赤壁の戦い ー玄徳敗退・孫権進撃路 ー孫権・玄徳連合軍進攻路 曹操の進軍・敗退路 、ー、、曹操軍 襄陽 曹操軍 リ一埼一軍 - 反 0 陽 南郡水 華容 赤壁 0 巴丘 那陽 洞庭湖 那陽湖 南下してきた曹操軍に追われ、 玄徳は新野から襄陽ー宜城ー当 陽ー長坂ー漢津をへて、夏口ま で逃げ、孫権と結んで赤壁で曹 操軍を打ち破る。 樊旧江夏 漢 = 水 ) 竜陵 赤壁付近
荊州をめぐる争い 魏の勢力圏 蜀〃 0 黄 河 魏 水 洛陽 長安 之三南陽へ トこ三水三一 ー樊城三 三襄陽 白帝 「・夏ロ・し姦 =. 長江 公安 " ~ 陸亟を 武陵 洞庭湖第 湘長沙綣 , 水ダ 赤 河 0 の 0 や桂ヨ 長襄陽ド い i 江陵′ 江公安 カ 武陵 5 長 赤壁の戦いのあと , 荊州をめ 曹操勢力圏 ロ玄徳勢力圏 ~ ぐって玄徳と孫権は争った。 日 三孫権勢力圏 赤壁戦後孫権が占拠し、 のち玄徳に譲った地域 ニ = ロ 建業 0 皖ロ 0 呉 0 会稽 呉 部陽湖 V 、
西北境にあった。関羽は汜水関の を取る。桂陽太守の趙範は、趙雲される。 戦いで、董卓軍の華雄を討ち取る。 を兄嫁の再婚相手にしようとして五丈原〔ごじようげん〕 は」・つしよう せんせい 現在の陜西省鳳翔県。孔明は五 ト市〔しょつま、 痛い目にあう。 度目の北征で五丈原に陣を敷いた 沛県のこと。浦郡に属していた 榮陽〔けいよう〕 かなん ち 0 うたっ ので、小沛と呼ばれた。現在の江 漢代には、現在の河南省成白本県が、仲達は戦いに応じなかった。 の西南に県が置かれ、三国時代の長引く戦いのなかで、孔明は病い蘇省沛県の東。玄徳は徐州を呂布 かな人 けいたく に奪われたが、再び呂布と手を組 魏は、現在の河南省榮沢県の西南を得て、陣中に没する。 た′、 んで小沛を居城とし、のちに予州 に郡を置いた。曹操が董卓を深追虎牢関〔ころうかん〕 そうこう かなんせいこう いして大敗し、曹洪に助けられて関の名。現在の河南省成泉県のの刺史となった時も小浦に屯した。 ・ら / 、し・つ 危地を脱した所。 西北にあったという。洛陽から五常山〔じようざん〕 ちょう かんう かほく 江夏〔こうか〕 十里のこの地で、玄徳、関羽、張郡および国の名。現在の河北省 ちょううん 郡の名。後漢時代の郡の中心地飛の三人は力を合わせて董卓軍の正定県の南。趙雲の出身地として は、現在の湖北省黄岡県の西」 ヒに呂布と戦う。 知、られる。 志 国置かれていた。劉琦が、孔明の教柴桑〔さいそう〕 襄陽〔じようよう〕 き・う - 了っ えにしたがって守りについたとこ県の名。現在の江西省九江県の県の名。現在の湖北省南潭県の はよう 学 ろ。 西南にあたる。長江が那陽湖の西東北。三国時代になると、魏は現 雑 広宗〔こうそう〕 北と接する所。荊州攻略に失敗し在の湖北省襄陽県に郡を置いた。 ーレ かはく し 0 うゆ の県の名。現在の河北省清河県のた周瑜は、やむなく柴桑に引き返前州の中でも戦略上大切な地点な ろしよく ちょうかく も 東。盧植が黄巾賊の張角と対陣しした。 ので、昔から襄陽をめぐる争いは 多い。玄徳は蔡瑁から「襄陽の会」 章ていた。玄徳は応援に駆けつける汜水関〔しすいかん〕 えいせん かなん 第が、盧植から潁川へ行くよう指示関の名。現在の河南省成泉県のに招かれ、危うく殺されるところ そうそう ちょうは人 、い・ : っ りーふ ちょうこう こうせい かんう な人しよう
