0 0 ようでもある 文中に独身主義の女史たちをからかう箇所もあるが、 父が死亡してからもう十六年になるが、亡父の作品を 当時、作者もまた独身主義で、事情を知る者には妙なユ 自分の父親につい ーモアを感じさせる。作者が結婚したのは本書を書いて解説するぐらい苦手なことはない。 から数年後の大正十四年。長男である私がうまれたのて、公正な評価を下せる人がいるだろうか。けなすわけ が、大正十五年というわけである。 にもいかず、ほめたたえるわけにもいかない。しかも私 なによりも人をくっているのは、結末の部分である。 は、不肖の息子意識がとくに強いのだ。 世間からかくれている奥ゆかしい謎の人物なるものを訪 だが、無理をして、いくつかほめてみる。この当時、 れ、面会する。それは作者自身のことなのである。現実亡父は官僚と同業者の連合軍からの、ひどい圧迫を受け はじめていたはすなのだが、それを反映した憤慨も暗さ にはワンマン経営で陣頭指揮で大活躍中の本人のことな のだ。なんたる神経なのかと、腹のなかがむずむすしても虚無感もない。あくまで楽天的に書かれている。 また、普通だったら百年後かあるいはそれ以上の未来 くる。こんな発想がどこから出てぎたのだろうか としそうなのに、あえて『三十年後』とした点である。 しかし、この作品の特徴は、全編が薬品へのにな っている点である。小説の創始者といえるかもしれ 大正七年 ( 1918 ) 頃に、この種の小説が外国でどのて ない。もっともその後もあまりほかには例がないようだ。 いど出ていたのだろうか。そのうち調べて、欧米 ()n か 作者は大正三年に「輸出一億円を保証し得べき新事らの影響部分を探してみたいと思っている。 なお、この本は文庫本の大きさで、二四〇ページ。雑 業」という小パンフレットを作り、政府や各界に送付し ている。生糸の輸出なんか将来性はな、、 製薬事業の十誌掲載のため、半分にちちめた。一部をダイジェストの 年計画をたて、政府が応援すれば一億や二億 ( 当時の金形にした。さしえも本書のなかのものである。 奥付けを見ると、定価六十銭、新報知社発行とある。 額 ) の外貨は容易に得られるとの主張である。 それには「断じて誇大妄想狂の夢ではない」とも付記斎藤氏より入手したのは再版で、五月一日発行である。 し、その数字的根拠もつけてある。まさに薬品事業にと初版より五日あとだ。好評だったようだが、どれぐらい りつかれていたわけである。そんなことも原動力となっ売れたのだろうか。「不許復製 , と大きく書いてもある が、私は無断でやってしまった。文句があったら、作者 て、この作品になったのであろう。しかし、こんな作品 は私のところへどなりこんで来るべきであろう。 を書いたおかけで、世人には誇大妄想的な印象を広めた
大正七年の「三十年後」 なにはさておき、斎藤守弘氏に感謝しなければならなネというと悪の商品と連想するだろうが、精製モルヒネ 彼がどこかの古本屋でこの本を探し出し、私に贈っ が犯罪と結びついたのははるか後年のことなのである。 てくれたので、ここに日の目を見るに至った。それ以前 この『三十年後』には序文がついている。こんな内容 に、週刊新潮の掲示板のページを利用し、この本を求め だ。ある日、後藤新平が不意に京橋の店にあらわれ、店 たこともあったのだが、だめだった。週刊新潮の百万の員に「ばかにつける薬はあるか」と質問した。店員はそ 読者より、斎藤氏ひとりのほうが私にとっては偉大であれが後藤氏とは知らず、内心では気ちがいと思ったかも る。 しれぬが「目下研究中です」と、ていねいに答えた。