第第識す第冖第第第ス ピサンチン式「ニコライ堂」 通称ニコライ堂は正式には「東京復活大聖堂」という。明治 17 年 ( 1884 ) 3 月に起工し、 24 年 ( 189D2 月に落成した。設計はロシア工科大学教授スチュルポフ博士で、工事監督は英国 人ジョサイア・コンドルである。わが国最大のビザンチン式建造物で、頂上まての高さが 35 メートル、建坪は 318 坪で、その壁の厚さは 1 メートルから 1 . 63 メートルもあるという堅 固なもの。関東大震災で焼けてしまい、屋根を中心に被害を受けたが、岡田信一郎が修復 して、昭和 4 年に現在の形となった。かっての屋根は 8 角基底のまま日つの面をもってい たが、今は円形となっている。この以前の八角形の屋根を模したのが旧東京駅の屋根とい われ、コンドル門下の辰野金吾の設計で建てられた。だが東京駅も戦災で焼かれてしまい、 名物だった 8 角形の屋根も、昔と同じ形には復活されていない。 石版画「駿河台ニコライ堂』渡辺忠久版、明治 24 年
林泉に恵まれた須藤公園 団子坂を下りきって西北に入ると、湧き水を満々とたたえた池をもつ須藤公園がある。大 通りの喧噪がうそのような静かな住宅地にあり、どこか武蔵野の井ノ頭公園と似ている。 門を入ると目の前が池。要所に大きな自然石が置かれ、中央には弁天様を祀った中島が築 かれている。公園の西北には、池の水面との高低差 10 メートルほどの滝がある。滝は 3 段 に分かれ、最初のものは落差が約 5 メートル。少し曲折しながら落下する滝の水は、石の こは、江戸時代には松当備後守、下総守の下屋敷だ 0 たところ。 谷間を流れて池へ注ぐ。 明治になって政治家の邸宅となり、さらに実業家頃藤氏の所有となったのち東京市に寄付 された。現在は、文京区の管轄となっている。 ( 昭和 62 年 5 月撮影 )
土器の復元模型より三〇メートルほど先には弥生美術館がある。前は東大の弥生門。 その昔、といっても江戸時代のこと、この通りの東大側は加賀屋敷の北裏で、弥生美術館側が寺町 だった。両側とも塀越しに樹木がうっそうと茂り、昼なお暗い道だった。そこで人呼んで暗闇坂。現 在も、夜ともなれは人通りが絶えて寂しい道には違いない。だが、昼間はめつばう明るく、弥生美術 館に展示される竹久夢一一や高畠華宵の作品めあてに訪れる若い女性や、東大の学生たち、また本郷と 池之端間の近道として利用する通行人など、人通りもけっこうある。暗闇坂というのはどうも合わな い名だ。だいいち、坂というが、実際には坂らしい勾配はあまりない。 おとめ 何人かの通行人に聞いてみたが、暗闇坂の名を知る人はいなかった。弥生美術館にちなんで乙女坂 とかなんとか、現代的なよい名がつけられるとよいと思う。 暗闇坂から弥生坂へ戻り、もと来た方へと下っていく。さっき通りすぎてきた四角いコンクリート 造りの高木工務店の前を曲がり、サトウハチロー記念館へと向かう。 ◎ サトウハチロー記念館 弥生坂から入ってくると、はどなく突き当たりが視界に飛び込んでくる。幅五メートル、長さ七〇 メートルほどの e 字路は、両側にゆったりとした一戸建ちの並ぶ住宅街で、突き当たりに白タイルの 瀟洒なマンションが見える。この e 字路の中ほど右手にサトウハチロー記念館があるが、ここは、サ トウハチローが生前住んだ住まいでもある。 この e 字路に面した家は、どこも常緑樹や落葉樹をほどよく配した庭をもつ。春にはウグイス、ホ
