「ただいま、リッジの所です。あと五 ~ 六ビッチで 0 2 です。あと二時間はかかるでしよう」とりあ えず光が見え、動いているということは、スリツ。フ事故等ではないことが分かり、一安心したが、そ れにしても遅い。寒さもきついし、かなり消耗しているはずだ。 2 から下がって、サポートするよ う要請する。 では大蔵が、再び外へ出て、から出たヘッドラン。フの光と福島の光を確認した。十時十分、 0 3 から明日の行動があるので、先に寝るとの交信がはいったが、近藤から、「シュラ 1 フを忘れて 来ちゃった、シュラーフがないよー」とも言って来た。 福島のことで頭がいつばいだったが、緊張したムードをリラックスさせるために、わざとこんなこ とを言ってくるあたり、近藤らしい。からでは手の出しようはないし、先に寝てもらった方がい いのだが、でも彼らも気になるらしく、十時三十分「シュラーフがないよお」と来た。 01 からは 「ただいまドッキング、リッジの所です」との交信あり。十一時、 01 から見あげて、あと一。ヒッチ 半くらいとの交信あり。十一時四十五分、 2 から、まだヘッドランプの光が見えませんとあった 後、十二時ジャスト、ただいま到着しましたときた。 一人で o にいた私は、背をまるくして、膝をかかえながら、この交信を聞いていた。 01 ~ 2 間の氷壁は急峻で、登るのに時間がかかる。前回も、八時間、九時間かかっていたが、今回のように 午前十一時頃出て、夜中の十一一時までというのは最長新記録。 「日の出るのが遅いので、朝は出にくいでしようが、明日は各キャンプとも早めに出て、明るいうち についてください」と念をおし、まずは安心して一日を終わる。 140
ヤク工作員の活躍 二十一日は、ヤク工作員一一名とシェルバ一一名、そして隊員一一名がヤク道を作りに行った。大矢、近 藤は、そのままべ】スキャンプ入りする。すでに二人は、十四日にべースキャンプに上がり、ここで 一泊し、十五日にヤクを連れて、帰ってきている。高度にも慣れてきている。近藤は元気たったが、 二十一日にそのままべースキャン。フへ入るようにといったときには、入るんですかと不満気。樫原も べースが遠い、遠いと言い出した。何となく沈滞気味。私と大蔵でテントに戻ってから、前回の隊員 は先へ行こう、行こうと言うので大変だったのに、何だ、今回の隊員は、と話していたら、それが聞 こえたらしく、翌朝、がんばって行って来ますと張り切ってみせた。どっちが本当かわからない。 近藤、大矢は無事べ】スキャン。フ入りした。二十二日。昨日の努力でべースキャンプまでの道はで きた。ヤク工作員たちも今まで動いていなかったこともあり、わりとスムーズに動くという意思は示 した。しかもヤク工作員は十三名雇っているはずなのに、数えてみたら十七名いる。ただし、いつも のことながら、河原に陽が当たってくる十時をすぎても、また彼らはテントの中から出ようとしな 。私をはじめ、隊員たちおよびサーダー シ = ルバたちは、みな八時モーニング・ティー、八時半再 食事、九時からは外に出ているというのに。張さんが、パジェロに乗ってすごい勢いでヤクを探しにン いった。この寒さのためにヤクがロンブクまで降りてしまったという。もう陽もさんさんとテント場モ に届き、十時半を過ぎた頃やっと、遙かかなたの河原の斜面のところに、ポッポッと黒いものが見えチ 始めた。ヤクである。これが、ノソノソとやってきた。
受け、「え 1 、風が強くて予定では七時半に着くつもりが、この時間になりました。撮影もありまし たので」「撮影は 01 から 0 2 まで明るいうちに全部とらなければならない」彼はめげずに風のせし だと言った。 とりあえず、着いたばかりだろうからと落ち着いたところで、もう一度交信しようと十時半を約東 した。十時半、交信したが出ない。十時四十五分交信が通じた。早川が一一一一口、「お互いに夜遅く疲れ ていますので、時間を守ってください」と言ってから、明日の荷上げの荷物の件や、シェルバにもた せる荷の話などをして、これで本日の交信終了。 隊員の食欲旺盛ぶり 十一月十四日。朝九時の交信が大蔵からバッチリ入った。もう支度が出来たと言って来た。