テレビ - みる会図書館


検索対象: SFマガジン 1970年11月号
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1. SFマガジン 1970年11月号

Television) とかさまざまな名称で呼ばれて、テレビ電話とは別に か、企業の販売在庫管理システムとか、公害情報処理システム : 発達し、竸合し、ある面では一体となって、今日におよんでいる」とかいった比較的簡単なシステムにつかわれたが、のちには、もっ とずっと複雑なシステムを構成するようになった。とくに、テレビ 「第三のビデオ・メモリーは、原理的には簡単なものだが、情報の電話とむすびついて、その用途がひろがった」 多彩化、効率化には、きわめて有用な装置だといえる。テレビ電話「 : ・ は自分で番組をつくって送像するーーという点で多彩だし、有線テ 「その代表は画像による案内システムで、たとえば、交通情報案内 レビはチャネル数がきわめて多くできるー・ーーという点で多彩なシスなどというのがある。行きたい場所、通りたい道をブッシュホンに テムだ。これに対し、ビデオ・メモリーは、好きな番組を録画してよってセンターのコン。ヒュータに送ると、もっともよい経路、道路 おいて好きなときに見ることができ、また、、 ′ード・コビーをとるの混雑状態などが、テレビの画面に、コン。ヒュータによって描きだ ことができるーーという点で多彩だといえる。素材は磁気テープかされるのだ。この案内システムが、コン。ヒ = ータの処理能力の発 らマイクロ・シートまで、さまざまなことは、きみも知っているだ展、テレビ電話や有線テレビを中心とするディスプレイの発展、そ ろう してシステムを構成するソフトウェアの発展 : : : などによって高度 化し、ティーチング・マシンと結合し、 O となり、さらに進化 をつづけて、現代の″ティーチング・コン。ヒュータ・システム″す 「さて、第四のデータ通信と第五のコンピュータだが、これこそ、 情報化社会をその名に値するものにした、代表的な技術だったとい なわち″先生″となった。だから、″先生は、テレビ電話、有線 テレビ、データ通信、コン。ヒュータ、ビデオ・メモリーなどがすべ えるたろう。ある意味では、テレビ電話よりも大きな影響を人々に 与えたといえる。というのは、データ通信もコンビュータも、テレて総合され、コンパインされてできあがったものなのだ。これが、 わたしの知っている歴史さー ビ電話や有線テレビと結合することができたからだ。 「どうもありがとう」 データ通信のデータとは、情報と同じ意味だと考えてよいナカ ら、データ通信とは、情報を伝送する通信技術ということになる。 ビジュアルは、デ・ソンナ氏の長い話がおわると、すなおに頭を ただし、生のままの情報ではなく、伝送しやすい符号に直され、電下げた。それから、ひとつだけ、質問した。 気的に交換された情報を送る。このデータ通信は、すぐにわかるよ 「おじさん、ちょっとききたいんだけど : ・ : ・」 うに、コンビュータと密接に関連する。符号化された情報をもっと「なんだね」 も高速で処理し、つくりだすのはコン。ヒュータだからた。データ通「″先生″は遠方のコン。ヒュータと連結していて、どこにいても同 信は、はじめ、テレタイ。フライターとコンビュ 1 タとを連結するサじように教えてくれるんでしよう ? 」 ービスにつかわれ、一九七〇年頃から、銀行の為替交換システムと「そうだよ。それがデータ通信の特徴だからね」 5