った「鮹もなか」や、青えんどうのこしあんを使った「鮹まん」など五種類の菓子を売る小さな店だ。 はやしらよう もと岡本邸の「萩風荘」から北に続く住宅街は、かって林町の屋敷町といわれたところで、子爵、 銀行の頭取、東京大学の教授、芸術家たちが、ゆったりとした邸宅を構えた地域である。江戸時代に さかのばれば幕府の御用林だった。明治に入り、御用林の一部は切り拓かれて茶畑や桑畑に、また一 部は住宅になっていったのである。住宅街を貫く道は、今は本郷保健所があるところから保健所通り と呼ばれているが、戦前は「林町の往来」でとおっていた。保健所通りは幅六メートルぐらいだが、 両側に区画の大きな住宅が続き、自動車も人もあまり通らないせいか、実際よりは広く感じる。どの 家も毎朝、門前を掃き清めているのだろう、チリひとっ落ちていない。清潔な道だ。それぞれに趣向 を凝らした門や塀をながめながらしばらく行く。うららかな春の昼下がり、すれ違ったのはたった二 人しかいない。どちらも外出の主婦らしい 「萩風莊」から一五〇メートルはど歩いたところ、千駄木三丁目の三番地と七番地の間を右に曲がる。 一〇〇メートル先が須藤公園である。 須藤公園は、傾斜地の自然をそのまま生かした林泉で、中央に広々とした池がある。池の中に朱塗 りの弁天堂があり、周囲の緑陰とあざやかなコントラストを描いている。池をぐるっとひとまわりで きるように道が配されている。いわゆる池泉回遊式庭園だ。池に注ぐ流れをたどると上流が崖となっ ている。私が訪れたとき滝の水音はなかったが、昔は、本郷台地にこんこんと湧く水がこの滝から流 れ落ち、池に注いでいた。ここの湧き水は、根津権現の池と同系の地下水と考えられる。同し地下水 さねもりざか 脈を南へたどれば、東大の三四郎池、不忍門外の鏡の井、湯島天神男坂下の柳の井、湯島実盛坂下の 根津から千駄木へ 2 ◎文豪たちの愛した町
波をたてながら、ゆっくりと、ゴミを運搬していくのだ。白いあぶくを残しながら、神田川斜面の樹 木から落ちた枯葉をぬうように静かに遠ざかる。 私は、つね日ごろ、聖橋からながめられる四種類の乗り物を、同時にカメラのフレームに収めたい と願ってきた。四つの乗り物が立体交差する光景をぜひとも撮りたいと、何時間もねばったことがあ った。三種類の電車はなんとか撮ることができたが、船まで加える望みはかなえられていない。 目を転じて、秋葉原方面へ続く建物を見る。神田川に沿って、灰色にくすんだ壁の列をつくってい るのは、小さなア。ハート や雑居ビル。神田川に面した窓には、洗いたての手ぬぐいやシャツなどが風 になびいている。昔、『神田川』という歌が流行したときに、私はなぜかこの風景を思い浮かべた。歌 の舞台となった場所は知らないが、三畳一間の小さな下宿、窓の下には神田川が流れ、夜遅くまで電 車の音が聞こえていたに違いないと思い込んでいる。 聖橋の西側もながめておこう。神田川上流を遠望する。一一〇〇メートルぐらい先には、お茶の水橋 が架かっている。聖橋はお茶の水橋よりも高いため、よく見渡すことができる。お茶の水橋はいつで も人の往来が激しい。それにくらべて聖橋は、人通りもまばらで、どこかゆったりとしている。 赤茶けた石造りの欄干は、ちょうどおとなのひしぐらいの高さだ。橋の長さは九二メートル。ほば 三分もあれば渡ることができる。橋のたもとには、たまに屋台が出る。冬場はおでん屋の屋台が出て、 欄干をテープルに、こんにやくやがんもどきをはおばるのが冬の夜の楽しみのひとつである。ネオン 輝くお茶の水の夜景をながめながら、アツアツのおでんを食べると、少し気持ちが温まる。冷たい北 風もなんのその、ほろ酔い気分にひたることができる。
