東京大学 赤門 桜木神社 真砂小 、 ~ 菊坂通り 卍法真寺 ーこ・菊富士ホカレ跡 真砂図書館・ ・第 6 の井戸 ・第 5 の井戸 卍長泉寺 第 4 の井戸 ・蔔水湯 ・第 3 の井戸 、第 1 の井戸 第 9 の井戸・第 8 の井戸 ダ・第の井戸 ・第 2 の井戸 清和公園 春日・ ◎菊坂の井戸めくり
菊坂第一「第五の井戸 現在菊坂界隈に残っている井戸のうち、ポンプ式ではなく汲み上け式の井戸は、この第一一 の井戸だけである。三メートルほどの竹ざおの先端に真新しい桶がついていた。また、第 五の井戸は炭団坂の西北のふもとの細い路地の裏にあって、通りを歩く人からは目につき にくいところにある。地元の井戸睦会の人々の心のぬくもりが伝わってくるようで、つい 井戸水を飲んでみたくなる。井戸とすだれの雰囲気が私を明治大正の時代へと連れていっ てくれる。いつまでもこのままの路地裏であってほしい。 ( 昭和六一一年五月撮影 ) す長
げられているから、分譲住宅だったのだろう。 この道を下り加減に北に歩いていくと、右手には、さっき私が歩きだした下道が見えるが、目の前 の茶褐色の「みやこマンション」の左手沿いの路地を歩いていくと、菊坂通りが尽きるところ、正面 には、胸突坂の下あたりに出る。坂の途中には、三菱重工寿寮や章文館、鳳鳴館などの旅館がある。 菊坂通りが言問通りと合流する正面の信号を越したところには、三浦屋酒店の古いたたすまいが目 に入る。 菊坂通りから斜め右に、三角形の一辺を行く形で言問通りに抜ける細い道がある。その道を抜ける と、右手に大きな駐車場があって、左手には石塀が続き、その先の昇龍館出版社との間に細い路地が 東に入っている。右手は駐車場の石塀が一直線に続いて空があっけらかんと広がっている。たしか突 き当たりに井戸があったはずだと勢いをつけて歩いていったら、井戸のあった石畳だけが昔のまま残 っていて、もう井戸はなくなっていた。第八の井戸は跡地にすぎなかった。 がっかりして言問通りに立ち戻って、約一〇歩も歩くと、右手にカメラ屋がある。手前に細い路地 が、胸突坂の章文館の崖下目がけて入っている。西日がもろに照りつける敷石を踏んでいくと、左手 の奧まったところに、ポンプ井戸があった。ゆっくりポンプをこぐと、きれいな水が流れ出てきた。 第九の井戸である。私は、晩春の太陽に照りつけられた顔を洗い、ロをすすいだ。 菊坂を中心として、半径わずか、四〇〇ー五〇〇メートルほどの範囲内に、井戸が九つもあった。 そのうち現役の井戸が七つとは驚きである。地上ではコンクリートでかためられたピルや道路などが ひしめいているのに、大自然は真面目で寛容である。だが、人間があまりにもかって気ままに破壊を ぶらり湯島・本郷 3 ◎井戸のある路地と壅示大学
っぺんの歩き方では見つからなかっただろう。 井戸のそばから左へ曲がる。人が一人やっと通れる路地を行くと目の前に炭団坂の上り口がある。 この下道沿いに現役の井戸が五つあり、さっきの凅れた井戸も計算に入れるとすれば、それが第六 の井戸となる。合計六つもの井戸を発見したわけだが、まだまだありそうな気がする。 炭団坂を上り、しばし崖上を西に歩いて眺望を楽しみながら、さらに井戸を訪ねての散策を続ける ことにー ) しよ、フ。 炭団坂を上りきったところにあるのが、坪内逍遙が明治一九年 ( 一八八六 ) から二〇年にかけて住 んでいた家である。まわりは塀で囲まれ、高陽堂という町工場となっている。塀に沿って人が一人通 れるような、手すりのついた細い道がある。ひと息ついてその眺望を楽しむことにしよう。真砂町の 崖から菊坂の谷、そして対岸のながめがなかなかよい。先ほどの長泉寺の墓地や山門が見える。あち らの方が少し高いようだ。崖下に目をやると、ツタのはう石垣のふもとには、青々とした真竹が何本 となく植えられている。その竹の葉がくれに私がさっき歩いてきた菊坂から下道の家々の屋根が遠望 できる。私はここを何度も訪れているが、戦前にはここから女子美や菊富士ホテルが見えたのだ。ふ と地面に目をやると、塀際にはツワプキが大きな葉を広げ、タンポポの黄色い花が咲いていた。 ◎ 九番目の井戸 崖上の小道を少し行くと e 字路に突き当たる。正面から右の方には大蔵省財務局の真砂町住宅が何 棟か建っている。 e 字路の右角にはコンクリート打ちつばなしの民家があってその横には細い路地が らり湯島・本郷 3 ◎井戸のある路地ど東京大学