「食事の 支度をシェルバにまかせなかったので早く出来ました」昨日 01 ではシェルバの食事の支度が遅れた ので出発が遅くなったのだと言う。彼は何か注意すると必ず、なぜそうなったか理由をいうが、でも 私の言ったことは内心では分かっている人間だ。それを知っているから私もフンフンと聞いていた。 貫田パーテイからもすでに準備済みと言って来た。本日はルートを延ばして、もどるとのこと。早 ず 近藤はまだ寝ている。シ = ラフの頭のところから、規則正しい白い息がフ 1 フーと垂直にはき出け されていた。 / ノカモーニング・ティを持って来てくれた。朝食を終わってテントの外へ出 十一時近くに、シェレ。、 : た私は、インデエラを先頭に荷上げに出るシェルバ四人を見送り、装備関係、食料関係、シ = ラーフ〃 に
る。峠は五三〇〇メートルだ。パジェロもデリカも 4 ハイレンジにシフトする。斜度が増し、ジ グザグの道となる。ゴロゴロした石の道から、スレート状の石の路面に変わってきた。 三菱の赤いマークを胴体につけたデリカがパジェロに。ヒッタリつけている。ホイールべースが短い から悪路に強いということが実証されている。けなげに登っている。パジェロも快調。悪路を走る車 の列は勇壮だ。砂煙が炎のように立つ。高度はグングン上る。山が深くなり、ヘア。ヒンカー・フが大き くなって、斜面がゆるく登るようになり、小砂利を敷きつめたような道になった。パ。 ンエロに比べ、 やはりワンポックスタイ。フのデリカは、車高の低い分、遅れをとる。一つ、二つ、三つカープくらい あとになってしまった。 十時五十分、ショコ・ラの峠に着く。ここには三十分ほどいた。ショコ・ラに出たとたん、対峙す ゴジュン、、ハカン、そしてゴジュン、、ハカン 2 峰、 るヒマラヤが眼前に現れる。右からチョー ギャチュンカンといったクーンプ・ヒマールの山群が大迫力。そして中央には、われらがチョモラン マのビラミダルな勇姿が、左の端にはマカルーが望める。八〇〇〇メートルの大パノラマだ。ただ チョモランマは雲で右半分が隠れてすっきりとは見えなかった。ここで写真を撮ったり、思い思いに び 眺めたり、時を忘れていた。 再 このあたりは、親指と人差し指で丸をつくったほどの赤茶色の石がずっと敷きつめられている地形マ で、砂利丘のようだ。十一時十五分、峠を出発、パデューの村へとくだる。パデューが四二〇〇メー トルだから、一〇〇〇メートルの下りになる。デコボコのほこりだらけの道がつづく チ 途中、外国の登山隊の車とすれ違う。トレッキングにしてはあまりにもすごい雪焼けの顔が目立っ
今日はそれほどでもない。よかった。今日も強風だったら彼らは本当に帰って来られなくなってしま % うかもしれない。 ルートに目を合わせる。でもマイナス三〇度ほどの気温だから、レンズが体温ですぐくもり、 よく見えない レンズをふくと氷がとれてくる。指が凍傷になるかと思うほど冷たくなるまでレンズ におしつけ、それを繰り返してから目にもって行く。それでも数秒でくもる。繰り返し繰り返し見 る。の黄色いテントが、半分ほど雪にうまって、それでも白んだ光に蛍光色を発しているように 見える。小さなうさぎ菊の花弁が一つ、氷の斜面にはりついているように。 ルートを追って目を上げる。白い斜面に岩が一つ。そしてその下に二つ並んでいる。右側の三段の 岩壁帯の一番下の岩壁から左に目を移すと、あれい昨日まではそこには何もなかったはずの白い斜 面に、上は細く、下は太い小さな黒い影が見える。あれだ、あれがテントだ。きっとあれが二人のか ぶっているテントた。交信は出来ないが、テントがある。飛ばされていないというだけでも少しは安 心した。手足のこごえにもめげず九時三十分までずっとテントを見つめていた。その間、交信はな 十時、十一時、眠っていられなくなった隊員も交代で双眼鏡でのそいている。十二時が過ぎた。状 況は変わらない。サーダーが e へ荷を取りに二十五日から降りているので、すぐシェルバに 01 まで上がってもらうよう頼んでくれと貫田に言う。彼らの足なら、荷物を背負わずにいけば、今日中 にに ( 行けると田う。 貫田は、まず自力で降りてこられるだろうと言ったが、一時になっても行動していないのはおかし
