八番美土代町石臺牡丹 ( 祭礼の日には人力車に乗り、洋傘をさして祭の音頭七番千代田町辨財天 をとることで名を馳せた。 九番一一一河町鞍馬山 十番竪大工町飛騨内匠 また、祭は鳶頭の人たちの仕事の見せ場でもある。十一番雉子町雉子 十二番新銀町鶴ケ岡 みき 各町内の神酒所をこしらえたり、軒提灯を飾ったり、十三番白壁町惠比須神十四番神保町猿田彦 きや 神輿の世話をしたりする。神幸祭のときには木遣りの十五番錦町蓬莱 十六番福田町大國主訷 おかりや 道中を作ったり、竹や丸太と縄を使って御仮屋を葺い十七番鍛冶町小鍛冶 十八番紺屋町珊瑚樹 たりするのである。こういった人たちにとって祭は勉十九番松田町賴義 廿番通新石町歳徳紳 強の場でもある。他町会の仕上がりをながめたり、他廿一番佐柄木町神武天皇廿二番須田町關羽 廿四番多町二丁目鍾馗 人の技術を盗んだりして自分の技術を向上させるので廿三番連雀町熊坂 ある。祭を見に行くときには、鳶頭の仕事も見ていた廿五番佐久間町素盞鳥尊廿六番豐島町豐玉姫 だきたい。なかには今もいい仕事をしている頭もいる廿七番小傳馬上町とがくし廿八番龜井町浦島 のだから。 廿九番小傳馬町やまとだけ卅番岩本町同 卅二番濱町獅子の子落し 最後となってしまったが、ここに、最大の山車を連卅一番藥研堀町桃太郎 ねた明治一七年 ( 一八八四 ) 九月一五日の大祭の番付卅三番龍閑町龍神 卅四番元岩井町菊慈童 卅六番松枝町日出に鶴 を紹介しておく。なぜか、このときには南伝馬町が参卅五番大和町橋辨慶 河町 加していない 春日龍訷卅八番小田原町辨財天 卅七番魑 他四ヶ所 四十番相生町相生の松 卅九番本船町龍訷 一番大傳馬町かんこどり二番新石町戸がくし 四十一番宮本町大國主訷四十一一番臺所町鈴 三番皆川町武さし野 四番多町一丁目稻穗 四十三番松永町松に日出四十四番山本町猩々 五番旭町龍紳 盞に樽 六番蹴ロ 四十五番兩國柳町和藤内四十六番末廣町徳川家道具
一期の医科生となった。当時、彼のことを、歯学と医学の二つの「学」の字から「ガクガク」とニッ クネームをつけて、ひやかしたものだ。このニックネームには、歯科の治療器械のガクガクッという 音もかけてあった。 終戦直後、医科大学となる際には、臨時に入学試験を行なった。昭和二一年八月のことである。 「ついこの前まで、聖橋のたもとに建っていた四階建ての校舎の最上階には、階段教室があってね、 あそこで第一一次試験を受けたんだ。『技法』のテストでは、机の上に花瓶がひとっ置いてあって、その 輪郭を描けというものだった。所定の時間がきて『はい、 そこまで』という声のあと、『その輪郭に台 って、手で破れ』というんだ。美学校の試験でもあるまいし、こんなことやらされるとは思ってもい なかったから驚いちゃったよ。おまけにいちばんうしろの席だったから、よく見えなかったしね。よ く合格したと思うよ」と私の友人が当時を語っていたことを思い出した。 現在は、その東京医科歯科大学が、校舎や病院を拡張して建っている。官学の流れは、江戸以来約 一一世紀近くも引き継がれているのである。 現在、大学の門前では、露店が並んでいることが多い。露店といっても食べ物屋はなく、日用品な どの安売り店である。一〇〇円均一などの札があり、洗濯バサミやザルなどが売られている。男性用 のラクダ色のシャツや、女性用の下着なども並んでいる。若い女性たちは見向きもしない。きっとこ のあたりにある病院に入院しているお年寄りたちを対象とした商売なのではないかと思う。露店をの ぞき込みながら、順天堂大学へと歩きを進めていきたい。 9
