祖父 - みる会図書館


検索対象: 麒麟 : 香港ノアール・ファンタジー
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1. 麒麟 : 香港ノアール・ファンタジー

うれ 十二歳だった安珠はそのとき、祖父のなぐさめを嬉しいと思ったし、同時にもう帰れないの だと知ったのだった。 すつばりと祖父の腕に包まれ、深く二、三度呼吸をすると。 「もう大丈夫」 につこり笑って、祖父の腕から離れた。 っえ そして床に置かれた杖を拾いあげ、立ちあがろうとする祖父に手を貸す。 と、ふいにーー祖父の動きが止まり、安珠は何ごとかと祖父の顔を見あげた。 ればし 祖父の目は、桟橋に向けられていた。 にらみつけるその視線をたどって、安珠もゆっくりと桟橋に目をやる。 「こんにちは」 桟橋の上から、ひとりの青年が安珠と祖父を見おろし、穏やかな笑顔で挨拶した。 歳はたぶん、三十まではいっていないだろう 。バールグレーのスーツを着、少し長めの髪を うしろに流したその姿は、一見、青年実業家といったところだ。 桟橋におりる道路には、青年が乗ってきたものだろう、黒いべンツが駐まっている。 「お久しぶりですーーーと言っていいんでしようかね ? 」 青年は祖父に向けてそう言うと、笑みを消した顔で頭をさげた。 「おじいちゃん、お知りあい ? 」 ゆか あいさっ

2. 麒麟 : 香港ノアール・ファンタジー

79 麒麟 につこり微笑んだ安珠を祖父は、まぶしげにながめた。安珠はうわの空で祖父に「ただい ま」と言うと、狭いサンパンの中をぐるりと見回した。 「麟は ? どこ ? 」 もうふ サンバンの平たい床には、木箱や毛布などの家財道具が隅のほうに寄せられている。安珠が 出かけるとき、麟はその木箱に隠されるようにして毛布をまとい横たわっていた。 だが今は毛布はたたまれ、木箱もきっちりと並べて積みあげてある。 「おじいちゃん、答えてよ。麟は ? どこに行ったの ? 」 たずねる安珠の肩に、祖父の骨ばった手がそっと置かれた。 「も , つ、 いないよ」 大きく目をみひらいて、祖父の顔を見つめた。そして、サンパンから桟橋にふたたび飛び移 ろうと身をひるがえした。 だが、祖父の手が安珠の腕を取ってそれを止める。 「離してよ、おじいちゃん ! 」 しようりんじけんばう つか 身をよじり、祖父に掴まれた腕をもぎ離そうとしたが。少林寺拳法をたしなむ安珠にさえ ふりほどけないほど、祖父はしつかりと彼女を押さえつけていた。 安珠の手から、麟のためにと買ってきた薬を入れた茶色い紙袋が落ちる。 「忘れなさい。あの青年と関わっては、おまえの身に危険がおよぶ」 ほほえ ゆか

3. 麒麟 : 香港ノアール・ファンタジー

112 の夜、先日の夜のような男たちが押し入ってきた。連中はわしに、この三カ月の間どこへ行っ おど ていたのか、その場所を一言えと脅した」 「でも、おじいちゃんは目隠しされて : : : 」 祖父はうなずくと、不自由な足を指さしてみせた。 「わしは知らない、と答えた。だが連中は、それを許さなかった。この足はそのとき、連中に ひぎ くだ 膝の骨を砕かれ、こうなってしまった」 「ひどい まゆ 唇をかみしめ、眉をしかめて、安珠は痛ましい思いで祖父の足を見おろした。 「命からがらで連中から逃げ出したわしは、それ以来、彫り師をやめた。あとはおまえが知る こっとうや ように、小さな骨董屋のじじいだよ」 安珠の両親が事故で亡くなり、そのとき初めて彼女は香港に祖父がいると知った。他に親類 もなく、祖父に引き取られて。祖父がどんな人か、何をしているひとなのかも知らずに日本か ら香港へやって来たのだ。 しようりんじ だが、そんな安珠に祖父は優しかった。進学させてくれ、少林寺を習いたいと言えば反対 もせすやらせてくれた。 「おまえが拾ってきた、あの青年の背中を見たとき。わしは、ひどく怖くなった」 ねら 「また、おじいちゃんの足を砕いた連中に狙われると思ったから ? 」 ホンコン

