曹丕 - みる会図書館


検索対象: 横山光輝 三国志事典
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1. 横山光輝 三国志事典

げん・こ / 、 キ - ーしよう 牧・陶謙の推挙で玄徳軍に加わり、 8 ー年〕 長安を脱出した献帝を許昌に迎え曹丕 ( そう・ひ ) 4 へんしよう しかん て一大勢力をきずいた。呂布に徐字は子桓。市国讌の人。横山光玄徳の腹心となる。袁紹や劉表の げん 1 ′、 もとに使者としておもむき、相手 州を奪われた玄徳を迎え入れて、輝『三国志』にはまだ登場しない。 そうそう な人よう やがて力を合わせて呂布を滅ばし、曹操の次子。長兄の曹昻が南陽での了解をとりつけている。 ちょうしゅう 許昌に凱旋すると、天下に英雄と張繍と戦った際に陣没していたの しえるのは自分と玄徳だけだと言で、側近は曹丕派と曹植派にわか う。徐州に逃れた玄徳を攻撃して、れて争ったが、結局、曹丕が後継 かんう 関羽を降伏させ、何とか自分の部者となった。曹操の死にともなっ ぜんじよう けんてい 下にしようとするが、関羽は玄徳て魏王となり、献帝の褝譲をうけ かんと をしたって帰る。その後、官渡のて魏の初代皇帝となる。詩人とし えんしよう 戦いで袁紹を破って国の三分の二てもすぐれた作品をのこした。 を掌握すると、南征軍をおこして 典 事 荊州の玄徳を敗走させた。しかし せきへき タ赤壁の戦いに敗れ、玄徳と孫権の ク 勢力が伸長したので、統一の夢は ラ ャ 果たせなかった。献帝を意のまま キ に動かし、やがて魏公から魏王に 登なるが、帝位を奪うまでにはいた らず、六十六歳で病死する。献帝 ぜんじよう 章 から帝位を神譲されたのは、後継孫乾 ( そん・かん ) こ・つゆ・つ 字は公祐。北海国の人。徐州の 第者の曹丕であった。 ちょうあん そうひ けんて しよう 孫乾 〔生没年不詳〕 孫な手洛き孫孫 かに陽権字堅 、入にのは は 仲きそ襄 3 れ一父文そ 謀粤ん陽弯る番。台をん で。乗董 0 う 戦荊「り卓 ? 呉 = け 呉こけ 郡ん死月信し討与郡を しを、伐富 た攻伝え軍春 春 。め国 ~ にの の ての加人 人 い玉 ! わ 0 る璽じっ孫え 孫 さをて策 : 臣乂け ーこ・つけ・れ ふしゅん ふしゅん り 0 うひょう 0 堅 孫 〔 1 56 ~ 192 年〕 〃 5

2. 横山光輝 三国志事典

西暦 り 4 らー・ . っ 明のすすめにより劉封を除く。 を争う。 〔蜀・章武一〕玄徳は蜀を建国し昭烈 ニ一七曹操は居巣、濡須で孫権を破る。曹操ニニ の長子曹丕が魏王太子となる。魯粛が 帝となる。孔明を丞相とする。張飛が 部下に殺される。孫権は魏の文帝に臣 病没し、呂蒙が後をつぐ。 従を誓って呉王に封ぜられる。 ニ一八曹操に対する謀反が失敗に終わる。曹 操は玄徳討伐軍をおこし、長安に出陣ニニニ〔蜀・章武二〕玄徳は関羽の報復のた ようへいカ / めに出兵するが、夷陵で呉の陸遜に大 する。玄徳は陽平関で張郤と戦う。 かこうえん 敗して白帝城に帰る ( 夷陵の戦い ) 。 ニ一九玄徳は陽平関で夏侯渊を破り、曹操を 建安一一四 撃退して漢中を取ると、漢中王となる。 〔呉・黄武一〕呉の孫権は魏から独立 しよう・つ し、呉の年号を立てる。 関羽は襄陽を占拠し、樊城で廂徳を斬 り于禁を捕える。孫権は魏と同盟して ニニ三〔蜀・章武三〕玄徳が白帝城で没し、 かんへ 劉褝が即位〔建興と改元〕。鄧芝が呉 関羽を襲う。関羽と関平父子は捕えら に派遣され、呉と蜀の同盟成立。 れて斬られる。 ニニ〇曹操没し、丞相・魏王となった曹丕は、 〔魏・黄初四〕曹丕が濡須に出陣する 表建安ニ五 が大敗する。 献帝の褝譲によって帝位につき ( 文帝 ) 、 年 志 一三五〔蜀・建興三〕孔明は「七縦七擒」の 魏を建国、洛陽に遷都する〔魏・黄初 さんようこう 国 策によって南方異民族を平定する。 一〕。献帝は山陽公となる。玄徳は孔 建安一 = 一 建安一 = ニ 事 件 西暦 事 件 799