壇浜をぶ ・玄徳を殺そうと謀った蔡 瑁は、東、南、北の門に 兵を伏せた。玄徳は西の 門から逃れ、壇渓の激流 に馬もろとも飛ひ込む。 ・時ーー建安十ニ年 ( ニ 0 七 ) ・所ーー襄陽郊外・壇渓 蔡瑁は玄徳を殺す手はず をととのえて、襄陽の会に 0 玄徳を招いた。東の現山を 面蔡和の兵五千で固め、南に さいち 4 う 名蔡仲の三千騎を伏せ、北門 は蔡勲の数千騎に待ちかま えさせてある。ただ西の門 たんけい 心は壇渓の流れに行きあたり、 章この急流を渡ることは不可み。 第能なので、兵をおかなかつを けんあん ちょううん た。玄徳を守る趙雲をさそ い出し、討ちとる手だては 完全にととのった。それを せき 知った伊籍は、玄徳に酒を すすめながら、危険が身に 迫っていることを知らせる。 カ ~ イ 玄徳は、廁へ行くふりを して宴席を脱け出すと、凶芻 てきろ 馬といわれた的盧にまたが り、西の門を踏み破った。 しかし、すぐに壇渓に行き あたった。追手はせまって いる。もはや的盧に身をゆ だねて激流に飛び込むしか なかった。的盧は、岩をか む壇渓の流れを泳ぎきって、 対岸についた。
◆三国志要図◆ 三国時代の中国 回国都 ( 州治を兼ねる ) ◎重要な場所 ロ州治 △山 〕〔関 〇漁陽 回幽州 回代州◎ 北平 楼桑村ロ深 渤毎 中山口 安喜 井州ロ常山。冀州ロ平、 : 鬢・苛 回青州 克州馬陵山△ 〇下郵 徐 広陵 ロ淮南揚恒 〇 洛陽汜 〕〔斜 水◎ 谷 関 関、南陽ロ・薄望坡城 宛城◎尾坡ロ予州 ( 汝南 ロ襄陽 ◎長坂 州工迎木 華容◎◎赤璧 州 ー \ 虎牢 ロ隴西 中 呉 ロ △柴金山 夷 画益州 ( 成都 ) 江 ◎柴桑 武陵ロ ロ長沙 「陵〇桂陽 ロ広州 7 82
法正 ( ほう・せい ) うふふうび 字は孝直。右扶風邯の人。はじ しよく 年め蜀の劉璋に仕えていたが、玄徳 ちょうしよう 側に立った張松に説かれて、玄徳 ? を蜀へ迎え入れるべきだと考える かんち 4 う ちょうろ にいたった。漢中の張魯の攻撃に 際し、玄徳のもとへ救援をたのむ 糜竺 ( び・じく ) を追いつめる。しかし助けに入っための使者に立つ。張松が処刑さ とうかい らよううん 字は子仲。東海郡胸の人。玄徳た趙雲との一騎打ちで敗れそうにれてからも、玄徳のために働き、 がんりよう 軍の重臣。徐州で玄徳に仕えるよなり、公孫をとり逃がす。顔良のちに玄徳の参謀となった。 - つになった。史聿日によると、徐川 とともに曹操軍から恐れられたが、 典の名家の出で、大資産家であり、曹操のもとにあった関羽に討ちと 奴僕一万といわれていた。陶謙のられた。 タ遺命によって玄徳を徐州の牧に迎 え、玄徳が呂布に下邸を奪われた ラ ときには再起の資金を出し、妹を 玄徳の夫人として入れたという。 文醜 ( ぶん・しゅう ) 章袁紹に仕えた部好。袁紹が公孫 第墳と戦ったとき、敗走する公孫墳 しちゅう 〔生没年不詳〕 〔 1 76 ~ 220 年〕 統 ( ほう・とう ) 字は士元。襄陽郡襄陽の人。孔 明とならび称されるほどの智謀を り 0 うしよう じようレ 4 ・つ じようよう 〔 178 ~ 213 年〕 725