2. SFマガジン 1970年11月号

いたが、ある時期から急速に普及しはじめ、アッというまに、アメ 方の役めをしなければならないので、費用の点でなかなかたいへん リカにつぐテレビ国になってしまった」 だったからだ。しかし、実験だけは、テレビ放送と同じくらい古く から行なわれてきた」 「ところできみ、こういう数字クイズ、わかるかね ? 「はあ ? 「アメリカでは、一九二七年にはすでに、ベル電話研究所が中心と デ・ソンナ氏は、ちょっと間をおいて、棒きれで地面に数字を書 なって、電話回線をつかったテレビジョン伝送のデモンストレーシ ョンを行なっている。テレビ電話の形をちゃんともった実験は、ド ィッが古く、一九二九年に行なっており、一九三〇年代には、公衆『 1 3 ? 6 8 ? テレビ電話サ 1 ビスをはじめた。これらの初期の実験はいずれも第「この数列の ? の所に、正しい数を入れてごらん」 ビジュアルはしばらく考えていたが、だるそうに首をふった。 二次世界大戦よりも前のものだったが、ざんねんながら、実験だけ にとどまり、実用化への道をふみだすことはなかった。技術的にも「わかりません、等差数列でもないし、等比数列でもないし : : : 」 デ・ソンナ氏はうれしそうに笑った。 未熟で、経済的にも一般の人の手におえるようなものではなかった 「はじめの ? は 4 、つぎの ? は 2 なんだ。これは、一九七〇年代の からだが、要するに文明のレベルが、そこまで来ていなかったとい 東京地区のテレビジョン放送のチャネル番号なんだよ。とにかく、 うことなんだな」 たくさんのテレビ放送があったーーーという笑い話につかわれたクイ 「テレビ時代は、まず、放送の形で出現した。テレビジ ' ン放送ズさ、おもしろいだろう ? 」 「あんまりおもしろくありません」 いま話したテレビ電話とあまりちがわな も、初期の実験段階は、 ビジュアルは首をふった。 というよりも、さいしょは、放送も電話もさして区別されなか デ・ソンナ氏は、ちょっとがっかりしたように首をすくめたが、 ったといったほうがいいな。とにかく、電気的な撮像機や受信機の じきに、気をとりなおして、ふたたび話しはじめた。 研究が、まず第一になされなければならなかったのだ」 「戦後ー、ーっまり一九四五年以後ーーーアメリカを中心として、これ「テレビジョンとかルームクーラーとかいった一般用家電商品の普 らの技術は急速に進展した。日本でも一九五〇年前後からテレビジ及には、ひとつの法則がある」デ・ソンナ氏はタ陽にむかって、ま ョン放送は本格化し、一九五三年にはが正式放送を開始しぶしそうに眼をほそめた。「ある時期までは、いくら宣伝しても普 た。また同じ年に民間テレビも誕生した。はじめは受像機の値段が及せず、ある時期がくるとあッという間に普及し、それでおしまい 高く、なかなか普及せず、街頭テレビの前に人がむらがったりしてになるーー・という法則だ。スレッショルド ( しきい値 ) がある 8 4

3. SFマガジン 1970年11月号

ともいうな。放送用テレビジョンのときもそうだった。その時期と氏はまた棒切れを手にとって、地面に大きく字を書いた。 は、家庭の消費水準がある額に達する瞬間のことだ。つまり、テレ①テレビ電話 ビ受像機を購入しても、食うのに困らなくなったときだ。日本はと②有線テレビ くに、中流家庭ーーと自分で思っている家庭が多く平均からの偏差③ビデオ・メモリー が少ないので、この現象は顕著にあらわれる。戦後の日本は国民所④データ通信 得が十パーセントから二十パーセントに近い高率で上昇をつづけた⑤コンビュータ といった感じでやってき ので、その時期は、ある年とっぜんに ビジュアルはその文字をたまって眺めた。デ・ソンナ氏はそんな た。そして、数年で飽和してしまった。ワッと売れて、ワッと売れビジ = アルの様子をしばらくうかがってから、説明を再開した。 なくなるってわけだー 9 ・テレビ放送 「さて、一九六〇年代の後半にはいってから、カラー の時代がやってきた。これも、さいしょのうちは、値段が高くて、 「このうち、まずテレビ電話は、もちろん、基礎的な実験段階では とても一般家庭むきではないと思われた。ところが、ある時期がく なく、実用段階のものをさしている。本格的なテレビ電話の実用化 ると、もうれつな勢いで売行が伸び、たちまち、六十パーセントの研究は、やはりアメリカのベル・システムが中心となって行なわれ 世帯に普及してしまった。このあたりが、テレビジョンの歴史の第た。一九五九年にと呼ばれる装置の開発計画が決定され、 一期ということができるだろうな」 一九六四年になって、完成した。このシステムは、五百キロへルツ 「そのあと、どうなったんですか の周波数帯域幅 ( つまり音声電話の約百倍、放送テレビの十分の ビジュアルが、 一 ) をもち、音声電話と同種のケー・フルに伝送され、交換機を通っ はじめて質問した。頬が、タ陽のせいだけでな く、あかくそまっていた。 て、べつのテレビ電話に接続されるようになっていた。これは、一 「そのあとがたいへんだったのさ」デ・ソンナ氏は、ビジュアルが九六四年のニューヨーク万博と、ディズニーランドで公開され、な かなかの好評をはくした。 自分の話に興味を示してきたことに満足して、微笑をうかべた。 「わたしも、歴史家ではないからよくは知らないが、情報化社会と「ベル・システムでは、このテストの結果を生かして、つぎに、 か高度選択社会とかいう社会が出現して、あらゆる種類の情報伝送 OQ Ⅱと呼ばれるシステムを新たに開発した。このシステムは、実 用テレビ電話の第一号とでもいうべきもので、一メガヘルツの周波 ・表示装置が氾濫し、情報公害防止法が国会を通過したって話だ。 情報化社会の技術面での大道具は、だいたい、つぎのように分類で数帯域幅 ( 音声電話の二百五十倍、放送テレビの四分の一 ) をも 9 きるだろう」 ち、送受装置に、さまざまな工夫が加えられた。たとえば、電子式