後 作者すなわち私の父は、明治三十七年に製薬業をはじ藤氏は大いに感心し、各所で話題とした。それがヒント め業績は順調に伸びた。それがさらに飛躍的に大きくな となり、この作品ができあがった。 ったのには、二つの原因がある。ひとつは大正三年には この発行日は大正七年四月二十七日。その少し前の四 じまった第一次大戦。ヨーロツ。、、 , カら薬品が輸入しにく月八日に後藤夫人が死去した。その霊前に本書を捧ぐと はじめ くなり、国内生産への需要がましたからである。 記してある。なお作者の星一、当時満四十五歳。 もうひとつはモルヒネ精製の国産化の成功である。これ 小説の最初のほうに、東京湾の大築港のことが出てく には台湾総督であった後藤新平のカそえによるところがる。これは後藤の構想で、けちで有名だった財閥の安田 大きかった。そして、京橋の交差点に大ぎなビルの本社善次郎に巨額の金を出資させる話がまとまり、実現寸前 を建てるまでになった。この小説中にもそれがちょっとまでいったのだが、大正十年に善次郎が暗殺され、挫折 出てくる。 に終ったというしろものである。また、空中交通の時代 大正時代の父については、『人民は弱し官吏は強し』となり、道路が閑散となる描写があるが、これはむやみ という作品に私が書いた。書けなくて気になっている点と広い道路の好きな後藤に対する、作者の皮肉のようで があり、それをここに補足しておく。現代の人はモルヒある。 、 0 星新一
, ーー記者団の活動振一変ーー写真隊の包囲も露骨で無い ー亠果京湾築港の完成・ーーハーデー以来の珍客ーー外国 一人の赤毛布ー・ー明治から大正へ掛けての大政事家 , ーー無 一一 , ・〕以「も昔も待っ間の無駄話ーー唯一人の乗客ーー歓迎 に花は禁止ーーー生きた国宝ーー最初の印象は不老 人島の消減ーー旅客は空中ーー貨物だけが汽船ーーー こちら 偉人帰る。珍客来る。どの新聞にも此標題の大活字を見ざるは無此方には又新聞記者の一団が集合して語り合ってゐる。 、『どうも空中出迎へばかり遣ってゐたのが、海上からの客を期うし し。人の集る処此噂の出ざるは有らぬ。 その 東京新港の第一桟橋には、其珍客を載せた汽船の着くのを待構へて待ってゐるのは、勝手が違って変なものだなア』と記者が云出 て、黒山の如き人出がしてゐる。 時は大正三十七年。このただならぬさわぎは、嶋浦太郎という『然うだねえ。汽船訪問なんて僕なんか初めての経験だ。大正初年 人物が日本に帰ってくるからなのである。嶋浦は明治から大正にはわざわざ横浜まで出掛けて入港するのを待兼て、検疫の後には やりかた ドシドシ談話を聞いたんださうだね。それが随分無遠慮な遣方で、 にかけて、人びとから敬愛された大政事家。 いろいろ なっか それなのに、彼は六十一歳になった大正七年に、世の中の堕落久振で洋行から帰って来て可慕しい妻子や兄弟や、種々親しい人達 なかなか にいやけがさし、南方の無人島に渡り、ひとりで住みついてしと話したいと思っても、却々口を利かれない程に、記者団が包囲し まった。それが三十年ぶりに帰国するというのである。すなわたもんだってねえ』と記者が受けた。 はなは ち現在九十一歳の老人だ。 『それに写真隊の包囲が甚だ露骨だったさうだね。それから見ると だが、帰りたくてこうなったのではない。当人は島から離れた今は進歩したもので、其人の前に立って恭しく敬礼した時には、既 くはないのだが、島のほうがそれを許さない。その孤島、近く に無線電流が通じて、本社の写真部でパチンと遣って了ふのだから の海底噴火の影響により、沈下しはしめたのだ。 