資料の展示スペースになっていて、江戸時代の水道管がガラスケースの中に収められている。江戸時 代の水道管というのは、石樋と木樋の一一種類である。江戸時代に、これだけ立派な水道管があったと いうことに感心させられる。ここには、はかにたいした資料はない。江戸時代に限らす、わが国の水 道史に興味のある人は、新宿の東京都水道記念館に行くことをすすめる。 水道局を出たら、前方右手に、青緑色の歩道橋が見えてくる。この歩道橋が本郷給水所公苑の入口 につながる。ここを上りきったところが本郷給水所公苑になるのだが、知っている人以外、橋上の高 いところにそんな場所があるなんて想像できないだろう。本郷給水所公苑は、東京都水道局の四角い 広大なプールのような貯水槽の上につくられた人工地盤上の公園で、さしすめ空中公園とでも名づけ られよう。将来、多くの摩天楼によって都市が埋められていくなかで、こうした公共施設などの屋上 や、高層ピルを結ぶ巨大なデッキの上に公園をつくる試みは増えていくに違いない。ビルが建ち並ぶ 都むに、ささやかでも緑が増えていくことは、、つれしいかぎりだ。 入口を入ると、左手に池があり、水が流れている。流れの源は公園前方にある雑木林の奧。自然石 でこしらえてある流れは、林間を巡り、洲浜や渡り石を洗い、池へと注いでいる。雑木林は、ソロ、 コナラ、ヤマモミジの林、ヤマッパキにハナミズキの植え込みが、ゆったりと曲線を描いている。武 蔵野の雑木林のイメージでつくられたという。この入口あたりは、純粋な和風庭園といった趣きだ。 池では、若いお母さんが子どもを遊ばせている。かわいいフラスチックのバケツを手に持ったヨチョ チ歩きの子どもがしきりに手で何かをすくっている。見るとバケツの中には、まだ一センチー二セン チほどのオタマジャクシが泳いでいる。さっそく私も、老眼鏡をポケットから取り出し、池の中をの of
学校が建っている。このように、公園と隣り合わせに建てられた小学校は、都内のあちらこちらで目 にする。傾斜地にある公園と小学校の組み合わせ例をあげれば、駿河台の反対側の錦華公園と錦華小 学校、本郷の元町公園と元町小学校などがある。 戦前、東京市役所では、下町を中心として、大震災を受けた小学校を復興するときに、隣に緑地を 設けその小学校と同し名前をつける方針を打ち出した。こういう建て方は、元来日本のものではない。 合理主義のアメリカ的な発想といえよう。住宅密集地の下町の場合には、学校の隣に公園を設けるこ とによって、校庭や校舎の採光を確保することもできたのである。淡路小学校も典型的な復興小学校 とい、んよ、つ。 公園を左折して、新坂と呼ばれる坂を下る。淡路公園の敷地には、明治から昭和初期まで、現在西 日暮里にある開成中学校があった。元慶応大学教授で『随筆東京』の著者としても知られる、今は亡 き奧野信太郎氏が、淡路町にあった開成中学校の最後の卒業生だと聞いている。 新坂を下るとすぐ右手には、手づくり自転車の「吉田」と、洋傘を売る店とがある。この自転車屋 は、オーダーメイドでマニア向きだ。フランス製のハンドルなどもある。洋傘屋は看板が出ていない が、店先にパラソルを逆さに吊るして「実物看板」としている。ふつうの看板にしていないのは、店 主の考えあってのことなのだろう。 新坂を進むと、左手に淡路小学校が見えてくる。復興小学校は、鉄筋三階建てと相場が決まってい る。この小学校も以前のままの三階建てである。最近では小・中学校が改築されるときは、決まって 四階建てとなっている。校庭の東南角に、ポンプ井戸がひとつある。「災害対策用」と注意書きがあっ 神田—PART 2 望舗の味は健在なり 243
