クモに似た乗物は、二つの世界の間の携帯用の出入口になる円盤場合同様、水銀の溜まりを残して消え去ることにもなりかねないと 一枚を載せていた。残りの部分はすべてがその出入口の輸送台にす気がついた。 ぎず、したがってそれは押すなり引くなり、自由にすることができ彼は走るのを止め、速歩に切り換えた。汗が皮膚の上にふき出し た。眼鏡の男にはサム同様、両方の世界が見えた。そしてその可能ていた。彼は振り返って、覗き穴を眼に当ててみた。〈向こう側の 性の円盤状の自在戸をつかいさえすれば、彼は円い鉢にとじこめら世界〉では田舎屋敷のひろびろとした芝生の上で、クモに似たもの れた金魚を網ですくうように、地球上のどんなものでもっかまえるがすばやく方向を転じ、彼の追跡にかかろうとしているところだっ ことができた。物だろうと人だろうと〈こちら側の世界〉から〈向た。 こう側の世界〉へ、永久に持ち去ることが可能だった。それを防ぐ悪夢でも見ているようだった。それ以上に恐ろしかった。彼は完 手段は、サムにはまったくなかった。 全にうろたえていた。けれども、もし見つかればの話だが、一つだ 彼はばっと電話室のドアをあけると、おもてに向かっていっさんけ確実な逃げ場があった。 に駈けだした。逃げる道は一つしかなかったがーーそれはアスファ 二十ャードばかり行ったところで、彼は勇気を出して、もういち ルトで舗装されたブルックリンの広い通りで、トラックや車が往きど振り返ってみた。その行為はいかにも異常で、もし説明をもとめ かい、埃をかぶった商店のウインドーと消火栓のならぶ祝福されたられたら、まったく致命的なことになりかねない。だが、相手の装 日常の眺めがそこにはあった。彼はしかし、向こうの世界で眼鏡の置のほうは田舎屋敷の芝生で大きな植込みのわきをまわらねばなら 男が占める空間に向かって真っすぐ突っ込んでいかなければならな なかった。彼は足をはやめた。気ばかりせいて、なかなか思うよう いのだった。おそらくはその男と、男の持っ装置の実質そのものをに進めなかった。 突き抜けていくほかなさそうだった。思わずはっと息を呑んたが、 ようやく彼は地下鉄の入口にたどりついた。いそいで階段を下り それでも彼は遮一一無二突進していった。 ようとしたとき、逆に上がってくるものがあって、二人は正面から 彼は戸口に達した。その瞬間、彼は背後に燃えるような光があふ衝突した。彼の帽子がふっとんだ。が、彼は拾おうとしなかった。 れるのを見たような気がした。〈向こう側の世界〉の円盤が戸口にそのまま階段を駈け下りていったが、無意識のうちに彼はぐいと頭 なり、〈向こう側の世界〉の空に輝く日の光が一瞬、ロビーに射しをねじ向けてふりかえった。 込みでもしたかのように思われた。 彼は帽子が妖しい光彩につつまれて消えるのを見た。そのきらら 彼ははじめのうちは走っていた。だが道ゆく人々の視線を浴びかな光はひと溜まりの水銀のようだった。 て、このまま走りつづけたら、やがてむりにも止まらされ、 地下鉄でニューヨークに引き返す途中、サムは全身汗にまみれな だされるにちがいなく、そこでまったくあり得そうもない話を喘ぎがら、はげしい寒気をおぼえ、わなわな震えていた。 喘ぎしているあいだに、彼をとらえた相手の眼の前で、ナンシイの
き、ルークどもは幾手かに分かれての捜査に切り換えるだろう。両 〈向こう側の世界〉は月の光に照らされていた。木の間を洩れるそ岸を上流と下流に向かってジャングルの中を、ディックの出ていっ の光は、単なる月の光とは思えない、妙にぎらぎらした、まぶしい た場所をもとめて、徹底的に捜査をすすめるだろう。 輝きをもっていた。けれどもディックが林間の空地の一つにさしか ただ一つ、まずいことが起るとすれば、もちろんそれは彼の臭い かって空をふり仰ぐと、月はやはり、地球をめぐるあの天体とそっが赤ひげの荷車の中に嗅ぎつけられることだ。そのときはまず赤ひ くりのものにみえた。星もまた、おなじようだった。天には大きくげが死に、ディックもやがてそのあとを追うことになるのである。 銀河がかかり、明るさも大きさもひときわ目に立っ惑星らしい天体 だがディックは夜のしじまに、ルークどもの叫び声を聞いた。磁 がいくつか見えていた。〈向こう側の世界〉がその配置の点でこう 石の示す方向は、げんに彼の追跡にかかっているケダモノたちにと まで地球にそっくりでありながら、しかもなお同じではないというっては誤っていた。