これぞ井戸水。この冷やっこい感覚、 あふれ出した。上まで上げて手を洗い、顔を洗った。冷たい。 何年ぶりに味わっただろう。 相当に音を立てて汲んでも路地の家の戸を開けてどなる人はいない。井戸の蓋をちゃんと元通りに して、路地を南に貫くように通る。この路地の両側のツッジのきれいだったこと、よほど手入れがよ いのだろう。突き当たりの石垣真下の道を家一一軒分歩いて次の路地に入る。路地の幅は一メートルが やっとという細さの中を、大柄な私がのっそのっそと足音を残して通るのだから少し気がひける。 右手の古い住居表示に菊坂町六〇番地とある。一葉の住んだ六九番地まであと少しだろう。この路 路 地の家々の古いたたすまいがなんともいえない。ときたま猫が顔を洗ってたり、駆け抜けていく。 地を北に抜けると再び下道に出る。左手に石段があって菊坂通りに上がれる便りの道となっているが ここを上がっては井戸に会えない。右手に「本郷四丁目児童遊園」と書いた狭い公園があるから、そ れについて右に折れる。 この路地、幅は二メートル以上、広い路地だが、井戸は見つからない。ここからの真砂町住宅の花 がきれいだ。ツッジや、白っぱい花をつけた大根などが、大谷石を積み上げた築地に咲き乱れている。 路地を抜け切ると本郷四丁目一元から三〇へと地番が変わる。次の道はごく狭いが、中央に丸太が 何本か立ち並んでいて、竹竿を何本も渡して洗濯物を干している。寝間着だのシーツだのが、南風に はためいている。この路地には植木づくりの名人がいるのか、どの鉢植えも立派な姿に生育している。 あったあった、右手に、人目から隠れるようにして、ポンプ井戸があるではないか。第三の井戸発 見である。
現在の聖堂は、大正一一一年 ( 一九一 llll) の大震災で焼けた後に、東洋風建築の大家である伊藤忠太 博士が設計した。コンクリート造りの壁面の塗料が古びて、重厚な感じになっている。入徳門から、 上り階段が連なり、その前方に杏壇門がある。その奧が大聖殿だ。私は、入徳門の前にしやがみ込み、 せんだん カメラをかまえた。門はすつばりとフレームの中に収まる。門の脇に栴檀の大木が大きな陰をつくっ ている。 石段を上って杏壇門をくぐる。目の前には、寺院の本堂あるいは倉とも思える黒漆色の大聖殿があ る。南面が一一〇メートル、高さ一四メートルの大聖殿で、屋根は入母屋造りだ。この塗料は、黒く光 って康つばい。黒色エナメルペイントというのだそうである。 聖堂内を歩くうちに、すみずみまで掃除が行き届いていることに気づく。ちょうど、目の前に掃除 をしているお年寄りがいたので、声をかけてみた。そのおしいさんの話では、高齢者事業団から四人 派遣されて清掃を行なっているそうだ。四人は、一一人ずつ二組に分かれて、一一日交代でやってきては、 午前九時一一一〇分から一一一時三〇分までの三時間、毎日落ち葉やゴミを拾っているという。 軍手をはめて、しきりに草をむしっていた手を休めて、小石川植物園の裏手に住むというそのおし いさんは、時間給が六〇〇円で、三時間働くから一日一八〇〇円になることを教えてくれた。 「その日のお昼代と、残った金で日本酒を飲むから、一日でなくなる。でも健康にはいいんだ」と、 しわだらけの顔をほころばせていた。 聖堂では、お年寄りの清掃とは別に、年二回、多くの生い茂る樹木の手入れを、業者に頼んでいる という。周囲の植え込みには、樹齢何百年もたっと思われる木が植わっている。青光りする笹もあっ 0 ペ
と菊坂通りはあと四、五軒で言問通りの菊坂通り下バス停に出てしまう。右頭上から胸突坂 ( 江戸時 代はこれを菊坂と記した地図もある ) が、転がり落ちんばかりに「山小屋」という喫茶店の角に出て くる。郵便局前の「ゑちごや」という餅菓子屋に飛び込んで腹ごしらえをする。いなりすし六個、赤 飯おむすびと、おはぎを食べる。 「うちはここで一〇〇年も餅菓子屋をやってるんです。おしいさんが越後からここまで歩いてきて店 をもったといいます。私は三代目ですが、以前はこの辺にはもっと井戸があったんですよ。