8 モルトは反射的にサシャの腹部に拳を放ち、彼を吹っ飛ばす。 だが明らかに遅い。サシャの言葉は店内に響き、店内の誰もがモルト達を注視していた。 「ちょっ、ちょっと、何、どうしたの」 厨房からクラツツがフライバンを手に荒てて出てくるものの、誰もその言葉に応じない。 ちんもく 不自然なまでの沈黙が店内を埋めていた。 おそ ャパイ状況だった。恐らく客の幾人かにはヌストルテの名が聞こえたはずだ。そうなれ ば当然、よほどのバカでない限り連想するに決まっている。 さが 帝国が封鎖してまで捜している人間が、ディナではないか そ - つはく モルトは息を呑み、そしてディナは顔面を蒼白にする。 そんな中、サシャがね起きると、乱れた前髪を掻き上げ、そして笑顔を見せた。 あせ : いやなに、モルトがこの私に彼女を獲られると焦 「クラツツ、すまない。騒がせた。 ったよ、つだ。フフツ、まったく、しよ、つのない奴さ」 モルト、顔じゃお前に勝ち目はないぜ、カで おっとお、女の取り合いかあ おうえん 蹴散らしちまえ ! 俺は同じ非モテとしてお前を応援するぞ ! 客の二人がサシャの言葉を受けて、声を張った。 「ちょっとモルト ! 暴れるなら追い出すわよ " " 」 い′、にん こぶし ふと と。
「ついに動いたか ! 自警団か」 みかくにん いえ、未確認ではありますが、魔獣のようですー アセトは贈らしげに舌打ちした。 リキュールの北側には険しい山があり、そこには今時信じられぬ程の魔獣が跋扈してい いっぴき るらしい。その内の一匹がたまたま山を下ってきたか。 やみよ きじよ・つ とつじよ しゅんじ 「人ならぬケダモノが闇夜の中から突如として現れ、騎乗していた兵が瞬時にやられ、数 だほ 人が拿捕されたとのことですが : くちく 「なっ駆逐するどころか拿捕されたのか±. : まさか、食料に : 「いえ、先程解放されたようです。それが、その : : : 第一四番隊はどこにいると、カタコ たず トの言葉で尋ねられたそうで : ど ほう、と従者が声を上げた。 カ めずら 「言葉を解する魔獣か、最近じゃ珍しいな。捕まえれば高値で売れますね、 ごと 都「バカかお前は ! 俺の部隊が魔獣一匹如きにいいようにやられたのだぞ ! そもそも何 英故そいつは第一四 : : : 第一四番隊だと ? 」 ついさっきどこかでその名を見た気がした。 アセトは一瞬固まってから、視線を卓の上へと向ける。住民からの苦情の中に、大浴場 いっしゅん たく まじゅう つか ばっこ . な
けれど、本当にそれで良かったのか。それで何を得られたというのだ。 自分を導く人を全て失った時、自分には何も残ってはいなかったではないか。 じじよ 何をしようとする気力もなく、死にたくないからと本能に従い、あの侍女の言葉通りに たど 脱出船に乗り込み、波に任せて港まで辿り着いただけではないか。 風にそよぐ葦のように。秋風に舞う枯れ葉のように。そうする意味も結果も考えもせず。 きゅうちおちい 自分の甘さが、このリキュールという街を窮地に陥らせてしまったのだ。 ぽん ディナは、銀のお盆を胸に抱いた。 あんなに楽しかった安美亭での時間が、今は、逆に辛い あんなに笑顔で満ちた場所に身を置いたことなど、生まれて初めてだった。次はどうし よう、どうすればみんなのためになるのだろう、どうすればみんなもっと笑顔になってく どれるのだろう : : : そんなふうに頭と体を使い、心をときめかせたことは、初めてだった。 こむすめ 酒を注いでくれた小娘一人笑顔にできない男は、この街にはいないのさ。 の 都そんな言葉を残して男達は店を出て行った。きっと、何かをしでかすために。 英 : モルトも、また。 うそ 己の身を捧げようと決めた相手。最初、抵抗がなかったといえば嘘になる。 けれど、共に過ごしたわずかな時間だけで、彼となら : : : と、そう思えた。 だっしゆっ おのれ ささ つら
110 モルトはボサポサになっていた己の頭を掻きつつ、ちょっと恥ずかしさを覚えた。 「その言葉は別のシチュエーションで聞きたかったな」 かし 下ネタだと気付けずに首を傾げるディナに待っているよう伝えて、モルトは部屋を出た。 げんかんとびら 部屋の前にある階段を下りれば、リツツの家族が住む大部屋の玄関扉前である。 ノックしよ、つかとも思ったが : : : 扉の向こ、つにリツツがいるのは、さすがにわかった。 かく 気配がする。隠そ、つともしていない : いや、見つけて欲しそうな、そんな気配がする。 「なあ、リツツ。・ : ・ : 部屋、掃除してくれたんだよな。 : ありがと、つな」 かすかに「 : : : うっさいーという不満たらたらな声が聞こえる。 ひざかか 気配と声の位置からするに、彼女は扉に寄りかかって膝を抱えているようだ。 だからモルトもまた、扉の前に膝をつき、リツツの耳の高さに顔を合わせた。 ほうしゅう 「朝、彼女から護衛の仕事を受けたんだ。報酬は高そうな指輪。それは仕事が終わり次第 : ・それと、さっきのは : : : そ 受け取ることになっている。だからまだ家賃は払えない。 の、流れというか、酒が ・ : うん、彼女、酒に弱かったみたいで、それでノリ的に : : : 」 「 : : : ノリで、あんなことするんだ」 今度ははっきりと聞こ、んた、とい、つより、聞こえるよ、つに発したのだろ、つ。 モルトは頭を掻き、言葉を探した。大人になればわかるさ、とクールに告げたところで、 しだい
