新 私は、おろしがねに指を突っこんで、悲鳴をあげた。 「カヤキのなかで、何がうまいって、ナマズほどうま この長芋は、日本街のグローサリで、あまり立派だった いものはない。ウナギより、はるかにうまい。コイの照 8 ので、嬉しくなって値段も見ずに買ってしまったのだ焼とウナギとの中間の味がして、それが実に微妙な味 が、あとで四ドルもとられて、びつくり仰天した。 で、なんともうまいものだ。・ ほくが小さい頃は、家の近 一本一四〇〇円以上もするのであゑ思うにこれは、 くにナマズ川という川があって、ナマズがうようよして 日本からの輸人品だったのだろう。イ ( はカリフォルニ いた。三才ナマズくらいの大きなのをとってくると、お ヤの日系人が作っているものだが、日本の多くのソ。 ( のふくろがよく力。 ( ヤキにしてくれた。それが実にうま ように、うどん粉を混ぜたりしない純粋のソ・ ( なので、 ところが東京などでは、このナマズをブッ切りにし 非常に味がいし て、ナベで煮こんで食ったりする。そうかと思うとテン 苦心の末、まもなくトロソが出来た。これは私の大ブラにして売っていたりする。あんなのは、下の下だ。 好物で、かっては東京中のイ ( 屋を、トロソだけを食ナマズ 0 ていうのはね、カ・ ( ヤキに限るよ。絶対だ」 うために、片っ端しから歩きまわったことがある。した と、まくしたてた。ミス・ノエルは、何のことやら分 がって、その製法も、詳しいのである。 らないので、いぶかしそうな顔をし、 「どうだね、味は」 「ナマズって、なあーにーと問う。 彼女は、私を真似て、ツルツルッとやり、 「ナマズはナマズ、すなわちキャット・フィッシ = であ 「神秘的な味だわ」 る」 といった。トロソ・ ( というのは、日本人街でも、売っ 「オオ、キャット・フィッシーーーあんなものを食べる ちゃあいないのである。私はさらに、、 ウナギのカ・ハヤの、まあ ! 」 キのカンヅメをあけ、暖めて饗応した。 彼女は、私が人喰い人種でもあるかのような眼付をし うなぎどんぶりというのは、リトル東京でも食えるのて、私の顔をマジマジと見入った。 で、 ( もっともカンヅメ . を日本から輸入したものだが ) 「なあーにね、日本のキャット・フィッシュてえのは、 彼女はウナギは始めてではなく、驚きもしなかった。そえらいんだよ。立派なんだよ。大地の底にひそんで、地 れどころか、好きであるという。そこで私は、カ・ ( ヤキ震を起こすくらいだ。ナマズヒゲっていうのまである。 というのは一六世紀の頃、日本の室町時代末期に案出さ、アイヌ語では、モシリ・イクテウ = ・チ = ップという れた調現法で、日本独得のものであること。タレが肝心が、これは背中で大地を支える魚という意味だ。琵琶湖 で、どこの店にも家伝の秘法があり、何百年も受けつがに棲む体長一メートル三〇センチの大ナマズは、中秋明 れていることなどを述べた。すると彼女は、またもや、月の夜、竹生島の北側の砂上に、這い上 0 て踊りをおど 「ほんとうに日本の料理って、神秘的ね」と、素直に感るという話もある。 まあ、これを食するのは、イー 心していう。そこで私は、調子に乗り、 ルと同じ感覚だね。ィールだって、摩訶不思議な生物 、 0