/ ゝ 于禁 ( う・きん ) 字は文則。泰山郡巨平の人。曹 え人しよう 年操車の武将として、袁紹との戦い 吉 かこうしゅん に活躍した。博望坡では夏侯厚に 従って副将となるが、孔明の火計 はんしよう にかかって敗北する。のち、樊城 籍不 年 で関羽と戦って投降し、孫権が関 伊殳 羽を破ったとき助けられて魏に送 于吉 ( う・きっ ) 呉の人々から尊敬されていた仙られる。しかし、曹操の墓に描か 人。孫策から雨乞いを命じられてれた自分の投降の場面を見て、恥 伊籍 ( い・せき ) 雨を降らせるが、孫策に殺される。ずかしさから発病して死んだ。 字は機伯。山陽の人。玄徳が荊その後、亡霊となって現われ、つ 引に身を寄せたころは、荊州の牧 いに策を死に至一らしめる ( 長官 ) ・劉表の幕賓であった。的 盧が凶馬だと知って、玄徳に忠告 し、襄陽の会では、玄徳の身に危 機が迫っているのを知らせた。の けんせい ち玄徳に仕え、曹操軍を牽制する一 ため呉が合を攻めるよう、孫犠 のもとへ使者に立って、説得に成一 = 禁 〔フ ~ 222 年 袁術 ( えん・じゅっ ) 字は公路。汝南郡汝陽の人。袁 0 術 〔フ ~ 199 年〕
だんけい を、壇渓を跳んで逃れる。 で兵を挙げ、長安を襲う。 焼いて逃れる。 徐州〔じよしゅう〕 青州〔せいしゅう〕 赤壁〔せきへき〕 ちょうこ・つ さ人・こ・つ 州の名。現在の江蘇省の旧徐州 州の名。現在の山東省臨滔県に 長江の南岸、江夏と南郡の中間 、ん -O•っ - 一・つりよう ぶかん 府・胚県、山東省の旧州府、安州治があった。曹操は、青州の黄 ( 現在の湖北省武漢と江陵の中間 ) し A : っ・け . れ うりん 徽省の宿県・沼県を含む。陶謙が巾賊を自軍に加えたことによって、にあり、対岸は鳥林。南下してき そうそう そんけん 牧をしていたが、曹操に攻められ力をのばしていった。 た曹操軍を、孫権軍と玄徳軍が火 た。陶謙は、救援に駆けつけた玄成都〔せいと〕 計によって破った「赤壁の戦い」 徳に、徐州をゆずる。 益州 ( 蜀 ) の中心地。現在の四の戦場。 みんこう 汝南〔じよなん〕 川省成都市。沱江と岷江の間にあ壇渓〔だんけい かなん じようレ・つ 郡の名。現在の河南省汝南県のり、四川盆地の西に位置する。城襄陽 ( 現在の湖北省襄樊 ) の近 しようれっていりよう 一帯。予州の州城に近接している。の内外に、昭烈帝陵 ( 玄徳の墓 ) くを流れる川のうち、とくに流れ 6 ちょうハレ かんう とほそうレ一う 張飛が関羽に斬ってかかったのは武侯祠、杜甫草堂などがある。二の急なところであろう。新野から か人と はくが ここ。官渡の戦いの時、玄徳は汝一四年五月、玄徳が成都入りをし、南に白河が流れており、白河は襄 かんすい 南から兵を出して曹操の背後を襲一三一年、蜀の国をたて帝位につ陽付近で漢水と合流する。そのあ おうとするが、失敗して荊州へ逃いた玄徳は、成都を蜀の首都としたりを作者は想定していたのでは れた。 ないかと田心われる。 西凉〔せいりよう〕 新野〔しんや〕 長安〔ちょうあん〕 かなん か人しゆく せんかん 凉州のこと。現在の甘粛省地方。前漢が都を置き、隋や唐もここ 県の名。現在の河南省南陽県の らくよう ル一・つた′、 はくが ・りくよう 南、白河の東岸。玄徳は劉表から董卓はここから兵を洛陽に進め、を都とした。後漢末、董卓も洛陽 そうそ・つ せ人と 新野の守りを任されていた。曹操その後、馬騰が治めていた。馬騰から長安へ遷都を強行させた。の ・て・つ , て・つ - いりよら・ 洋′ちょう が南下してきた時、孔明は新野をが曹操に殺されると、馬超がここち、西涼から攻めのぼった馬超は、 よ なんよう りゅうひょう せん えき し そうそう ちょうあん ーこ・つた / 、 なんぐん しんや