彼らはナンシイがこの世界にはいってきた地点 のは信じがたいことだった。 のほうへ進んでいってしまっていた。ディックは彼らが離ればなれ 夜の物音は、人間の世界のそれとはまったく似ても似つかないもになって、たがいに呼びかわす声を聞いた。相手の戦法はすでに推 のだった。ジャングルの暗い闇の中に起る叫び声は、ちかくで鳴る測していたが、今その声を聞いて、彼は推測が当っていたことを確 けたたましいベルの音のようなのから、遠くで鳴る一点の鐘の限り認した。彼は各追跡者らの一行の進路と道路のあいだの地点を指し ない悲しみをたたえた深い音のようなのまで、いろいろあった。 て道を急いだ。この世界は奴隷と主人からなる社会だから、迅速な ディックはしかし、いくらも行かないうちに、聞き覚えのある声通信の組織が存在することは考えられない。人間はむち打たれなが らでは、熟練を要する仕事はしないものだ。奴隷の電信技手などあ を耳にした。ケダモノたちの叫び声だ。それはしかし、意味のない 単なる畜生の吠え声というのとはちがった。ルークどもの呼びかわるわけもなく、奴隷の電話連絡部隊など想像のしようもなかろう。 す声だということが、なんとなく彼にはわかった。この〈向こう側人間が動物として分類されているとき、彼らから引き出し得るもの の世界〉について彼はすでにかなりの知識を得ていたので、何が起は、動物なみの労働だけである。 ろうとしているかは推測することができた。 そこでディックはためらう色なく、闇を縫って進んでいった。ぐ 赤ひげが報告をすれば たとえこの、ディックの出あった最初るりではさまざまな音が混じり合い 一種異様な、くぐもった感じ の男がなにもかもべらべら喋ってしまわなかったとしてもーー。ーさつのざわめきとなって聞えていた。鐘の音のひびくような音のなか そく彼らはディックをもとめて仮借ない狩りを開始するたろう。そに、間をおいて何か大鼓でも叩くような音がして耳を驚かせ、さら の場合、夜間捜査は、当然、ルークどもの手に任されることにな にはまた、徒労におわった狩りの結果を報告するルークどもの吠え る。ルークどもは流れに踏み入ったディックの通り跡を嗅ぎつける声がときどき遠くから聞えてきた。・ ティックは例の流れのほとりに 7 にちがいない。そして流れの向こう側に足が認められなかったとたどりつき、水の中を歩いて渡った。すこし先へ行ったところで、
・こつ、 - っ 運転手ははっと息を呑んで、言った。 ナンシイは断固たる調子で言った。「〈向こう側の世界〉へ行った「あ、あっしは、何も見ちゃいねえ。何一つ見やしなかった ! 」 って安全よ、サム。ルークたちがわたしのために戦ってくれますも だが、サムは運転手が見てしまったことを知っていた。そしてニ の。それに、あっちにはディックもいることだし ! 」 ューヨ 1 クのタクシーの中で拳銃の受渡しがなされるとすれば、意 「向こうの動静を窺えるように覗き穴装置をわたしておいてもいし 味するところは一つである。強盗を計画しているのでもないかぎ んだがね」サムは残念そうに言った。「だがそうすると、ぼくのほ り、タクシーの中なんそで拳銃を交換したり調べたりするものでは うでそいつが必要になったとき困っちまうんでね。もしこっちの世よ、。 オしサムにはしかし、どうしようもなかった。彼は肩をすくめる 界から〈向こう側の世界〉が覗けるとすれば、〈向こう側の世界〉と、運転手のほうへ二十ドル紙幣をさしだした。運転手が何をしょ からもこっちを覗けるはずだ。そして、そうしなけりゃならん場合 うと、しなかろうと、檻罠の出入口がもとにあった場所にそのまま はかならず生じると思うんだよ ! 」 であり、ケダモノどもがケリイと彼自身に従順でありさえすれば、 「それはもちろん、そうでしようよ ! , ナンシイは気楽そうにこた警察のことは問題じゃないのだ。水銀の溜まりと化して消えてしま えた。「でもディックは、何に出くわすかわからなかったのに、わえば、あとはどうでも、 しいことだ。 たしを追って出かけて行ったんでしよう。だったら、いろいろとわ 三人が下りると、車はフラッグを下げたまま、やにわに走りだし かってるわたしがかれを追って出かけるのは当然というものよー た。