言うだけ言ったが、間違いなく言っていた。あの時の出来事はもちろん、議場でのほば 0 すべ 全てをメモに残しているので、証拠として突き付けることも可能だった。 じまん 耳で聞いたこと、見たこと、経験したことの全てを記録として残すのはクリミオの自漫 の技能なのだ。秘書として誘われたのも、それあってである。 議員達全員があからさまに言葉を失い、見る見る内に顔を赤らめ始めた。 ふんぬ 全員が貭怒を抱いている。けれどそれをぶつける矛先がないのだろう。 : いや、ある。しかもぶつけたところでク悪態を吐くッという以上のものが何もない、 非生産的な : : : そんな矛先が、一つだけ。 むだ 「こんな協約を結んだ奴が悪い、というのはこの際、やめにしましよう。時間の無駄です。 過去を悔いて責任を誰かに押しつけるのではなく、街の未来を決めるのが議会の役割であ 、使命です。 : : : 言いたいことがあるのなら次の選挙でどうぞ」 さ ふんきゅう 無駄に議会が紛糾するのを避けるため、クリミオは髪を払いつっ先手を打った。 ああ、認められるか : だと ? ふざけるな。 忠大の街、リキュール : : た、刀ュ / ! そ、つ、他に手が : さいこうれい そんな時あの八〇を越える最高齢の議員が深い息と共に、重苦しく言葉を天井へ放った。 おそ ある、と。恐らくだが、と付け加えて。 さそ しようこ 0 ほこさき かみ てんじよう
みじたく もので、髪や化粧からすると身支度もろくにできそうではない。 みりよく そうとう 自分の魅力的な双瞳を前髪で隠して俯いているような、恥ずかしがり屋でもある。 ことばづか 一方で、言葉遣いからして相応の教育も受けているようなのだが : : : 王妃に手紙を出し みよう しんみよう たいなどと神妙な顔で言い始める常識のなさなど、妙なアンバランスさを感じさせた。 だとう いえでむすめ つな ロテ国に繋がりのある良家の家出娘。そんなところが妥当か。それとも、そういうキャ ラを演じているだけの不思議ちゃんか : : : それも割とありそうだった。 呆れてしまったクラツツは、仕込みがあるから、とため息と共に言って立ち上がる。 「まあ、直接行くしかないっていうのならリキュールでちょっと働いて、それで旅の資金 でも貯めたらどう ? この街、女の子の働きロは結構あるわよ 「わ、わたしに仕事が : あ、でも、あまり : : : その、時間がないのですー ど「じゃ、こういうのはどうだ ? とりあずダメ元で手紙は出して、返事を待っ間に働いて、 カ めんどう 返信がなさそうなら自分で向かえばいい。 ・ : その間、俺がディナの面倒を見よう。ただ の 市し、何でも屋の仕事として、だ。依頼料は : 英モルトの目はディナの胸元に向かった。 「その胸 : : : にある、指輪でいい」 びみよう 思わずク胸というところで微妙に本心が顔を覗かせ、言葉が途切れてしまった。 た とぎ
そう考え始めた時、モルトの鼻にふわりと、嫌みのないわずかばかりの香水の匂い。 四択になったのをモルトは直感して、隹 . る。 「ほう ? これはまた、なんてわかりやすい状況だ。たまには帰宅の道を変えてみるのも いいものだ。モルト、悪いが、ちょっと持っててくれ とつじよ わきひとかげ わた かみぶくろ 突如としてモルトの脇に人影が現れ、食料が入った大きな紙袋を投げ渡される。 しゅんかん モルトは反射的に受け取ってしまったものの : : : その瞬間に、それが大きなミスである ことに気が付いた。 じようちょ きんばっかんざし 白に近い金髪を簪でまとめ、異国情緒のあるマフラーを巻いた細身の男。 から ちゅうちょ そいつは両手を空にすると、何の躊躇もなく小男と美女へ向かっていく。 「お、おい、サシャ ! ダメだ、これは、俺の仕事だぞ " " 」 まゆね ど 小男は突如現れた新手におののくのではなく、眉根を寄せた。 カ 「な、なんだ、てめえ女の出る幕じゃねえ、すっこんでろリ」 の 市その言葉にサシャはわずかに目を細める。 きれい や、むしろ近くで見た方が綺麗な女に 英サシャは遠目には女にも見えるほど細身で : : : い 見えるのだから、小男の言葉も無理はなかった。 うれ 「三年ほど前からこの街で何でも屋をしているサシャだ。覚えておいてくれると嬉しい あ こ・つオ・い にお
