌関 ( かばうかん ) 60 , 126 華雄 ( かゆう ) 25 , 44 , 102 , 163 華容 ( かよう ) 75 , 92 , 162 関羽 ( かんう ) 22 , 24 , 25 , 30 , 31 , 32 , 35 , 37 , 39 , 44 , 54 , 55 , 56 , 57 , 69 , 70 , 72 ~ 74 , 86 , 87 , 89 , 92 , 93 , 98 , 100 , 102 ~ 104 , 107 , 110 , 111 , 115 , 116 , 119 , 120 , 125 , 126 , 128 , 131 , 132 , 134 , 145 , 146 , 147 , 154 , 155 , 157 , 158 , 161 , 162 ~ 166 , 171 174 韓玄 ( かんげん ) 56 , 104 , 107 韓遂 ( かんすい ) 70 , 71 , 124 漢中 ( かんちゅう ) 60 , 104 , 118 , 120 , 121 , 124 , 126 , 128 , 162 官渡 ( かんと ) 99 , 101 , 111 , 115 , 117 , 118 , 130 , 162 , 164
「鶏肋は、食べようとしても肉はないが、 かといって味わいかあるので捨てるにはおしい。漢中は そういう土地だという意味でしよう。明日、陣払いをなさるに相違ありません」 たいしたものではないが、捨てるには惜しいものを「鶏肋」というのは、この故事から生まれた。 ところで『三国志演義』では、その夜、曹操が陣中を歩いていると、夏侯惇の陣中で兵士たちが 荷物をまとめていた。驚いて夏侯陣にわけを聞くと、楊修が曹操は陣払いする意向だといったとの こと。楊修に問いただすと、鶏肋の意味を答えたので、曹操は、「よけいな事をいって、士気を乱 と書かれている。 した」と怒り、打ち首にした しかし、『魏書・曹植伝』によると、楊修は曹操の後継者をめぐっての争いにまきこまれ ( 曹操 は曹丕を後継者と決定したが、楊修は曹植派であった ) 、才気がありすぎるのを警戒されて殺され となっている。 いずれにしても、楊修は、曹操が漢中攻略に失敗した年に殺されたのであった。 「呉下の阿蒙」 「士、別れて三日、刮目してあい待す」 々、なし第い 呂蒙は、字を子明といし 呉の孫策、孫権につかえた名将である。荊州をめぐる関羽との戦いは 有名だが、『呉書・呂蒙伝注』に記されたエヒソードも、よく知られている。 孫権が、呂蒙と蒋欽に、「重要な地位についたのだから、学問をしなければいかん」といっ たことがあった。呂蒙は、「陣中が多になので、読書する暇がありません」と答えた。すると、孫 し あもう かつも / 、 ノ 74