0 0 00 これは日本ではネコめしというのであるといおうと思っ に風雅なる日本の味を食わしてやるがナ」 と誘ってみた。すると彼女は、とび上らんばかりにしたが、まあ、やめておいた。どうやら彼女は、カツオブ 6 シの味が気に入ったらしい。 て喜び、、たちまちわが尻にくつついてきたのである。 スタットラ・ヒルトン・ホテルの私の一座には、日本そこで今度は、カツオプシに味つけをして、小さなオ 街などから買いこんだ、いろいろな食いものが、隠して = ギリをつくって出してやったら、これはさらにおいし ある。私はまずシラスポシを取り出して紙製の小皿に取いという。ここに至って、私はイタズラ心を起こし、彼 り、醤油と砂糖をかけ、レモンをふんだんにしぼって、女に聞いてみた。 「カツオプシって、、つこ、、 しナしなんだか知ってるかい」 彼女に差しだした。 「知らないわ。見たことも、食べたことも始めてよ」 「これそ日本の酒呑みが、ズイキの涙を流す至高の食い 「よろしい、それではプロトタイ。フを見せて上げよう , ものである。芸術的な香りさえするー 「まあ、ゴミみたいな魚ね。こんなの食べられるかし私は、トランクの底を引っかきまわし、だれかにやろ 、カモうと、はるばる日本から持参した一本の薄汚れたカツォ ら。もっとも痩せて肉がないから、美容食こよ、 プシを取り出した。そこで彼女の鼻先でホコリをパタバ ネー タと払い落し、 「これを味うにはビールではダメである。日本酒をキュ ーツとひっかけなくちゃ。塩をツマンでね。まあ待ちな「いまあんたは、これを削ったのを食ったんだよ」 しかしながら彼女は、平然たるもので され」 私は、。 ( スルームにかけこみ、熱湯をみたして五合び「それなあーに。木の根っこみたいね」 んを突っこみ、そのままお燗をした。シラスポシは、土と、あどけない口許をしていう。 「これはだね、カツォすなわちボウニィートウの成れの 地のものだが、なかなか上質のものが、できるのである。 彼女は、垂れ下る金髮をかき上げ、長い脚をテーブル果てである , 一の横にのばし、ブルーの眼をかがやかし、しかしながら「まあ、ボウ = ィートウ」彼女の顔色が、少し変 0 た。 妙な顔をして、シラスポシを箸でつまんでいた。どうも「然り、学名をカツォヌス・。ヘラミスと称する魚で、・そ の死体の頭部、内臓および腹肉をチョと切って捨て、三 味がわからない様子だ。 枚におろし、よく煮た後、肉をはぎ、何度もあぶり、カ そこで私は、「さらに上等なものを食わせる」 と宣言し、戸棚をあけてカツオプシを取りだし、それビを生やし、しばしば ( 工に糞をさせ、しかる後に乾し 一をたつぶりと、小皿に盛った食い残しの御飯の上にふり固めたものである」 かけた。そして醤油と味の素をかけ、彼女の前に出した「まあー彼女は、蒼白になった。 「いってみれば、 : 十ゥニィートウのミイラの如きもので ある。それを貴女は、二度も、うまいうまいといって食 すると彼女はそれをたいらげ、うまいという。私を
杉村篤画 ⑩リトル東京 ロサンゼルスに来て、かの有名なリトル東京についてであるという。なんでも市電の車掌がこのあたりにくる ーキヨーと呼ぶようになった。それ 語らぬという手はない。それどころか、私は、毎日のよと、トー からしばらくして地元のロサンゼルス・タイムス紙が、 うに出かけて行ったのである。 リトル・トウキョウ」と書きだしたのだそうだ。 全米随一のこの日本人街は、ダウンタウンの東部にあ「 だが、時移り、星変り、日本語の不自由な二世や、ま る。プロードウェイの繁華街を北へまっすぐに行くと、 白亜のシヴィック・センターのある官庁街へ出るが、そったく話せない三世がふえるとともに、この街も、質的 に大きく変貌するようになった。二世や三世たちにとっ こを東に折れてしばらくすると、街並は急に低くなり、 ては、日本は観念的に彼らの父祖の国ではあっても、ほ 日系人の商店が軒を並べているのだ。 サンフランシスコのジャ。 ( = ーズ・コロ一一イとは違っとんどは一度も訪れたことのない、太平洋をへだてた遠 て、 リトル東京という言葉には、ちょっとしたハイカラい隣国でしかないのだ。 