そしてすぐ、角のところで、きいっとプレーキの軋る音がし わたしは行きます ! 」 た。その四つ辻には、交通巡査がいた。サムは車が巡査の数インチ ケリイが無表情な顔で言った。 手前で止まるのを、そして運転手が昻奮した様子で何か喋りはじめ 「いいかね、あんた。たとえおれがその香水をつけてたとしても、 るのを見た。巡査はぐいと首をめぐらした。せわしく腰のあたりを 連中はおれより娘さんのほうを大事にするんだ。連中が娘さんのた手でさぐり、巡査は三人のほうに向かって歩きはじめた。 めに戦うというのは、そのとおりだよ。あんた、このひとに銃を手サムは覗き穴を眼にあてた。あった。檻罠は、出入口を開いて、 に入れてやったらどうだね ? そうしたら役に立ってもらえるぜ。 たしかにそこにあった。六匹のケダモノが ルークど、もがーーーーそ おれは向こうへ戻っていくからには、役に立つ人間はだれでも連れれを取り囲んで地面に蹲り、待っていた。サムは出入口がどこにあ ていきたいね ! 」 り、どんなからくりになっているかを正確に見てとった。 サムは拳銃と弾丸をごそごそ取り出して、ケリイに見せた。自分 巡査はけたたましく笛を鳴らした。市内を横断中のラジオ・カー が歩く兵器庫であることを証明したのだ。車がとっぜん、わきへ寄の一台がそこへ鋭く曲り込んできた。そしてあらゆる交通規則を無 って、止まった。運転手は振り向き、ちょうど武器がわたされてい視して、まっしぐらにサムのほうへ向かってくる。タクシーは交叉 るところだったのを見てしまった。サムにじろっと見返されると、点のどまん中に止まったままで、運転手が頭を振り向かせて、むさ 2 7
彼は文字通り、血の色を失った。そしてふたたび通りにおりてい き、タクシーに乗って六・フロック先きのナンシイの家に向かった。 窓の一つに、日の光が流れ込んでいた。その光が垢抜けしたテー 彼は注意深くその家にちかづきながら、途中五、六度、眼のごみでブルに強く当たり、つもった埃を目立たせていた。そのテー・フルの くしやくしゃの髪をして、あごひげを生や もとるような振りをして、ハンカチにくるんだ開き穴装置を使用し前に、櫛を入れてない、 した男が坐っていた。男の羽織っている刺し子に縫った化粧着。あ 〈向こう側の世界〉で、ナンシイのアパート の建物に対応する部分きらかにナンシイのものだった。男は食事中だったが、野蛮にも手 にはケダモノの姿もなければ檻もなく、〈向こう側の世界〉の住民づかみで食っていた。ナンシイの姿はどこにもなかった。男は顔を のいる気配もなかった。彼女の部屋そのものに対応する空間も、木あげた。サムは一方の壁を背にして言った。「これはまた、どうい が枝を張っているだけだった。だが彼女がこっちの世界に戻るときうことだ ? 通ったという場所には、〈向こう側の世界〉のケダモノどもが待機彼の指はいつでも撃てるように、引き金にかけられていた。男は していた。しかも彼女は男を一人、連れて帰ったと言っているのサムを見て、目をまるくした。そして発作的にはげしく息を吸う と、ロを開いた。「あんた、サム・トッドか」 疑ってかかるのは彼としては当然だったかも知れないが、やはり「そうだ」サムは言った。「が、きみは何者だ ? 」 ちょっと気分が悪かった。彼はナンシイが好きたった。前に。フルツ 「名前はケリイだ」髪の長い男はしやがれ声で言った。「奴隷だっ クリンへ行ったときは、彼は疑うことを知らなかったので、あやう たんだ , - ーー向こうでは。あの娘さんがここへ連れて帰ってくれたの くとらえられそうになった。ここで考えられることは二つだけ、あさ。娘さんは , ーー身体でも洗ってるんだろう、きっと。身体がきた った。すべてはまったく信用していいことで、思いもよらない重大なくて、気持が悪いと言っていたからねー な機会がおとずれたということかーーでなければ、ナンシイが四日 ナンシイの声が呼んだ。「サム ? 」 間、〈向こう側の世界〉にいるあいだに、五千年にわたる邪悪な歴「ああ ! 」サムは答えた。どうやら、罠ではないらしい 史が開発した、なんらかの装置もしくは策謀の犠牲になって、きわ「ちょっと待っていてね、今いくから ! 」彼女は大きな声で言っ めて厳密な文字どおりの意味で奴隷化されてしまったということか た。「ケリイに話してもらって , のどちらかだった。 「よし。さきをつづけてくれ」サムは男に向かって言った。だが背 サムは大きく深呼吸した。彼はなにごともないことを心からねが は壁に向けたままだった。 った。だがアパート の建物にはいっていくとき、彼は両手にしつか「おれは奴隷だった」化粧着を羽織った男は言った。「おれは りと拳銃を握っていた。万一必要とあれば、ナンシイを不本意なが ほら、これを見てくれ ! 」男は立ち上がって、するりと化粧着を脱 7 らも、親切の行為として殺す用意をしていたのだった。 いだ。彼は下帯のほか、何も身にまとっていなかった、背中には、 ミ」 0