4. 麒麟 : 香港ノアール・ファンタジー

102 きりん ばつりとつぶやいた安珠に、 「見たのか ? 」 祖父がたずねた。 「それは、すばらしい。弟はあれを厭わしく思っていました、まさか誰かに見せるなどとは : : : 」 「私が勝手に見ただけです」 硬い口調で言うと、安珠は青年と祖父から顔をそむけた。 おじようさん 「小姐、あなたがお怒りになる気持ちは、よくわかります」 青年は立ったままの安珠に、優しい声で語りかけてきた。 「お祖父さまが弟を知っているとおっしやらなかったのは、仕方のないことです。できること ならあなたには、私どもと関わりにならぬようにとお考えだったのでしよう」 そうですね、と青年は祖父に同意をもとめたが。祖父は黙って俯いたままだった。 「麟も同じこと、言ってたわ。俺と関わるな、って」 「そうです、弟の言うことは正しし 、。けれど私はーー」 青年はそう言って立ちあがると、安珠のそばに近づいた。そして安珠の手を取り、顔をのぞ きこむ。 「あえて、あなたにお聞きしなければなりません。弟はいま、どこにいますか ? 」 うつむ

5. 麒麟 : 香港ノアール・ファンタジー

おだ そこで青年はふっと目を伏せ、続いて安珠に穏やかな視線を向けた。 おじようさん 「小姐、弟がお世話になったようですね ? 」 りん 「弟って : : : ひょっとして、麟のこと ? 」 ほほえ ふわりと微笑み、青年はうなすいた。 「宗ーーー私のすぐ下の弟です。とはいえ、宗家にはもう私とのふたりしかおりませんが」 きし その言葉に、祖父の座る椅子がぎしりと軋む音をあげた。 「では、いちばん下の弟さんは : 信じられないといった表情で、祖父が青年の顔を見つめる。 「亡くなりました」 青年の表情はだが、穏やかな笑みを浮かべたままだった。 「そうですかーーー」 おもも 沈痛な面持ちで、祖父が目を伏せる。 「おじいちゃん : : : もしかして、麟のこと、知ってたの ? 」 ふたりのやりとりで、安珠はやっと確信がもてた。 とが みもと 祖父は、安珠が彼を拾ってきたとき、身許もわからぬ人間を連れて来てと、うるさく咎めだ てしなかった。日頃あれほど、危ない場所には近づくな、と口をすつばくして言っている祖父 、刀十 /

6. 麒麟 : 香港ノアール・ファンタジー

してそのまま座りこむ。 何もない床をにらみつけ、目の奥が熱くなってくるのに耐えた。 泣きたいわけではない。涙をこばして、それで事が解決するわけではない。 ( そんなこと、わかってる ) けが 何かを失ったわけではない。ほんの四日間、怪我の手当てをしてやった 関係なのだ。 ( そんなこと、わかってるってば ) ぎゅっと唇をかみしめ、ゆっくりと顔をあげた。祖父が、痛みにたえるような表情をして孫 娘を見おろしていた。 「おじいちゃん : : : ごめんね」 そう告げると祖父は、静かにかぶりをふってみせた。 「、何か言ってた ? 」 それには答えず、祖父は杖を床に置き腰をかがめると、筋ばった手をのばして安珠の肩を抱 きしめた。 ちょうど四年前、両親を亡くした安珠が祖父に引き取られて日本からこの香港へやってきた 麒 とき。空港で突然「帰りたい」と言い出し一歩も動かなくなった安珠を、祖父はいまと同じよ うに無言で肩を抱き、ばんばんと背中をたたいてくれた。 っえ ホンコン ただそれだけの