かなん まず長安の曹軍司令官を破ってい河南省開封の東南に置かれていた。る。 のちの献帝は陳留王だったことが都陽湖〔はようこ〕 る。現在の陜西省西安市付近。 し 4 うゆ そうそう 江西省の北端部にある。周瑜は ある。董卓の手を逃れた曹操は、 長沙〔ちょうさ〕 いったん陳留に着き、そこから檄この湖で水軍の訓練をしていた。 郡の名。現在の湖南省長沙市一 しよう 武陵 、りよ , っ〕 湘を飛ばした。 帯。長沙市は、洞庭湖の南東、 しよう一′、 郡の名。現在の湖南省常徳県の 江の右岸にある。孫堅は長沙の太南陽〔なんよう〕 一帯。玄徳軍が荊州の四郡を攻略 守だった。玄徳軍が四郡を攻略し郡の名。郡治は宛に置かれてい ちょうひ かなん かんう た時、関羽は長沙を攻め、ここでた。現在の河南省南陽県。張繍をしたとき、張飛が攻め落とした。 そ・つそう 南陽宛城に攻めた曹操は、ここで武陵城の鞏志は、太守・金旋の首 黄忠と戦った。 鄒氏の美しさにおぼれ、典韋を失を取って降伏を申し出る。 長坂〔ちょうはん〕 平原〔へいげん〕 玄徳軍が、南下してきた曹操軍う。 郡および国の名。現在の山東省 と戦って敗れた場所。新野から南白帝城〔はくていじよう〕 ちょうこ・つ はうせつ じようよう 現在の四川省奉節県の東、長江済南市を中心とする一帯。北は黄 志に下ると、襄陽があり、その南に こうそんさん -O•つよ・つ ぎしよう 国 が瞿塘峡とよばれるあたりの北岸河に面している。公孫璟の推薦に 宜城、さらに下って当陽がある。 その少し西が長坂である ( 現在のに白帝山があり、その山上にあつよって、玄徳は平原の相 ( 王国・ 学 雑湖北省当陽からは北東にあたる ) 。た城。一三一一年、玄徳は陸遜に敗侯国の執政官 ) となったことがあ ちょううん 趙雲が阿斗を救い、張飛が曹操軍れて白帝城に帰り、翌年没した。 ーレ 井州〔へいしゅう のを恐れさせたことで知られる古戦博望坡〔はくほうは〕 さんせい かなん も 州の名。現在の山西省太厚市を 南陽郡 ( 現在の河南省南陽県一 場。 えんしよう 帯 ) 博望県にあった。孔明はここ中心とする一帯。袁紹がおさえて 章陳留〔ちんりゅう〕 そ・つそう いたが、のち、魏に属する。 第郡および国の名。郡治は現在ので曹操軍を迎え討ち、初陣をかざ せんせい 【 : うてい しんや そうそう すうし なんよう ′、きよう しせ人 て ちょうし 4 う せいなん しよう きんせん た ノ 65
力、馬ばは め馬馬で家け、荊 : た氏良もの月信 たにの馬ば五賢 えは眉良兄人南 . , た五はが弟を郡 / 。人白傑を のか出推し襄 すっし挙い陽 かぐたてしだを られのいたし手 、たでた。てに 衆子 。五治入 にが人人めれ は方た ぬい々 、を玄 , きるは ーし、く 出 て白馬れね すい氏もる孔ら ぐ眉の才と明 : れの五名い た馬常 うで のが白鵞たし国 をも眉びわよ志 つもれう演 白とって義 眉もと いと よも た進で といよ は 、し伊、 し な、籍き 曹操が「埋伏の毒」として送りこんだ間者が、そのことを曹操に報告する であろうと読んだ上での、周瑜と黄蓋が仕組んだ芝居であった。 レラ中途半端では見破られる恐れがある。刑吏は本気で黄蓋を打ちすえた。 黄蓋は血まみれになって倒れ伏した。これが、「苦肉の計」である。 必死の芝居はみごとに効を奏し、曹操は黄蓋の投降を信じた。東南の風 が吹く日、黄蓋はうまうまと曹軍の兵船に近づき、火矢を射かける。赤壁 は瞬にして火の海と化した。 この作戦は歴史にその名をのこし、 ンディな漢和辞典にも、「わざと 味方からひどい肉体的苦痛を受け、敵車ににげて行き、そこで事を起こそうとする計略」 ( 『新字 源』 ) と記載されている。 はくび 四十七 四十八 じようよう 7 72