たがいに、重なり合って十字形になった、見るも恐ろしい紫色の傷な、つかまるとすぐ、着ているものを剥がされる。男女の見境いな 痕が無数にあった。「むちで打たれたんだ」男は簡単に言 0 てのけしにだ。それが奴隷のしるしの一つなんでね。監督はシャツに似た た。「監督はおれに向かって、貴様みたいな強情で仕込みにくい奴ものを着ている。シャツの長いみたいなやっさ。ところが、彼女は ニューヨーク風の服装をしていた。つまり彼女は奴隷でもなけれ は今にきっとルークに食われちまうそと言った。だが、そういうこ マスター とにはならなかった。おれが薪を切っていると、そのルークの一匹ば、領主でもないというわけだった」 マスター がやってきて、おれの監視人に領主の一人がおれを呼んでいると告「領主ーという言葉は一つの階級の人間たちの男女両方を指して用 げたんだ。そこでおれはそのルークといっしょに行った」 いられているのは明らかだったが、それに関してケリイは・ほんやり 「そのルークとは何だ ? 」サムが注意深く訊いた。男は化粧着を羽した概念しか持っていないようだった。 織り直し、襟もとを掻き合わせると、ふたたび坐った。 「おれがそこに着くと、彼女はおれに、こう言うんだ、『わたし 「悪魔みたいな動物さ ! 」ケリイはけわしい声になって言った。 ここへ、きたことはきたけど、ここがどこだかわからないのーーー気 「警察犬にそっくりでね、ただし大きさは二倍からある。人間とおが違ってしまったんじゃないかしら ? それに、この動物たち、わ なじように分別を持っていて、やつら同志で喋ることができるんたしがものを言うと、わかるらしいのよ。いったい、どういうこと ど。だもんで、おれたち奴隷はやつらの命令がわかるように、吠えになってるのかーー・あんた、話してくれない ? 』とね」 声の言葉をお・ほえなけりゃならなかった」 いかにもナンシイの言いそうなことで、これは信用するに足りる サムは待った。ひどい孤独感に襲われた。〈向こう側の世界〉とようだった。 「どういうことになっていたんだ ? 」サムは訊いた。拳銃の台尻を 戦かう人間は自分一人しか残っていないような気分になっていたの で、彼はこの男の話を信じたかった。だが完全には信じられなかっ握る両手には、今はそれほど強い力はこめられていなかった。 た。まだ、むりだった。 「彼女は気がつくと、檻罠の中にいたそうだ」ケリイは言った。 「ルークはおれを、あのーー・・・娘さんのところへ連れていった」男は「おれの場合とおなじだよ。連中は奴隷がほしくなると、あっちこ さっきナンシイの声がしたほうを頤でしやくった。「行ってみると、 っちに一つずつ罠を仕掛けるんだ。いちどに一人しか人間が通らな 彼女がいたんだ。顔はまっ青だったが、しゃんと立ってルークども いようなところに。さもない場合は、人がまわりにあまりいないと に話しかけているから驚いた。しかもル 1 クどもが彼女を見上げてきを見計らって、仕掛けるんだ。罠の空所にはまり込むと、頭の上 しっぽを振り、彼女に睨まれると地面に這いつくばるんだから、まから何かが落っこってくる。するともう、そこはーーー向こう側だ。 すます驚いたね。おれはそれまでルークがしっぽを振るの見たこと罠はかならず、ルークの一匹が見張っている。かたときも離れずに がなかった。おまけに、彼女は服を着ていた」男はふたたび、食い・だ。ちょっとでもおかしな振舞いをさせまいとするわけさ。おれが はじめたが、サムの顔付きを見て、説明をつづけた。「奴隷はみんつかまったときも、身体をうごかすたびに、ル 1 クのやつが唸りや