に出来るだけ下って来ても、にはとどかないから、途中で一泊することを考え、ビークには遅く ても十八日までに登らなければならない。登頂した後は、各キャンプを撤収してこなければならない から、その日を入れると十七日までに登らなければならないことになる。この悪天候が一週間続くと 考えると、十二、三日ごろまでは風と寒さが続くだろう。登頂のチャンス日は、どんなに遅らせても 十七日までという限度がこちらにはある。 みんなに、い つを登頂日にしたらいいか、勘で判断してもらった。近藤が十七日と言った。福島が 十五日、樫原は十六日 : 。それそれまちまち。福島の十五日と、私の十五日が重なり、多数決で十 五日に上につくように、最終パーティは十日に出ることにした。私の考えの十五日というのは、単に 天候を考えただけではなく、十五日ならまだ十六日、十七日と余裕を見られることと、その後、キャ ン。フの撤収をして荷下げをする時間もとれるからという意味もあった。 悪天候がやってきた ! 十二月十日。近藤、福島、大矢、樫原がを出発。貫田は左手の中指の凍傷がまだ治らず、フィ ックスにエマールをかけることも出来ないのでリタイヤする、と昨夜言った。本人からは言いにくい だろうと思い、私が「貫田君は指を切る気はないので行かないそうですから : : : 」とおどけて言った吮 つもりが、本人は「そんな言い方ないじゃないですか」と怒り、「みなさんに申しわけありません」 と隊員たちには謝っていた。とっても真面目な人間たちばかりだ。私は今回の遠征で何回かそう思っ魔 たことがある。目的地まで行けなかったり、体の調子が悪いとき、悪天のためでも彼らは帰って来
ルート工作はじまる 十一月一日、貫田パーティはべースに下山。福島、早川パーティが 0 2 へのルート工作。帰って来 た貫田、近藤に聞くと、早川はかなり緊張していたという。「それで壁の斜度は何度ぐらい ? 」「そう ですね、大体まあ三〇度から四〇度ぐらい。ところどころ五〇度、六〇度。最初のうちはきついです よ」「エー、ところで壁の斜度は何度ぐらい ? 」これを五回ぐらい繰り返したという。 緊張しているたけのことはあって、彼はかなりのス。ヒードで、貫田パーティの作ったルートを抜 け、自分たちの新しいルート工作地点へ向かったそうだ。後ろを登っていった福島がかなり遅れ、そ れについているニマ・テンバとアン・ソナは、さらに遅くなっていたとのこと。彼らはルート工作中 必要なロープやスノー ー等を持って登っているので、早川が持っているロープやスノーバーが不足 する前に、彼らに追いついてほしいところだ。早川は今のところ非常に張り切っている。前日も遅い 時間にに入ったにもかかわらず、かなり大きなざん壕というか、雪洞を掘って、をきれいに 整備したそうだ。「竪穴作りなら、大学山岳部に任してくださいよ」と言ったという。 午後の五時にとの交信。大蔵、関根たちですっかりテントを固定して、きれいにしたそうだ。 早川、福島。 ( ーティはかなりがんばったが、尾根には抜け切れず、五。ヒッチのところで戻って来たとけ いう。シェルバのアン・ソナとニマ・テン・ハは、翌日は休日なので、その日のうちにべースキャンプに まで戻って来た。へ着いたのが六時半で、で少々休み、七時十五分にを出発、八時四十 五分にはべースキャンプへ届いた。二人とも元気だった。
昨日今日の二日間 01 ~ 0 2 の荷上げをしただけで、「べース ~ 01 間の五日間の荷上げよりもきっ い。明日もう一日荷上げしたら、べースにおろしてくれ」と言って来た。 ~ 間はかなり斜度 がきつく、 彼らはちょ 六〇度くらいの傾斜があるために、前回も中国人協力員がとてもいやがった。 , っとした落石が腕に当たっただけでも、休ませてくれと言って来たが、今回も ~ 間が荷上げ に大変な場所だけに、ネックになりそうな気配だ。 夜、シェルバのタクティクスについて、サ 1 ダーと相談した。若手四人組に、せひとも今回は o に戻 らず 01 で休養をとったのち、 0 2 へ上がってくれるようにと頼む。九時三十分、バイクチームの関 崎君がメイハ ーズテントに駆け込んで来た。気イクが来ました」。私は何となく今日来るような気が していたので、風間さんにも、今日絶対来ると八時のトランシーバー交信で言ったのだが、日程ぎり ぎりのところでバイクが届いたのだ。 