4. SFマガジン 1970年11月号

ズーム方式でクローズアップや広角化を可能にしたり、焦点を延長ったのはそのすこしあとだったし、需要がでてきたときには、設備 させたり、絞りを自動調整させたりすることができた。伝送路には投資が大変だったからだ。テレビ電話というのは、眼にみえている 5 アナログ型やディジタル型が用いられ、交換機には、クロスパ方式装置よりも、その蔭にある、電線や交換機械など見えない装置のほ と電子交換方式が用いられた。ちょっと注意するが、この、交換機うが、たいへんなのだ。だから、放送用テレビジョンのように、・フ を用いなければならない 、ってわけこま、 冫ーしかなかったのだな」 という点が、放送用のテレビ電話とのラウン管をつくればいし 大きなちがいで、一対多数の通信ではなく、一対一の通信である関「初期のテレビ電話は、顔をうっしたんですか、それとも、図形や 係上、しかたのないことなのだ。結果として、伝送路も数多く必要文字をうっしたんですか ? 」 ということになる 「ますます、きみは利ロな生徒だよ」デ・ソンナ氏は感心した声を 出した。「ーーーそれは、テレビ電話導入時の大問題だったんた。い 「テレビ電話はこのようにして、一九七〇年代から実用化にふみたろいろ議論があった。が、結局、両方が行なわれ、最終的には、 し、日本でも、実際につかわれるようになっていった。一九七〇年まのようなことにおちついたというわけなのだ , の日本の万博で電々公社がデモンストレーションしたのは有名な話「わかりました」 だ。その後技術はどんどんすすみ、周波数帯域幅 ( これが広いほど ビジ = アルは悲しそうな表情でうなずいた。 絵がきれいに見える ) は一メガサイクルから四メガ、十メガ、百メ デ・ソンナ氏は先をつづけた。 千メガ : : : とどんどん拡がり、白黒がカラーとなり、カラーが 「つぎは②の有線テレビだが、これは、テレビ電話よりも、むしろ 立体となり、固定が移動可能となり、プラウン管はフラット・。ハネ テレビジョン放送に関係がふかい。テレビジョン放送はもともと無 ( 平板 ) の壁掛式となり、さらに折りたたみ式となり、超小型や線だ「たのだが、途中で、電波のとどかない地方や、高層建築によ 超大型ができるようになり、またファクシミリといっしょになっ って電波の質がわるくなる場所にサ 1 ビスするために、ひとつのア て、コビーが簡単にとれるようになり、発展に発展をつづけた」 ンテナから線をたくさん出して、放送を分配する方式ができるよう 「テレビ放送のような、スレッショルドとかいう現象はおこったん になった。つぎに、そこに、自主的な放送を挿入する業者がでるよ ですか ? 」 うになった。さらに、数多くのチャネルをつくり、周波数に制限さ ビジュアルが口をはさんだ。 れない有線の良さを積極的に生かそうという動きが出、各種の情報 「きみは利ロな生徒だな」デ・ソンナ氏はビジュアルの横顔を眺め がケー・フルによって各家庭にくばられるようになった。高度選択性 て、うなずいてみせた。 の実現だった。これは、 O << (Common Antenna Television 「起こったことはたしかだ。しかし、放送用のテレビジョンほど、 ↓ Community Antenna Television, CabIe TeIevision) とか 激しいものではなかった。導入期の使用者は主に企業で、家庭に入 (M 「 ired City Television) とか 008> (Closed Circuit