街を近代的に再建する案も、進んでいるようであっ 気分と、幾分の佗びしさがあるように思う。 実際ここは、かってカリフォルニヤの農園を転々と歩た。が、私の訪れたときは、まだ依然として古い名残り をとどめており、さながら明治や大正のある時期の日本 いた季節労働者や、山作者、鉄道、鉱山の人夫などとい った一世のパイオ = アたちが、日本恋しさのあまり、自が、そのままここに時間を停止して残っている た感しさえした。 然と寄り集ってきた一部なのだ。 それは現実の日本からやってきた私のような旅人に ここへくれば、気楽な一膳めし屋があり、カフェーが は、一見、奇異にさえ思える。けれども同時に、なんと あり、スシ屋があり、床屋があり、写真館があり、そう して何よりも声高に日本語をしゃべることができた。そはない懐しさを憶えたこと、確かである。 れは英語の不自由な一世たちにとっては、大きな憩いで私は、サンビドロ街のフロラ理髮店に入って、頭を刈 3 ってもらうことにした。日系人のおやじは、私がたった あったのだ。 いま、この街に着いたはかりのストレンジャーだとは気 リトル東京という名前がついたのは、明治末年のこと - フると、り世界周航記日下実男 っ
にタクアンなんか、日本から送ってくるんです」 側面を見たような気がした。日本料理店は、一握りの日 系人のためだけにあるのではなく、白人の客の方が結構この六さんの得意なのは、特製ののり巻だ 0 た。普通 ののり巻の二倍幅に切った厚手ののりに、ゴハンをごく 多いのである。 もっともリトル東京に関する限り、料理の点は、未だ薄くねり、そのなかにメノウ色の渥美タクアンの短冊に ここで、お世辞にもうまいとはいえない。多くは大泉料切ったやつを、塩ゴマにまぶして包みこんだものである。 いくらでも食えた。 頭で、一膳めし屋の総菜に毛の生えたようなものでしか淡白な味で、風味に富み、 「こういうのを喜んでくれるのは、やつばし日本の人で よ、つこ 0 チー、力学 / すなあ。土地の人は、マグロだって、いちばんまずいと 私は、一カ月余の間に、いろいろと食べ歩いたが、う こしか注文せんですよ。そのくせ日本から来たスシ屋 まいと思ったのは、東京会館のスシくらいのものだ。こ は、うまくもないくせに高いなんて、陰口をたたく。ま こは東京から専門のスシ職人を派遣しているのだから、 ったく、やんなっちゃうな」 うまいのは当り前だ。そのスシ特派員の六さんが、私に 六さんは。ホャいていた。この六さんが、当然ハリキル のは、妙齢の白人娘が食べに来たときである。六さんは 「こっちへ来てねえ、最初に困ったのは、なんたって、 めしですよ。いろんな米をたいてみたが、結局、いちば腕によりをかけ、マグロだ 0 て、最高に美味な上トロの んいいのは、加州米の最下等のやつでしたね。みんなところを出す。したがって白人娘の方だって、 「オオ、ワンダフル ! 」と言 が、まずくて食わぬという ロサンゼルスのホテルの近くで筆者 わざるをえないのである。私 米が、ビタリだったんです はここで、セリタ・ノエルと よ。もっとも、たき方にコ いう金髮の若いタイ。ヒストと ツがあり、人まかせじゃまの ′お学第を、好きで、ト 0 など = ギらず、 る限り、全部自分でや 0 て〔一望 ~ ~ ビールを嗜みながら、ブッ切 ますよ」 りにして食っている。 「タネはどうだね」 「しようゆとわさびの味が、 、「まあ日本のようこま、 ないが、結構そろいますい なんて、利いた風なことを ヌ力す。私は好奇心を起こ 5 漁船が水揚げしてますし、 し、三度目かに会ったときに、 一一アワビや = ビなど新鮮なの 「わがホテルに来れば、さら 力いくらも獲れる。それ
