地面をながめて歩き、セミの幼虫がひそんでいそうな穴を探す。わずか五ー六 ミリの穴を見て、幼 虫がいるかどうかわかるようになるまで、三、四年はかかる。穴を探しあてたら、その上を指でポン とたたく。するとまんまるの穴がばっかりあいて、一〇センチはど下に幼虫の頭が光って見える。ッ クックボウシの幼虫に限って奧深く、二〇センチも下にいるが、どちらにしても、細い針金の先を曲 げてすくい出すのである。 ックックボウシの穴は細長いうえに途中で曲がっているから苦労した。バケンに水を汲んでいって 水攻めにし、苦しまぎれに穴から頭をのぞかせたところをつかまえるのだが、それが簡単にはいか 人の顔を見てさっと引っ込むのだ。水攻めを繰り返しているうちにバケツの水がなくなる。かく なるうえは、私の家来の少年たちにおしつこをさせるしかない。 ようやくつかまえた幼虫は家来たちに公平に分けてやる。持ち帰った幼虫が、夜明けごろセミに変 わっていくのを見届けたら、空に放してやるのだ。 セミのはかにトンポやチョウも何十種類といて、夏しゅう採集してまわった。とくに印象深かった のは、日本にいないはすのオオカバマダラというチョウをとったときだ。台風のために南国から運ば れてきたチョウだとあとで知ったが、なぜこんなチョウが根津権現にいるのか、さんざん考えたもの だ。そのオオカバマダラの標本は、今も科学博物館にある。 今でも、春にはチョウが飛び、夏にはセミが鳴く。ときおり野鳥も見かける。しかし、昔日の賑や かさとはくらべよ、つもない。 現在の根津権現を見まわして目につく動物はといえば、池の亀と、鳩と、人間ぐらいだ。 根津から千駄木へ—◎夲郷台地の稜線に沿って 135
て、この笹などは、江戸時代から現在まで代々と生きてきたのではないかと思わせるはどだ。ひとた び聖堂の地に足を踏み入れると、どこを見ても歴史の重層を感しるのである。 ◎ 東京医科歯科大学は虫歯の校章 聖堂をあとにして、御茶ノ水駅方面に向かってまっすぐ歩く。聖橋の側面がよく見渡せる。神田日 に架かる聖橋が大きな虹のようなカープを描き、側面には、かまばこみたいな穴がいくつもあいてい る。斬新なデザインである。 聖橋のトンネルを抜ける。獅子文六の『自由学校』に、橋下に浮浪者が住んでいたと書かれてあっ たが、戦後の復興期には、住む場所をなくした人たちにとって、橋下は雨や風がしのげる手ごろな場 所であった。昭和六一一年の現在、隣の三車線道路を、車がとぎれることなく走っている。いくら浮浪 者とはいえ、この喧噪のなかでは過ごしにくいとみえて、多くは、新宿などの地下街に移り住んでい った。だが今でも何人かいて、夏など神田川斜面の緑地に入って涼んでいる姿が見られる。 トンネル内は、採光を考慮した設計となっており、九つの穴があいている。トンネルを抜けると、 すぐ右手に聖橋の上に通しる、幅の広い階段がある。聖橋の左側、つまりお茶の水橋寄りを渡りきっ たところに出る階段である。聖堂へは、この階段を利用するのがいちばん近道だ。 この通りは、トウカエデの並木が続く。少し歩くと、右手に御茶ノ水郵便局があり、そのすぐ脇が、 地下鉄丸ノ内線の乗り場に通じている。その先に東京医科歯科大学と医学部附属病院と歯学部附属病 院の入口がある。お茶の水の北側の土地を左右いつばいに建ち、広大な敷地面積を思わせる。
飾り格子のステンドグラスが、日ざしに輝いて見える。中に入ってみると、受付のガラス窓もステン ドグラスとなっているのが目をひく。 同和病院を過ぎると「かんだやぶそば」の屋台看板が見えてくる。門を入り、手入れされた庭の敷 石を踏んで、玄関に進む。店員が声をそろえ、「いらっしゃああい」と、「あ」を伸はした独得の歌う 調子の挨拶で迎えてくれる。注文を通す声も、店内に長く響いていく。ここのそばは、少し緑がかっ ているのが特色だ。それを、昆布や鰹節だしのきいた辛口のこくのあるそばっゅに、ちょっとつけて すするのがうまい。初めてこの店に入ったときには、そばをがっとかっこんで食べるといった雰囲気 はなく、老舗らしい重々しい空気がはりつめていて緊張した。 この店は幕末のころから本郷団子坂にあった「蔦屋」を明治一三年 ( 一八八〇 ) に引き継ぎ、屋号 を「やぶそば」としたが、その後、団子坂店の廃業で、本店となり看板を受け継いだ。 