不忍通り - みる会図書館


検索対象: 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)
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1. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

げるためにはしがっていると聞くが、どこが買うにせよ、あのピアノやら歌声やらが聞けなくなるの は少し寂しい。もうひとつ、私立の方は東洋商業高校である。 また、五味川純平の『人間の條件』の版元である三一書房もこの通りにあったが、一一年前に本郷へ 移転し、その跡地は駿台予備校になっている。これで駿台予備校は五号館までもつにいたった。予備 校でありながら先ごろ大学までつくってしまったのだから、その発展ぶりはたいしたものだ。 医療関連でいえば、古い歴史をもつ高木耳鼻科病院、三楽病院、東京医科歯科大学の研究所、医師 会館があり、日本医事新報社というのもある。医師会館は、昭和六年にできた五階建ての建物で、ど こか異国風な外観をもつ。ネオゴシック建築というのだそうだが、堂々としていて、しかも美しい るりいろ とくに窓がよい。目にもあざやかな瑠璃色である。瑠璃色の窓が、くつきり浮き立つのは、医師会館 を通りすぎて振り返ったとき。見つめていると、地中海の海の色に思えてくる。カエデ通りから三階 の窓がよく見えるが、そこは図書室か資料室であろう、色とりどりのぶ厚い本の背が見える。 医師会館の隣には、英語の辞典や参考書で知られる研究社。そのビルの前にま新しい「東京骨董館」 という看板を発見した。神保町にあった「骨董館」がここに移ってきたのか ? さっそく表示どおり こぎれ に、研究社の地下に降りていった。あるわ、あるわ、陶器、ランプ、掛軸、古民具、古裂など、とこ ろ狭しと並んでいる。近ごろアンティークばやりで若者もこのような骨董品に関むをもっているそう だが、若い女の子が喜びそうなアクセサリーや古い着物がある。ガラスケースの中には、金銀の縫い とりがある豪華な打ち掛けも展示されている。三八万円なり。 私が思わす立ちどまったのは、菱川師宣の『東海道分間絵図』 ( 全五巻 ) と安藤広重の『江戸名会席 神田—PART 1 ◎アカデ、こック・神田仟く

2. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

太古の文化人が住んだ弥生坂 しのばず ・一にあ - い 根津は、上野台地と本郷台地にはさまれた谷間の町である。不忍通りが町の中央をほば東西に貫き、 その両側には、台地の傾斜を上る坂道がいくつかある。 弥生坂は、不忍通りから本郷に向かう上り坂だ。一〇分もいけは、坂の上に、弥生式土器発掘の地 を訪ねることができる。 太古の昔、根津の地は海だった。弥生文化を生み出した人々は、入り江にほど近く、日あたり良好 で温暖高燥な本郷台地をかっこうの定住地とし、竪穴住居をこしらえて快適な暮らしを営んだ。だか らこそ、付近で貝塚や土器が発見されているのだ。今は東京大学のキャンパスや住宅地となっている 本郷一帯を掘り返せば、まだいくつもの遺跡が見つかるだろうが、なに、そんなものなくったって、 ちょいと想像をたくましゅうすれば、原始の文化人たちに出会うのはわけない。実際に、彼らが住ん だあたりを歩いてみればよいのだ。 こととい というわけで、根津一丁目の交差点に立つ。ここは不忍通りと言問通りが交わる十字路である。言 問通りが上野台東の方から下ってきて、信号を渡ると今度は上り坂になる。この上り坂が弥生坂には かならない。 ゃなか ついでにいっておくと、根津一丁目の交差点の真下は地下鉄千代田線の根津駅である。谷中ロの改 札を通って、地上に出てくるとき、ここの階段は非常に強い風が吹きつける。ときどきコンタクトレ ンズや帽子を飛ばされて悲鳴をあげている人も見かける。 01 1

3. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

米屋の向かいで最近になってマンション建築がはしまり、表通りだけでなく、横町にまで高層化の波 がひたひたと押し寄せてきていることを実感する。 まっすぐ先に、もう不忍通りが見えている。だが、不忍通りまでは行かす、表通りから一歩手前の この辺から裏町を北に入っていくことにしよう。その方が、本、冫オ王 ( ( 、 艮聿荏見こま近道であるうえ、路地がい たるところにあって、歩いているだけで楽しくなるからだ。 裏町を横切っていこうとすると、とつつきが高層マンションの裏口でやや興醒めだが、その先は、 間ロの狭い一一階建て木造家がずっと続く。道に面してすぐ玄関の戸があるような、典型的な下町の家 並みで、家と家は肩を寄せ合うようにくつついている。ときどき路地がある。大きいのもあれば、一 ひさしあい 人がやっと通れる廂合の路地もある。大きい路地はたいてい不忍通りまで通じているが、あとは袋小 路だ。七、八軒いくと路地があるというべースで裏町はなかなか終わらない。 路地のひとつに入ってみた。板張りの壁、格子戸のはまった窓、釣しのぶ、風鈴、縁台、鉢植え : いつなくなるかと心配だった下町風景が五〇年前と変わらすにあった。ただし、玄関の戸がアル ミサッシにとって代わられている。 もうひとっ別の路地に入った。路地の入口は、鉢植えが重なるように置かれて、ただでさえ狭いの に、なお歩きにくくなっている。ゴムまりが転がっていた。またぐようにして奧へ進むと、そこは行 きどまりの家の玄関先だ。その両脇に路地から引っ込むようにしてまた別の家があった。奧まった玄 関先はびっしり靴で埋まっている。おとなのも子どものも、サンダルもハイヒールも運動靴も : ったい何足あるのかわからない。バットとグロープが置いてあった。洗濯ものを入れたかごとバケッ 根津から千駄木へ・郷台地の稜線に沿って

4. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

さくら通りを全部歩いて西に出てしまうと、目の前に後楽通りが横たわり、車の往来が激しい。こ ちら側から見る神保町三丁目の通りは、いやに静まりかえって、活気はあまり感しられない。信号を 西に渡る。左手角は木造三階建ての「今庄牛肉店」という老舗だったが、今はただ「今庄」とだけ書 かれたうなぎ屋となっている。私は終戦直後、ここの二階が写真場になっていた時分、自分の写真を 撮ってもらったのを思い出した。玄関から上へは、しゅうたんが敷いてあって、土足のまま上がって いった。当時は、九段会館、如水会館、学士会館などに多くの駐留軍兵士がおり、「今庄」の二階にも 外人が来ていたので、土足で上がれるようにしたものらしかった。その当時、フィルムなどなかなか 入手できなかったから、写真を撮ってくれるところは都内でも数えるはどしかなかったのだ。「今庄」 は食糧難の急場しのぎに、改造して写真場になっていた。 神保町三丁目の通りには、やっとこさ我慢して建っている、ダークグリーンの緑青の建物が二つ並 んでいるが、手前の「三栄商会」は真新しい看板で、向こうの「河合商会」は、以前のネームがかす かに読みとれるが、今ははとんど活動しているようには見えない。右手には、大きな出桁造りの「笠 井運輸店」がある。この通りの左右には仕舞屋や居職の家が減って空地になっているところが目立ち はじめる。現在は、左側に四カ所も空地ができて、まるで歯がぬけたようである。 かって、この通りはいかにも職人町という雰囲気が残っていて、奇をてらうでなし、あくまでつつ ましい商店住居の家並みが続いていた。とりわけ好きだったのは「糊亀」という店。江戸時代の糊屋 の看板と同し形に、五センチはどの厚みのある丸い形の中に「のり」と描いた看板が見られた。 ところが、その「糊亀」は先ごろ、貼り紙を出して店を閉じてしまった。 209 のりかめ 神田—PART 1 2 ◎新旧の顔をもっ覆町界隈

5. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

上りしも勤めなれはかな 湯島天神の裏に、啄木の歌の書かれた碑がある。 そこから再び本郷大横丁へと戻る。門構えの立派な家の並ぶ通りから大横丁に出ると、そこは人魚 のレリーフのある「ムサシャ八百屋」である。その珍しいレリーフを角地にながめながら南の横町に 入ると、左手に三河稲荷神社がある。本郷っ子はここを「三九さま」と呼んでいる。以前三の日と九 の日に縁日が出たからである。現在は、毎年六月の一日、二日が大祭となっており、人々でなかなか の賑わいを見せる。 この三河稲荷神社の角を入った路地にも、木造一一階建ての家が続く。一一階には洗濯物がはためき、 通りに面した家の前には鉢植えがたくさん置かれている。ところどころに猫がいて、私が近づいても 逃げようともしない。 こういう環境がいつまでも残っていくといいのだが。 ◎ 今はなき本郷座 しばらく行くと、車の通りの激しい本郷通りに出る。横断歩道を渡る途中、左に目を向けると、東 大の木立ちと本郷通りの並木とで行く手には緑があふれるばかりである。とても東京のまんなかとは 思えないながめである。 本郷通りを渡ったら右手の細い路地に入る。路地の左手には板塀と門のある古い家がきゅうくっそ うに建っている。その隣もモルタル造りの古い二階建てアパートになっている。一歩裏に入ると、今 でも戦前の住居が残っている。その先の小さな三叉路の左に目を向けてみると、幅六メートルの通り

6. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

夏の螢、秋の紅葉、冬の雪景色・ : いっ来ても美しい根津権現は、多くの錦絵や、名所図会に描かれ ている。江戸の中心地、日本橋からでも約一里 ( 四キロ ) の近さ。歩いて一時間はどとあって、参詣 人が絶えず、根津は門前町として発展した。 さらに、江戸末期から明治時代にかけて、公認の根津遊郭や、団子坂の菊人形が、庶民をこの地に 引き寄せた。 遊郭については、あとでまとめて述べるが、根津では、参詣にも遊郭通いにも同し道が利用された。 通りですれ違う人々は、あるときは敬虔、またあるときは快楽の追求者。人間のもっこの両面性が 町にも陰翳を与えてきたように思えてならない。 今、遊郭の面影などどこを探しても見あたらないが、根津界隈は、表もあれば裏もあり、その間に たくさんのひだができて、きわめて人間くさい町である。 私は、この根津を起点にして、本郷台地を上ったり下ったり、台地の高低を確認するように、ゆっ くり北へと向かう。根津から千駄木までは地下鉄でたった一駅、歩いても一五分くらいだが、まっす ぐ行ったのでは地形の面白さはない。たつぶり二時間はかけてめぐり歩きたい。何に出会うかは、あ とのお楽しみである。 およそのコースは次のようになる。 やよ 根津一丁目ー弥生坂ーサトウハチロー記念館ー異人坂ー根津の裏町ー根津権現ー夏目漱石旧居「猫 ゃぶしたどお の家」跡ー藪下通りー森外旧居「観潮楼」跡ー団子坂ー須藤公園ー千駄木の屋敷町ー駒込土物店跡 ほ - つろ / 、 ー八百屋お七の墓ー焙烙地蔵。 109 根津から千駄木へ◎夲郷台地の稜線に沿って

7. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

一八〇度向きを変えて北に歩くと、突き当たりに「カーサ本郷」、右手に「ハイムえりか」という 名前の小型マンションが建っている。その角を左に折れると目の前に、曹洞宗長泉寺の脇の門らしい 入口が現われる。桜の大木が中央に茂っている。寺内には、右手に超近代的な本堂があり、その前の 木陰に赤い帽子を着せられた六地蔵が行儀よく並んで、長年の風雪に堪えてきたことを物語るかのよ うに、古い苔がむしている。六地蔵と本堂との間から広い墓地に入る。三世紀以上も前の延宝年間や 元禄年間からの墓石や濡れ仏がたくさん立って、長泉寺の古刹ぶりがしのばれる。南北に長い四角い 寺域は、菊坂台地の南の輪郭を形づくるかのごとく、南側は金網の垣根越しに、ストーンと菊坂通り、 したみち まさごらよう さらにその南に並行する下道を谷間にして、対岸の真砂町 ( 本郷四丁目 ) 台地と向き合っている。 身を乗り出して左手を見ると、さっき歩いてきた菊富士ホテル跡地も、この崖の東に続く見晴らし 台にあったことがよくわかる。きっと似た眺望をもっていただろう。垣根と同じ目の高さに、谷間の 一一階家の古びた屋根瓦が手にとるように眼前に広がっている。南面の日当たりがよく、薫風が頬をな でるのを覚えながら、山門の右脇のくぐり戸を中から外にくぐって出る。振り返ると立派な杉板戸の くんしゅしてさんもんにいるをゆるさず 山門であった。左手には寺でよく見かける「不許葷酒入山門」という大きな石碑が建っている。 比較的長い参道には、石畳が敷きつめられ、それを何段か下ると、菊坂通りが左右に走っている。 参道の両側には、笹に混じってバラ、ポケ、コデマ リ、ツッジ、アジサイなどが花々や緑を競ってい る。「大正一一年一〇月吉日」と刻まれた石柱が一一本ある。右には曹洞宗長泉寺、左には本郷菊坂町 一五番地と朱入れの彫り字となっている。この上り加減の参道の空間は、近所の子どもたちゃ猫にと って絶好の遊び場となっている。山門脇に「大を連れての散歩は固くおことわりします」と出ていた

8. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

りの石段の上りきったところと、上り口の石段とを結べばそれぐらい急な坂にはなるに違いない。妻 恋坂から天神下通りへと曲がる角の神田側にはあんこう鍋で有名な神田須田町の「いせ源」の別館が ある。 「いせ源」の角を左に曲がるとそこは下通りといわれる通りで、日本旅館などが多く、曲がりくねっ みくみ た静かな道である。ここは、今は湯島三丁目であるが、町名改正前までは湯島三組町といっていた。 らゆうげんこびとおかごがた 徳川家康が駿河で亡くなった後、おっきの中間、小人、御駕籠方が江戸に戻ってこの地に住んで商売 をはじめたという。その中間、小人、御駕籠方を合わせて三組と称していた。 この下通りは、本郷台地の東南の傾斜面の崖下の道である。おそらく大昔はこの辺まで海が迫って いたのであろう。左手には、急な斜面に住居やらマンション、日本旅館やらが建っている。まるで、 自分が谷の底を歩いているような気分になる。きっとこのあたり、日が暮れるのも早いのではあるま しばらくこの下通りを歩いていると、右手角に、庭に白鬚神社を祀っている民家がある。門がしつ かり閉められているのが気になった。いったいどこから参拝するのだろう。 その先の交差する坂が三組坂である。反対側の角には、ヨガや中国語を教えている湯島学園が建つ そこから先の下通りをガイ坂と呼んでいる。ガイとはゴミのことで、昔はゴミを集めるための坂が 大きな通りからちょっと横に下ったところにあることが多かった。 三組坂の交差点からやや左に曲がっているガイ坂を下ると左手にほっかりとあいた空間がある。駐

9. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

昭和七年に建てられたもの。設計は佐藤功一が担当した。正面の壁には、三冊の本の背表紙をモチー フとした曲面ガラスの出窓があり、その周辺には金を焼きつけた磁器の装飾がはどこされていた。昭 和初期のモダニズム建築を代表するピルのひとつであった。 冨山房の西隣、東洋風な手すりのあるピルは、現在、「東洋時計商会」となっているが、戦前は「中 華第一楼」のあったところである。その先の角地にある「宮田紙商廛」の店舗は、店主自らの設計に よる傑作だったが、先年、白タイルの新ビルとなった。戦災で焼ける前までは立派なステンドグラス の窓があったが、今も保存してあるという話である。 「三慶商店」はもとは楽器屋だが、今は美術道具商。 北側にある「高岡商会」は鉱物、生物見本や標本を売っている。一度天然記念物の標本を売ってい たために検挙されたことがある。ただし、高岡商会に責任はなかったので無罪となった。 ラーメン屋「礼華楼」は、ラーメン一杯二八〇円、カレー三五〇円、中華丼一二八〇円ととにかく量 が多くて安い すすらん通りに面してはいないが、書泉グランデ裏の「ラドリオ」という店は、作家や編集者のた まり場として有名。同し経営者のタンゴ喫茶「ミロンガ」も神保町にあるが、こちらは五木寛之の 「夜明けのタンゴ』の舞台となった店。経営者の島崎愛子さんは私の幼な友達である。また、すすらん しのぶ 通りの喫茶店「青銅」や、靖国通りの北側にあるバ 「忍」も北方兼三をはしめとする作家たちがよ く利用する店である。 ついでにいうと、靖国通りの 北側には、日本文芸社という出版社の経営するパチンコ店「人生劇場」 90

10. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

藪下通りは往古の人々も通った尾根道 根津の裏門坂途中から千駄木の団子坂の坂上にいたる南から北への藪下 ( やふした ) 通りは、 太古から踏みかためられた尾根道である。その面影を最もよく伝えるのが、やや上り加減 の坂になるこのあたり、石垣とレンガ塀が向き合う地点である。昔、この坂を「汐見坂」と 呼んだ。いまも、左手の石垣の植え込みの中に埋もれるように「汐見坂」の自然石碑がある。 前方右手に汐見小学校があり、その前をすきた右手に見晴らし台、眼下に池があった。い まは見晴らしがきかなくなり、池もなくなってしまった。 ( 昭和 59 年 6 月撮影 )