いさよまなぎ したい 少女は髪を思いきり短くし、潔い眼差しと細いしなやかな肢体があいまって、少年つばい 中性的な印象をうける。老人のほうは、脚が不自由で杖をつき、手を貸す少女に安心して片腕 をあずけていた。 「送っていただいて、ありがとうございました」 あんじゅ 安珠は車の中にいる青年に、ペこりと頭をさげた。 「もう心配はないと思いますが、何かあったらすぐに連絡をください」 青年は青ざめてやつれた顔をだし、安珠と老人にそう告げる。 。しそれより、お大事になさってくださいね ? 」 まゆ うなすいて安珠は、やや眉をしかめ、青年の顔をのぞきこんだ。 「ありがとう」 ほほえ 微笑んで返した青年の顔は、ひどく儚い印象をうけるものだった。 まるで散り際の桜のようだーーと思って安珠は、あわててその想像を頭から振り払った。 ひすい ドアが閉まり、ペンツが走り去るのを見送りながら。安珠はお守りにしている翡翠のピアス 麟に指先でふれて、青年の未来を祈った。 と。 どうかあのひとに幸せが訪れますように さんじよう 部屋にもどってみると、そこはまるで押し込み強盗にでも入られたような惨状だった。だ はかな っえ
はたち 相手が十九か二十歳ぐらいで、服装もかなり汚れてはいるがそれなりに品のいいものだと見 てとり、安珠は気安く青年の顔をのぞきこんでみた。 けが 「怪我してんでしよ、立てるの ? 」 「うるさいっ ! 」 さしのべた手はたちまち、はたき落とされた。 張られた自分の手を見、続いて青年の顔を見て、安珠は唇を歪めた。 「ひとが親切に言ってるのに、その態度ってあんまりじゃない ? 」 「よけいなお世話だ」 言いながら青年は、ふたたび床に座りこんだ。どうやら、身体を起こしているのさえ辛いら 「関わりになりたくなかったら、去れー きつい言葉を放っ青年だったが、床に片手をつき、いまにも倒れこみそうだ。 言われるままに立ち去ることもできず、ゆるゆると青年に近づいた。 「去れ、と言っている : : : 」 がくん、と青年の頭が落ちた。 あわてて安珠は、青年の身体を背中からささえる。 「そこまで言うなら、しつかりしてよ」 ゆか ゆが つら
見ると青年がロもとに当てた手の、指の間から血があふれ出している。 んばし 祖父がサンパンを降り、足をひきすりながら桟橋を道路のほうへ向かうのを横目で見て。安 珠は青年の身体を抱え、楽になるように床に腰をおろさせた。 せき タオルを捜しだし、血で染まった手のかわりにロもとへ当ててやるころになって。やっと咳 はおさまり、青年はすきま風のような音をたててゆるやかに息をしはじめた。 「お水か何か、欲しいですか ? 」 それでもまだ背中をさすり続けながら、安珠は彼の顔をのぞきこむ。 うる 青年は小さくかぶりをふって、潤んだ目で安珠を見あげた。 おじようさん 「まだ、しゃべらないほうがいいですよ」 だが青年は肩をあえがせて、もういちどかぶりをふる。 「弟をーー麟を : : : 」 しか そこまで言って、ふたたび咳き込みはじめた青年に。今度は「黙って ! 」と叱りつけた。 桟橋のほうを見やると、祖父が知らせた相手なのだろう、スーツ姿の男がふたり転がるよう にして走ってくるところだった。 やっと駆けつけた男のひとりが、床に座りこんで喘ぐ青年を見るなり、手にした鞄の中から 注射器とアンプルを取り出した。 あえ