ね』と 0 記者も述懐的な言葉を合せた。 たまたま通りかかった潜水貨物船の亀齢丸が、日本も一変した『今日で唯困るのは、大概海底を潜航して来て、突如、桟橋の側へ と説得し、むりに乗せて連れ帰ることになったというしだい。 ポッカリ浮上るのだからなア』 なお、この時代の船は貨物船ばかり。なぜなら、旅行者はすべ『僕は今に掲示板へ海底潜行の距離と時間とを電機仕掛で刻々掲示 て飛行機か飛行船を利用するからである。 される様に成ると思ふ』 『なアに、展望鏡で海底から陸上及び水面を見得る如く、今に特殊 この要約は、原作者の御子息である星新一氏にお願いし ました。なお挿画 ( 原画者不詳 ) も原著のものを複刻しの反射鏡で海底航行の状態が、手に取る如く写される様に成るの ました。 ( 編集部 ) は、決して遠い事では有るまいと思ふよ』 この みだし ひさしぶり
て来たのだが : : : 此様子では長命者が多いだらうなア』 ざわざ探して参ったのです』 『先生の知った方は未だ沢山御存命です』 『それでは昔、自動艇が流行り出したので、江戸の名残の屋根船が 2 おもいあは 『百二十五歳まで生きると云って頑張ってゐられた大隈さんは如何慚く一二隻に成ったといふ話も思合されゑ今では自動車の時代で 出来たね』 は無いのかなア。や、併し、その位の変化は予想せんでも無かっ 『存外御短命でした。それでも百六歳まで生きてゐられました』 た。物質上の変化は有り得る事だからなア』 『ほーー然うかなアーー』 『未だ未だ先生、そんな事どころでは有りません。物質上ばかりで 此談話は早や無線電話で各新聞社へ通報されてゐる。記者が包囲は有りません、精神界にも大変化が有りますが、まア兎に角、一度 する代りに目に立たぬ小機械が簡単に据えられたばかりなのだ。 宅まで。如何か先生、自動車に御乗り下さいまし。私も久々で乗り ます。花枝なんか今日初めて乗りますので、楽しみに致して居りま ーー自動車は既に廃減ーーー精神界にも大変化ーー帰朝第す』 一に行くべき処ーー漸く探し出した運転手ーー古色蒼然 運転手も漸く探して得た位である。 , ーー大名行列と云った様にーー明治初年と大正初年との 自動車は忽ち動き出した。 時代錯誤ーー 見物は笑声やら喝采やらを浴せ掛けた。 甲の見物。 『まア先生、自動車へ御乗り下さいまし』と三浦中助は翁の手を引 『好い趣向ですなア。珍客を自動車に乗らしたのは、其古色蒼然た いて桟橋へ降りつつ云った。 すた る処が調和して居るですよ』 『自動車 ? こればかりは廃りが無いと見えて、三十年前と同じだ 乙の見物 ) ね。相変らず人を轢殺したり、電柱に衝突したりして居るだらうな かみしも ア。併し車台の数は夥多しい事だらうね』と翁は問ふた。余程これ『裃を着せて、御駕に乗して、大名行列と云った様な風にすれば、 猶好かッたでせう』 は遅れて居ないつもりで云ったのである。 既う明治初年と大正初年との時代錯誤を生じてゐる。 『や、自動車は只今では僅かに五六台しか東京には御在ません』 『えツ、五六台 ? 』 ーー警官を要せすーーー群集自ら秩序を保つ・ - ーーー築港後の 『其中から漸く一台探し出して来ました。唯今では大概外出には飛 ひつよ ) 新市街・ーー空中道路が開けてーー自動歩行機ーーー市の保 行機を用ひますので、自動車の必用がズッと減じました』 護街に編入された銀座通ーーー飛行機の昇降場ーーーお客様 『ふむーーー』と翁は唸り出した。 は屋上から 『急に空中を御連れ申してもイケないと存じましたし、それに飛行 機だと途中の市街の変化なんか御覧に成れませんと思ひまして、わ『君 ! 君 ! 大層な人出だね。町の両側は一杯だね』と嶋浦翁は