3. 横山光輝 三国志事典

蔡瑁 ( さい・ぼう ) ていた。曹操の死後は曹丕に仕え、 けいしう りゅうひょう 荊州の豪族で、劉表の荊州人り曹丕が皇帝 ( 文帝 ) となってから に協力した。自分の姉を劉表の後は宰相となる。曹丕が死んで曹叡 り 0 うニ : っ 妻に入れ、姉の生んだ劉琮を跡取が即位 ( 明帝 ) したあと、荊州、 司馬徽 ( しば・き ) 典 りにするために、先妻の子、劉琦予州の軍事の全権を与えられ、孔字は徳栄。「水鏡先生」とよばれ、 事 を亡きものにしようと計る。その明が北征の軍をおこすと、孑明 ( 「よしよし」というのがロぐせで だんけい タため、劉琦に跡をつがせるべきだっこうとした孟達を寸っこ。 言オ三年あった。壇渓を跳んでようやく逃 ラと主張する玄徳を殺す手筈をとと後、孔明と初めて対戦するが、蜀れてきた玄徳と会い、「伏竜か鳳雛 だんけい キ のえるが、玄徳は壇渓を跳んで逃軍は食糧補給を確保できずに撤退を得れば天下をとれる」と教える。 げのびる。 した。さらに三年後、五丈原に陣 場 をしいた孔明と対陣。孔明は病に 朱雋 ( しゅ・しゅん ) 司馬懿 ( しば・い ) 倒れて没した。仲達は撤退する蜀皇甫嵩とともに、黄巾の乱の鎮 ちうたっ 章 字は仲達。河内郡温の人。はじ軍を追おうとするが、孔明が姜維圧を命じられた軍。潁川で黄巾 第め曹操に招かれて文官として仕えにさずけておいた策によって、「死賊と戦っているところへ、玄徳が 〔 ? ~ 208 年〕 0 0 司馬懿 〔 179 ~ 251 〕 きよう しよく せる孔明、生ける仲達を走らす」 といわれた逃走をする。 : つほす・つ こ・つキ : へ 司馬徹 〔生没年不詳 709

4. 横山光輝 三国志事典

挙兵のときから加わった勇。曹 説得し、ついに呉を開戦にふみき せきへき 操が董卓車と榮陽で戦って大敗し らせた。赤壁の戦いのあと、敗走 言たとき、負傷した曹操をはげまし、 する曹操軍をさらに苦しめる。荊 州の四郡を攻略する指揮をとって 年ともに河を泳いでわたって曹操の 鄒没 命を救った。『三国志演義』では、 これを成功させ、玄徳が蜀に入る ちょうひ ちょううん 曲日に」とと、もにしばしば失敗以」す とき、張飛、趙雲らとともに成都 る役まわりになっているか、つね に入城。史書によると、やがて玄 徳が帝位につくと、丞相となった。の戦いをいどんだとき、ともに戦に重要な戦いに参加し、勲功も立 りゅうぜん 玄徳は死にのぞんで、「劉褝が帝った正規軍の将車。史書によれば、てている。 王にふさわしくなければ、代わっ那靖は玄徳が最初に仕えた校尉で 曹植 ( そう・しよく ) 〔 5 年〕 て帝位につくように」と遺言したあるという。 そうそう 字は子建。沛国詆の人。曹操の 典が、孔明はあくまでも劉褝をもり ・や・つか′、 第三子。魏の文帝になった曹丕の 事たてようと努めた。南方の孟獲を 弟。文章に巧みな天才児で、曹操 タ七縦七擒によって帰服させたあと、 ク 年からとりわけ愛されたが、曹操は いよいよ魏征討の軍をおこすが、 ラ 「一じようげん 迷った末に兄の曹丕を後継者とし ャ五回目の北征の途中、五丈原の陣 た。曹植は兄の命によって小国を 中で志なかばにして没した。 転々とさせられ、不遇のまま四十 一歳で死ぬ。しかしその不遇時代 鄒靖 ( すう・せい ) げん A プ、 に作った寺は、・僕世の人々から愛 章玄徳が義勇軍をつのって黄巾賊曹洪 ( そう・こう ) そうそう たいこうざん 第討伐に立ち上がり、大興山で最初字は子廉。曹仁とともに、曹操された。 し 4 う じようしよう しよく - 一・つきん せいと しれ人 0 そうじん A 一・つた′、 けいよう しよう 〃 3