ったのだから、今夜あたり、ボウニィートウが青い眼を つり上げ、ニターリ、ニターリと笑って、貴女の枕元に 立つにちがいない。間違いない」 「おお ! ここに至って彼女は恐怖の余り失神せんばかりになっ たので、私はその肩をやさしくさすってやり、 「なあーに、大丈夫だよ。心配しなさんな。カツオは勝 魚と書くくらいで、日本では、古来、とても縁起のいし 魚だ。祝儀の贈答用として、広く使われておる。高貴の 品だよー といって慰めてやった。それで彼女も、どうやら納得 しキゲンを直した様子だ。そのせいか急に日本酒を飲む 。ヒッチが早くなってきた。私も悠然たる気分になった。 窓外には、日がすっかり落ち、ビルの灯が明々と無数、 に輝いている。電光掲示盤の黄色い文字が、明減してい る。風が出てきたらしく、椰子の葉ずれの音がさわさわ - と鳴りだした。 私は、もう一本、五合びんを・ ( スルームの熱湯の中に 2 義】物■ -0 ッ第、す 4 ー第を毳 放りこんでおカンをし、腰を落ち着けて飲みだした。す ると、腹がへってきた。考えてみると、私は彼女にばか り、おかずを提供していて、自分は何も食べてはいなか ったのである。 「ミス・ノエル。折角来てくれたのだから、今度は日本 の主食の最高の傑作を御馳走するよ」 「ほんと。でも、ゴハンやヌードルなら知ってるわよ」物に変ってゆくのを、不思議そうに眺めている。その眼 の縁が、日本酒のせいで、ぼうっと赤味を帯びていて、 トロソ。ハというものである」 「ヌードルではない。 私は、トランクの中から、おろしがねを取りだし、野それが大きな青い眼と見事な対照をなして、思わず見惚 球の。 ( ットの先のような長芋の皮をむいて、おろし始めれるほどの美しさだ。 た。ミス・ノエルは、芋が見るまに白いねばっこい流動「アツツツツ : ・宿「 00 ぼ■ 白亜のシヴィック・センターに隣接するリトル東京 7
この七月初め、未来を学問的に研究しようという〈日本未来学会〉 ( ジャ。ハン・ソサエティー・オ ・フ・フ、ーチ、オロジー ) が、日本で初めて誕生しました。この種のものは、海外にはイギリスの 〈二十一世紀研究会〉フランスの〈未来計画グルー。フ〉アメリカの〈二〇〇〇年委員会〉などがあり ましたが、本格的な学会という形をとったのは、世界でもこれが初めてで、我国の未来への関心、、そ してその結果を現在にフィード・ハックしようとする新しい学問的態度のなみなみならないことを物語 っています。 長は中山伊知郎氏、理事長に林雄二郎氏、常任理事に梅棹忠夫氏、大来佐武郎氏、加藤秀俊氏、 北川敏男氏、丹下健三氏ら、そのほか世話人として石田英一郎氏、川喜田二郎氏、川添登氏、岸田純 之助氏、香山健一氏、長洲一二氏ほか、わが界の第一人者小松左京氏も学界発足以来のレギュラ ーとして顔をならべています。この顔ぶれをみてもわかるように、経済学者、社会工学 者、数学者、物理学者、宇宙工学者、人類学者、建築学者、ほか作家、評論家、技術者、ジャーナリ ストなど二百人あまりが含まれているまったく異色の学界です。つまりは、こうした、現在の学問の あらゆる分野に横の連絡をつけ「近年盛りあがってきた未来論に、科学的な体系づけ、組織づけをし ようというのが、この学界の目的なのです。これは言いかえれば、未来を認識し、その結果に基づい て構想し、そして設計しようということです。これはおそらく、従来のあまり自己完結的な学界の在 り方に新風を吹きこみ、それそれの学問のより一層の大胆な発展を促すと同時に、未来への組織的で しかも意欲的な推進力になるでしよう。 もちろん〈日本未来学界〉が学界として成立するためには、まだ多くの困難があり、反対の動きさ われわれ えあります。したがって、その成果は今後の学界の活動に俟たなければならないでしよう。 人としては、こうした動きが明確な一一十一世紀像を築き上けるための指針となることを信じ、ま ( 福島正実 ) た願っています。