建てである。下道側にも入口があるが、ここは一階なのだろうか。それとも地下一階なんだろうか。 よく山あいの温泉宿などに見られる建て方だ。西側の階段脇にはいろいろな植物が、植木鉢や発泡ス チロールの容器に植えてある。菊坂の人たちは植木が好きだ。先人が菊を植えていた伝統を感じとっ てのことだろうか。 石段右手の正面にあたるところにも、古い民家が残っている。表のガラス戸には、「表具師谷澤」 と書かれた障子紙が貼ってある。敷居の上には幅が三センチ、左右一〇センチぐらいの住居表示板が あって、そこには「菊坂町」と書かれている。町名改正前の表示である。 あたりの家を注意して見てみると、ほかにも昔からの古い家には、この表示板の残っているものが 何軒かある。本郷四丁目などより、なんとよい町名だろう。 石段より少し先にひとっポンプ井戸がある。しかし、これは涸れていて使われていないようだ。下 道を西に戻ると、左に入る横町がある。竹川信農と表札がかかった家の角を左に入っていくと、その 先がふたまたに分かれていて、左前方には、炭団坂の幅広い石段が見える。右手に入る狭い路地には、 黒すんだ板張りの仕舞屋と、梯子なんかを家の脇に置いてある格子戸の家が続いて見える。炭団坂が 見えるからといって、左の道を選んだら、井戸は見えない。右の狭い道に入ると、左手のへこんだと ころにちゃんと使われているポンプ井戸がひとつあるはすだ。まわりをきれいに掃除して、井戸のそ ばにタワシが二個置いてある。 「大きくしすかにくんでください。子供さんはえんりよしてください 井戸睦会」 むつみかい この第五の井戸もとおりい という告知板が下がっている。井戸睦会ということはがなかなかいい
途中でやめた路地がここに出会っているのでは : : と、私はすかさす左手の廂合の下をくぐるように して足を踏み入れた。一〇歩も足を運ぶと九〇度左へカギの手になる。依然として「だんまりの暗闇」 の感じだ。五、六歩で右へ折れる。いや、ここだここだ。相生荘の入口が右手で、前方に急勾配の鐙 坂の横っ面が、明るく輝いているではないか。 私は鐙坂に出て、この狭い路地から再び入り直した。今度はこわくもなんともない。 もう一〇年も ここに住んでいる気持ちで、すまし込んで歩いてみた。私の靴音だけが、コッコッコッと狭い廂合の 下で反響した。 石段の上からやおら路地に降りると、石段のすぐ下に濃い緑色に塗ったポンプ井戸がある。 家と家が軒を寄せ合うようにして建っているこの路地になんとふさわしい井戸だろうか。この井戸 のある狭い空間には、植木鉢や、金魚がいる瓶が、何気なく置かれている。人の家の庭先にいるよう な感しで少し気持ちが落ち着かない。と同時に、今もこういった空間が残っていることに安心した。 植木や盆栽がたくさん置かれ、石畳もきれいで、水もまかれている。なんだか、明治、大正を舞台と した映画のセットの中にいるような気になってくる。 井戸のそばに文京区で設置した案内板があるが、しつは、この路地の出口、下道の両方の角地に、 樋口一葉が住んでいたのである。だから、この井戸の水を一葉も使っていたに違いない。そう思うと、 私はポンプをこいで、井戸の水を両手に汲んで、一「三回飲んでみた。水道の水と異なって味のある だっこ。 一葉がこの路地の東側の菊坂町七〇番地 ( 本郷四丁目三二ー五 ) に一戸を構えたのは明治二三年 ぶらり湯島・本郷 3 ◎井戸のある路地ど東京大学 かめ
と菊坂通りはあと四、五軒で言問通りの菊坂通り下バス停に出てしまう。右頭上から胸突坂 ( 江戸時 代はこれを菊坂と記した地図もある ) が、転がり落ちんばかりに「山小屋」という喫茶店の角に出て くる。郵便局前の「ゑちごや」という餅菓子屋に飛び込んで腹ごしらえをする。いなりすし六個、赤 飯おむすびと、おはぎを食べる。 「うちはここで一〇〇年も餅菓子屋をやってるんです。おしいさんが越後からここまで歩いてきて店 をもったといいます。私は三代目ですが、以前はこの辺にはもっと井戸があったんですよ。この先の 空地になっちゃったとこにひとつあったし、うちの真前の藤城さんの、ほら木戸で閉まってるでしよ、 その中に井戸がひとつあるんですがねえ : : : 」とついこの前消えた井戸と、外からは見られない秘密 の井戸を教わった。太田泰さんの「ゑちごや」の左手から曲がって下道に出ることをお忘れなく。こ あぶみざか れが能率的なスタートである。この西の端から東の鐙坂までの長四角の間に、五本の路地がある。路 地の長さは三〇メートルぐらいしかないから、運針で歩いても時間は知れている。下道の北側は、さ つき私が歩いてきた菊坂通りと連れ添っているが、南の方には、大谷石を一一重に積み上げて花壇を据 えた上にある、大蔵省財務局の真砂町住宅が何棟も建っているのを下から見上げる路地からは、その 大谷石の石垣と花壇の草花が散見できる。 下道のすぐ右手「ファースト急送」の角を右に折れる。路地のほば中央に、見えるじゃないか、汲 み上げ式の井戸が。直径九〇センチぐらいの丸い井戸には厚い板でこしらえた蓋がしてある。蓋を取 ってみた。中からヌーツと一本の竹竿が上に浮き上がってきた。竹竿は長さ三メートルほどもあるだ ろうか竿をぐいぐし 、上に持ち上げると、下に吊り下がった手桶の中には澄み切った井戸水が輝いて からり湯島・本郷 3 ◎井戸のある路地ど東京大学 ゆたか