『すると手で字を書く時代は過去と成って、頭脳で字を書くのが此する政事家なども有って、大分注目され掛ってゐた。や、好し / 、、 頃なんだね』 私も老後の事業として、小説家に成って見ても好いよ。はゝゝゝ』 『まア然うで御在ます。ですから文士なんかも大変楽に成りまし翁は服薬後、大分御機嫌である。 て、原稿を一々書いて清書をして、それに一々ルビを振って、それ を活版へ廻して、校正を再校三校位まで取って、初めて手の離れた 屋上の昇降台ーー少年運転千ーー月世界近くまでー 時代とは大違ひです。斯ういふ思想で、斯うした文章でと考へて、 ー知らぬ星の世界へーーー理論に於て太陽までーーー新動力 あが それを念写すれば直ぐ何万部でも出来るので、製本さへ他にさせれ とは何かーーー一一箇の鉱物ーー余り騰り過ぎたそ ば、それで好いのです。読者は皆著者の肉筆同然の念写版で小説を 読み得られるのですから、親しみも一層深いのです』 此日三浦中助に代って、嫡子小一郎、同夫人淑子、それから令孫 『ちやア従って文士の収入も大きからうね』 花枝嬢とで飛行機に嶋浦翁を乗らしめ、東京見物といふ事に成っ 『処が、これも矢張減亡ですな。今居る文士はどうも昔と貧乏さ加 減が違はない様です』 『危なくは無いかね。いくら惜しく無い命だからッて、飛行機から 『何故々々』 落ちて死ぬのは御免蒙りたい。大正初年には墜落又墜落で、空中の 『でも、例の薬のカで、天才は到る処に出来まして、盛んに銘々書犠牲者をどの位出したか知れないもんだよ』と翁も流石にブル / 、 きますから昔の様に、紅葉、露伴、或は漱石、外、又は坪内先生である。 と云った様な大家は出ません』 『先生、大丈夫です。あの時代とは動力が違ひます。それに皆操縦 『成程、誰の思想も大概同じ様に成っては、、 4 説を書いても一向珍に熟達して居りますから、我々でも蜻蛉返りや、木の葉落し、コロ らしく有るまい』 ップ抜き、何んでも遣ります。早速試みて見ませうか』と令息小一 『其所に行くと先生の三十年間原形の儘で保存された思想は貴いで郎は云った。 す。前世界の動物「ンモースや、イグアナドンなんかの遺骨を発見『イカン , ・イ \ そんな事をされては私が困る』と翁は慓毛を顫った。 したよりも、三十年前の思想其儘で、小説を書いた方が、どの位世屋上の昇降台には、チャンと飛行機が来て待ってゐる。運転手は 間で歓迎せられるか知れませんな』 少年だ。 『然うだなア。小説なんてズット昔は戯作と称して侮辱したもの 『こんな小僧に飛行機が操縦出来るかね』といよ / v-- 翁は恐怖した。 で、明治時代でも文士と云へば世間知らずの怠け者が、自分のノロ 『少年にも老人にも誰にだッて出来ますのですが、妾達は先生に種 ケを書くに極ってゐて、士君子は多く顧みなかった者だが、それで種御説明申上げる必用が有りますので、それで今日は運転手を附け も大正初年に人って、外国でも経世の意見を小説の体を借りて発表ましたのです』と若夫人淑子が微笑を含みながら云った。 ー 34