ディックはきっと目を向けた。月光を浴びた幅広い川のまん中 ながい沈黙があって、一人の声がロごもりながら言った。 「われわれはそんな女の子なんそ乗せて川を渡ったことはない。ルを、上流からポートが一隻、下だってくる。対岸の海軍造船所があ ークどもと監督たちのほかは、だれも川を渡しちゃいない」 るあたりの村に向かっているようだ。ポートは大きさを確認するこ 「すると、彼女はマン ( ッタン島にいるわけだな」ディックは歯をとは不可能だったが、ウ = ルフ = ア島の真向かいのマンハッタン島 軋らせて言った。「そっちに奴隷小屋は、あといくつぐらいあるんのどこかからきたとしか考えられなかった。そのもう一つの奴隷小 屋からやってきたものにちがいない。今、ナンシイをその村へはこ だ ? 」 んでいくところなのではないか。すくなくとも乗組員たちは彼女の 別の声が重苦しい口調で答えた。 「向こうの温室部落のそばに一つ、ある。上流のほうだ。・フラック身に何が起ったかは知っていると思われる。 ディックを舵柄を大きくまわした。 スウエルの島ーー・ーいや、・フラックウエルズ島らしいところの向こう 「さあ、力いつばい漕いでくれ」と彼は命じた。 がわでね」 この名称の使用ひとつでわかったことだが、この男は地球の双子二隻のポートは両方からしだいに近づいた。相手のポートはコー こちらの連中同 スを変えようとしなかった。その漕ぎ手たちは のようなこの世界で、もうずいぶんながく奴隷をしているのだっ かたくなに感情を押し殺 た。・フラックウエルズの島はとっくの昔に、ウエルフ = ア島と改名様、鎖でつながれているにちがいなく した様子で漕ぎつづけていた。しかし今、ディックのほうの乗組員 されていたからである。 「では、さっそくそっちへ向かうとしよう、ディックは厳しい口調たちには、徐々にだが、気力のよみがえりつつある徴候が見えはじ めた。やがて、一つの声がささやいた。 で言った。 「あのポートを乗っ取ろうというんですかい ? 」 漕ぎ方はつづけられた。奴隷たちの動作はなにか虚ろで、活気が 「そうだ」ディックは答えた。「例の娘について何か情報がっかめ なかった。ディックは舵柄を目にとめて、ポートをまわした。男の ればと思ってね」 一人がおそるおそる言った。 おなじ男の声が血に餓えたように言った。 「その余分のビストルというのをわたしにくれませんか。どうして どうせ、わた も殺してやりたい監督が一人、いるんだ。わたしの娘をルークども「あんたーー・とにかく、その槍をかしてください , しは死んだも同然の人間だが、しかし、ひょっとするとーー」 に投げあたえた野郎なんでね。ピストルを貸してくれませんか」 「ピストルはこれからまだ、いくらでも手にはいる」ディックは言 ディックが黙って槍をわたすと、男はオールを漕ぐ手は休めず った。「まずーー」 に、その槍の柄をつかんだ。 舳ちかくにいる男が泣くような声で言った。 相手のポートは百ャードばかり前方に迫っていた。そのポートか 「ポートがくる : ・・ : ルークどもを乗せているそ : ・・ : 」 らディックの知らない言葉でさけぶ声があった。ディックは答えな 5
時に、無数の肉片がたがいにぶつかり合いながら四方に飛んだ。 彼が全速力で迫っていっても、ルークは二匹とも埠頭の突端のそディックが埠頭の張板の上に達したとき、この陸揚げ場につづく の位置を動こうとはせず、ただ立ち上がった姿勢で、じっと彼の方細い道の向こうからケダモノの吠え声が聞えてきた。やがて四つ足 を睨んでいるだけだった。彼が灌木の茂みを背景にしているせい の動物どもの突進してくる姿が見えはじめた。ディックはただちに で、ルークどもにはどうやら彼の姿がはっきりと見えないらしかっ催涙弾を投げ、岸辺の小径のつきるあたりに煙の雲がひろがるや、 この世界埠頭の突端に向かって駈けだした。 た。一匹が誰何でもするような叫び声を立てた。彼は の生物たちにとっては ルークの一匹でないとすれば、脱走者で下方に繋がれたポートの中で、人間の姿をしたものたちが身体を なければならないのだ。それが逃げ去るのでなく走り寄ってくるのすくませた。どんよりとして動物じみた眼にもしやもしゃの髪、そ だから、面喰らうのも無理はなかった。ルークがふたたび吠え声をして月光に照らし出された裸の身体をディックは見た。これはガレ 発したときは、彼は五十ャードちかく進んでいた。威嚇的な唸り声ー船だった。