海に面した丘陵地で発達したそうだ。裕福な市民の別荘地で、丘陵地を段切りにして平地をつくり、 そこを庭園にしたという。最上部に館を建て、下方に広がる風景を借景にするのが特徴だ。元町公園 でたとえるなら、自由の広場が館に相当して、神田川方面は地中海の借景といったところだろう。 元町公園の開園は、昭和五年。震災後の復興計画に基づいてつくられたそうだ。この様式を見るか ぎり、五七年もの歴史があるなんて信じられない。第二次世界大戦中の金属類供出で、門扉や鉄柵を 失ってしまったが、五九年に当時の資料を元に復元したそうだ。元町公園の見もののツートンカラー の門柱と甲型の外柵は、一見の価値がある。イタリア・ルネサンスのゴージャスな雰囲気を満喫して、 一兀町公園をあとにしよう。 ◎ 丸橋忠弥、御用どなる 元町公園を出たら、水道橋方面に、わすか数メートル歩く。すると右手に坂がある。坂に名前はっ いていない。この界隈で最も坂らしい坂なのに、 いまだに無名坂である。右手に元町公園、左手に昭 和第一高校がある坂を上っていく。右に少しカープしている。元町公園から、大きなスズカケの木が 通りにおおいかぶさっている。人通りは少ない。道幅は狭いが意外と車の往来が激しい。大きなスズ カケの木を見上げながら割合急な坂道を上る。詰め襟の学生服姿の少年一一人、声高に談笑しながら下 すずかけみら ってきた。ふと、昔、灰田勝彦の歌った『鈴懸の径』を思い出した。 私なら、この坂を「すすかけ坂」とでも名づけるだろう。カープしながら上って行くと、昭和第一 高校の向かいに、元町小学校、その少し先に文京区立第一一幼稚園が見えてくる。坂を上りきると十字
林泉に恵まれた須藤公園 団子坂を下りきって西北に入ると、湧き水を満々とたたえた池をもつ須藤公園がある。大 通りの喧噪がうそのような静かな住宅地にあり、どこか武蔵野の井ノ頭公園と似ている。 門を入ると目の前が池。要所に大きな自然石が置かれ、中央には弁天様を祀った中島が築 かれている。公園の西北には、池の水面との高低差 10 メートルほどの滝がある。滝は 3 段 に分かれ、最初のものは落差が約 5 メートル。少し曲折しながら落下する滝の水は、石の こは、江戸時代には松当備後守、下総守の下屋敷だ 0 たところ。 谷間を流れて池へ注ぐ。 明治になって政治家の邸宅となり、さらに実業家頃藤氏の所有となったのち東京市に寄付 された。現在は、文京区の管轄となっている。 ( 昭和 62 年 5 月撮影 )
ぞいてみた。いるいる。黒いオタマジャクシがシッポをふりふり一一〇匹近くいた。 あずまや のどかな春の日ざしが池に反射してまぶしい。「四阿」でひと休みすることにした。四阿とは、庭園 や公園の中のいちばん見晴らしのよい場所に建てられた休憩所のことである。屋根がっき、壁は吹抜 けとなっていて、中にべンチがある。ひと息つき、今度は西洋園に行くことにした。右手奥にはヾー ゴラとテラスが見える。 ーゴラとはラテン語かイタリア語が語源といわれ、正式には「ベルゴラ」 と発音するそうだ。庭園や公園内の建造物のことで、屋根の部分を蔓植物でおおって、園内にさし込 む陽光をやわらげている。日本庭園にもあり、一一つ建っていることになる。。ハ ーゴラの柱は、大理石 でできていて、屋根には、蔓バラがからまっている。日本庭園にくらべると、明るく開放的だ。空が 広い。目の前には左右対称にデサインされたバラ園がある。公園内のバラは、その数四八種類、七五 七株もあり、都内でこれだけのバラ園はない。ほば一年中、色とりどりのバラが咲き、真冬でも花を 咲かせる種類がある。 そのほか、文字盤が数種の色彩の違う大理石でつくられた花時計、その反対側には大地球儀が設置 されている。中央の円形花壇には、母子のプロンズ像がある。大地球儀の裏側は、生垣で区切られた 子どもたちの遊び場になっている。すべり台、プランコ、菱形の砂場などがある。これだけの公園が 貯水槽の上にあるのだからたいしたものだ。西側正門から階段を下りて、 リの香りが漂う給水所公 苑をあとにする。次は、イタリア・ルネサンス式庭園の元町公園へ向かう。フランスからイタリアへ の旅である。 ぶらり湯島・本郷◎聖堂から忠弥坂まで