「情報の出入りが激しい安美亭だ。城ってだけで、もう察しただろう。でも、多分、大丈 夫だ。おやっさんは客を売るようなマネはしないさ 仮にグレーンが密告に動くとしても、ぶっちやけモルトの腕で押さえきれるかどうかは びみよう 正直微妙なところである。グレーンがオーガに似ているのは何も見た目だけではないのだ。 ふ 「ともかく、料理がうまいのはいい。 : でも働く必要はないだろう。人目にも触れる」 「 : : : はい。でも、お手伝いさせていただくのは : : : 働くのは、楽しかったのです」 耳の痛い話だ。可能であれば一日中だらだらと酒を飲み、うまいものを喰い、女性の尻 でも揉んでいたいモルトはそう思った。 そしてお客さん達は、優しく 「クラツツさんは美しく、巧みで、すっきりしていて : みな て、楽しくて、ガサツな人も多いですけど、皆さんどこかしら柔らかで、温かで : かろ たしな ダンス しつ どれにお盆を持って走り回るのは、嗜みとして躾けられた踊りよりも足先は軽やかに : ひど 酷く曖味な、そのくせしてディナがこの安美亭での時間を楽しんだというのだけははっ の 都きりと伝わってくる言葉が続く。ディナ自身、まだきちんと整理できていないのだろう。 ふつう 英「 : : : あの時間、あの人々との会話、そしてモルト殿と食べた食事 : : : これが、普通の幸 せなのだと、人が当たり前に得られる人生なのだと、そう思った時 : : : だから、本当にわ たしが望むべきことというのは : はい、その、えっと : : : 何というか、あ、何か言葉が ぼん たく うで しり
しゅんかん すきま あせ その瞬間、モルトの人差し指は革紐の縫い目の隙間に入り込み、ディナの汗ばんだ肌の かんしよく 感触を覚える。そして次に来るのは温もりとギュウギュウに押しつけてくる圧力 モルトの人差し指は根元までがディナの胸の間に飲み込まれてしまった。 目が点になる。そんなモルトをディナはゆっくりと見上げる。 ゆが そうとう 長い前髪から細く歪む緑の双瞳が現れ、イタズラッ気に微笑んだ。 「 : : : おいしく・ : : ・食べちゃったのですー その表情、その言葉、指先に感じる感触と温もりに : : : モルトはたじたじとなって一歩 下がって、指先を引き抜いた。 その際の「 : : : あっーというディナの一言葉一つさえも、モルトをたじろがせる。 つか 「 : : : 食事も終えて気が抜けたせいか、疲れが : : : その、少し休みたくなりました : : どうするのです ? どモルト殿、あの・ : ・ : この後は : 女性が夜に疲れた、休みたいと言うのならば、もはやするべきことは一つしかなかった。 市「わ、わかった。・ : ・ : 金もないし、俺のアパートに行こう。そこでゆっくりすればいい」 めんどう そうぐう 英モルトはこれ以上面倒事に遭遇せぬよう、ディナの手を引き、帰路を急いだ。 アルコ・ホール三番街にある三階建てのアパート、その角部屋という好条件な部屋がモ すみか ルトの住処である。当然そんな部屋だと家賃も相応なので、モルトの財政はいつだって苦 どの かわひもぬ
はな ていこくもど 戦線を離れる、いや腹を立てて状況を投げ出す気か。そしてヌストルテ帝国に戻って兄 のグルコノに、自分ならもっとうまくやれたと言い訳を並べ立てる気なのだろう。 その必死に言い訳をしているロンシュータンの姿を想像するに笑えてくる。 しんらい 兄は自分を強く信頼しているからこそこの作戦を任せているのだ。こんな女の言葉など ためら 聞きもしないだろう。だから : : : と、アセトは躊躇、つこともなくサインしてやった。 「ありがとうございます、ところでこちらの女性に一つ訊きたいことが : : : モルトという こいびと すてき ・いたり・・とか ? ・ とても素敵な男性を ) 」存じで ? 家族とか : : : 恋人とか : : : 妹とか : クリミオは「は ? ーという苛立った顔で背後のロンシュータンを振り返った。 ふつう 普通、この不気味な女を最初に見ると息を呑んで言葉を失うものだが、クリミオはくだ らないものを見るような目のまま「さあ ? ーと述べてまた酒を飲む。 なぜ ど「モルトの名は知っている、けれどどんな人間かまでは知らない : : : 何故あの男をこの女 たず : いったい何を調べている : : : と、お考えで ? 」 は尋ねてきた ? それも人間関係など : するど 市 クリミオが今一度振り返り、ケタケタと笑い出したロンシュ 1 タンを鋭い目で見つめた。 雄 英「女同士のやり取りはわからん。 : : : 好きにしていろ。幕舎に戻る、後は副官に任せた」 アセトは席を立っと、女達に背を向ける。そこに声をかけてきた者が一人。 「よろしかったらケーキはいかがでしよう ? 有名な職人が作った特別製なんですよ」