ロロ ⅧⅧ ー葉の井戸 菊坂の井戸めぐりで 4 番目に訪れる井戸は、旧菊坂町 69 番地と 70 番地の間の細い路地の奥、 鉢植の並ぶ石畳の先にある。かって樋口一葉も住んだというこの一角、今も草花に囲まれ て昔と変わらない表情を見せている。菊坂の住人たちは植木を育てるのが上手で、いつ訪 れても、さまさまな植木がそれぞれの舂を謳歌している。正面に建つ 3 階家は今も建在で ある。この版画のままの姿が、 1 日も長く変わらすにいることを願わずにはいられない。 山高登画「本郷菊坂』昭和 54 年
第三の井戸は現役中の現役。周囲のコンクリートの流しの手入れも清潔で気持ちがよい 。この路地 の植木の生き生きしている原因は、きっとこの井戸水のおかげではなかったかと、勝手に想像する。 やはり運針歩きの効果絶大で、私はこの井戸の存在は今日初めて知った。やはり「犬も歩けは棒にあ たる」だ。路地のどっち側からも植木の陰になって見つけられない井戸だった。 樋口一葉の面影 第三の井戸まで発見して路地を下通りに出ると、眼前の銭湯の「菊水湯」の煙突からは、まだ夕暮 れにはたつぶり時間があるというのに、早くも煙が出ているのが見られる。風呂屋の玄関は東に向い ているのだろう。下通りに面した戸は風呂屋の勝手口らしく、近所から集めてきた古杭だのテレビの 箱だのと、燃料が山と積まれている。 運針する路地は五本目となり、幅三メートルぐらいの道を歩いて行くと、左手「菊水湯」からの道 と行き合うようにして、前方に急坂が展開する。右側は関東財務局の高い石垣、左側にある民家の石 塀と石の土蔵がお互いに両側からはさんだかっこうの間を真砂町の丘に向けて上っている。これが鐙 私は鐙坂に向かって歩きだした。左手の石の土蔵のある民家の前に文京区の説明板がある。昔ここ に鐙をつくる職人がいたからの名とも、坂が下にいくほど細くなっていて、まるで鐙の形に似ている からだともいう。急な坂なので、コンクリートにすべり止めの円形の連続模様があって面白い つまさき 「のつけから爪先上がりの鐙坂」なんて下手な句を口すさみながら一歩一歩と上りだした。左手のプ からり湯島・本郷 3 ◎井戸のある路地ど東京大学
これぞ井戸水。この冷やっこい感覚、 あふれ出した。上まで上げて手を洗い、顔を洗った。冷たい。 何年ぶりに味わっただろう。 相当に音を立てて汲んでも路地の家の戸を開けてどなる人はいない。井戸の蓋をちゃんと元通りに して、路地を南に貫くように通る。この路地の両側のツッジのきれいだったこと、よほど手入れがよ いのだろう。突き当たりの石垣真下の道を家一一軒分歩いて次の路地に入る。路地の幅は一メートルが やっとという細さの中を、大柄な私がのっそのっそと足音を残して通るのだから少し気がひける。 右手の古い住居表示に菊坂町六〇番地とある。一葉の住んだ六九番地まであと少しだろう。この路 路 地の家々の古いたたすまいがなんともいえない。ときたま猫が顔を洗ってたり、駆け抜けていく。 地を北に抜けると再び下道に出る。左手に石段があって菊坂通りに上がれる便りの道となっているが ここを上がっては井戸に会えない。右手に「本郷四丁目児童遊園」と書いた狭い公園があるから、そ れについて右に折れる。 この路地、幅は二メートル以上、広い路地だが、井戸は見つからない。ここからの真砂町住宅の花 がきれいだ。ツッジや、白っぱい花をつけた大根などが、大谷石を積み上げた築地に咲き乱れている。 路地を抜け切ると本郷四丁目一元から三〇へと地番が変わる。次の道はごく狭いが、中央に丸太が 何本か立ち並んでいて、竹竿を何本も渡して洗濯物を干している。寝間着だのシーツだのが、南風に はためいている。この路地には植木づくりの名人がいるのか、どの鉢植えも立派な姿に生育している。 あったあった、右手に、人目から隠れるようにして、ポンプ井戸があるではないか。第三の井戸発 見である。