7. 麒麟 : 香港ノアール・ファンタジー

ほろ サンバンの幌の下で改めて見なおした青年の顔は、ひどく青白く線が細かった。 「失礼。座ってもよろしいですか ? 祖父がうなすくと青年は、木箱の上に腰をおろした。 あんじゅ 安珠は少し離れた舟べりに腰をかけ、祖父はサンパンの運転席をかねた椅子に座っている。 安珠のところからは、祖父と青年の顔ははっきり見てとることができ、小さな声まで聞き取る ことができる。 「大んは、、 しつ亡くなったのですか ? 」 ていねい いつの間にか祖父の言葉づかいが、丁寧なものに変わっていた。それどころか、そもそも祖 父が「大人」などという呼称を、よほど尊敬している相手にしかつけるはずがない。 「先週に : 。心臟が弱っていたので、長くあぶない状態が続いていたのですが」 麒「そうですか。では弟さんは、そのことは」 的「ええ、知りません」

8. 麒麟 : 香港ノアール・ファンタジー

安珠がたずねて振り返ると、祖父はめったに見せないしい表情をして青年をにらみあげて 「私がそちらへ移りましようか ? それとも、あなたがこちらへ来てくれますか ? 」 「どちらも必要ない」 返した祖父の声は、そっけないというよりも、相手を故意に突き放す冷たさがあった。 「けれど、このままではお話しできる態勢ではないと思うんですが」 「話すことなど、何もない」 「おじいちゃん ! 」 いくらなんでも、そんな言い方をしては相手に失礼ではないかと。安珠は祖父の腕を握っ て、とがめた。 「お孫さんですか ? 」 青年の視線が安珠に向けられる。 どこか見覚えのある黒い目で見られて、安珠はあわててペこりと頭をさげた。 「あんたには、関係ない」 ほろ 祖父は青年に言い放っと、安珠の手首をつかみ、幌の下へ入るようにと促した。 「関係はーーーあるんですよ」 青年の声のトーンが、急に低くなった。 うなが

9. 麒麟 : 香港ノアール・ファンタジー

吸い込まれそうな眼の色だった。 断りもなく手を取られたのに、ふりほどこうという気にもならなかった。 「ーー知らない」 青年から目をそむけ、かぶりをふる。 すると青年は、そっと握った安珠の手を見おろし、わずかに目を細めた。 「知らない : : ? ・ほんと , つに ? ・」 ためすような口調で繰り返し問いかけてくる青年に、 「ほんとに知らないんだってば ! 」 悲鳴をあげるような声で言い放っと、握られた手をグイと引きもどしながら、おそらくは知 っているはずの祖父へ目をやった。 思ったよりあっけなく青年は安珠の手を離し、 「あなたが知っていらっしやるのですか ? 」 祖父のほうへ向き直る。 つら まゆね 麟だが祖父もまた、辛そうに眉根を寄せてかぶりをふった。 「ほんとうに ? 私にはもう時間がないのです。知っているなら : : : 」 うそ 「いや、知らん。あなたに嘘は通じないことぐらい、わかってますからな」 青年は祖父の顔を見おろし、やがて大きく深いため息をついた。

10. 麒麟 : 香港ノアール・ファンタジー

つまりそれは祖父が、麟を知っていたからだ。だから、何も言わなかった。 「どうしてーーー何も言ってくれなかったの ? を知ってるって、ひとことも言ってくれなか 舟べりから立ちあがり、祖父のところに走り寄る。 「わたしだけ、何も知らなかった ! そんなの、ひどいじゃない ! 」 床を踏みならして、祖父を責めた。 おじようさん そんな安珠に、青年がそっと声をかけた。 「おじいさまはおそらく、麟の顔を知っていたわけではありませんよ。ご老人が弟と会ったの は、もう十四年も前のことだ」 こくりと祖父がうなずく。 「顔を見ただけでは : : : わからなかった。わかったのは、背中のあれを見たときです」 きりん 背中のーー・麒。 のうり いれずみよみがえ 麟安珠の脳裏に、朱と緑が詳やかな麒麟の刺青が蘇った。 げんじゅう プロンズの肌に、たてがみをなびかせ、前足を高くあげた幻獣の刺青。それはあまりにも 強烈なイメージとして、安珠の目に焼きついたのだ。ほんの一度、わずか数瞬かいま見ただけ たとい , つのに。 ゆか