ニコライ堂は、正式には「ハリストス正教会復活大聖堂」というが、誰もそのように呼ぶ人はいな ニコライ堂、または流行歌の影響でただ単にニコライである。 ニコライ堂は図案設計がロシア人のスチュルポフ、監督設計はジョサイア・コンドルで、明治一七 年 ( 一八八四 ) 三月から七年の歳月をかけて、明治一一四年 ( 一八九一 ) 二月に竣工した。工事は、ニ コライの恩顧を受けた長郷泰輔が受けもった。 明治のころは、まわりにさして高い建物がなかったので、ニコライ堂はひときわ目立っ存在だった。 九段坂上から描かれた錦絵や写真にも、はっきりとニコライ堂は見えている。 惜しくも関東大震災でくすれ、昭和四年、岡田信一郎の設計で現在のニコライ堂が建った。昔のド ームは八角基底だったが、多少円くなっている。 たくま ニコライ堂建設の陰の恩人は、土佐出身の山本琢馬だといわれている。琢馬は土佐山内藩の国内留 学生として江戸にいたが、後日函館の神官沢辺氏の入婿となって生活をしていた。一方、ニコライは、 ペテルプルグ大学神学科を一八六〇年に卒業後、文久一一年 ( 一八六一 l) 六月には伝導のため函館に到 着した。ニコライたちロシア人は、武芸コーチとして琢馬を招いたが、神官である琢馬は、邪教伝導 師ニコライを央く思わす、何回か彼を討とうと機会をねらっていた。ところが、琢馬はニコライの人 徳にひかれ、ついに志を断念、逆に日本人として最初の正教徒になってしまった。日本が新時代を迎 え、元号が明治に変わった年のことである。 琢馬はその後、十数年にわたって東北地方をまわっては、ニコライ堂建設の基金を募ったという。 彼こそニコライ堂建設の陰の恩人である。山本琢馬は、同じく土佐の坂本竜馬と従兄弟だという。ど 神田—PART 1 2 ◎新旧の顔をもっ撲町界隈 227
り重なるように、遠望できる。 池田坂の途中、 zee 駿河台電話局から左に曲がる道に入ってみる。右向こうに、古色蒼然たる が建っている。もう六〇年はたっという建物で、ところどころに屋根瓦を配してある。ここの プールは戦前から有名で、ここで泳ぎを覚えた下町っ子は多いはす。女の館だが、男生でもプール以 外はある程度まで見学できる。 にも、同様、宿泊施設がある。東京ホステルという。清潔で家庭的な雰 囲気をもち、しかも割安なので、若い女生に人気があり、受験シーズンともなると、予約が殺到する。 し。かっては侍医局長の池田兼斎の 石の灯籠や手入れの行き届いた植え込みをもっ奧庭がすはらし ) 邸宅だったという。「日本造の巨屋清稚を極む」と『風俗画報』に紹介されたことがある。受付で、ペ ン画の絵葉書を売っていた。この建物も、そして小川町のも、残念ながら本年中には、取り 壊しがはしまるとい、つ。 ぎりぎりのところ我慢して建っている戦前の建物がなくなって、すべてがのつべりした現代ビルに なってしまったら、それでも私は町歩きをするだろうか。そんなことを思いながら池田坂に戻る。少 し重くなった足をひきすって池田坂を上る。右手に植え込みのある塀囲いの中に、ニコライ学院、奧 にニコライ堂と鐘楼がある。西側から入るニコライ堂のながめの方がよしイ 、。じ則の紅梅坂よりも奧行 きがある。門をくぐると正面に白樺が六本、緑の葉をつけていた。 左手にニコライ学院の事務所、右手に教室を見て、間を東へ歩いていくと、鐘楼の奧に高くニコラ イ堂がそびえている。 225 神田—PART 1 2 ◎新旧の顔をもっ神保町界隈
こか名前が似ている。 ニコライ堂の鐘は全部で八個。その最大のものは直径一メートルで、六百貫 ( 二・三トン ) もある という。八個は順次小さく作られ、音色が異なるようにできている。太い綱で結ばれ、綱を引くと交 互に反響して、いうにいわれぬ鐘の音を響かせる。私は中学生時代、駿河台学院の予備校で模擬試験 を受けたことがあった。その日、朝九時になると、ニコライ堂の鐘がキンコンカンコンと、それは不 田 5 議なほど大きく聞こえてきたので驚いたことを思い出す。このニコライ堂の鐘の音を慕って、駿可 台に住んだのは、与謝野寛 ( 鉄幹 ) ・品子夫妻と、歌舞伎の市川左団次である。 ニコライのドオムの見ゆる小一一階の てすり 与謝野品子 欄干の下の朝がはの花 その男 n 一 k 。 ra 一堂のうしろへに 与謝野寛 暫く住みて行方知らすも ニコライのホォルに入りて相擁き 竹久夢二 サンタマリアを拝みにけり あのキンコンカンコンと鳴りわたるニコライの鐘の音は、現在でも毎週日曜日の午前一〇時と午後 零時三〇分の二回は必す聞くことができる。その他は教会の儀式のあるときにだけ鳴らしていると聞 く。鐘を鳴らすのは神学校の学生だそうだ。 なお、あまり知られていないか、このニコライ堂の建っている高台には、江戸時代には火消屋敷が あった。