1968 , VOL.9, NO. 1 1 ギャラクシイ・サイエンス・フィ汐ション誌特約、、 OCTOBER, S F マガジン 10 月号。 ( 第 9 巻第 1 1 号 ) \ 220 昭和 43 年 10 月 1 日印刷発行発行所東京都 千代田区神田多町 2 の 2 郵 1 0 1 早川書房 TEL 東京 ( 254 ) 1551 ~ 8 発行者早川清 編集者福島正実印刷所日東紙工株式会社 U) u- クラシック・コーナー 解説・要約扉新一 一六〇枚 三〇年後 大正三七年、孤島の隠棲から三〇年ぶりに帰った老政治家の目に映る躍進日本の姿 / 新連載科学コラム第ニ回 スキャナー tn でてくたあ トータル・スコープ 実験室【引】、解剖学のすすめその 2 驚天動地 ミクセル夫人の不思議な予知夢 国道三四号線上の恐怖 ン一アスト月間ベスト作ロ セネ一フル・ u- ショー・ショ 人気力ウンター さい、んんす・とびつくす・ 映画ストーリイコンテスト募集規定 世界みすてり・とびつく 字宙船のプリッジから見た相対性論 てればーと・ 石原藤夫 0 伊藤典夫 石川喬司 大伴日司ⅱ 野田宏一郎 6
『だと、どんな事に成ったのかな』 んな事は御在ませんでしたが、大正初年頃流行しました自由結婚の 『一時結婚は減茶々々に成りましたの』 弊害を皆認めましたので、個人と個人との結婚は禁止されました』 『えッ減茶々々 ? 』 『すると矢張大昔に還って、親と親との許嫁に依るより他に無いで 『日本だけは、その悪い影響を受けませんで、秩序は保たれましたせう』 が、世界大戦乱の結果として、どの国にも男子が非常に欠乏しまし『あら、そんな旧式も用ひられません』 た為に、戦争が終結しましてから、結婚が減茶々々に成りまして一 『だと、如何するのです』 夫多妻が公認されましたり、側面結婚とか云ふのが許可されたり、 『結婚会議を開いて、議員が極める様に成ってゐますわ』 それは既うお話の出来ない事ばかり有りました。幸ひに日本は、そ『えッ議員で極めるツ ! 』 『はア村会と町会とかで極めまして、又其上に郡会 とか市会とか県会とかそれん \ 通過した上に、帝国 結婚議会へ持出して、それから定められますのです』 『どうも大変な手数だなア』 『だッて現代ではどんな複雑にでも耐えられる様 - / に、それみ、機関が定まってゐますから : : : 』 『然うすると随分、花嫁花婿の選挙に就て、猛烈な 一運動も起るでせうなア』 『然うらしう御在ますわ』 九十一歳の嶋浦太郎が、十七歳の花枝嬢を娶るべ 一 , 一く結婚議会へ請願した処で満場一致で否決されるの は分り切ってゐる。翁は悲観せずにはゐられまい 嗚呼、此目的を達しうる事が出来ない位なら、一 層の事死んで了った方が好いかも知れぬ。浅間の噴 けごんのたき 火吼へ行かうか、日光の華厳瀑へ行かうか。 いや / 斯うして今富士の山を越さうとするのを 幸ひ、飛行機から其絶頂へ飛下りて、剣ケ峯へ落ち て死ぬのも奇抜といふもの。
った。 象の一掃はいつの世でもむずかしいものとみえる だが、期うして自分も若返って来た。 ーー其御面相に敬意ーー恐ろしい夜の宴で有ったーー・未 未だ百四五十歳まで生きるとすれば、何時までも当家の世話にも だ百四五十戚まで生きるとすればーー・家庭を造らずには 成って居られない。 居られないーーー九十一より十七を引去るとーー外国の例 又無人島を探して其所へ行くといふ気は既に失せた。 ーー其所が問題だーー 他に一家を持っとなれば、自分一人では如何にも不自由な訳で、 それから翁は寝室に入って、曽ては悲観の余り無茶苦茶に投出し其所に美しき家庭を造らずには居られない様な気がせぬでも無い それには : た事のあるべッドの上に身を横へたが、今夜は如何いふものか眠れ 武内女史では真平である。 然うすると又しても種々の事を考へ出して来るが、今夜のは先夜猫吉も御免蒙りたい。 あの婦人会頭 ? いやな事だ。 のと違って少しも悲観に傾かぬ。 あの女学校長 ? 感心しないね。 