この先の 空地になっちゃったとこにひとつあったし、うちの真前の藤城さんの、ほら木戸で閉まってるでしよ、 その中に井戸がひとつあるんですがねえ : : : 」とついこの前消えた井戸と、外からは見られない秘密 の井戸を教わった。太田泰さんの「ゑちごや」の左手から曲がって下道に出ることをお忘れなく。こ あぶみざか れが能率的なスタートである。この西の端から東の鐙坂までの長四角の間に、五本の路地がある。路 地の長さは三〇メートルぐらいしかないから、運針で歩いても時間は知れている。下道の北側は、さ つき私が歩いてきた菊坂通りと連れ添っているが、南の方には、大谷石を一一重に積み上げて花壇を据 えた上にある、大蔵省財務局の真砂町住宅が何棟も建っているのを下から見上げる路地からは、その 大谷石の石垣と花壇の草花が散見できる。 下道のすぐ右手「ファースト急送」の角を右に折れる。路地のほば中央に、見えるじゃないか、汲 み上げ式の井戸が。直径九〇センチぐらいの丸い井戸には厚い板でこしらえた蓋がしてある。蓋を取 ってみた。中からヌーツと一本の竹竿が上に浮き上がってきた。竹竿は長さ三メートルほどもあるだ ろうか竿をぐいぐし 、上に持ち上げると、下に吊り下がった手桶の中には澄み切った井戸水が輝いて からり湯島・本郷 3 ◎井戸のある路地ど東京大学 ゆたか
右手に大きな空地がある。そこに以前は確か旅館があったが、周囲の何軒かとともに土地を買収され てしまったのだろう。ここからなら天理教の本堂の側面がよく見られる。菊坂通りには、商店に混じ しよく って仕舞屋とも居職ともっかないガラス戸の家がまだ何軒か残っている。左下に連れ添うのは下道で、 だいまら 右上には台町と呼んでいた崖上の家々が見える。左手に「道具屋」、「ズボン堂」なんていう看板をな がめながら西へ歩く くるまよけ やがて右手に黒褐色に塗られた貫禄のある家が一軒ある。塀の下のはかまには車除の垣根が据えて ある。明治のころから旧家の脇には、自動車ではなく馬車や俥の防備のために竹で編んだ垣を置いて あったが、その名残りだろう。この家は永瀬さんという人の家だが、かって「伊勢屋質店」だった。 ちょうどこの左下の下道に住んでいた樋口一葉が、生活の苦しさから何度か足を運んだ質屋さんで、 今は質商をやめたものの、古い土蔵と店構えだけは当時の姿を残している。 永瀬家の土蔵造りと、八百屋との間に、細い路地がある。幅は一メートルくらいか。路地の両側に は、ツッジやミヤコワスレやサクラ草などの鉢植えがびっしり並んでいる。突き当たりは菊坂台地の 崖になっていて、一本の大きなイチョウが路地の中央に見下ろすように構えている。八百屋と旧質屋 ひさしあい との廂合の下の暗い道から路地に入ると、二〇メートルも歩かないうちに、左手にポンプ井戸がひと つある。蛇口に白い手拭いで袋をこしらえてある。バケッと杓子が置いてあった。まさしく生きてい る井戸だ。路地の奧まで、左側には、格子戸のある家、ガラス格子の玄関の家などが軒を寄せている。 菊坂の井戸第一号はこれである。路地から菊坂通りに戻る。菊坂通りも、この辺まで来ると、人通り が少ない。行き交う人も顔見知りという感じだ。互いに挨拶を交わしている。旧伊勢屋質店まで来る 寸へ くるま
菊坂第一「第五の井戸 現在菊坂界隈に残っている井戸のうち、ポンプ式ではなく汲み上け式の井戸は、この第一一 の井戸だけである。三メートルほどの竹ざおの先端に真新しい桶がついていた。また、第 五の井戸は炭団坂の西北のふもとの細い路地の裏にあって、通りを歩く人からは目につき にくいところにある。地元の井戸睦会の人々の心のぬくもりが伝わってくるようで、つい 井戸水を飲んでみたくなる。井戸とすだれの雰囲気が私を明治大正の時代へと連れていっ てくれる。いつまでもこのままの路地裏であってほしい。 ( 昭和六一一年五月撮影 ) す長