「呼吸を楽にできるように、身体をのばしてやってください。それから吸入器を」 青年は床に横たえられ、もうひとりの男が鞄の中から吸入器を取り出し、注射をうつ間に青 年のロもとに吸入器を押しつけた。 ほお 咳き込む間、紅潮していた青年の頬は、また青白く変わっている。 吸入器からもれる空気のかすかな音を聞きながら安珠は、血に染まった青年の腕や指をタオ ルでぬぐってやった。 じんそく 男たちの迅速な対応から、これが初めてのことではないとわかる。初めてではないどころ ひんばん か、かなり頻繁に繰り返されているのかもしれない。 ( でも、血を吐くなんて : : : ) ほろ 最初に幌の下で青白いと思った顔色は、気のせいなどではなかったのだ。 けわ あえぐようにせわしく上下していた青年の胸が、次第にゆっくりとしたものになった。険し まゆね く寄せられていた眉根がとかれ、青年はゆるゆると目を開けた。 そして、アンプルを注射した男がうなずくと、安珠に拭われるまま力なく投げ出されていた 麟手が、意志をもって静かに動いた。 吸入器をはずした青年は、まっすぐ安珠を見つめる。 「私には時間がない」 8 かすれた小さな声は聞き取りにくく、安珠は腰をかがめて青年のロもとに耳を寄せた。
しいえ。当然の反応ですよ」 さと ほほえ 悟りきってしまったような、静かな声でそう一言うと。青年は、青白い顔で微笑んだ。 だが、そこで青年は「それに 」と言葉をつぎかけ、ふいに大きく肩を揺らして咳き込ん ほお - 一う・ちう 青白かった頬がたちまち紅潮し、安珠はとっさに青年の背に手を当て、 「だいじようぶですか ? 」 顔をのぞきこみながら、撫でさすった。 せき 湿った咳はなかなかとまらす、青年はサンパンの幌をかける鉄枠を握りしめ、ロもとに手を 当てて苦しげに目を閉じている。 一んばし 祖父もあわてた様子で立ちあがり、桟橋の向こうに駐まったペンツから人を呼ばうとした が。青年は祖父の袖をぐいと引いて、咳きこみながら幾度もかぶりを振ってみせた。 「でも : : : 」 ゆか このままでは、と言いかけた安珠は。ふと目を落とした先、床の上へ、ばたりと滴ったどす 麟黒い血に 「おじいちゃん ! 誰か呼んできて ! 」 祖父の腕をつかむ青年の手を、無理矢理ひきはがして叫んだ。 「早く ! お願い ! 」 そで ほろ したた
吸い込まれそうな眼の色だった。 断りもなく手を取られたのに、ふりほどこうという気にもならなかった。 「ーー知らない」 青年から目をそむけ、かぶりをふる。 すると青年は、そっと握った安珠の手を見おろし、わずかに目を細めた。 「知らない : : ? ・ほんと , つに ? ・」 ためすような口調で繰り返し問いかけてくる青年に、 「ほんとに知らないんだってば ! 」 悲鳴をあげるような声で言い放っと、握られた手をグイと引きもどしながら、おそらくは知 っているはずの祖父へ目をやった。 思ったよりあっけなく青年は安珠の手を離し、 「あなたが知っていらっしやるのですか ? 」 祖父のほうへ向き直る。 つら まゆね 麟だが祖父もまた、辛そうに眉根を寄せてかぶりをふった。 「ほんとうに ? 私にはもう時間がないのです。知っているなら : : : 」 うそ 「いや、知らん。あなたに嘘は通じないことぐらい、わかってますからな」 青年は祖父の顔を見おろし、やがて大きく深いため息をついた。