前の時には、の中で、秋の霜が凍てる様な感じがしたが、今は 心の底に、春の花が咲初めた様に覚えられて、何とも云へぬ楽しさ女優、駄目。閨秀画家、作家、劇作家、婦人記者、問題に成らぬ。 もし、出来得るならば : やら温かさやらが、妙に混合して発生する。 ・ : 花枝嬢は何歳であらう ? 何んにしても今夜の宴会は面白かった。婦人ばかり集まったので 恐らく十六 ? 十七 ? 有ったが、それが悉く自分に恋してゐた人で有ったとは、不思議な 私は九十一歳 ! 九十一より十七を引去ると、それは七十四 けれども、いづれもそれが九十前後の年齢に達してゐる。然うし いや / \ 、然う勘定するからイケないので、九十一より、少くも て服薬の為に未だ四十代五十代位にしか見えて居らぬとしても、無 事に独身生活が続けられた位だから、その御面相の如何に敬意を表五十を引去った後の四十一歳の自分の歳として、それから十七歳を するに足るか、想像にさへ余りあるのだ。况んや実物を見るに於て引いて見ると、二十四・ : 二十四位の夫婦の年齢の差は、そんなに驚く程の事では無い様に をやだ。 あれで大勢一時に会ったから未だあれだけで放免されたのであらも思ふ。 昔の昔のお半長右衛門といふ例があるが、それは開国前の事で、 う。若し一人々々と語るのであったら、或は結婚を申込まれたかも 外国の例を余り知らなかった頃の問題である。 知れぬ。 考へて見れば恐ろしい夜の宴でもあったと、今更に翁は怯気を顫大正初年頃、能く外国の名士の結婚などが新聞に出てゐたが、七 三四 ー 45
人で出掛けるですか』 『おほゝゝゝゝ、新婚旅行ですか : ・ : ・』 『然うです』 『然うする方も有る様です』 『花枝さんなんかも、今に飛行機で、新婚旅行をするのでせう』 びんらん 『如何ですか : : : 』 ーー・富士の秀峯ーー娘気質ーーー結婚の紊乱時代ーー一夫 『いや、他人の事では無い、貴嬢の事ですよ』 一一一八多妻ーー側面結婚ーー結婚議会ーー花嫁花婿の選挙運動 『でも、それは、今から分りませんわ』 ーー九十一と十 , 一 J- ーー満場一致の否決ーーー剣ケ峯へ 『けれども、既に花枝さんには、意中の人が有るんでせう』 そばだ 『そんな者は有りませんわ』 前面に巍然として聳っ富士の秀峯、単に山としてのみ見るを許さ 『無いとしても、併し、どんな良人を持たうかといふ、それに就ない。神霊の仮の御姿と拝したくなる程の壮厳を感ずる場合に於 て、大概貴嬢の理想が有るでせうが』 て、嶋浦翁はそれ処で無い。花枝嬢に結婚を申込むキッカケを捕へ 『理想なんて有りませんわ』 んとして夢中である。 『や、それは隠してはイカン。私には何も彼も打明けて話さなけれ『や、どうも若い人は結婚を耻かしがるからイケない。古い川柳に ばイケない』 母親が娘に縁談を語って、其諾否を問うた処を、斯う詠んでゐる。 かたぎ 『でも未だ妾、そんな事を考へる程の年齢には達しませんわ』 問はれても返辞の無いが返辞なり。でね。昔は娘気質といふが有っ 『年齢、恋には年齢は無い いや理想の良人が未だ固まってゐて、顔を真赤にして、下を向いて畳への之字を指で書いてゐる。そ ないのならば、参考の為に私は話して上げるが、如何なる良人を持んな極内輪の娘が多かったのだが、大正三十七年、飛行機で散飛に つのが一生の幸福で有るかといふに、年齢なんかを問題にしてはイ富士の山越をする時代であるから、少しも貴嬢羞かしがる事は無 ケない。四十の差があらうと、五十の差があらうと、六十、七十の 、思切って研究し且っ談論した方が好いですよ』と翁を説き立て 差があらうと、其良人たるべき人が、世界的の紳士で有って、多数た。