店内を見まわすと、だいたいの人がそばを一一枚食べている。するすると、何枚でも食べられそうな 感じがする。私も、三枚は食べたいところだが、恥すかしいので二枚で我慢している。雪の降る日、 窓ぎわに陣どり、庭の笹に雪が降りつもるのをながめながら一杯やるのが、私の冬のささやかな贅沢 である。またもトイレの話となるが、ここのトイレは離れにあって、敷石を歩きすすんで行くと、純 日本式のトイレがある。「厠」と呼ぶのにふさわしいトイレである。 「かんだやぶそば」の前には、「ショパン」という喫茶店がある。以前は、五叉路の北部会館の西の方 にあった。現在、旧地には地上一一階、地下一階のビルが建築されている。うれしいのは、「ショパ ン」が以前とまったく変わらない内装で営業していることだ。半世紀近く前と、変わらない雰囲気を 神田—PART 2 ◎老舗の味は健在なり 247
が見える。かっては家が立て込んでいて、こんな塀が人目にさらされることもなかったのだろう。こ ういう御時勢になって、レンガもさらに顔を赤らめているようだった。少し歩くと、右手に琴や三味 線を扱う店と「神田鉄砲火薬店」が並んでいる。 ことさんげんし かぶきや 琴三弦師の「謌舞妓屋」 ( 「歌舞伎」ではない。なぜこのような字を書くかは当主に聞いても不明 ) は、木造三階建てで、大きなガラス戸に、はち形の中に屋号を金文字で彫り抜いてある。聞けば、昭 和一一年にできた建物という。このあたり、昔はこうした店構えが似合う町だったが、遠暦を迎える今、 周囲がどんどんビルに変わってきて、ばつんと取り残された店はどこかわびしい。できるだけ今のま ま長くがんばってはしいと、この店とはば同い年の私は心中に念しつつ、南へ向かう。 左手角にインドカレーの「一休」、右手角に三和不動産がある。家屋が取り壊されたばかりの広い空 地があった。壊された角材の中に、旧神田区時代の地番標があった。ちょうどあと片づけをしている 人がいたので、頼んでもらい受けた。あと五分遅かったら、この地番標は捨てられてしまって、一一度 と人の目にふれなかっただろう。過去の町が地番標とともに消失していくところだった。 新たに出会った広い一方通行の通りは、車が道路いつばいにビュンピュン走っている。右折して西 に数歩歩くと角地に出る。藪下ピルと「珈琲館」の間の横町は、狭いながらも北の靖国通りまで出ら れるようになっている。細いうえに、中小企業の事務所が寄り集まっている薄暗い通りに入っていく と、右手に空地とも駐車場ともっかない空間が目立ちはじめる。 仕舞屋らしい日本家屋も混しっているなかに、右手に発明通信社、「一八寿司」の調理場があり、さ らに北に進むと、左手にパン屋がある。その路地を見ると、なんと畑がある。路地の畑とは、まるで 神田—PART 2 2 ◎明神様ど神田っ子 269
よく描写につとめた。三代目の斎藤幸成は、むしろ月岑として知られ、白雪堂と号した。『東都歳事 記』『武江年表』の著者でもある。 歩道橋を渡ったところは、西角が太陽神戸銀行、東角は牛丼の「吉野家」となっていて、その間の ちょっと幅広の道が一直線に南に通っている。この道が、かって青果市場のあった多町のメインスト リートである。南のはては、一ッ橋から神田岩本町へ走る一方通行路に出る。この道の左 ( 東 ) の中 央通りとの間には、並行して南北に通った細い道があり、南北に細長い一画が、第二次世界大戦で難 をまぬがれたところである。神田らしい下町の息づかいが感しられるところなので、ゆっくり歩いて この町をよく知るには、三本の通りを南北にすべて歩くより、変形卍形に歩くとよい。中ほどの東 西に交差する「一八通り」という道も魅力がある。筋を変えて歩く方が楽しめるはすだ。 歩道橋を下りたら、まっすぐ多町の通りを歩こう。途中の一八通り角の八百屋までの間には左手 ( 東 ) には横町や路地が六本、右手 ( 西 ) には三本ある。 歩道と車道の区別があるから歩きやすい。右手の横町角には、相撲の第一一一一代の行司を務めた木村 おゆみし 庄之助の和 ~ 果子屋があって、「庄之助最中」を売っている。次の角地には茶舗があり、その先に御弓師 「小山弓具店」がある。弓矢の矢羽をかたどった看板が店先に立っている。店の脇に、矢竹が積んであ る。だが、ピルとなってしまったので、お店の中の仕事ぶりが見にくくなった。 その向かい側の通りには、緑青のふいた建物が三軒並んでいる。たぶん昭和初期に建てられたのだ ろう。西日がさし込んでいるあたりは、変色していて、古色蒼然といった感がする。 9 ペ げつしん
