とを決めてほしいと、強硬にいわれた。一応これは承諾した。もちろん、お金は支払ってある。した がって彼らは現在使用するものは、自分たちで持って来ているその上での話なのだ。 中国登山協会といろいろ交渉し、ヤク工作員と話し合い、そして今、こんどはシェルバからの要求 を受ける。ヒマラヤ登山はただ登るだけの困難さだけではなく、こうした人間同士の問題も多く、こ れらを処理しなければならないのだ。夜、全員が停滞とはいうものの、一日ではやはりべースキャン 。フを片付けるのは、なかなか難しい。しかし、べースキャンプを建設するためだけにきたわけではな いので、翌日からの行動予定を発表した。 明日は、貫田、近藤、早川、福島が入りし、その翌日、近藤、貫田がルート工作。そして、三 十一日は、福島、早川がルート工作。一日には、大蔵、関根が o から 01 入りをし、 01 から 0 2 を二日にルート工作というふうに決めた。 なお、サーダーが三十日から始めたいといって話し合った時に、一応ルート工作一一名に対して、ロ 1 プ、。ヒトン、スノ ー・ハーなどを持ち上げるシェルバ二人を、後ろからつけることにしたいと申し入 れ、これに同意してもらった。 01 に上がるようにと言ったところ、べースキャン。フで安全祈願をし び てから上がりたいということで、その日が二十九日では月が円いので、まずいということだった。じ 再 ゃあ一日延ばそうということで、二十九日が全員停滞日になったのだけれど、ところが二十九日の夜ン に、じゃあ三十日に上がって、 01 から一緒に行く人は誰かと聞いたら、ニマ・テンバとアン・ソモ ナ、この二人を選んでくれた。明日はセレモニーが終わってから出かけるのかと聞いたら、てれくさチ そうに笑って、明日もまだ日が悪いという。したがってセレモニーは、明後日にする。そうすると、
関根とは、状況の変化があったら連絡をくれるということで、了解ならビッ、ビッと二回ロでいし ながら発信音のみで意思を伝えるという方法で交信を打ち切ったが、こちらはオープンのままでいっ 連絡が来るか、来るかと待っていたので眠れなかった。朝方ウトウトしたなと思っているところに、 九時の交信が入った。 十一月十六日。「 0 2 より o 、 0 2 より o 、昨日六時、七時、八時、交信しましたが連絡がと れませんでした。今朝、樫原がチャンネル 2 になっていることを発見しました」という。私たちの持 っているトランシ ーくーはチャンネルが二つあり、私たちは常時チャンネル 1 を使用していたのだ。 大蔵たちはホ 1 イハイン・クーロワール下の大岩の所に到着し、 0 4 地点をここと決めて戻って来た のだ。今日中に 0 に戻るという。今日こそは心配のない一日を送りたいと思い、明るいうちに帰っ て来るようにいった。四時ごろ、彼らは帰って来た。「あら、早かったじゃよ オい」「だって隊長が明る いうちに帰ってこいって言ったから」この日の夜はしばらくぶりで隊員全員が o で顔をそろえた。 話題はもつばらアタックについて。まだ 0 4 に到達しただけで、キャンプは出来ていないが、もう 一つ上の 0 5 があるのだが、 01 を作ってから十六日間、体の調子や天候の悪さ等の条件によって、 行動を中止した日は一日もなく、ルート工作、荷上げとも、一日のずれもなく予定通りの行動をして ず きたことで、この先も順調に行けるだろう。貫田から、ここでパーティを組みかえ、二人一組の四パけ ーティにし、波状攻撃をしようとの意見が出た。 烈 一日一キャンプ登ると 01 、 0 2 、 0 3 、 0 4 、そして 0 5 へのルート工作をして 0 2 か 01 まで 戻り、翌日 o に帰ると六日間の小旅行となる。隊員がルート工作中、シェルバが待機していたので に