第第識す第冖第第第ス ピサンチン式「ニコライ堂」 通称ニコライ堂は正式には「東京復活大聖堂」という。明治 17 年 ( 1884 ) 3 月に起工し、 24 年 ( 189D2 月に落成した。設計はロシア工科大学教授スチュルポフ博士で、工事監督は英国 人ジョサイア・コンドルである。わが国最大のビザンチン式建造物で、頂上まての高さが 35 メートル、建坪は 318 坪で、その壁の厚さは 1 メートルから 1 . 63 メートルもあるという堅 固なもの。関東大震災で焼けてしまい、屋根を中心に被害を受けたが、岡田信一郎が修復 して、昭和 4 年に現在の形となった。かっての屋根は 8 角基底のまま日つの面をもってい たが、今は円形となっている。この以前の八角形の屋根を模したのが旧東京駅の屋根とい われ、コンドル門下の辰野金吾の設計で建てられた。だが東京駅も戦災で焼かれてしまい、 名物だった 8 角形の屋根も、昔と同じ形には復活されていない。 石版画「駿河台ニコライ堂』渡辺忠久版、明治 24 年
小川町から駿河台を望む 関東大震災で甚大な被害を受けた神田が、復興なった昭和 5 年ごろの風景である。左手に 大きく広がる中央大学の校舎と、右にそびえるニコライ堂がひときわ目を引いていた。手 前の小川町も戦前の町にしては中型のビルが建ち並び、帝都復興祭が昭和 5 年に行なわれ たのもうなづける。小川町は戦前から三角形の交差点となっていて、電車の往来が激しか った。戦災に焼け残ったところだけに、ついこの前まで、同じ風景がながめられたのだが、 ひとつ消えニつ消えして、現在では東北角にフィンガーウインドーを持つフタノヾヤ洋品店 とニコライ堂くらいになってしまった。
大正四 ( 一九一五 ) 三崎座、神田劇場と改名 佐藤高等女学校創立 ″五 ( 一九一六 ) 夏目漱石没 ( 五〇歳 ) 『高瀬舟』 ( 森鵰外 ) ( 一九一七 ) 根津教会建堂 〃八 ( 一九一九 ) 如水会館竣工 一〇 ( 一九二一 ) 東洋女子短大設立 文房堂竣工 ( 創業は明治一一〇年 ) 一 ( 一九一一一 l) 日本医学専門学校、日本医科大学となる 文化学院創立 森鶸外没 ( 六一歳 ) 一二 ( 一九二一一 l) 聖堂再建される 一四 ( 一九二五 ) 日本学生会館創立 昭和一一 ( 一九二七 ) 聖橋落成 ( 一九二八 ) 神田青果市場、秋葉原に移転 四 ( 一九二九 ) ニコライ堂再建 中央会堂再建 ″五 ( 一九三〇 ) 万世橋改築 ( 一九三一 ) 医師会館創立 お茶の水橋再建 ′七 ( 一九三一 l) 八 ( 一九三三 ) 駒込青果市場、巣鴨に移転 昭和時代 関東大震災がおこる 満州事変がおこる 五・一五事件
嘉永六 ( 一八五一一 l) 慶応三 ( 一八六七 ) 明治一 ( 一八六八 ) ( 一八六九 ) 五 ( 一八七一 l) 昌平坂に東京師範学校創立 ( 一八七三 ) 奧田座 ( のちの本郷座 ) 開場 順天堂医院、下谷練塀町にできる 八 ( 一八七五 ) 順天堂医院、現在地に移転 九 ( 一八七六 ) 奧田座、春木座と改名 一〇 ( 一八七七 ) 一一一 ( 一八七九 ) 駒込病院設立 一七 ( 一八八四 ) 弥生式土器の発見 一九 ( 一八八六 ) 帝国大学 ( 東京大学 ) 創立 共立女子職業学校 ( 共立女子大学 ) 創立 冨山房創業 「小説神髄』 ( 坪内逍遙 ) 明治時代 一三 ( 一八八九 ) 二三 ( 一八九〇 ) 中央会堂献堂 樋口一葉、菊坂に住む ( ー一一六 ) 「舞姫』 ( 森鶸外 ) ニコライ堂竣工 お茶の水橋落成 三崎座開場 ′二五 ( 一八九一 l) 森外、団子坂上に住む ( ー大正一一 ) 二四 ( 一八九一 ) 浦賀に来航 江戸幕府ほろびる 月ムロ隹 - 江戸を東京と改称 新橋ー横浜間に鉄道開通 大日本帝国憲法発布 西南の役がおこる