かってはアメリカの軍艦として活躍したオールのつい ド、そして彼の進路を断つべ を発したときには七十五ャー く、二匹たカッターで、これが地球上の本来あるべき場所から姿を消したと が岸に向って駈けだしたときには百ャードの距離を彼は走って、 しきはかなりの関心を呼んだにちがいないのだった。今は、十二名の た。ルークは奴隷の監視役だった。彼らは人間を軽蔑していた。二鎖につながれた男たちが腰掛け梁にオールをねかせ、その上にぐっ 匹は途中で足をとめ、ディックがなおも迫ってくるのを待ち構えたり坐りこんでいた。彼らはいっせいにディックを見上げ、そして た。二匹にとっては、彼を恐れるということはありえなかった。警身体をすくませた。埠頭の張板をわれがちに駈けわたってくる跫音 を聞くと、ディックは猛然と発砲した。ケダモノの一匹が悲鳴をあ 戒の必要を感じることさえ、ありえないのだった。 げた。肉片が飛散した。ディックはふたたび発砲した。突進してき 二匹は埠頭の突端に立ったまま、優柔不断に唸りつづけている。 ディックが現実に七十ケード以内にまで迫ったとき、ようやく、最たル 1 クどもは、そこにほとんど静止した催涙ガスの壁にぶつか り、視覚を奪われた。なかには足を踏みはずして水中にとび込んで 初の一匹が甲高い咆哮を発して躍りかかってきた。 そいつが前方二十ャ 1 ドに迫ったとき、ディックは散弾銃の引きしまうものもあった。膝までの白いロー・フをつけた男が催涙ガスの 雲の中からころげ出るようにして姿を現した。槍をたばさみ、腰に 金を引いた。そいつは文字どおり、ずたずたに引き裂かれた。ばっ ビストルを吊していたが、涙がにじんで眼が見えないらしく、しき と横にとびのいたもう一匹は、気でも狂ったように灌木の茂みにこ ろげ込んだ。ディックは瀕死のケダモノの身体をとび越えて走りつりにそれを拭いて、この場をのがれようと懸命になっていた。 ディックは猛然と催涙ガスの壁に向かって突き進み、散弾銃を弾 づけ、背後から躍りかかる第二のルークに、振り向きざま、もうい 9 4 ちどギャング用の短銃をぶっ放した。至近距離で放たれた弾は集中倉が空になるまで射って射って、射ちまくった。彼は監督の槍とビ 的なすさまじい破壊力をもって命中し、ばらまらに飛び散った。同ストルを奪って、引き返してきた。そしてポートを埠頭に繋いでい
かった。五十ャード、二十五ャードと距離が詰まった。相手船の舵「抵抗を止めろ ! オールを逆に漕いで船を後進させるんだ ! さ 手はふたたび呼びかけてきた。どこまでも針路を変えずに直進するもないと沈めるそ ! 」 ディックがわの尊大さに、よほどえらい人物の乗った船とでも思い 捕獲された船は完全に停止し、その中で鎖につながれた漕ぎ手た ちがえたか、今度はばかにヘり下だった感じの声だった。そして相ちが恐ろしさに震えていた。 手船が道をゆずろうとするのを見ると、ディックは厳しい形相で舵 もちろん、ナンシイは乗っていなかった。だれ一人、ナンシイの 柄をまわし、なおも真正面から迫っていって、衝突は必至の形勢とことは聞いてもいなかった。 なった。彼は声を殺すようにして言った。 ディックはこうなる可能性は考えないようにしていたのだが、そ 「しつかり漕げ ! 」 うはいっても無理だった。マンハッタン島には、奴隷小屋は二つあ 相手船の舵手は動揺しながらも、はげしい口調で命令を発した。 ったが、ナンシイはそのどちらにも連れていかれてはいなかった。 けだもののロを洩れる騒々しい声が聞えてきた。それは吠え声でもまた、・フルックリン海岸の支配種族の宮殿へも、現在捕獲されてい 唸り声でもなく、その中間の、何か意味をもった話し声のようだ「る二隻のカッタ 1 でははこばれていなかった。残る可能性の中、 た。相手船のル , ・クどもはこちらにも仲間のケダモノが乗っているちばん考えられるのは、負傷して動けずにいるところをルークども ものと思い込み、それに向かって呼びかけてきているのだった。 に貪り食われてしまったのではないかということで、ディックはそ やがて恐慌にとりつかれた相手の舵手はきっと船首をまわしてかれを思っただけでかっと頭に血がのぼり、人間らしいものの考え方 らくも正面衝突を避けた。ディックはとっさに進路をそらせ、相手ができなくなってしまうのだった。 船の船尾ちかくに、どしんとばかり船を横づけにした。