『先生、それは違ひますわ』と花枝嬢、始めて口を切った。 の人から尊敬を払はれて、然うして又婦人に対して飽くまで親切で『えッ何が違ふ ? 』 有って、親が子を可愛がると同じ様に、祖父が孫を可愛がると同じ『結婚問題は、個人々々と約束するなんて、そんな事は無く成って 様に、曽祖父が曽孫を可愛がると同じ様に、妻を可愛がる人でなけ了ひましたね』 いひなづけ れば成らないと思ふ、それに : 『だと、親と親とが許嫁といふ風に : : : 』 『究生、そんなに此方へお寄りなさいますと、飛行機から落ちます『そんな事は猶更無く成りましたわ』 わ』 『わッ』 『大月を通過しまして、これから吉田の方へ回りませう。最も富士 は直きです』 ごく はす 6
は、みごとな桜並木。広重やその他の錦絵を参考に復元したの だと聞いて、翁は大いに感心する。 だが、高輪の泉岳寺へ足をのばすと、四十七士の銅像なるもの ーーー十代目団十郎ーーーそれが出来ましたーーー決して下手 ができていて、この俗悪さには顔をしかめる。 にあらずーー九代目の曾孫かーー否然らずーーー余程服薬 してーー其上注射も一一本三本であるまいーー皮肉ーーー向 ともまち ーーー国技館一一一倍大の建築ーー空中の供待ーーー館内は広い 島へ ほととぎす 杜鵰も鳴 一広い野原ーー春だか秋だか。ーー鶯も鳴く、、ーー く。ーー記念館設立委員ーー・館中館あり 歌舞伎も活動写実によって、いつでもどこでも見物できるよう になっている。人体への写真焼付けにより、また芸を高める薬 見物に一日を費した嶋浦翁は、大分現在の東京が分って来た。 品により、何代目の団十郎でも、自由に再現できるのである。 東京が理解されて来れば、日本の事も大体に於て分った訳であ 翁はいささかあじけない気分になる。 一同は、こんどは向島見物をすることになった。飛行機はやめる。けれども手放しで未だ外出はさせられぬと、三浦中助一家は当 分お守役である。 て、自動歩行機で出かけるのだ。 往訪、来訪、其翌日からして盛んに行はれ出した。 自分だけ長命と思ってゐたのが、それ以上の長命者の多いのに驚 ーー自動歩行機を初めてーーー吾妻橋ーー今は一一一十亠ハ橋ー き、且っ其人々の若いのにも驚かれるのがノベツだ。 一一〇ー千噸以上の汽船溯・ー、意外ーー向島の復旧ーー昔の す 日程は進んでいよ / \ 嶋浦記念館に、三万人のお客様を為る当日 花見の仮装行列ーー四十七士の銅像ーー と成った。 自動歩行機とは一種のスケート靴で有って、オート。ヒード以上の午後五時よりと案内状が出してあるので、其前に翁は三浦一家の 物だ。それを穿くと人体の重量が機械に伝はって、発電して、自然人々と飛行機で乗込んで見た。 に走り出すので、方向は体で調子を取れば思ふ通りに成る。但し速場所は芝浦旧埋立地で、以前にオリンビック競技場の有った処 へ、鉄骨洋傘形の大建築。焼失前の国技館を十倍にした位。 力は、わざと遅くしてある。急用の場合には飛行機があるのだか 人口に緑門や万国旗なんど、そんな装飾は一ツも施して無い。又 ら、歩行機で一時間何百哩と走るには及ばないのである。 隅田川は大運河になっている。千トン以上の船を航行させるた楽隊なども演奏して居ない。 7 め、開閉式の橋にした時期もあったそうだが、い まは普通の橋 大正初期の頃のような、ぎようぎようしさはないのである。受 付けもない。むかしとちがい、出席と返事した人は必ず来る になっている。船のほうが潜航式になったからだ。向島の土手 のである。翁は舞台上で、自分の帰国光景がそのまま再現され るのを見て、いささかびつくり。 十九