響第 き 3 物 元町公園の夜景 大正年 (1923 ) の関東大震災によって、明治大正のよき東京の町並みが失われたが、新し く生まれ変わった東京にも、すぐれた建造物は多かった。そんななかから 100 景を選び、 昭和 4 ~ 7 年にかけて 8 人の版画家が「新東京百景」を描いた。平塚運ー、藤森静雄、前川 千帆、諏訪兼紀、川上澄生、深沢索ー、恩地孝四郎と、この元町公園を描いた逸見享であ る。この「新東京百景」はわずか 50 セットしか刷られなかった。逸見享は明治 28 年 ( 1 895 ) 和 歌山市の生まれで、繊細で入念な作風で知られている。 逸見享画「新東京百景元町公園」
聖橋は、昭和一一年七月に関東大震災後の復興橋のひとっとしてつくられた橋だ。鉄骨鉄筋コンクリ 拯となしばし ト桁の美しい立体的な橋は、北区滝野川の音無橋のモデルにもなったそうである。橋の名前は、一 般からの縣賞募集で決められた。聖堂の「聖」と、駿河台に建っているニコライ堂の正式名称である 東京復活大聖堂の「聖」の字をかけあわせてつけられたのであろう。この橋も、還暦を迎えた。 何度通っても、うっそうとした木々の間から、明るい緑青色の屋根をのぞかせた聖堂の長い階段式 の塀の美しさには見とれてしまう。この景色は、本郷育ちの自慢である。ことに大きな屋根に雪をい ただいたときには息をのむ。 橋を渡れば、そこから住居表示が湯島一丁目と変わる。これから、大木の生い茂る聖堂のまわりを ひとめぐりすることにしよう。東京医科歯科大学附属病院のレンガ造り調の建物を左手に見て、まっ すぐに歩く。通りの両側にはイチョウが植えられている。神田明神前の通りに出るまで約一〇〇メー トルの間は、片側だけで一六本ものイチョウ並木が続く。そのイチョウとイチョウの間には、ツッジ も植えられている。赤紫色や白のツッジの花が咲きはしめたところだ。新緑の若葉をつけだしたイチ ョウの木は、少しぐらい強い春風などはもろともせすに、堂々と立っている。幹も太い 少し歩みを進めていくと、聖堂へ通じる入口がるが、立入禁止の札がかかっている。閉ざされた 入口の先には、お茶の水公園の入口がある。公衆便所の脇を抜けて入っていける。この公園は、一一等 辺三角形のような敷地で、聖堂と隣り合わせになっている。公園と呼ぶには狭い感じもするが、聖堂 の静けさがここまで及び、大木が植えられていることで、落ち着きのある空間が生まれている。お茶 の水公園を右手に見ながら歩いていくと、交差点にぶつかる。公園からおおいかぶさるようにしてソ ぶらり湯島・本郷◎聖堂から忠弥坂まで
あり、民家が何軒か並んでいて、その一軒の庭には黄色い果実をつけた木が植わっている。 字路の右は、先はど歩いた鐙坂である。この坂を下りかかろうとする左手には、西に抜ける両側 を塀ではさまれた細い道がある。地元の人はこの道を「奧の細道」なんて言っているが、左側の塀に 沿って曲がった先は、春日町の谷を見下ろすばかりの景色である。 手前の坂の左手に沿って建つ青いトタン塀の向こうは、昔「右京山」とか「右京ヶ原」と呼ばれ、 姿三四郎が柔術の檜垣源之助と決闘をする舞台となったところである。私が小学生時代に見た黒沢明 監督の映画では藤田進が三四郎に扮していたが、映画の中の強風の吹き荒れる、一面ススキの右京ケ まつだいらうきようのすけ 原の光景を覚えている。松平右京亮は、七万一一〇〇〇石の高崎城主で、ここに中屋敷があった。明治 に、この丘の一部に 維新後、屋敷跡は陸軍省と文部省とに譲られ、文部省は大正一一年 ( 一九一一一 I) 独身寮の清和寮をつくり、陸軍の方では関東司令部をつくっていた。 石段を一九段トントントンと下りきると、右手に清和公園が現われる。ここの桜のみごとなこと。 だまされたと思って四月上旬に花見に来るとよいと思う。 清和公園に沿った通りを北に歩いていくと、右手上には清和寮が、左手下には公園の緑地帯と遊歩 道がレイアウトされている中に、ポンプ井戸がひとつ、ほっねんと存在している。「この井戸水は飲ま ないで下さい。 ( 災害用の水です ) 」と表示してあるから水質的に飲めないわけではないだろう。飲ん ではいけないということだ。ここまでの井戸は、菊坂の路地裏でまわりの人たちからかわいがられて いる井戸だったが、ここ清和公園の第七の井戸は、孤独な井戸だった。清和公園脇の道の先には、両 側に赤い瓦の三角屋根の文化住宅が何棟も並んで建っていて、第何号と番号がついた表札が入口に掲 98