いう時代ではなかった。なにしろ私の月給は八五〇〇円。それなのにレコード一枚が二〇〇〇円もし たのである。しかも手に入れるのがまたひと苦労であった。進駐軍から譲ってもらったり、プラッ ク・マーケットで購入したりと、とにかく容易ではなかった。 しかし、そうやって苦労して手に入れたレコードは、マイルス・ディビイスのデビュー盤や、 ド・パウエルがファッツナバロと組んだプルーノートレコード の一〇インチの新譜、ソニー ズがプレスティジから初めて出した盤など、一枚一枚が聞くたびごとに、どんなコードとどんなサウ ンドが流れ出すのか予測のつかないスリ ) ングな瞬間の連続であった。そして、こういったジャズの 新しい流れのまっただなかにいることを思っただけで興奮した。 もちろん、私の給料などレコード四枚も買えば消えてなくなってしまうから、この「」を中心 に、数少ない都内のジャズ喫茶、たとえば渋谷の「スウイング」、京橋の「ゆたか」、深川の「タカノ」、 上野の「イトウ」、新宿の「オスカー」、八重洲の「ママ」などで、アメリカの香りのするジャズを聞 いて楽しんだものである。 むろん、まだ日本人の演奏によるジャズのレコードはなく、ジャズファンたちはアメリカから輸入 したレコードを聞くか、銀座の「テネシー」で生演奏を聞くしかなかった。「テネシー」では、松本英 彦、与田輝夫、沢田駿吾、ジョージ川口、海老原啓一、渡辺晋、池田操らが毎夜のように演奏し、当 時のジャズファンを魅了した。 しかし、昭和三〇年代に、日劇ウエスタンカーニバルが大流行しはじめると、リアルジャズは「テ ネシー」から消えていったのである。 197 神田—PART 1 ◎アカデミック・神田を打く
ある。やはり圧倒的に学生の姿が多いが、お茶の水橋を渡っていく人波には、順天堂医院に行くらし いお年寄りや、本郷地区に通う勤め人もかなり混じっている。 お茶の水橋と御茶ノ水駅。表記が違っていることにお気づきだろう。誤植ではない。それぞれ正し いのである。しつは、「おちゃのみす」にはいろいろな表記があって、橋は「お茶の水」、駅は「御茶 ノ水」なのである。このはか、学校、ピル、交番、絵画のタイトル、標識などを見ると、「御茶の水」 「御茶水」もあって、まったく統一されていない。困りものである。私は、一般的には「お茶の水」と 書き、それ以外は、個々の表示に従うことにした。 さて、そのお茶の水橋と御茶ノ水駅であるが、二つは端と端が直角にくつつくように隣り合ってい る。というより、御茶ノ水駅の駅本屋がお茶の水橋を土台にするような形になっている。こういうの きようじよう を橋上駅と呼ぶ。 お茶の水橋は、明治一一四年 ( 一八九一 ) になってできた橋である。それまで本郷台と駿河台の両岸 の行き来には、水道橋あるいは昌平橋を使うしかなかった。その間一・一一キロは、対岸が見えても渡 れぬ遠い仲。しかも、勾配の大きな坂道を上って下りなくてはならない。不便だったのだ。だから、 お茶の水橋ができたとき、両岸の住民ともおおいに喜んだという。 本郷に住んでいた樋口一葉も渡り初めの日にはわざわざ見物に出かけ、それを『一葉日記』に書き とめている。日記の中で一葉は「するが台の、いとひくくみゆるもおかし」と記しているが、彼女が 鋭く見抜いたとおり、橋を架ける際、本郷台と高さをそろえるために、駿河台の方は何メートルか削 られていたのである。 Z81
太古の文化人が住んだ弥生坂 しのばず ・一にあ - い 根津は、上野台地と本郷台地にはさまれた谷間の町である。不忍通りが町の中央をほば東西に貫き、 その両側には、台地の傾斜を上る坂道がいくつかある。 弥生坂は、不忍通りから本郷に向かう上り坂だ。一〇分もいけは、坂の上に、弥生式土器発掘の地 を訪ねることができる。 太古の昔、根津の地は海だった。弥生文化を生み出した人々は、入り江にほど近く、日あたり良好 で温暖高燥な本郷台地をかっこうの定住地とし、竪穴住居をこしらえて快適な暮らしを営んだ。だか らこそ、付近で貝塚や土器が発見されているのだ。今は東京大学のキャンパスや住宅地となっている 本郷一帯を掘り返せば、まだいくつもの遺跡が見つかるだろうが、なに、そんなものなくったって、 ちょいと想像をたくましゅうすれば、原始の文化人たちに出会うのはわけない。実際に、彼らが住ん だあたりを歩いてみればよいのだ。 こととい というわけで、根津一丁目の交差点に立つ。ここは不忍通りと言問通りが交わる十字路である。言 問通りが上野台東の方から下ってきて、信号を渡ると今度は上り坂になる。この上り坂が弥生坂には かならない。 ゃなか ついでにいっておくと、根津一丁目の交差点の真下は地下鉄千代田線の根津駅である。谷中ロの改 札を通って、地上に出てくるとき、ここの階段は非常に強い風が吹きつける。ときどきコンタクトレ ンズや帽子を飛ばされて悲鳴をあげている人も見かける。 01 1