ってきた。何か早口に注文し、テーブルの上に本をひろ づかないで、 「太平洋ホテルの取壊しが、とうとう決ったそうじゃのげ、下うっ向き、脇目もふらずに本を読んでいる。 学校の帰りにでも、寄ったのだろう力不ししナ う。六月だちゅうで」 、この日本食堂で、彼女がどんなものを食べるか、興 などと話かけてくる。私は、ふむ、ふむと、鼻を鳴ら して応対した。太平洋ホテルというのは、このサン。ヒド味をもって見ていた。 ( ドウセヒマダッタノデアル ) ロ街とセコンド街、ウ = ラー街の三角地にまたがる大き待っことしばし。するとまあ、ウェートレスは盆にの なホテルだが、 古くなったので取壊し、そのあとに新らせて、白米の御飯とサシミを一皿もってきたのである。 ほかには、何もなし。 しく高層ビルを建てるのだそうだ。 そして少女は器用な手つきで割箸をさき、サシミを醤 「長いこと、もめていたがのう。やっとケリがついたで しいながら 油にまぶし、熱いゴハンにのせて、ふうふう、 とおやじはいう。 「それは結構なことだね」と私は答え、久しぶりにさっ食べだしたのだ。その間、眼はほとんど本に釘づけにし はりした頭になって、床屋を出た。近くには、荒瀬人形たままで、箸をもつ手は、いわば片手間なのである。 したがって、余り行儀のいい図とはいえないが、いか 店だの、五十嵐写真館だの、宇都宮時計店だの、それか にも食べ様が手馴れて、堂に入っている。私は、賛嘆し ー、だるま料亭などがあ らアロハ、鈴らんというカフェ しわゆる洋食というものを、もう長いこ った。道路の幅が広いことを除けば、日本のどこかの田た。私などは、、 と食っており、だからナイフやフォークやスプーンなど 舎街を歩いているのと、さして変りはない。 私は四つ角を曲って、「日活キネマ」のある目抜の大も、かなり長く使っているのだが、しかし、いまもっ て、いざ肉を切り、魚を突っつく段になると、なんとな 通りをぶらぶら歩いた。ちょうど昼めし時だったので、 「栄菊」にしようか「博多どんたく」にしようか、さんく改まってしまい、ギコチナサが抜け切れない。 ところが彼女には、そういった違和感というものが、 ざん迷った挙句、栄菊に入ることにした。 微塵もないのだ。これは、たいしたことだ。おそらく彼 純日本風の、小料理屋である。 入口の師り窓には提燈やら人形が出してあり、入ると女は、毎日、一度は箸を持っているのではないかとさえ すぐに、椅子席が並んでいる。その奥は、長いカウンタと、私には思えた。 つづいて今度は、自人の在婦人とその娘が入ってき ーになっていて、スシ屋も兼ねている。 私は、トンカツに茶椀蒸しなど注文し、ビールを飲みた。そしてスシの大皿をたいらげ、吸いものの椀をと り、スキヤキをパクつきだした。アキレルほどの健啖ぶ だした。昼間のせいか、客はカウンターの奥の方に一組 りで、しかも日本食を楽しんでいるという雰囲気が、態 いるだけで、私の周りには誰もいない。 一本目を飲み終ったとき、ガラガラと戸があいて、眼度ににじみでている。 これによって、私は、リトル東京の存在価値の一つの 鏡をかけた、まだ幼い感じの白人の女学生が、一人で入 ー 74