ロー・フを着この〈向こう側の世界〉の奴隷たちが彼女の消息をなにも知らな た男が舵柄にとりつき、ルークが二匹、危うく姿勢を立て直して跳し冫 、のま事実だった。それをはっきりと知る道はただ一つ 躍のかまえにはいるのをディックは見た。だがそのルークどもの、 二つだけしかない。監督の一人を生け捕りにできれば、そいつを問 ディックや乗組員をみつめる目には、不安の色があった。 い詰めることにより、ナンシイの運命を知ることができるかもしれ ない。しかしそれも、そいつが知っていればの話であって、もしだ ディックは彼自身の船の後部が相手船の舷側をぎりつとこすった その瞬間、二発、つづけざまに直射を浴びせた。けたたましい悲鳴めなら、あとはもう宮殿そのものに忍び入るしかないのだが と唸り声が同時に起った。男の一人が。ヒストルのホルスターをつか今はしかし、彼には命令どおりに動かすことのできる二十四名の んで立ち上がる。負傷したルークがすでにディックの船の中部甲板男たちがあった。この男たちの運命は、もちろん決まっていた。監 に乗り移ってきていて、そこでは激しい戦闘がはじまっていた。ふ督や奴隷が殺されるのを目撃した奴隷は生かしておいてもらえるわ たたび、ディックが発砲し、ことはそれで済んだ。 けがなかった。なぜなら、もし彼がそのことを喋れば、ほかの奴隷 彼は相手船の乗組員らに、鋭い声で呼びかけた。 たちのあいだに反乱への希望が芽生えかねないからだ。同様にま っ 4 5
鳴った。サムはごくりと唾を呑み、じっとそれをみつめた。 説明するまでは牢獄を出してはもらえまい。〈向こう側の世界〉で それから彼は向き直ると爪先きで歩いてフラットを出た。今や、 はモールトビイが恐ろしい拷問を受けるにちがいなく、そうなれ 6 ば、いずれはサム・トッドの名がロばしられるところとなろう。ま 彼は〈向こう側の世界〉が存在することを知っている唯一の人間だ った。ひとに、そのことを喋る気にはなれなかったが、しかしなな た、新聞が〈向この側の世界〉に盗みとられれば、サム・トッドの んとかしなければならない。彼はまず逃げ出したい衝動に駆られ正確な居場所と彼が狂気をよそおったかどで警察に起訴されたこと た。おれはゆうべ、ここで眠った。そのあいだにモールトビイが行はたちまち知れてしまうだろう。そしてまもなく新聞は錠の下りた 方を絶ったのだから、当然、おれはそのことについて訊かれるだろ監房からの彼の不可解な逃亡のニュースをつたえるだろう。そうな う。おれはしかし、大きな資産をもち、名のある犯罪学者だから、 ると、もうこの世には、〈向こう側の世界〉について知る者は一人 もいなくなり、これまでとおなじようこ、、 冫しろいろなことがー・、ー、窃 もちろん、その訊問はきわめて丁重におこなわれるにちがいない。 だがおれはここで眠った。そして夜の明け切らぬうちに出がけてし盗や流血や苦悶や殺人が、何千年の未来に到るまで、あとを断たな いだろう。 まった。戻ってみるとーーーモールトビイはいなくなっていた。そこ サムは投宿先きのホテルに帰り、階上の自分の組み部屋に行っ へもってきて、今はディック・ブレアの失踪とどけも出されてしま っているのである。そしてサムとモールトビイはそのディックを最た。彼は身を隠すためと戦闘にそなえるための荷造りをした。彼は 前々から、仕事の一部として武器の研究をしていた。彼は弾薬の残 後に見た一一人の人間なのだ。さらにはナンシイ・ホールトも っている武器とその弾薬をぜんぶ持っていくことにした。そしてあ 警察当局はやがてこの一連の暗号に気がつくだろう。そしてサム が理路整然と説明することを期待するだろう。それができなかったり金をそっくりポケットに詰めた。それだけではしかし、足りそう 場合、警察側は疑いを抱きはじめるにちがいない。もし事実を語っもなかった。ホテルのデスクで小切手を現金に換えていこうかどう たとしたらーーー警察の見る目には、サムが正確に、文字通りの真実かを考えている際中に、電話のベルはふたたび、鳴った。 を語る以上に悪く映ることはないだろう。それは狂気をよそおうた彼はちょっと息を喘いだ。心は、〈向こう側の世界〉に行ってい めの非常にへたなやり方というふうにみえることだろう。 た。狩り立てられているような感じにおそわれた。