りの石段の上りきったところと、上り口の石段とを結べばそれぐらい急な坂にはなるに違いない。妻 恋坂から天神下通りへと曲がる角の神田側にはあんこう鍋で有名な神田須田町の「いせ源」の別館が ある。 「いせ源」の角を左に曲がるとそこは下通りといわれる通りで、日本旅館などが多く、曲がりくねっ みくみ た静かな道である。ここは、今は湯島三丁目であるが、町名改正前までは湯島三組町といっていた。 らゆうげんこびとおかごがた 徳川家康が駿河で亡くなった後、おっきの中間、小人、御駕籠方が江戸に戻ってこの地に住んで商売 をはじめたという。その中間、小人、御駕籠方を合わせて三組と称していた。 この下通りは、本郷台地の東南の傾斜面の崖下の道である。おそらく大昔はこの辺まで海が迫って いたのであろう。左手には、急な斜面に住居やらマンション、日本旅館やらが建っている。まるで、 自分が谷の底を歩いているような気分になる。きっとこのあたり、日が暮れるのも早いのではあるま しばらくこの下通りを歩いていると、右手角に、庭に白鬚神社を祀っている民家がある。門がしつ かり閉められているのが気になった。いったいどこから参拝するのだろう。 その先の交差する坂が三組坂である。反対側の角には、ヨガや中国語を教えている湯島学園が建つ そこから先の下通りをガイ坂と呼んでいる。ガイとはゴミのことで、昔はゴミを集めるための坂が 大きな通りからちょっと横に下ったところにあることが多かった。 三組坂の交差点からやや左に曲がっているガイ坂を下ると左手にほっかりとあいた空間がある。駐
豪商田代又右衛門に紹介してもらった。その夜藤四郎が、町奉行石谷十蔵に訴えた。老中である智恵 伊豆こと松平信綱は、ふつうの捕物では、忠弥の槍で多くのケガ人が出たらたいへんだと、用意万端 ととのえて待機させ、「火事だ火事だ」とどなった。忠弥が「火事はどこだ」と素手で出てきたところ を簡単に御用となった。 ことが発覚して、駿河の府中では、由井正雪は自ら命を絶って、天下は惜しいかな泰平とはなった。 八月一三日、鈴ケ森刑場で武蔵野の露と消えた忠弥は辞世を残した。 くもみづ 雲水のゆくへも西も空なれや 願う甲斐ある道しるべせよ その忠弥に家を貸した大岡源右衛門は、謀反に与しなかったものの、不行届きということで、幕府 ちゅうげん の中間職がフィになったうえ、佐渡へ遠島となった。この丸橋忠弥の旧居に近い坂だから忠弥坂と呼 ぶが、肝心要の忠弥のいた大岡源右衛門の家がどこにあったのかは明確でない。春木町のうちという おういん のと、昌溝寺、等正寺の辺ともいう。後者だと、桜蔭女子高校の辺だから、本郷一丁目二と六の間の 急な坂になるのだろう。 くねくねと曲がった忠弥坂を下ると、右手に宝生能楽堂が見えてくる。このあたりは高層マンショ ンが建ち並んでいる。下りきって、まっすぐに歩きを進めれば、白山通りに出る。目の前は後楽園ス タジアムだ。水道橋の駅も近い つむぎの道行きコートを粋に着こなした初老の紳士が宝生会館の中に入っていく。きっと能の師匠 か、関係者であろう。白山通りには出ずに、能楽堂を右に曲がる。五〇メートルほど進むと、右手に 0 寸
ぞいてみた。いるいる。黒いオタマジャクシがシッポをふりふり一一〇匹近くいた。 あずまや のどかな春の日ざしが池に反射してまぶしい。「四阿」でひと休みすることにした。四阿とは、庭園 や公園の中のいちばん見晴らしのよい場所に建てられた休憩所のことである。屋根がっき、壁は吹抜 けとなっていて、中にべンチがある。ひと息つき、今度は西洋園に行くことにした。右手奥にはヾー ゴラとテラスが見える。 ーゴラとはラテン語かイタリア語が語源といわれ、正式には「ベルゴラ」 と発音するそうだ。庭園や公園内の建造物のことで、屋根の部分を蔓植物でおおって、園内にさし込 む陽光をやわらげている。日本庭園にもあり、一一つ建っていることになる。。ハ ーゴラの柱は、大理石 でできていて、屋根には、蔓バラがからまっている。