が、それでも、十日ぶりのフレッシ、フルーツに隊員、シェルバとも目を輝かせて歯を立てた。 昨日から帰路に向かわれた藤木氏のメッセージと、秋の隊、長谷川隊からのメッセージが届 けられた。長谷川氏のメッセージの内容は、凍傷の隊員の治療のお礼と、当初考えていた北壁へ単独 で登るために、べースキャン。フから約二キロ先のところへ張ってあるテント場を撤収したいという。 ヤク工作員たちに物をとられないように、上に何があったのかをチェックしてほしいと書いてあっ 夜。次のローテーションの発表。三日からの行動予定で、貫田、近藤パーティが 01 に上がり、四 日に 01 ~ 0 2 間残りの部分のルート 工作兼荷上げをし、五日に 0 2 へ入り、六日に、 0 2 ~ 0 3 間 のルート工作、第一弾。次の福島、早川。 ( ーティが一日遅れで、四日に 01 へ入り、五日は 01 ~ o 2 の往復。ここで少し高所順応をしておいて、六日に 0 2 へ入り、七日が 0 3 へのルート工作、第二 弾。 3 の予定が七五〇〇メートルなので、 0 2 ~ 0 3 間は近い。従って、この福島パーティで 0 3 への到着は可能と思われる。そこで、その次の大蔵、関根パーティは、到着したの建設という形 になると思うが、いずれにしても最後が、大蔵、関根パーティ。彼らは、明日帰って来て、四日に休 養した後、五日に 01 に上がり、六日に 01 から 0 2 への往復。七日に 0 2 に入り、八日に 0 3 への ルート工作となる。 樫原は、から上がって来たばかりの大矢と二日間、 o—への高所順応を目的とし、少々の荷 上げという形をとることにする。ところがスケジ、ール発表後、樫原が下で張さんからヤク工作員た ちが、明日長谷川隊の荷物を取りに来るとき、その荷物をチ = ックして、何を持ったかを確認してく 104
よ・ほすことだということを衄りまくった。 行動のスタートが遅れてペースが狂ったのは、シェル。ハだけではない。大蔵、関根も五時のトラン シしハー交信では、まだに到着しておらず、六時の交信で、関根たけ到着。大蔵はまだだった。 セレモニーには関係なく、昨日 01 へ入った貫田、近藤パーティは、本日、張り切って 01 から 0 2 へのルート工作に出掛けていた。七時の交信で 01 から大蔵が、「彼らは、まだ壁にとりついてい ます」と言って来た。午後七時と言えば、まだ残照はあるし、氷壁の白さが明るさを助けているが、 日没とともに気温は急激に下がる。セレモニーでよれよれの他の人間とは別に、こちらの方は張りき り過ぎて、帰路のことを考えていないのではないかと心配になる。 午後九時の交信。彼らの延ばした。ヒッチ ( 一ビッチは五〇メ 1 トル ) は十。ヒッチ。左側の方の雪壁 からリッジの方に出て、そこから直登したとのこと。八時四十五分に帰って来たと報告してきた。貫 田、近藤パーティとは、を出発する前に、へ到着するまでは、からは下りてこないとい う約東だった。なぜなら、 01 からのルート工作は、初日が貫田パーティ、翌日が福島パーティ、翌々 日は大蔵パーティ、これで到達しなければ、もう一度貫田パーティ、福島パーティと繰り返す作戦だ ったので、一日目に 01 からルート工作し、二日目にに戻り、三日目にまた 01 へ登り、四日目 にからのルート工作という日程を組むと、休養できる日がなくなってしまう。それならば、初日 ルート工作し、翌日と翌々日をで休養し、四日目にまたルート工作に出るほうが、体力的には楽 た。しかし、はより高度が高いうえに、居心地も悪い。基本的に休養はというのが、べ ターではある。やむをえない処置としてこの約東はなされていた。
元気なのは、近藤、貫田も同様。そう疲れもみせず、帰 0 て来てからはしばらく寝ていたが、その 後、起き出して、洗濯をしたり、体を洗ったり、特に近藤は日焼け止めクリームをつけていたので、 それを落とすのに、クレンジングローションで落とし、その上に日焼け肌用のカーマインローション を塗り、それにクリームを塗って、「先生、きれいな顔になったでしよう」なんて言いながら、食堂 テントに入って来た。 ・フェイス・タオル一枚て体全体を洗う方法 人間の知恵とはすごいと思う。べースキャンプ (mo) での生活にも慣れ、がくつろげる家、 キャンプ 1 (OH) から上へ登っているときは、現場へ仕事に出かけるといった感覚が、隊員の頭の 中に定着した。 、、と一泊しながら荷物を背負い上げるシ = ルバたちは、にもどった日は何をす るよりも早く、やかんに沸かしたお湯で頭を洗い、タライにお湯を入れて上半身はだかになって洗い さらに下着の洗たくに余念がない。一週間に一度くらいの割合でシャン。フーし、一日か二日おきに顔 や手を改めて洗い、歯をみがく。ここまでは私も同じように出来る。やかん一ばいに沸かしたお湯を もらい、氷か水で薄めて、やかん一・五杯分くらいのぬるま湯が使えるから、充分洗髪出来る。 しかしこの洗髪には一つコツがいる。″手早くすること″だ。凍っていてコチコチのシャン。フーを とかし、ぬらした頭にさっとつけ、さっさとマッサ 1 ジしないと、シャンプーが凍ってしまう。髪の 毛がジャリジャリいってくる。お湯をかけるのも早くしないと、やかんの中でさめてしまうし、頭に ついた水分もすぐパリッと凍る。もちろん、日がさんさんとふりそそぐ日中、風のないときを選ぶの ~ だが、マイナス二〇度の空気はすぐに熱を奪う。ひしやくにお湯をもらい、顔を洗う時も早くしない