5. 横山光輝 三国志事典

111 , 113 , 114 , 163 曹植 ( そうしよく ) 113 , 115 曹仁 ( そうじん ) 34 , 63 , 78 , 79 , 100 , 111 , 113 , 114 , 152 曹嵩 ( そうすう ) 114 , 123 曹操 ( そうそう ) 25 , 29 ~ 31 , 36 ~ 39 , 48 ~ 51 , 54 , 55 , 58 ~ 157 , 159 ~ 166 , 168 , 169 , 171 136 , 138 ~ 140 , 143 , 145 , 154 , 91 , 92 , 94 , 96 , 98 ~ 132 , 134 ~ 60 , 62 , 66 ~ 80 , 82 ~ 86 , 88 , ~ 174 ~ 132 , 134 , 161 , 162 , 164 , 112 , 115 , 116 , 119 , 122 , 130 , 74 , 98 , 103 , 104 , 107 , 110 , 孫権 ( そんけん ) 40 , 62 , 63 , 116 , 122 , 130 , 157 , 165 孫堅 ( そんけん ) 75 , 107 , 115 , 孫乾 ( そんかん ) 115 115 , 130 , 174 曹丕 ( そうひ ) 102 , 109 , 113 , 166 , 174 太史慈 ( たいしじ ) 27 , 52 , 53 大喬 ( だいきよう ) 138 106 , 117 , 129 , 134 , 136 孫夫人 ( そんふじん ) 40 , 63 , 116 , 118 , 122 , 131 , 136 , 174 75 , 76 , 98 , 101 , 107 , 110 , 115 , 孫策 ( そんさく ) 27 , 52 , 53 , 40 , 135 , 136 孫権の母 ( そんけんのはは ) 壇渓 ( だんけい ) 33 , 109 , 164 仲達 ( ちゅうたっ ) 103 , 106 , 109 , 118 , 126 , 163 , 177 , 178 長安 ( ちょうあん ) 26 , 58 , 101 , 104 , 106 , 111 , 114 , 115 , 121 , 123 , 126 , 127 , 131 , 164 趙雲 ( ちょううん ) 34 , 36 , 41 , 46 , 72 , 74 , 88 , 94 , 106 , 113 , 117 , 124 , 117 長坂 ( ちょうはん ) 36 , 37 , 89 , 123 , 136 , 137 , 156 豸召蝉 ( ちょうせん ) 26 , 99 , 121 , 張昭 ( ちょうしよう ) 118 張松 ( ちょうしよう ) 118 , 125 , 101 , 115 , 118 , 122 , 130 , 138 , 張繍 ( ちょうしゅう ) 68 , 69 , 長沙 ( ちょうさ ) 56 , 104 , 157 , 134 , 140 , 144 , 146 , 147 , 162 , 114 , 116 , 117 , 120 , 125 , 129 , 128 165 162 , 165 126 , 161 , 177 張部 ( ちょうフ ) 張角 ( ちょうかく ) 163 , 165 154 , 157 , 163 , 164 , 165 , 170 , 124 , 133 , 134 , 144 ~ 147 , 153 , 87 , 89 ~ 91 , 102 , 104 , 113 , 119 , 35 , 37 , 44 , 60 , 61 , 67 , 72 , 74 , 張飛 ( ちょうひ ) 22 ~ 24 , 31 , 144 , 161 , 165 91 , 106 , 119 , 120 , 129 , 134 , 204

