車場なのだが、三方がそびえ立っビルで囲まれているために、崖を削り取ってできた窪みに見える。 どこか廃墟のようなうつろさすら感じる。 その先の左手の路地を曲がると、目の前に急な石段がある。これが実盛坂である。幅一メートルほ どで、両側に手すりのついたかなり急な階段である。全部で五八段、上りきるとそこは天神前の通り である。振り返って坂の向こうをながめると、目の前はマンションが何軒も建っていて、残念ながら あまりいいながめとはいえない。満月の夜でもあればまた別であろうが。しかし、それほど高い建物 がなかった昔であれば、下谷から浅草にかけての下町がすっと一望できたほどの素晴らしいながめで あったろう。 実盛坂の名前は、この坂の下に実盛塚、首洗いの井戸があったという話が『改撰江戸志』を引用し た「御府内備考』にのっていることに由来している。 斎藤別当実盛は『平家物語』や『源平盛衰記』でよく知られている。越前国篠原で戦死したが、自 分の老いた顔を死後人目にさらしたくないと、白髪を黒く染めていたという。 実盛坂の上から右を見れば湯島天神は、もうすぐそこである。この湯島天神にいたる道も、今は住 宅や旅館が建っているが、江戸時代の古図によれば、もっと南の方まで参道であったことがわかる。 ◎ 天神・瓦斯灯・夫婦坂 道路は突き当たりの湯島天神の前で、左に >-Ä字形に曲がっている。その手前を右に下る坂が中坂で ある。境内の入口にある暗い緑色をした鳥居は、寛文七ー八年 ( 一六六七ー六八 ) に寄進されたもの ぶらり湯島・本郷 2 ◎横町ど瓦斯灯のぬくもり
は屋上にある。神田女学園の創立は古く、明治一一三年 ( 一八九〇 ) と伝えられている。 さるカくらよう この辺一帯は、現在西神田一丁目となっているところも含めて、猿楽町といわれる町だが、その名 は、慶長のころ ( 一六〇〇年前後 ) 猿楽の太夫の家がここにあったために起こった。 神田女学園の、カトリック神田教会とは反対側に、道ひとっ隔てて、がある。この辺、キ リスト教の文化圏だ。 の北側の細い道に入ると、崖下から崖上へ見上げるほどの石段に出会う。駿河台女坂であ る。の南の方にも、急な男坂がある。女坂は途中で「く」の字に折れる八一段。男坂は一直 線の七一一段。段数は、平均寿命のごとく女の方が多い。私は、女坂を上って再び駿河台に行く。石段 の途中、空地があり、ヤマプキ、バラ、カエデなどが植えられている。 女坂を上りきると、目の前は駿河台の尾根道だ。これがとちの木通り、またの名をマロニエ通りと いう。皀角坂と出会うところにアテネ・フランセや主婦の友文化センターがあり、明大前通りに出る までに、文化学園や駿河台アカデミー学園などがある。 明大前通りに向かう途中、日本化学会という建物の玄関に面白いものを見つけた。黄色いプラスチ ックポードが何枚も壁に貼られ、そのひとつひとつに、 ( 水素 ) から ( ノーベリウム ) までさま ざまな原子記号が書き込まれているのだ。一〇三番目のし ( ローレンシウム ) より新しいものは見つ からなかった。現在、原子記号は一〇七番まであるはすだから、この玄関の飾りができたのは、だい ぶ前のことなのだろう。この日本化学会の角を右折すると、行く手に尖塔のように見えるのが山の上 ホテルである。 199 神田—PART 1 ◎アカデミック・神田打く
店」である。店内には江戸時代の本や明治・大正の古書が棚にびっしりと詰まっている。この「木内 書店」の横の路地も、戦前の東京をそのまま残し、家の前には植木鉢が並べられている。 その隣のマンションの先の路地に入ると、奧まったところに、赤門アビタシオンがある。その前に はレンガ塀があって、バスケットボールのゴーレゞ ノカ耳りつけてある。映画『ウエストサイド物語』に 出てきたニューヨークの町角のようだ。このマンションの脇には喜福寺の本殿と墓地が見える。 この赤門アビタシオンから東大赤門はすぐである。赤門の手前の「いわしや医療機器店」と、少年 社という出版社などが入ったピルの間には浄土宗法真寺の参道がある。境内に入ると正面には大きな 八重桜があり、左手隅には、一葉塚がある。ここに、樋口一葉が「桜の宿」と呼んだ、五歳から一〇 歳まで住んでいた家があった。法真寺の右裏には一葉会館がある。 ◎ 東京大学六〇分散歩 赤門前の信号から赤門をながめる。文政一一年 ( 一八二八 ) 、加賀藩主前田斉泰が一一代将軍家斉の やすひめ 一一一女溶姫を夫人に迎えるときに完成したものである。当時は将軍家から妻を迎えるときには、朱塗 の門を建てるのが慣例であったという。 今から一六〇年も前にできたとは思えない立派なっくりである。両側の塀から奧に引っ込んだとこ ろにあり、左右には植え込みがある。高さは七ー八メートルはあろうか、どっしりとした瓦屋根をも ち、軒瓦に加賀梅の紋が入っている。 赤門を入って裏から見ると、左右の門番小屋や門柱など、そのつくりがよくわかる。イチョウ並本