言っていた。当初の予定では 0 5 のルート工作に出るのが二十五日なので、その日にアタックすると 息まいていた。今日の整備で全体の行動が一日ずれた。 「登頂日が二十六日になっちゃったなあ」と樫原はつぶやいた。 0 5 建設のためには、テント資材も 必要だし、第一、 0 5 からのルートにはフィックスドロー。フが必要だ。風が強い冬、安全のために特 に頂上付近はフィックスなしではとばされてしまうから、ぜひルート工作がいる。となるとにと ックスを 冫し力ないカら いったん下がってフィ どいても、十本もフィ ックスを背負って行くわけこま、 0 5 に荷上げしてからアタックとなる。今回の一順でアタックは考えられない。もう一回 0 から 0 1 、 0 2 、 0 3 、 0 4 そして 0 5 と行ってアタックになることは誰でも知っている。しかし樫原は 「午前二時に出ればなんとか行けるでしよう」と今夜も繰り返した。 隊員の体調が心配 十一月二十日。から早川パーティが出た。昨日と今日は風も弱い。の隊員たちは休みが多 くだれ気味。それそれ本を読んだりゴロゴロしている。私は左半分の頭が痛くてカゼかなと思ってい たら、貫田がやはり頭痛で酸欠かなと言った。「テントの中は空気が悪いのかな」と言ったら、「空気 け 入れ換えしたんですけどねえ。そう言えばシェルバたちはいつも日中は外にいますね」と言った。 負 確かに彼らは休養日には洗髪、洗濯等した後、ダンマットをテントからひつばり出して外で寝そべ印 っている。車座になってカケゴトをする時も太陽の光の下でしている。しかも彼らの陣取る所が、風 があたらず、日のあたる所に必ずいるから不思議た。 こ
だ、そんな感じもした。 風間チームを見送り、一段落し、早川、近藤がを出発した。 フランクな話しあい 十一月十一日。ここのところ天候はおちついている。冬のチョモランマの無風快晴は望めないが ーティーが 01 入りした。早 晴天であるだけでもうれしい。本日は mc-) から貫田、福島、大矢のパ 近藤は 01 から ro 2 に移動した。また 0 3 建設のための荷上げでシェルバ四名が 0 2 から 0 3 に 向かっている。実は数日前サ】ダーからシェルバたちの荷上げについて 01 から一日で 0 2 を通過 し、 0 3 へ荷を届けるという案が出され、ルート工作ずみのこのルートなら、ザイルにユマールをか け、ただひたすら登ればいいのだし、危険性もなく、かえって急な斜度の尾根の上にはってある 0 2 に宿泊するより、から出かけへ戻って眠る方が彼らにとってもプラスと考え、この方式で荷 上げすることを了解していた。 そしてそれを昨日行う予定だったが、結局までは行けず、昨夜 (-)N に泊った彼らが on へ本日 荷上げし、 01 へ戻ることになった。 ー交信で本日 01 に上がった福島からまず、 01 の除雪について言って 夕方、七時のトランシー 来た。 01 は、前回は広い雪原の上にテントを張り、その周囲に装備を野積みにしていたのだが、こ れが毎日の地ふぶきで、すぐ埋まってしまう。またトイレに行くにも、以上に上ける荷物を背負 い子につける作業をするにも、一歩テントから外に出ると地ふぶきの中で動かなければならない。そ Z34