わかった。ついでに緑地にある木の数を教えてもらった。高さ一・五メートル以下の木を除く法面の 樹木数は、・なんと一八六八本。落葉樹のトップはケヤキで六六本あり、その中で幹まわりが一・五メ ートル以上の大木が一二本だ。カキ、ウメ、モモ、イチジクの木まである。常緑樹のトップはサンゴ ジュで三三三本。キョウチクトウやネズミモチの木も多い。常緑樹、落葉樹を合わせて約六一種の木 があるそうだ。そのほかに、四季折々に咲く花や草、文京区のマークの形に植えられた芝も植わって いる。黄色に咲き乱れている菜の花などは、近所に住む主婦がまいた種が増えていったという。 草や木に囲まれた神田月。 ( ーこま、ムクドリやオナガ、メジロ、ヒョドリがやってくる。早春にはウグ イスの声も聞ける。法面緑地には、人工造園にない自然の木々がところ狭しと植わっている。爛漫の 春、緑地いつばいにタンポポやスミレが花をつけだすと、私は家にじっとしていられなくなる。 ◎ イタリア・ルネサンス式の元町公園 歩きを元に戻そう。富士見坂を下りて、お茶の水坂を歩く。お茶の水坂は水道橋から神田川の北側 に沿って、お茶の水へ上る坂をいう。今、私は、お茶の水の方から、水道橋の方に向かっているので 下り坂である。お茶の水坂を少し下ると、右手に、レンガ色の聖母美術院が見える。この建物もかな り古そうだ。美術院を通りこして、少し歩みを進めると、右手に元町公園の入口がある。通りにはト ウカエデの並木が続く。 元町公園へは、御茶ノ水駅から歩いてくるよりも、水道橋駅からの方が近い。公園の正門は、坂道 に面している。入口のたたきは御影石の鱗張り、門柱は大谷石とチェリーサンドのツートンカラー
ける地点なので、見晴らし台のように小公園が設けてあり、石のべンチが二つ置いてある。そこに腰 かけて対岸をながめれば、水道橋駅に向かう電車、来る電車、川の斜面の緑濃い樹木、さらに本郷の 元町公園、都立工芸高校、すっと左前方の後楽園遊園地までぐるっと見渡せる。皀角坂でいちばん景 色のよい場所である。 べンチに腰かけて、ふとかたわらのサイカチを見上げると、少年時代の記慮がよみがえってきた。 本郷や根津にもサイカチの木があり、そこにはカプトムシが集まるので、よくとりに行ったことを思 い出したのである。埼玉県の春日部の人は、確か、カプトムシのことをサイカチと呼んでいた。 小公園から先の下りは一挙に低地をめざす角度になる。はずみをつけて下りていくと、つい見逃し てしまいそうなところに立札があるから注意して右を見ていてほしい。 右手は、小公園を過ぎたとた んコンクリートの壁がはじまり、それがどんどん高くなっていく。鉄道の高架である。そのコンクリ ート壁がはしまって間もなく、神田上水懸樋の跡を示す立札がある。江戸時代の上水道を本郷元町か ら神田川をまたいで駿河台の中腹に引いた、その懸樋のあったところというわけだ。 坂をさらに下る。左手、東洋高校を角地としてまた一本の道が合流する。その道は、千代田区の設 おぐりざか 置した立札によると「小栗坂」という。立札は、このあたりに小栗という旗本が住んでいたため坂の 名称が生まれたと説明している。しかし、小栗氏の屋敷は古図に見えずとつけ加えてあって、肩すか しをくらう。『お茶の水讃歩』の五味碧水氏は、現在の小栗坂は有名無実としている。同氏は、小栗某 にちなむ本来の小栗坂は今の明大前通りと推論しているが、それは丹念な調査に基づく結論で、強い 説得力をもっている。 かけひ 神田—PARTI ◎アカデミック・神田打く