6. 横山光輝 三国志事典

「鶏肋は、食べようとしても肉はないが、 かといって味わいかあるので捨てるにはおしい。漢中は そういう土地だという意味でしよう。明日、陣払いをなさるに相違ありません」 たいしたものではないが、捨てるには惜しいものを「鶏肋」というのは、この故事から生まれた。 ところで『三国志演義』では、その夜、曹操が陣中を歩いていると、夏侯惇の陣中で兵士たちが 荷物をまとめていた。驚いて夏侯陣にわけを聞くと、楊修が曹操は陣払いする意向だといったとの こと。楊修に問いただすと、鶏肋の意味を答えたので、曹操は、「よけいな事をいって、士気を乱 と書かれている。 した」と怒り、打ち首にした しかし、『魏書・曹植伝』によると、楊修は曹操の後継者をめぐっての争いにまきこまれ ( 曹操 は曹丕を後継者と決定したが、楊修は曹植派であった ) 、才気がありすぎるのを警戒されて殺され となっている。 いずれにしても、楊修は、曹操が漢中攻略に失敗した年に殺されたのであった。 「呉下の阿蒙」 「士、別れて三日、刮目してあい待す」 々、なし第い 呂蒙は、字を子明といし 呉の孫策、孫権につかえた名将である。荊州をめぐる関羽との戦いは 有名だが、『呉書・呂蒙伝注』に記されたエヒソードも、よく知られている。 孫権が、呂蒙と蒋欽に、「重要な地位についたのだから、学問をしなければいかん」といっ たことがあった。呂蒙は、「陣中が多になので、読書する暇がありません」と答えた。すると、孫 し あもう かつも / 、 ノ 74

7. 横山光輝 三国志事典

そ・つそう 布に奪われると、曹操をたよって破る。その後、荊州の四郡を攻略 落ちのび、曹操とともに呂布を討し、やがて蜀の地を得た。史書に った。許都に凱旋した玄徳は左将よると、その後、荊州をめぐって 軍に任ぜられるが、曹操誅殺計画孫権と争うが、荊州分割で話がま かんらのう に加わり、身の危険を感じると、 とまり、曹操から漢中を奪って漢 りーまノ・つ 口実をもうけて徐州に逃れ去る。中王となった。しかし呂蒙に関羽 ( ( 〉み〉。 徐州が曹操に落とされると、袁紹を討たれ荊州を失う。やがて曹丕 かんと をたより、袁紹が官渡の戦いで敗が魏王朝をつくると、玄徳も蜀で劉表 ( りゅう・ひょう ) りのうひょう れた後、荊州の劉表のもとに身を帝位につく。関羽の讐を討っため字は景升。山陽郡高平の人。荊 りよう りくそん よせる。ここで孔明を軍師に迎え、に東征し、夷陵の戦いで陸遜に敗州の牧。孫堅が王璽を持って呉へ は′、′、いじよう 南下してきた曹操の追撃を逃れてれた玄徳は、白帝城で病に倒れ、帰ろうとするのを妨害しようとし せきへき たことがあった。そのため、孫堅 孫権と結び、赤壁の戦いで曹操を孔明に後事を託して没した。 えんじゅっ は袁術の作戦に乗せられたふりを 徳して荊州へ攻め込む。劉表は孫堅 を迎え討って戦死させた。その後、 の ちょうしゅう 南陽の張繍と組んで許都を襲おう かんと れとしたが果たせなかった。官渡の そうそう 戦いの前に、曹操が使者を送った とき、張繍は曹操についたが、劉 表は使者を追い返している。やが て曹操に追われた玄徳を受け入れ、 しう なんよう さんよう ぎよく卩 ) ロ 劉表 〔 142 ~ 208 年 ノ 30