めした石垣の上に本郷館は建っている。まわりに青桐を植えてあるので伊勢湾台風のときにも崖くず れしなかったという。先人の知恵が生きているわけだ。 東大の助手や研究生が借りていて今も七〇室全部が満室である。皆、五ー六年以上住む人ばかりで、 出て行くときには自分の友人や後輩に部屋を譲るため、不動産屋を通さないのだという。たとえ古く とも、これだけ頑丈ならば、まだまだ残り続けるに違いない。 変わりゆく学生街 本郷館をあとに本郷通りに出る。 ここから、東大へ入る前に本郷通りを北に足を向ける。言間通りとの十字路を渡り、少し行くと東 大農学部の前を左に曲がる道がある。ここが本郷追分である。日本橋からちょうど一里のところで、 まっすぐ進むと岩槻街道、左に曲がると中仙道に出る。今はもうその当時の雰囲気を伝えるものは何 も残っていないが、ここの角にある「高崎屋酒店」は宝暦年間 ( 一七五一ごろ ) 創業で、昔はここか ら北の酒類の一切を取り仕切っていたという大問屋である。 それでは、きびすを返して東大前の並木道を歩くことにしよう。 東大前の通りは、東側に東大の塀が続くので、西側だけの片町の感じである。かっては学生相手の 古本屋や飲食店がひしめき、夜は夜でおでんやそはの屋台が出てたいへん賑やかだった。今も通りに 面しては、古書店や雑貨屋、事務用品店、そして、「こころ」という喫茶店などがあるが、昔にくらべ ると古ばけたことはいなめない。しかも、年を経るごとに一軒一軒新しいピルやマンションに変わっ からり湯島・本郷 3 ◎井戸のある路地ど東京大学 91
とき、芝神明前にある同じく小間物商の兼康祐源という者が、「本郷のかねやすよりも、うちの方が元 祖である」として、本郷の方の看板をおろすように訴えを起こしたことがあった。この訴えに対して、 当時の町奉行は「本郷は平仮名、芝は漢字の看板にせよ」とのなかなか粋な判断を下した。結果とし て損をしたのは芝の方で、「兼屋須祐源」という漢字の看板に書き直さなけれはならなかったのである。 安兵衛の書いた看板は、現在は高輪の泉岳寺に保存されている。 交差点の東南の角には、大学最中や「湯島の白梅」と名づけられた三色最中が名物の、和 ~ 果子の 「三原堂」があって、ここも本郷の人には人気がある。 この交差点を交番のある側へと渡る。渡るときには、東大前の方へ目を向けてはしい。 大横丁を出 たときに見た東大前の景色がもう真近である。この東大前の緑は本当に素晴らしい。初夏から秋にか けての季節の移り変わりにつれて、イチョウ並木が、目にあざやかな緑のアーケードをつくったり、 黄色いじゅうたんとなったりする。景色に目を奪われて信号が赤になるのを忘れないように注意する こと。 交番横の通りには赤い提灯が一一段、全部で一一四個吊るされた鳥居が立っている。この通りを一一〇メ ートルほど入った奧に本郷薬師が祀られている。明治時代には、縁日の夜店は大変な賑わいだったと いう。現在は、残念ながらそんな面影はまったくない。昔は参道であっただろう通りも、今は薄暗い 通りになってしまった。夜になると、鳥居の赤くともった提灯が彩りを添えているのが、わすかに昔 の面影を残している。 その裏、アハ トの一軒先にあるのが桜木神社である。大鳥居は本郷通りに面していて、こちらは 99