日本庭園にくらべると、明るく開放的だ。空が 広い。目の前には左右対称にデサインされたバラ園がある。公園内のバラは、その数四八種類、七五 七株もあり、都内でこれだけのバラ園はない。ほば一年中、色とりどりのバラが咲き、真冬でも花を 咲かせる種類がある。 そのほか、文字盤が数種の色彩の違う大理石でつくられた花時計、その反対側には大地球儀が設置 されている。中央の円形花壇には、母子のプロンズ像がある。大地球儀の裏側は、生垣で区切られた 子どもたちの遊び場になっている。すべり台、プランコ、菱形の砂場などがある。これだけの公園が 貯水槽の上にあるのだからたいしたものだ。西側正門から階段を下りて、 リの香りが漂う給水所公 苑をあとにする。次は、イタリア・ルネサンス式庭園の元町公園へ向かう。フランスからイタリアへ の旅である。 ぶらり湯島・本郷◎聖堂から忠弥坂まで
て、この笹などは、江戸時代から現在まで代々と生きてきたのではないかと思わせるはどだ。ひとた び聖堂の地に足を踏み入れると、どこを見ても歴史の重層を感しるのである。 ◎ 東京医科歯科大学は虫歯の校章 聖堂をあとにして、御茶ノ水駅方面に向かってまっすぐ歩く。聖橋の側面がよく見渡せる。神田日 に架かる聖橋が大きな虹のようなカープを描き、側面には、かまばこみたいな穴がいくつもあいてい る。斬新なデザインである。 聖橋のトンネルを抜ける。獅子文六の『自由学校』に、橋下に浮浪者が住んでいたと書かれてあっ たが、戦後の復興期には、住む場所をなくした人たちにとって、橋下は雨や風がしのげる手ごろな場 所であった。昭和六一一年の現在、隣の三車線道路を、車がとぎれることなく走っている。いくら浮浪 者とはいえ、この喧噪のなかでは過ごしにくいとみえて、多くは、新宿などの地下街に移り住んでい った。だが今でも何人かいて、夏など神田川斜面の緑地に入って涼んでいる姿が見られる。 トンネル内は、採光を考慮した設計となっており、九つの穴があいている。トンネルを抜けると、 すぐ右手に聖橋の上に通しる、幅の広い階段がある。聖橋の左側、つまりお茶の水橋寄りを渡りきっ たところに出る階段である。聖堂へは、この階段を利用するのがいちばん近道だ。 この通りは、トウカエデの並木が続く。少し歩くと、右手に御茶ノ水郵便局があり、そのすぐ脇が、 地下鉄丸ノ内線の乗り場に通じている。その先に東京医科歯科大学と医学部附属病院と歯学部附属病 院の入口がある。お茶の水の北側の土地を左右いつばいに建ち、広大な敷地面積を思わせる。
階段にさしかかるときは二人並んでも平気だが、階段は四段目からトン、トン、トン、と下りる間 にカギの手に曲がり、そこからすっと狭くなって一直線になる。人とすれ違うときは体を横にしなく てはならない。日本電信電話公社弥生町アバート の石垣が切れると、そこがオバケ階段の終わりだ。 きっかり四〇段である。 オバケ階段は、またの名を幽霊坂ともいうが、坂を紹介した本には出てこない。視界のきかない迷 路みたいな道をやってきて、急に崖に出くわすのだから、やはり不気味だ。日が沈んだらオバケも出 てこようというもの。人々がオバケ階段と呼んできたのもうなすける。 ◎ 裏町を抜けて根津権現へ オバケ階段の下から、根津教会、四軒長屋の前に戻ってくる。四軒長屋の前で十字路を左折し、再 び裏町を行く。一一〇メートルも進むと道は一一軒長屋に突き当たり、右に折れて不忍通りに出るが、一一 軒長屋の前でひとまず立ちとどまる。 この道に入ってすぐ気になっていた建物が曲がり角にある。それは木造一一階建ての板張り格子戸の 長屋なのだが、今にも倒れそうに傾いているのである。雨水のしみた黒い板が壁面をおおい、屋根も 黒い。全体に黒っぱくて、どこが玄関だかすぐにはわからない。よく見ると道に面して格子戸が二つ 並んでいるが、その上に軒先がかぶさるように乗り出してきている。そのうち瓦がすり落ちないだろ うか、などと心配するのは第三者。この長屋の住人はとっくにれ切っているはずだ。古い木造家は、 傾いても雨もりしても、案外、長もちするものだ。 125 根津から千駄木へ・郷台地の稜線に沿って