早くも冬が・ 六日、朝。昨日隊員は全員から上の行動となったため、本日はにいるのが私と関崎君だけ だ。モーニング・ティの後、すぐ支度をして外へ出る。本日もサーダーを含めてシェルバ五名分の荷 上げに必要な物資を分けなければならない。朝の仕事が終わり一段落し、食事が終わると、シェル。 ( たちが出発していった。今日は、段取りが早かったためか、十時かっきりにみんな出掛けて行った。 まだ太陽がべースキャンプまで当たってきていない。寒いなあと思いながら、しばらくキッチンに、 るが、石油が足りなくなるといけないので、すぐ火を消してしまった。 れ 9 烈風に負けず
優秀なシェルバたち 十時半頃からのおそい食事が終わり、十一時を過ぎたころ、太陽があたり始めた。サーダーがこれ なら大丈夫というので、健康診断を開始する。ラク。ハ ・テンジン ( サーダー ) 、ダワ・ノルプ、アン・ ソナ、ナワン・ヨンデン、ニマ・テン、、、 ツェリン、ニマ・ドルジェ、アン・プレ・、、 ノ / イン 、ードル、アルジェン・タマン、 デエラ・ ハサン・ツェリン、そしてコックのミンマ・テンジンとキ ッチン・ポーイのティンディ・ドルジェの総勢十三名。シェルバの健康調査をする時、いつも感じる ・ツェリンは四 のは、血圧がかなり高い人間が多いことと、高所でも脈搏数が少ないことだ。ペイ、 十をいくつも越えているのに、かなり強そうな心臓の音がした。血管を押えると脈圧が高い。「この おじさん、顔のわりに強そうじゃない」といったら、過去の登攀記録はかなりだった。健康チェック の結果はみな元気。 登攀記録のうえでもラクパ・テンジンをはじめとして、みんな優秀な人間が集まっている。平均年 齢は若く、とても活気がある。はりきっていて気がせくのか、昼ごはんを待たずに、ラクパ・テンジ ンのほうからシェルバの装備を渡してくれといってきた。予定を早める。装備は一応、福島、大蔵が 手渡した。サングラスが足りなかったほかは、問題はなかったようだ。シェルバに渡す装備にシェル 。ハの側からクレ 1 ムがついた場合、あとあとまで尾を引くので、とりあえず一安心。 午後、貫田はじめ樫原、大蔵、大矢、関崎は、左岸の丸い山に登りにいった。各人別々のルートを とっていったが、さすがに大矢はかなり先に出た貫田に、追いつく程度に高所順化ができていて動き 8
よ・ほすことだということを衄りまくった。 行動のスタートが遅れてペースが狂ったのは、シェル。ハだけではない。大蔵、関根も五時のトラン シしハー交信では、まだに到着しておらず、六時の交信で、関根たけ到着。大蔵はまだだった。 セレモニーには関係なく、昨日 01 へ入った貫田、近藤パーティは、本日、張り切って 01 から 0 2 へのルート工作に出掛けていた。七時の交信で 01 から大蔵が、「彼らは、まだ壁にとりついてい ます」と言って来た。午後七時と言えば、まだ残照はあるし、氷壁の白さが明るさを助けているが、 日没とともに気温は急激に下がる。セレモニーでよれよれの他の人間とは別に、こちらの方は張りき り過ぎて、帰路のことを考えていないのではないかと心配になる。 午後九時の交信。彼らの延ばした。ヒッチ ( 一ビッチは五〇メ 1 トル ) は十。ヒッチ。左側の方の雪壁 からリッジの方に出て、そこから直登したとのこと。八時四十五分に帰って来たと報告してきた。貫 田、近藤パーティとは、を出発する前に、へ到着するまでは、からは下りてこないとい う約東だった。なぜなら、 01 からのルート工作は、初日が貫田パーティ、翌日が福島パーティ、翌々 日は大蔵パーティ、これで到達しなければ、もう一度貫田パーティ、福島パーティと繰り返す作戦だ ったので、一日目に 01 からルート工作し、二日目にに戻り、三日目にまた 01 へ登り、四日目 にからのルート工作という日程を組むと、休養できる日がなくなってしまう。それならば、初日 ルート工作し、翌日と翌々日をで休養し、四日目にまたルート工作に出るほうが、体力的には楽 た。しかし、はより高度が高いうえに、居心地も悪い。基本的に休養はというのが、べ ターではある。やむをえない処置としてこの約東はなされていた。