◎裏門坂ど「猫の家」◎「吾輩」はどこの猫 ? ◎太古より踏みかためられた藪下通り◎森鴎外の観潮楼 ◎団子坂の菊人形◎須藤公園の緑陰にて◎千駄木の屋敷町、駒辷病院一八百屋お七ど焙烙地蔵 歴史余談 根津遊郭の紅灯はるか PARTI 田 アカデミック・神田を行く ◎「江戸っ子」の神田、「東京っ子」の神田◎おしゃれになった「カルチェラタン」◎お茶の水は将軍 献上の茶にちなむ◎サイカチの木ど江戸の上水◎明治のタウン構想ついえた三﨑町◎女坂から再び駿河 台へ 2 新旧の顔をもっ神保町界隈 ◎すずらん通り、さくら通り◎護持院ヶ原の跡にオフィス街◎ニコライ堂の鐘は鳴る 江戸の歴史は火事の歴史 歴史余談 PART2 田 老舗の味は健在なり ◎江戸の下町・職人町◎屋敷町の跡羡路町へ下る◎須田町の食味新道食べ歩き◎神田路地裏お稲荷さ んめぐり◎万世橋駅のアイスクリーム◎江戸のソープランドど青果市場跡 2 明神様ど神田っ子 ◎神田の古い顔をどどめる一八通り◎かっての御成道は電気街に◎江戸っ子のふるさど神田明神 神田祭は庶民の祭 歴史余談 参考文献・関連書籍 9 あとがき 9 2 168 284 267 240 229 201
私は、東京のどまんなかで、急速に変貎している町「神田」の現在の姿を確認していきたいと思う。 しろした 神田を、その町の成り立ちから、大きく一一つに分けると、江戸の城下町として発展した「江戸っ子」 の神田、そして、明治以来アカデミックな色彩を維持し続けている「東京っ子」の神田ーーーの二つの 地域になるだろう。一一つの地域を分ける境界線は、神田橋から北に走る聖橋までの大通り ( 本郷通り ) である。 おおざっぱに色分けして、本郷通りの西側一帯が、明治以来発展した東京っ子の「アカデミック・ 神田」、東側一帯が江戸っ子の名残りをとどめる「下町・神田」である。 私は、ます「アカデミック・神田」を歩くことにする。およそのコースは次のとおり。 お茶の水ー神田駿河台の学校・病院街ー三崎町 5 神保町界隈ー護持院ヶ原の跡地 ニコライ堂。 9 ーーーーーーーおしゃれになった「カルチェ一フタン」 「アカデミック・神田」の中心は、なんといっても神田駿河台である。 神田駿河台には、明治大学、日本大学をはじめ、国立の芸大附属音楽高校、東洋高校、文化学院、 池坊学園、駿台予備校など、数多くの学校が集まっている。また、お茶の水橋を渡った目と鼻の先に は、順天堂大学、東京医科歯科大学もあり、こうした学校に通う学生たちで、駿河台はいつも活気づ いている。 約二〇年前、全国の大学生が一〇〇万人を突破したころ、駿河台には学生数が一一万人に達する中央 神田—PART 一◎アカデ、こック・神田仟 179 ー」川町交差点ー
ークッション二台が置かれている。 もう今から四〇年近く前、私が二〇代のころ、中島師範からここでピリャードの手ほどきを受けた どうきゅう ことを思い出した。そのころは撞球なんていっていたが、われわれは、もっと簡単に玉突きと称して いた。玉突きの面白さはつまるところ合理性にある。無理な計算や欲得は通用しないのである。非論 理的な狙いは失敗するのだ。すなわち、いかに基本的技術を磨くかが勝敗の別れ目となるのだ。今再 びビリャードが若い人たちに人気があるという。流行は繰り返すものだ。 学士会館のあるところは安中藩主板倉伊豫守の上屋敷のあったところで、同志社大学の創設者新島 襄はここで生まれている。 今、私の歩いている大通りは西から東へ神田駅へと抜ける一方通行の道である。車の通りもだいぶ 激しい。両側のピルはいずれも七階から九階といった中規模のオフィスピルである。 このあたりは神田錦町三丁目である。なぜ錦町かというと、昔この辺に一色家と一色家が並んでい たという。そこで一色と一色だから合わせて一一色、錦町としたそうだ。江戸っ子はシャレが好きなの である。今でこそピルの並ぶ通りとなってしまったが、つい三〇年前までは書生の多い町だった。 この通りで目立つのはなんといっても、ピルの上に塔屋のある博報堂のアールデコ調の建物であろ う。ニコライ堂を修復した岡田信一郎の設計により、昭和四年に建ったものである。 きんき 右手の税務署のところには、かって自由民権運動や労働運動の集会演説の貸席として知られた錦輝 かん 館があった。関東で初めて活動写真が上演されたり、桃中軒雲右衛門が上京して浪花節をうなったり したことで有名だ。 2 19 神田—PART 1 2 ◎新旧の顔をもっ撲町界隈