から、大を連れていなければ寺内を通りぬけてもよいということだろう。さっき私が散歩してきた寺 内ともども得がたい空間といえるだろう。 まさごらよう しこく きくざかまら 南の方、真砂町の台地、北の方菊坂町の台地の間にはさまれた、本郷台地に東西に刻まれた支谷と したみら いうかひだのところに、菊坂通りと、並行して曲がっている下道の二本の道があって、ちょうどダル マ船の底みたいに、頭と尻がつばんで東西に横たわる低地には、何本もの路地がついていて、ほどよ く地割がほどこされている。路地と路地の間隔は、平均すると家が二軒、つまり背中をお互いに合わ いくつかの繰り返しが、 せた家と家が、玄関は別々の路地に面して構えている。この二軒プラス路地の この東西の低地に軒を連ねる民家のあり方である。路地は一メートル幅の狭いものから三メートル幅 ぐらいまでさまざまで、この路地を、まるで運針をするように、左右に縫いくぐるように歩いてみよ うと思う。そうでないと、横町をかすめて通って中をのぞくなんていうやり方では、決して見えない 井戸だとカ 、、ほかのものが見つからないに違いないからだ。最も西の方から運針をはじめるのがよい レよ、つに田 5 、つ。 長泉寺そばの二階建ての古い民家は、菊坂通りでも目を引く。ガラス戸の上には、かすれて文字が 読みにくい大きな板看板がかかっている。よく見ると「古綿打ち直し迅速叮寧ダ」と読める。そ の真前から下道と地元の人々の呼んでいる低い通りに下りる石段があるが、下道はあとで通るのだか らまだ下りない。菊坂通りを西になお歩く。うしろから、ときたま車が走ってきて歩きづらい。右手 に土建屋が見えて右に上る細い坂がある。これが谷川氏いうところの菊坂だ。 たにさと 坂上左手に天理教谿郷教会の大きな本堂が見える。菊坂通りそのものもやや下り加減になってくる。 からり湯島・本郷 3 ◎井戸のある路地ど壅示大学 7 3
あり、民家が何軒か並んでいて、その一軒の庭には黄色い果実をつけた木が植わっている。 字路の右は、先はど歩いた鐙坂である。この坂を下りかかろうとする左手には、西に抜ける両側 を塀ではさまれた細い道がある。地元の人はこの道を「奧の細道」なんて言っているが、左側の塀に 沿って曲がった先は、春日町の谷を見下ろすばかりの景色である。 手前の坂の左手に沿って建つ青いトタン塀の向こうは、昔「右京山」とか「右京ヶ原」と呼ばれ、 姿三四郎が柔術の檜垣源之助と決闘をする舞台となったところである。私が小学生時代に見た黒沢明 監督の映画では藤田進が三四郎に扮していたが、映画の中の強風の吹き荒れる、一面ススキの右京ケ まつだいらうきようのすけ 原の光景を覚えている。松平右京亮は、七万一一〇〇〇石の高崎城主で、ここに中屋敷があった。明治 に、この丘の一部に 維新後、屋敷跡は陸軍省と文部省とに譲られ、文部省は大正一一年 ( 一九一一一 I) 独身寮の清和寮をつくり、陸軍の方では関東司令部をつくっていた。 石段を一九段トントントンと下りきると、右手に清和公園が現われる。ここの桜のみごとなこと。 だまされたと思って四月上旬に花見に来るとよいと思う。 清和公園に沿った通りを北に歩いていくと、右手上には清和寮が、左手下には公園の緑地帯と遊歩 道がレイアウトされている中に、ポンプ井戸がひとつ、ほっねんと存在している。「この井戸水は飲ま ないで下さい。 ( 災害用の水です ) 」と表示してあるから水質的に飲めないわけではないだろう。飲ん ではいけないということだ。ここまでの井戸は、菊坂の路地裏でまわりの人たちからかわいがられて いる井戸だったが、ここ清和公園の第七の井戸は、孤独な井戸だった。清和公園脇の道の先には、両 側に赤い瓦の三角屋根の文化住宅が何棟も並んで建っていて、第何号と番号がついた表札が入口に掲 98