彼はモ 1 ルトビ 彼の金属製の覗き穴装置は巧妙につくられたからくりとみなされイのことをつとめて考えないようにしたが、モールトビイのほうは るにちがいない。それは構造の謎を解明するために切れ込みを入れ〈向こう側の世界〉の連中の拷問がはじまった今、心に秘めた知る られ、たちまち毀されてしまうだろう。その小さな戸口から〈向こ かぎりの事実を声を大にして告げずにはいられないだろう。彼はサ う側の世界〉へ鉛筆やら財布やらを突っ込んで見せてもいいわけだムの住所も、電話番号も知っているからだ。 が、そうしたところで新しい手品の仕掛けとみなされるのがおちな電話のベルはみたび、鳴った。 のだ。サム・トッドは友人たちが消え失せたことにつき、すっかり 彼は冷たい汗をかきながら、大いそぎで戸口を出た。鞄を二個か
モールトビイの住んでいる建物の前までくると、彼はまた、足を サムは彼の手紙がディックに受け取られたかどうかを確認するた めに、夜の明け切らないうちから早々と起き出していた。そしてとめた。身震いしながら、彼は〈向こう側の世界〉の対応する空間 に目を凝らした。そこに彼はジャングルを見出したが、こちらのそ 今、彼はそれが他の人間の手にわたってしまったことを知ったので の部分には下生えさえほとんどなく、わずかに朽ち葉が絨毯のよう ある。さっと顔色を変えると、彼ははげしい車の交通も無視して、 ー・ドライヴを向こう側へ走りわたつに散り敷いているだけだった。手紙でディックに説明した、まだら やにわにイースト・リヴァ た。プレーキが周囲でけたたましい音をひびかせたが、彼には聞えのある大木の幹が見えた。落葉の散り敷く中や土のむきでた地面 なかった。一台の車の。 ( ンパーがこむらをかすったが、それさえ感に、轍が認められた。何か自転車の車輪のような細いタイヤのはま った車輪をもっ車がここへきたということだ。今は、そのすがたは じなかった。やがて最寄りの街角に電話ポックスを見つけると、息 を切らせながらそれにとび込み、抑えようもなく震えわななく指でなか 0 た。目的を遂げて行 0 てしま 0 たのにちがいない。 の建物にはいり、モー サム・トッドは重々しい足どりでアパート モールトビイのところの電話番号を廻した。ベルが呼んでいること ルトビイのフラットに行った。そこはもぬけの殻だった。モールト を告げる断続的なビービーという信号音を耳にしながら、彼はぐっ しよりと汗をかいていた。しばらくして、サムはいったん受話器をビイはいなかった。そればかりか実験用の装置類もすっかりなくな っていた。二つの世界の間の通路をつくるのに用いられたものは、 かけると、もういちどまた、おなじ番号を廻した。 っさいがっさい、なくなっていた。 応答はなかった。 サムはつい最近、この場所でたくさんの小さな水銀の溜まりが仄 モ 1 ルドビイの家までタクシーに乗っているあいだずっと、彼の 歯はかちかち鳴りつづけていた。だが、覗き穴装置を使って〈向こかなきらめきを放ったにちがいないことを知った。モールトビイは う側の世界〉を覗く気にはどうしてもなれなかった。車が最後のブ今、〈向こう側の世界〉で奴隷になっているのだ。その彼がディッ ロックに折れ込んだ最後の瞬間になってようやく、覗いてみるだけクを行かせるためにつくった出入口は取り去られていた。だが、あ の勇気を奮い起すことができた。そこで彼はとっぜん、車を停めさらたに出入口をつくるというわけにはいかない。なぜならそれのつ くり方を知っているのは、モールトビイただ一人だったからだ。も せた。彼は車を下りて、覗き穴装置を眼にあてた。 はやディック・プレアを救助することはできなくなった。ナンシイ 彼は〈向こう側の世界〉の処女林を見た。ほかにはなにも見えな か 0 た。彼は通りをお 0 かなびつくり、そろりそろりと歩いていつもー・ーもしまだ生きているとしても、・・・・・ー助け出す見込みはなくなっ た。 = = ーヨ 1 クの早朝のざわめきが、実際に、はっきり聞えるよた。モールトビイはいずれ拷問にあって、知っているかぎりのこと うな気がした。彼は〈向こう側の世界〉を覗き込み、それから〈こを、なにもかも喋らされてしまうだろう。サム・トッドにはどうし ちら側の世界〉の周囲を見まわして、壁に衝突しないように注意しようもないことだった。 モールトビイの部屋の電話が鳴った。それはいちど止んで、また こ 0 6