根津 - みる会図書館


検索対象: 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)
65件見つかりました。

1. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

丁郷台地の稜線に沿って ふるさど根津界隈 私の住まいは根津神社から歩いて五分とかからないところにある。旧・根津西須賀町、現在の弥生 一丁目界隈に生まれ育って六〇年、東京大空襲で焼け出されたとき以外、一度もこの土地を離れたこ とがない。根津から千駄木にかけては、私にとってふるさとそのものなのである。 もちろん根津神社の氏子である。氏子は、たいてい根津神社のことを昔どおり根津権現と呼ぶ。私 もこれよりあと、本文中ではそのようにしたいと思う。 子どものころは根津権現の境内で遊び、家に風呂はあったがもつばら根津の銭湯「山の湯」や「浜 田湯」に通っていた。風呂帰りの夜道、フクロウがホウホウと鳴くのを聞きながら足早に根津権現の 境内を抜けたものだ。 この土地は、開発の波が押し寄せてくるのが比較的遅く、半世紀も前に見慣れた家や路地が今もか なり残っている。出会う人々の視線も物腰もやわらかい。歩いていて心なごむ町といえるだろう。 根津は、江戸時代になって栄えた町た。五代将軍綱吉の命によって、根津権現が千駄木村から現在 地へ移されてからというもの、根津は江戸町民の憩いの地となった。華麗な権現造りの社が人々に畏 敬の念を抱かせると同時に、境内の四季折々の花が目を楽しませた。春の桜、ツッジ、カキッパタ、

2. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

夏の螢、秋の紅葉、冬の雪景色・ : いっ来ても美しい根津権現は、多くの錦絵や、名所図会に描かれ ている。江戸の中心地、日本橋からでも約一里 ( 四キロ ) の近さ。歩いて一時間はどとあって、参詣 人が絶えず、根津は門前町として発展した。 さらに、江戸末期から明治時代にかけて、公認の根津遊郭や、団子坂の菊人形が、庶民をこの地に 引き寄せた。 遊郭については、あとでまとめて述べるが、根津では、参詣にも遊郭通いにも同し道が利用された。 通りですれ違う人々は、あるときは敬虔、またあるときは快楽の追求者。人間のもっこの両面性が 町にも陰翳を与えてきたように思えてならない。 今、遊郭の面影などどこを探しても見あたらないが、根津界隈は、表もあれば裏もあり、その間に たくさんのひだができて、きわめて人間くさい町である。 私は、この根津を起点にして、本郷台地を上ったり下ったり、台地の高低を確認するように、ゆっ くり北へと向かう。根津から千駄木までは地下鉄でたった一駅、歩いても一五分くらいだが、まっす ぐ行ったのでは地形の面白さはない。たつぶり二時間はかけてめぐり歩きたい。何に出会うかは、あ とのお楽しみである。 およそのコースは次のようになる。 やよ 根津一丁目ー弥生坂ーサトウハチロー記念館ー異人坂ー根津の裏町ー根津権現ー夏目漱石旧居「猫 ゃぶしたどお の家」跡ー藪下通りー森外旧居「観潮楼」跡ー団子坂ー須藤公園ー千駄木の屋敷町ー駒込土物店跡 ほ - つろ / 、 ー八百屋お七の墓ー焙烙地蔵。 109 根津から千駄木へ◎夲郷台地の稜線に沿って

3. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

~ 意をー 3 根津遊郭の花魁たち 根津遊郭のなかでは大ノ \ 幡楼とともに大どころの大松葉楼の賑わいの図である。根津遊郭 も、この大松葉楼クラスになると、吉原の中流以上であったろう。遊女のうち、姉分の女 郎のことを花魁 ( おいらん ) というが、なかでもトップクラスの花魁は御職 ( おしよく ) 、 番手を二郎 ( にろう ) と呼ぶ。前面に描かれた花魁たちが華を競い合う御職やニ郎であろう。 国周画『根津松葉楼繁栄図』明治 1 2 年

4. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

、に有名な水野忠邦による天呆一一一年 ( 一八四一 ) の改 さかいらようふき ' 「らよう ー根津遊郭の紅灯はるカ 革では、日本橋堺町と葺屋町にあった芝居小屋を、 さるわかちょう ◎ーーーー単身赴任都市は江戸が元祖 浅草観音裏の猿若町に移転し、同時に、府内一一五カ所 江戸時代、幕府容認の遊里といえば、まず元吉原かの岡場所の壊滅を計った。 ら移った浅草田圃の新吉原があげられる。そのほか、 しかし、叩かれても叩かれても遊里は不死身であっ 品川、新宿、板橋、千住の、いわゆる江戸四宿の遊郭た。恐らく、江戸に単身赴任の男性が多くいたためで えどだな わかざむらい をはじめ、音羽、根津など、もぐりの遊び場もあり、ある。参勤交代で江戸詰めに来た若侍や、江戸店と おかばしょ こちらは江戸岡場所と呼ばれていた。岡場所の「岡」称する上方商店の江戸支店に奉公にやって来ていた店 は「ほか」 (tCOX<) のことである。「岡目八目」と員などの、精力のはけロとして、手頃な遊び場は不可 いえば、ほか ( 他人 ) が見ればよく気がつくという意欠だったと考えられる。岡場所、かくれ里は、音羽と であり、「岡惣れ」は、惣れてはいけない、他人の女房か根津とか深川などにあったが、いずれも門前町で、 などに惣れること。また「岡っ引き」といえば、公の四季の物見や参詣で人々が集中する土地柄であった。 ではない私の刑事みたいなものである。岡場所はした根津の通りをはさんで、惣門内の盛んだったことは、 がって、官許ではない、もぐりの場所であった。 『花散る里』に「根津権現様惣門前左右前後建ならぶ 江戸の年表を見ると、火事の多さには到底かなわな事ひつひつなり、金二朱五百文、寝間座敷にして客多 いが、岡場所の弾圧や禁令もかなりの数になる。たとく有る節割床になし、随分よろしく何事によらす、女 えば、享保八年 ( 一七一 llll) 五月三日には、音羽の護風俗も格別によろしく茶屋杯より送り客も有之芸者女 国門前、根津宮永町の私娼が検察を受け、延享三年男共金一一朱」とあるほどであった。ちなみに、その二 ( 一七四六 ) 一一月六日にも、根津宮永町から五〇人の五カ所をあげれば、三田新地、麻布藪下、同市兵衛町、 私娼が捕えられて、浅草の吉原に移されている。こと赤坂田町、鮫ケ橋、市ヶ谷、音羽、谷中、根津、堂前、 根津から千駄木へ歴史余談◎根津遊郭の紅灯はるか 一 69

5. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

第ー第を . ふト【を【リいを 2 三に 。ⅡⅢい 竦囀 眠Ⅲ盟川獵 4 軒長屋と隣り合って建つ日本基督教団根津教会 根津権現にほど近い町なかにある根津教会は、函館か長崎に似合いそうなたたずまいであ る。外周には赤レンガ積みの塀がめぐらされ、植木が茂っている。下見板張りの壁は濃い 青磁色の塗料が塗られ、赤い屋根とあざやかなコントラストを見せている。白ペンキ塗り の案内板には「最も大なるは神の愛なり」と書かれ、礼拝時間や聖書講義会などの案内とと もに、中村彊 ( っとむ ) 牧師の名がある。教会の前を若者が鉢巻きをしめながら歩いている。 そういえば、長屋の方には根津権現祭の軒提灯が下がっている。これから神輿が出るのか。 山高登画「根津教会」昭和 59 年

6. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

岩立店 0 、マいに 都電が走っていたころの根津東映 ( 旧芙蓉館 ) 芙蓉館は根津・千駄木界隈の庶民にとって、かっこうの娯楽の場所であった。名称は戦前 根津東宝と変わり、戦後、根津東映となった。屋根はトタンで、通気扇がガラガラ音をた てており、館内は便所臭かった。天井に、プロペラみたいな扇風機がとりつけてあった。 ここで島崎藤村の「破戒』 ( 桂木洋子主演 ) を見た。写真撮影時には、まだ都電が走っており、 映画館前の敷石の上をゴトゴトと通過していった。 ( 昭和 42 年 1 月撮影 )

7. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

.4 一を虫 風光明媚な根津権現 神田明神にしても湯島天神にしても、江戸時代からある神社の多くは、小高い場所に位置 するが、根津権現は、背後に丘陵をひかえた低地にある。 6 代将軍の産土神として千駄木 の寒村からこの地に移され、林泉に富む境内を得たのである。花に紅葉に雪に、四季折々 の美しさを見せ、東都名所のひとつにあげられてきた根津権現。その表門から見たながめ は今も江戸のころとさほど変わらない。権現坂がまだできていなかったころの景観である。 ニ代広重画「江戸名所四十八景根津権現」江戸時代

8. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

今根津 弥生美術館 トウハチロー記念館 弥生式土器の碑 ・根津教会 ・いケ階段 東大農学部 東大球場 津・十駄丕 弥生坂から動坂・台山 汽根津神社 地震研究所 ヨ本医大病院 本医大病院 本医大 ( 館学園 モ 2 丁目 向丘 1 丁目 龕大 白山上 卍円乗寺 ( お七の墓 ) 白山

9. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

あり、社も小さいものだった。それを今の根津の地に移し、立派な社殿にしたのは、五代将軍綱吉だ った。少し長くなるが、その由来を記しておこう。 綱吉は、子どもに恵まれない将軍だった。徳松、鶴姫の一男一女をもうけたが、天和三年 ( 一六八 lll) に徳松が五歳で夭折してしまい、このときにすでに四〇歳の綱吉は、おおいに落胆した。今なら よわい 若いといえるが、人生四〇年ともいわれた江戸時代、齢不惑では後継者の生まれる可能性はまずない。 そこで、綱吉は、弟の甲府宰相松平綱重の子、つまり甥の綱豊を養子にしたのである。 そのころ、根津の地に、松平綱重の屋敷があったところから、隣接する千駄木村の根津権現は甲府 松平家の氏神となっていた。綱豊が綱吉の養子となり、六代将軍と決まるや、それを喜んだ綱吉の意 うぶすながみ 向によって、綱豊の産土神である根津権現は、松平家の屋敷地に移され、立派な社殿を建立すること が計画されたのである。 大規模な社殿の建設は宝永一一年 ( 一七〇五 ) にはじまり、翌年一一一月には遷宮の運びとなった。 現在、根津権現の境内の丘陵部には、乙女稲荷と駒込稲荷の二つの稲荷社が併祀されているが、そ えなづか の乙女稲荷の赤い鳥居が建ち並ぶ参道中央に、六代将軍家宣 ( 綱豊 ) の抱衣塚がある。抱衣とは、胎 児を包んでいる膜や胎盤のことで、昔は、これを大切に扱った。家宣の抱衣塚は、十数個の石が積み 重ねてあるが、その下に抱衣が埋められている。 また、家宣の産湯の井戸は、社務所の庭に今なお残っている。 拝殿で一一礼一一拍手一礼の拝礼をすませて、境内をぶらぶら歩く。鳩が多い。子どもを遊ばせながら 若い母親同士、おしゃべりを楽しんでいる。お年寄りがべンチで休んでいる。のどかだ。 根津から千駄木へ◎夲郷台地の稜線に沿って こ 1

10. 湯島・本郷・根津・千駄木・神田 (東京路上細見)

太古の文化人が住んだ弥生坂 しのばず ・一にあ - い 根津は、上野台地と本郷台地にはさまれた谷間の町である。不忍通りが町の中央をほば東西に貫き、 その両側には、台地の傾斜を上る坂道がいくつかある。 弥生坂は、不忍通りから本郷に向かう上り坂だ。一〇分もいけは、坂の上に、弥生式土器発掘の地 を訪ねることができる。 太古の昔、根津の地は海だった。弥生文化を生み出した人々は、入り江にほど近く、日あたり良好 で温暖高燥な本郷台地をかっこうの定住地とし、竪穴住居をこしらえて快適な暮らしを営んだ。だか らこそ、付近で貝塚や土器が発見されているのだ。今は東京大学のキャンパスや住宅地となっている 本郷一帯を掘り返せば、まだいくつもの遺跡が見つかるだろうが、なに、そんなものなくったって、 ちょいと想像をたくましゅうすれば、原始の文化人たちに出会うのはわけない。実際に、彼らが住ん だあたりを歩いてみればよいのだ。 こととい というわけで、根津一丁目の交差点に立つ。ここは不忍通りと言問通りが交わる十字路である。言 問通りが上野台東の方から下ってきて、信号を渡ると今度は上り坂になる。この上り坂が弥生坂には かならない。 ゃなか ついでにいっておくと、根津一丁目の交差点の真下は地下鉄千代田線の根津駅である。谷中ロの改 札を通って、地上に出てくるとき、ここの階段は非常に強い風が吹きつける。ときどきコンタクトレ ンズや帽子を飛ばされて悲鳴をあげている人も見かける。 01 1