一保存されるだろうといううわさの物だ。 ロ ・ラから絶壁の下のネパール側をのそいたシェルバたちは 0 に帰ってきて「オーイと叫んだ ら、宮崎サー・フがテントから出て来た」と冗談をいった。「ウソい」というと笑いころげていたが、 サ 1 ダ ーが、まじめ顔で「黄色のテントが四張りと、食堂用の大型テントが一張、見えた」といった が、これは本当らしかった。 十一月一日の夜、ネパール放送は、宮崎隊はへ降りたと伝えた。翌二日、シェルバたちは、 0 1 のテントはもう跡かたもなかったといってきた。放送ニュースより現実の動きの方が数日早く、シ エルバたちの目が一番早いニュースとなる。ここは不思議な世界だ。 「映画監督が事前に日本で、エベレストの山頂で三六〇度のパーンをしよう、といってたよ」という ~ 話を日本にいる間に聞いていた。むずかしいというよりは、不可能に近いと思っていたが、山田君以 下少なくとも四名も登っているなら、もしかして三六〇度パーンも成しとげたかな、と想像してみ る。この時は分からなかったが、山を降りた後、日本から送られて来た新聞で、この時のエベレスト 登頂者は山田昇、八木原圀明、三枝照雄とカメラマンの阿久津悦夫ら七名であり、阿久津さんは四十 七歳で日本人最高峰登頂最高齢記録者となった。 ンエレ。、こち一はロ ー・ラへ行き、「ク 1 ン・フサイド ( ネ , 。、ール側 ) は、雪がデレ、デレ、ツア ( 大 変多い ) で驚いた」といっていた。 彼らが驚くほど、今年の雪は多いという話も、大切な情報たった。 ますます快調のルート工作 十二月四日。九時、福島から交信、もうアイゼンをつけていますという。双眼鏡で追っていると、 2 ノ 6
のテントに帰ったからあの日が休養日ととられてもしかたないけれど、あれは休養日なんてもの跖 なかった。一日動いた以上に疲れた」 こういう彼の話を聞きながら私は、このさいだからと、アイゼンだけでなく注意してほしいことと して、ダウラギリⅣ峰へ行った時、雪目になった人の話もした。ドしろうとという言葉はこの時、他 の隊員が使った言葉だ。「だいたいヒマラヤへ来ようってやつが、サングラスもかけずに雪目になる なんてドしろうとめが」というのがその時の言葉たった。 ついでに凍傷に対する注意もした。 3 へのルート工作へ行って帰って来た前回のクールの時、早 川が「もう気をつけないと、手の凍傷になる」と言っていたが、確かに、晴れているということでご まかされやすいが、マイナス三〇度の世界で、さらに日、一日、気温が下がっている。手足の凍傷は 十分過ぎるほど気をつけてほしい。 0 にいる時にアイゼンの調節をキチンとやっておかないような 人がいるなら、凍傷の対策も考えていない人がいてもおかしくない。その予防について、例えばュべ ラ軟膏をぬって手の甲とひらに化学力イロを入れて、もちろん手袋を選んで : : : と言っていたら、突 然、貫田が「いっしようけん命ルート工作をしている時に凍傷になってドしろうとなんて言われたら あわない」と言いだした。 樫原が「ボクみたいにテントに逃げこめばいいんですよ」と言う。話が変な方にいってしまった が、私はめげずに、何の対策もせずにただテントに逃げこむのではなく、凍傷にならずにルート工作 をすることが大事と言いつづけた。 それにしても、こんな調子でお互いに言いたいことを言いながらも、今のチョモランマの状況を一
の指示でおさまった。このルート工作用の資材は次の貫田パーティ、その次の大蔵パーテイも独自に 持ち上げなければならないことになり、各キャンプ間で何本持ち上げるかの確認のため電波が飛びか 私は黙っていた。もし次のシェルバの荷上げまで待っと、明日、明後日休んだ彼らがキャンプを一 つ一つ一日ずつ上がって 0 3 に荷を上げるのが五日後になる。それまで待っと、現在 01 、 0 2 に上 がっている隊員の動きはむだ足となるし、日程的にも登山日数がのびてしまう。今の交信内容からル ート工作隊員一人の荷上げ量は一一十キロを越すことになるが、でもお互いに、自主的に話し合ってい る。ここは一つ隊員にガイハッてもらおう。それより、今後こうした荷上げ荷物の内容のミスがおこ らないよう、原因と対策を考えよう。 「ただいま、とりこみ中」 十一月十二日。四時過ぎ、 01 に荷上げに行っていたサーダーが帰って来た。シェルバテントの前 で靴下をぬぎ、日に干しているのを見て、のどの乾きをいやし、汗がひき、一段落したなとみて、昨 夜隊員間で問題になった間違って上がってしまった荷上げの件についてじっくり話をした。 原因は、からへ上げた荷物をでおろし、から登攀具をに上げるよう、で 隊員が指示したのだが、言葉がよく通じずにからそのままに荷が上がってしまったというこ とで、結局お互いの理解がうまくゆかなかったという話になった。そこで、次回からの荷物は途中で 入れかえせず、から直接、次の設営キャン。フ地まで、荷をくずさず、上げてもらうよう頼む。す