見えない星田三平氏 塔晶夫 石川喬司氏の「日本史の試み」 ( 『入門』所載 ) には、 気シンをとめたくない時期だけれども、そんななかで作者の星田 日本のふうな作品が克明に網羅されているけれども、読み三平氏は、たぶん憂欝な都会風の青年だったのであろう。それ ながら、なぜアレがあけられていないのだろうと思う作品もい は「せんとらる地球市」という、ひらがな書きの題名にもあら くつかあった。星田三平氏のこれも、そのひとつである。たしわれているし、何より文中にある、 か古い〈新青年〉だったなと手持ちの分をひっくり返している ・ : そしてぼくもやられるだらう。昨夜ぼくは冴子にその と、容易に見つかった。昭和五年八月の夏季増刊号、懸賞で三 ことを例の場所でいってみた。すると彼女は、レモンスカッ 等入選作という肩書だが、あらためて読み返してみると、発想 シュに濡れた唇をぼくの唇に重ねながら「知ってるわー も文体も、とうてい四〇年近い昔のものとは思えない ずれあたしたちも一一、三日の生命たわ ! ですから ! 」とい う気持で、とりあえず雑誌を福島氏に届けたのだが、さて現代 った。そして、大きく笑った。そして、泣いてゐた と・ほ の愛好家に向くかどうか、それは控え目に予測するとし くは思ふ て、この一篇が〈新青年〉に発表になるまでのいきさつや、当 といった一節によく示されている。つけ加えておけば、レモ 時の時代背景などをメモ代りに記しておこう。 ンスカッシュなどという飲物は、池袋とか高田馬場とかの場末 昭和五年ーーー一九三〇年という年は、英米の界もまだ ( 当時の ) 喫茶店で注文したりすると、眼もあてられぬキザな 揺籃期で、べムやスペースオペラのほかに見るべきものはな行為と見なされていた時代である。こんなころ、それと意識せ アシモフやプラッドベリも一〇才の少年だったのだから当ず絶減テーマ、破滅もののはしりを書いた作者の心情は、何か 然だけれども、日本ではなおさら、いまのの読者も作家理解できそうな気もする。 も、ほとんどは生れていなかったか、あるいはせいぜい赤ん坊 それはともかく、五百ページの増刊号でさえ定価六十銭だっ ないし小学生だったであろう。当時の出来事といえば、まず前 た〈新青年〉が、一 - 千円という高額な賞金 ( 一等五百円、一一等 年からの世界大恐慌、日本では浜口雄幸首相の緊縮財政方針発三百円、三等一一百円 ) で創作探偵小説の募集にのり出したの 表と暗殺、東北地方の冷害、それによる娘の身売りといった暗は、昭和四年夏のことだった。あいにくそれには見るべき作が い時代で、かたわらエロ・グロ・ナンセンスがもてはやされ、 ・・なく、翌五年の春季増刊号で、あらためて募集しなおした。そ カフェーの女給やカジノ・フォーリ ーの踊り子たちが話題たつれもついに一等当選作はなく、一一等に大庭武年の「ホテル十 た。続いて満州事変、上海事変、五・一五事件ときて戦争への 三号室事件」、三等に星田三平が入って、二等作品より先に同 コースへなだれこんでゆくころだから、まちがってもタイムマ年の夏季増刊号に飾られた。その選評には、こんなことが書か 6
. 0 0 LA 0 ヘミスアェア時問旅行 ☆サン・アントニオ博を見て☆ 真鍋博 / 文・構成 ジョンソン大統領が提案したサン・アントニオ方式というのをも うすっかり忘れてしまった人も〃アラモの砦はおぼえているでし よう。ジョン・ウェインのデビ ・クロケットが壮烈な最後をとけ たアラモからたった一八〇メートルのところでいまサン・アントニ オ万国博が開かれています。万国博には一種と一一種があり、参加各 国が自ら。ハ。ヒリオン ( 館 ) を建てて参加するモントリオールや日本 万国博の第一種に対して、サン・アントニオのヘミスフェアはかっ てのシアトル世界博と同じように主催国が自ら建物を建て、参加国 が内部の出陳だけをする第一一種です。