プ明神様ど神田っ子 ◎ーー・・ーーーー神田の古い顔をどどめる一八通り いつまら たちょう 多町の通りから八百屋の角を左に曲がると、賑やかな商店街に出る。この通りを「一通り」と地 元では呼んでいる。西の方は、すうーっと先の、共立女子中学の前からの北側の道を歩いて くると、ここに出る。東の方はというと、電車のガード下をくぐって、岩本町の昭和通りに合流する。 そのため、いつも車の往来が多い。 しんとく 多町の通りと西に走る外堀通りとの間の狭い路地に、真徳稲荷神社という小さな祠がある。昔、春 から秋にかけて気候のよいときには、毎月一と八のつく日に縁日が出た。それが、一八通りの名前の 、リま、この通りや多町の通りは、夜になると近くの子ども連れで賑やか 由来だ。今から二〇年ぐらし前 ( だった。今では、露店も出なくなったが、一八通りの名は残っている。一八というと、一か八かの賭 けごとみたいだが、一八はカプの目にもなるわけで、縁起をかつぐにはよい数字だ。 一八通りを歩きはじめると、すぐ南北に走る細い通りに出会う。右角に「ムサシャ釣具店」と「一 かさらよう 八寿司」が見える。その手前右手に「傘長」という店がある。少し前までは向かい側にあって、もと もとは和風の傘を揃えていた店である。数年前から江戸趣味の提灯や千社礼なども揃えている。店主 の松下氏はなかなか研究熱心で、小気味よい江戸デサインの作品を発表している。 267 神田—PART 2 2 ◎明神様ど神田っ子
池の近くにあった大きなポプラの木がなくなっている。一一年ほど前、音もなく突然倒れたのだ。 丘陵側に行ってみる。森鷂外や夏目漱石らが散歩の途中、腰を下ろして思いにふけったといわれる 「文豪憩いの石」がある。私も腰かけてみる。ちょっと低すぎて、居心地が悪い。目の前を、境内通り 抜けの通行人が何人も通り、「文豪憩いの石」の立札と私を見くらべていく。物好きな男と思っている のだろう。 腰を上げて、少し離れた水飲み場でロをすすぐ。この水飲み場の台には裏側に「戦利砲弾奉納陸 うまでもなく鵰外のことで 軍軍医監森林太郎少将中村愛三」と彫られている。森林太郎は、い ある。明治三九年 ( 一九〇」ハ ) に日露戦争の勝利を祈念して、鵰外らが奉納したことを示している。 水飲み場の前を過ぎ、左手に丘陵を、右手に透垣を見ながら歩いていく。左の丘陵に赤い鳥居のト ンネルをながめ、どんどん進むと、やがて乙女稲荷社の正面に来る。社前には、丘陵下の池に張り出 すようにして藤棚が組まれている。乙女稲荷社の先には駒込稲荷社があり、やがて、根津権現の裏門 である。 毎朝、境内はきれいに掃き清められ、チリひとつないが、感心するのは、この裏門手前の公衆トイ レも驚くはど清潔なことだ。ていねいに水洗いされて気持ちがよい。そのせいかどうか、見ていると 裏門からやってきてトイレだけ利用する人が少なくない。 二つの稲荷社の前は広場になっていて、天気のよい日はゲートボールが行なわれている。私が見た ときも、女性五人と男性一人が熱心に練習していた。活発に動きまわり、声をあげているのは女性の 方だ。どうも近ごろ元気なのは老いも若きも女性である。 zE1
をムを、を : ー らなををー 根津の路地裏寸描 連子格子に軒すだれ、青々としたヤッテが植えられた小さな坪庭・・・・・・。入梅をひかえて、 リャカーを引いた青梅売りの姿が見られる、この路地裏風景は 20 年前のものである。子ど もたちは、はだしで遊びまわっていた。梅売りに限らず、豆腐やシジミ、納豆などを売り 歩く姿はもうあまり見かけなくなったし、はだしで遊ぶ子もいないが、それでも、根津の 路地裏には、 20 年前をほうふっさせる雰囲気が残っている。 ( 昭和 43 年 6 月撮影 )
万世橋駅前の広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像 日露戦争時の旅順港封鎖で艦とともに命を落とした広瀬中佐の銅像は、駅のできるのを見 越して、万世橋駅開業の 2 年前に、駅前の交差点 ( 須田町 ) 角に建てられた。銅像の前を通 る電車は、新宿、青山から両国および上野へ向かうもの。両国行きは東へまっすぐ柳原通 りを通り、上野行きは左折して万世橋を渡っていった。電車の前後に救助網がついている。 未舗装の道を行く人々は、ノヾラソルやカンカン帽で暑熱をしのいでいる。明治 44 年ころ。
小川町から駿河台を望む 関東大震災で甚大な被害を受けた神田が、復興なった昭和 5 年ごろの風景である。左手に 大きく広がる中央大学の校舎と、右にそびえるニコライ堂がひときわ目を引いていた。手 前の小川町も戦前の町にしては中型のビルが建ち並び、帝都復興祭が昭和 5 年に行なわれ たのもうなづける。小川町は戦前から三角形の交差点となっていて、電車の往来が激しか った。戦災に焼け残ったところだけに、ついこの前まで、同じ風景がながめられたのだが、 ひとつ消えニつ消えして、現在では東北角にフィンガーウインドーを持つフタノヾヤ洋品店 とニコライ堂くらいになってしまった。