も似た気配を感じたからだ。 一緒に暮らす祖父にはよく、決して危ない場所には近づくな、と言われる。安珠が祖父に引 ちあん き取られる前、十二の歳まですごした日本にくらべて、この香港はあまり治安がよろしくな しだが彼女はいちどたりと、その言いつけを守ったことはなかった。 そっと階段の下に近づくと、うす闇のむこうで白い眼が光った。 「ーーだれだっ : うめ 押し殺した声が、ふたたび安珠の足を止まらせた。だがすぐに、声の主が小さく呻くのを聞 いて、安珠はあたりをうかがうと、誰もこちらを見ていないのを確認し、階段の下へするりと もぐりこんだ。 とたんに床に膝をつき身構えたのは、浅黒い肌をした青年だった。 「なんだ、女か」 すが 安珠を見たとたん青年は目を眇めて、吐き捨てるようにつぶやいた。青年の身体から、張り 詰めていたものが消えていく。やはり安珠が感じた殺気は、この青年が発していたものだった のだ。 麒うす闇に目が慣れていくと同時に、青年があちこち怪我をしているのがわかった。 「なんだ女か、とは何よ」 ゆかひぎ
安珠がたずねて振り返ると、祖父はめったに見せないしい表情をして青年をにらみあげて 「私がそちらへ移りましようか ? それとも、あなたがこちらへ来てくれますか ? 」 「どちらも必要ない」 返した祖父の声は、そっけないというよりも、相手を故意に突き放す冷たさがあった。 「けれど、このままではお話しできる態勢ではないと思うんですが」 「話すことなど、何もない」 「おじいちゃん ! 」 いくらなんでも、そんな言い方をしては相手に失礼ではないかと。安珠は祖父の腕を握っ て、とがめた。 「お孫さんですか ? 」 青年の視線が安珠に向けられる。 どこか見覚えのある黒い目で見られて、安珠はあわててペこりと頭をさげた。 「あんたには、関係ない」 ほろ 祖父は青年に言い放っと、安珠の手首をつかみ、幌の下へ入るようにと促した。 「関係はーーーあるんですよ」 青年の声のトーンが、急に低くなった。 うなが
「また、振り出しにもどってしまった : : : 」 なっとく 力を落としてつぶやく青年は祖父の言葉に納得したようだったが、安珠はまだ引きさがれな っこ 0 「どうして ? おじいちゃん、知ってるんじゃないの ? だってーーー麟を行かせたのは、おじ いちゃんじゃない ! 」 「確かに行かせてしまったのはわしだが、どこへ行ったかは知らん」 「うそっ ! 」 におう 仁王立ちして祖父をなじる安珠を、背後からそっと肩に手を置いてなだめたのは、また青年 「本当にお祖父さまは、ご存知ないのですよ。私にはわかります」 「なにがわかるっていうのつ ? 」 肩に置かれた手を、払い落として。安珠は青年の顔をにらみあげた。 「こうして、相手に手をふれると : : : 」 ほほえ 青年は辛そうに微笑みながら、払われた手をふたたび安珠の肩に置いオ 「伝わってくるのです、あなたが今、何を思っているか。何を考えているか」 うそ・ : : ・つ」 優しく置かれた手を見つめ、安珠はじりじりとあとすさった。 、、こつつ ) 0
102 きりん ばつりとつぶやいた安珠に、 「見たのか ? 」 祖父がたずねた。 「それは、すばらしい。弟はあれを厭わしく思っていました、まさか誰かに見せるなどとは : : : 」 「私が勝手に見ただけです」 硬い口調で言うと、安珠は青年と祖父から顔をそむけた。 おじようさん 「小姐、あなたがお怒りになる気持ちは、よくわかります」 青年は立ったままの安珠に、優しい声で語りかけてきた。 「お祖父さまが弟を知っているとおっしやらなかったのは、仕方のないことです。できること ならあなたには、私どもと関わりにならぬようにとお考えだったのでしよう」 そうですね、と青年は祖父に同意をもとめたが。祖父は黙って俯いたままだった。 「麟も同じこと、言ってたわ。俺と関わるな、って」 「そうです、弟の言うことは正しし 、。けれど私はーー」 青年はそう言って立ちあがると、安珠のそばに近づいた。そして安珠の手を取り、顔をのぞ きこむ。 「あえて、あなたにお聞きしなければなりません。弟はいま、どこにいますか ? 」 うつむ