8. 横山光輝 三国志事典

夏侯惇 ( かこう・じゅん ) しよう そうそう 字は元譲。浦国の人。曹操の 年いとこで、曹操の挙兵以来数々の 渊 9 侯幻戦いに参加してきた歴戦の勇士。 げん′、 呂布の攻撃を受けた玄徳を救援に 年 行き、敵兵に矢で左目を射られる と、矢もろとも目を引き抜いた。 ・えんしよう ? から加わっている。袁紹との単い 『三国志演義』では、このとき「父 洋一ちょう で名をあげ、韓遂が馬超と組んで母からもらったものだ。もったい 戦いを挑んできたときに活躍した。ない」と言って喰らったとされて いる。曹操亡きあと、曹丕に仕え 曹操の妺を妻としている。のちに 楽進 ( がく・しん ) ようへ、 かんち 0 う 字は文謙。陽平郡衛国の人。曹漢中で玄徳軍と戦ったとき、玄徳て大将軍に任ぜられる。 1 : っちゅう そう 第 : った / 、ル一・つ ) っ 操か董卓討伐の兵を挙げたときに、の部将・黄悪に討たれる。 いち早く馳せ参じた勇将。呂布と 関羽 ( かん・う ) げんとく うんらよう かとう とうえん の戦いや、玄徳との戦いで活躍し 字は雲長。河東郡解の人。桃園 ちょうひ けいしゅう た。史書によると、のちに荊州の の誓い以来、張飛とともに玄徳を じようよう かんう 年ささえ、あらゆる戦いに武勇を発 襄陽で、関羽を撃退する。 ル 1 ・つた′、 侯揮する。董卓車の華雄を討って武 しーしのう 名をとどろかせた。徐州が落城し 夏侯渊 ( かこう・えん ) しよう かこう」ふん みようを、、 字は妙才。市国誰の人。夏侯厚 た際、下郵を守っていて孤立し、 そうそ・つ 旱・・つニ : っ 曹操に降るが、曹操の誘いをこと と同族で、曹操が兵を挙げたとき 争い、意志の統一を見ることがで ( 「 きなかった。 0 かんすい 7 02

9. 横山光輝 三国志事典

ロ主要人物の系図ロ 前漢六代中山靖王陸城亭侯沛侯潼侯沂水侯 景帝ー勝ー貞ー昻 祿ー恋図 系 欽陽侯安国侯広陵侯膠水侯祖邑侯 英ー建ー哀ー憲ー舒 氏 曹 祁陽侯原沢侯潁水侯豊霊侯済川侯 誼ー必ー達ー不疑ー恵 く劉氏系図 > 劉備玄徳 〇ー厚 夏侯嬰ー 中常侍太尉 曹参・ー 0 ー安民 魏武帝 文帝①明帝②廃帝③ 丕叡ー芳 東海安王廃帝④ 植霖ー髦 献帝皇后 女 燕王元帝⑤ 宇ー奐 曲日。罘齒む ノ 87

10. 横山光輝 三国志事典

も・つル一 / 、 曹仁 ( そう・じん ) 徐州で陶謙の部下の手にかかって字は孟徳。国の人。董卓暗 そうこう そうそう 字は子孝。曹洪と同じく、曹操殺された。史書によれば、陶謙は殺に失敗して陳留に逃げ帰ると、 が最初に兵を挙げたとき以来の勇曹操に敵対していたので、曹嵩を董卓討伐の兵を挙げた。洛陽を焼 せんはう 将。曹操軍ではつねに先鋒をつと殺したという。 いて長安へうつった董卓を深追い めている。樊城をあずかっていた して、手痛い敗北をこうむるが、 ときは、新野を攻めて徐庶の作戦曹操 ( そう・そう ) 青州の黄巾賊を討って自軍に加え、 にかかって城を奪われ、荊州では ちょううん 趙雲に南城を奪われる。 曹嵩 ( そう・すう ) そうそう ・てみ′ーこ・つ かんがん 曹操の父。宦官だった曹騰の養 子になり、官僚生活を送ったが、 退職後は故郷に隠棲していた。曹 操に迎えられて発州へ向かう途中、 なん しんや はん 〔 168 ~ 223 年〕 ・つけん 〔 ? ~ 193 年〕 一 : つきん 月 4