菊坂第一「第五の井戸 現在菊坂界隈に残っている井戸のうち、ポンプ式ではなく汲み上け式の井戸は、この第一一 の井戸だけである。三メートルほどの竹ざおの先端に真新しい桶がついていた。また、第 五の井戸は炭団坂の西北のふもとの細い路地の裏にあって、通りを歩く人からは目につき にくいところにある。地元の井戸睦会の人々の心のぬくもりが伝わってくるようで、つい 井戸水を飲んでみたくなる。井戸とすだれの雰囲気が私を明治大正の時代へと連れていっ てくれる。いつまでもこのままの路地裏であってほしい。 ( 昭和六一一年五月撮影 ) す長
堂諏訪書店」 ( 山岳関係 ) 、「山田書店」 ( 美術、文学 ) 、「小宮山書店」 ( 民族学、歴史、国文学 ) 、洋書 そりまち の「崇文荘書店」などがある。なかでも、東京大学法学部を出て「一誠堂」に住み込んだ反町茂雄氏 は理論派で知られ、仲間うちのリーダー的存在となっている。反町氏は、古本屋の進路を合理的に判 断し、専門化の道を説きつつも、経営にはどんどん新しい方策を打ち出していっている。反町氏の経 営する古本屋「弘文荘」は、神保町から離れた西片町にある。 「一誠堂」の店員は、ネーム入りの制服をつけてていねいな応対をすることで知られている。たとえ 三〇〇円程度の本を買いとるときでも「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」を忘れす、一冊 一〇〇ー一一〇〇円の安い文庫本を買ったときでもしつかりとカバーをつけて渡してくれる。今も書店 経営をめざす人が全国各地から修業にきているという。 「書泉グランデ」は、「一誠堂」の酒井宇吉氏の弟がはじめた新刊書の店である。また、岩波書店も三 省堂ももとは古本屋からはしまった。 きこ・つばん 神田の古本屋には、好書家いうところの「背の黒い」本が並ぶ。すなわち、稀覯本や資料性の高い 本のことである。これに対し、「背の白い」本といえは、文学書、随筆、詩集などで、中央線とか山手 線の住宅地の古本屋に多いネ 申田の古本屋街を歩けば、日ざしで本をいためないよう、店が北向きで あることに気つくだろう。 しかし、一〇〇年の歴史をもっ古本屋街も駿河台下交差点あたりでは、徐々に姿を変えつつある。 靖国通りの北側に面して多くのスポーツ店が新しく建ち並び、春も終わろうというのに、スキーをか ついだ若い男女が楽しけに歩道を行き交っている。 ZO 代
米屋の向かいで最近になってマンション建築がはしまり、表通りだけでなく、横町にまで高層化の波 がひたひたと押し寄せてきていることを実感する。 まっすぐ先に、もう不忍通りが見えている。だが、不忍通りまでは行かす、表通りから一歩手前の この辺から裏町を北に入っていくことにしよう。その方が、本、冫オ王 ( ( 、 艮聿荏見こま近道であるうえ、路地がい たるところにあって、歩いているだけで楽しくなるからだ。 裏町を横切っていこうとすると、とつつきが高層マンションの裏口でやや興醒めだが、その先は、 間ロの狭い一一階建て木造家がずっと続く。道に面してすぐ玄関の戸があるような、典型的な下町の家 並みで、家と家は肩を寄せ合うようにくつついている。ときどき路地がある。大きいのもあれば、一 ひさしあい 人がやっと通れる廂合の路地もある。大きい路地はたいてい不忍通りまで通じているが、あとは袋小 路だ。七、八軒いくと路地があるというべースで裏町はなかなか終わらない。 路地のひとつに入ってみた。板張りの壁、格子戸のはまった窓、釣しのぶ、風鈴、縁台、鉢植え : いつなくなるかと心配だった下町風景が五〇年前と変わらすにあった。ただし、玄関の戸がアル ミサッシにとって代わられている。 もうひとっ別の路地に入った。路地の入口は、鉢植えが重なるように置かれて、ただでさえ狭いの に、なお歩きにくくなっている。ゴムまりが転がっていた。またぐようにして奧へ進むと、そこは行 きどまりの家の玄関先だ。その両脇に路地から引っ込むようにしてまた別の家があった。奧まった玄 関先はびっしり靴で埋まっている。おとなのも子どものも、サンダルもハイヒールも運動靴も : ったい何足あるのかわからない。バットとグロープが置いてあった。洗濯ものを入れたかごとバケッ 根津から千駄木へ・郷台地の稜線に沿って