オリンビックでいえばプレ・ オリンピック、それだけに第一種博にない気安さとゆとりに会場は あふれています。ヘミスフェアというのは半球体の意、万国博とい うより半球博のつもりですから、参加国は一一十五カ国と十五企業、 四月六日から十月六日までの会期です。このフェアのテーマは「ア メリカの南北文明の交流」、日本もマ・ルコボーロのジ。ハングやコロ ンプスやジョン万次郎を人形映画やスライドにして見せていました し、ドイツはもっと具体的に、たとえばライト兄弟が飛行に成功し たあの飛行の原理はドイツ人の考えたものであるとか、世界地図に アメリカという地名をはじめて書ぎこんだのはドイツであるといっ た具合です。・フリ = ッセルからはじまった戦後の万国博はいずれも をテーマを掲けています。そしてその表現やモニ = マンはいつも科学 、的、未来的でした。・フリ = ッセルの原子核を一、六五〇億倍に拡大 6
山は東京での十日間の生活を三十人の前で細々と語った。 けの船を待った。 かうして待彼等にとって、私達の運命はことごとく驚異だった。船長は佐山 十人にとって、どんなに長く感じられた事だらう ! の話し終った後、彼の沈着な勇気を褒めた。そして、次のやうに云 ってゐる間に、何時パッタリ倒れるかも知れないのだからと 半日待った。 午前一時、かすかな人港合図の「ポオー」と云ふ音を聞いた。私『八月二十七日に上海から打電があると、米国では直ちに港を閉鎖 達は躍り上って喜んだ。「人がくる、「助かる」と、二つの原因しました。そして、十人の博士がマスクをかむって、沖に停泊して てっせう ゐる船から一人の死体を運んで来て、徹宵して調査したのですね。 で。そして、突堤の入口に汽船が姿を見せた時には、皆、泣いた。 浮いてゐる他の動かない船をたくみによけて、その船は埠頭に横私どもにはわかりませんが、さっきあなた達に注射したのがそれな んです。ーーーー十四日に、日本から無電が入った時は、米国中の日本 づけになった。 シャンハイ 私達は走る。船からも人が走り出す。お互ひに、何かわからない人が大騒ぎしましたよ。日本は上海に近いから、全減だらうと思っ てましたからね。十四日の晩サンフランシスコを出発したのです。 事を叫びながら 私は船が着かない前に、病菌の潜伏期間が過ぎはしないかと心配で したが、よく生きてゐましたね』 十七、米国の人々 船客は日本人が主だった。彼等は十人の生きてゐる事に、奇蹟を 此れで「せんとらる地球市建設記録」の前篇がすんだわけです。 見た様に驚いた。そして、十人を取りまいて珍しさうに眺めながら 私達三百九十人が九十一台の自動車に乗って、中仙道、東海道の 口々に質問した。 つれ後篇を発表す 人垣をわけて、白髮の老人が近づいた。此の人が医者だった。彼二隊に分れ、人を探して走る間に起る事件は、い。 は何も云はずに、いきなり私達を一人々々つかまへて腕をめくってる時に、改めて書く事にいたしませう。 「せんとらる地球市」とは何かって ? それはね。私達が一年後に 黄色い液体を注射した。早くしないと、いまにも死んでしまふかの 更生の東京へ帰って来て、命名した名ですよ。 様に 私も今まではユリヤ・セミョウポナと結婚して、立派な商人にな 『助かった』 ってます。佐山は、彼は「せんとらる市ー随一の腕利きの探偵で と、石崎巡査が大声で叫んだ。私もさう叫びたい所だった。船員 船客を合せて三百八十人は、一先づ横浜の市街へ入った。私達と、 主だった者三十人とが桜木町のホテルの広間へ集まった。 日本人の と云ふ船長が、佐山にいろ / ( 、質問してゐた。佐 す。 シャンハイ こま・こま 5