5. SFマガジン 1970年11月号

に間違いなかった。小さな四畳半の中で、卓袱台をかこんでタ食をコマーシャルをやっていた男が、血まみれになってぶつ倒れ、呻き している、夫婦とふたりの女の子が、こちらを眺め続けていた。そ続けていた。 して彼らの顔は、スクリーシの彼方へ放射されている画面の明りに 「よかった。やつばりここはほんとの世界だったのだ」安堵のあま 映えて、一様に蒼かった。 り、おれはすすり泣いた。「今までいたところは、テレビの中の世 あそここそ、ほんとの世界だ、おれはそう思った。なんというこ界だったのだ。テレビの中の世界が末端肥大症的であることは、こ とだ。おれが正子といっしょに乗ったポートで、あのビルの障子窓れは当然のことだったのだ。ねえ。そうでしよう」 を開いた時こそ、おれがこのにせものの世界へつれてこられる瞬間顔をあげると、歳下の女の子が眼を丸くしておれを眺めていた。 だったのだ。窓から入っていったおれたちは、それまでテレビを眺「ねえ、 この人、テレビの中から出てきたわよ」 め続けていたあの家族たちがおれたちもテレビの中の人物であると だが、卓袱台を囲んでいる他の三人は、おれの方には見向きもせ 錯覚したことによ「て、彼らの内部の世界、つまりテレビの中の世ず、プラウン管の中の血まみれのコーシャル男が担架に乗せられ 界へ一瞬にして押し込められてしまったのだ。 て運び去られるさまをじっと眺め続けていた。 真相がはっきりしたそ。おれをこの世界へつれ去った犯人は正子 「こわいこと」と、やがて母親が父親に向きなおり、改まった口調 でもなく、貸ポート屋の親爺でもなかったのだ。あそこにいる、あ で喋りはじめた。「いつ、大怪我をするかわかったものじゃないわ の、ビルの管理人の家族たったのだ。 ね。。、パ。あなたも気をつけてね」 あそこ〈戻ろう。もう一度あの四畳半にとびこんでやる。そして「もちろん気をつける。しかし」父親はいかにもせりふめいた口調 このいやらしいにせものの世界から脱走してやるそ。 で答えた。「災害というものは、いつやってくるかわかったもので 脱走してやるそ。 。ない。いくら気をつけていても駄目な場合があるのだ」 テレビ・スクリーン型のフレームの方へ駈け寄り、ふたたび頭か「まあ。じゃあ「安心できないじゃないの」歳上の女の子が、棒読 ら中へ身をおどらせた時、それがガラス窓でなかったことは前と同みしているようなせりふで、大袈裟に表情を曇らせた。 じだ 0 たが、嘔吐感は以前よりもず「と激しか「た。もちろん、お「しかし、安心しなさい」父親は和服の懷から一枚の紙を出し、肩 れの気のせいかも知れないのだが、あるいはそれは虚構と現実の間 の上にさしあげていった。「これがありさえすれば、いざわたしが を常に甘 0 たるく味つけし、境界線をぼかし続けている意識の中の大怪我をしても、お前たち家族があわてることはないのだ。そう。 ある次元を乗り越えようとする際に起ゑはっきりした肉体的な もちろんお前たちも知っていることだろうね。これはドバタ傷害保 現象だったのかも知れない。 険の保険証書なのです」 卓袱台の畳にころがったおれが、出てきたところをふり向けば、 ( 以下次号 ) それは今やはっきりとテレビのスクリーンであり、その中ではあの 0 3

6. SFマガジン 1970年11月号

うことを心の底では知っている。それなのに、無理やりそれらをお「今日も売れてる連中、たくさん来てるね。売れてないの、おれだ れに読ませるものは、いわれのない不安である。ところがテレビのけだね。黒浜君がいるね。この人、いつもにこにこ笑っていて、馬 2 場合は違う。テレビの場合は、いわれのない不安、などという漠然鹿じゃないかと思うんだけど、聞いてみようかね。おい馬鹿。ゃあ としたものではない。 あの丸味をおびた疑似長方形のスクリーンをご免ご免。黒浜君、今年の夏はどうだったかね」 「もぐり損ねたんです」 眺め続けていない限り、人間として社会生活を営む上に支障をきた すというはっきりした不安だ。いかにこの世界がにせものの世界で 「あ、やつばり馬鹿だ。はつはつは」 「ほほう。するとあなたは相対イマジニア党ですか」 あろうと、本物の世界そっくりにお膳立てができている以上、人間 として社会生活が営めなくなれば最後は死につながるということも「そうですとも。わたしは絶対イマジニア党です」 また、本物の世界同様たしかなことである。したがってこの不安は「へええ。わたしはまた、あなたは絶対イマジニア党だとばかり思 いわば死への恐怖につながる、より大きな不安であるといっても過っていましたが」 言ではない。 「とんでもない。わたしは絶対イマジニア党です」 「何やってんだよう。そうじゃねえってば。オロチョイのチョン、 テレビは、三つ並んだガラス窓のある壁面と対応した壁面にくっ つけて置かれている。そしておれは、時間がある限りこのテレビのオーベンチャラのヒコヒコって、こうやるんだよう」 スクリーンをのぞきこんでいる。時間がある限りといっても、仕事「こうかい。オロチョイのチョン、オーベンチャラのヒコヒコ」 の時間がはっきり決められているわけではないから、結局はテレビ 「そうじゃねえってばよう。こうだよう。オロチョンのチョン、オ を長時間見ていれば見ているほど、それだけ仕事をする時間が減っ ーベンチャラのヒコヒコ」 たり、仕事が遅れたりしているわけである。しかし、仕事の時間が「ううむ。恐ろしい術だ。どうすればあの、秘法虎返しの術が破れ 減るという不安よりも、テレビを見ないための不安の方が大きいのるのか。だが破ってやる。必ず破ってやるそ」 だからしかたがない。出版物の場合と違って、テレビを見ていると「わたくしには夫がいます。いけません。声を立てますよ。声を立 自分の知識が末端肥大症的になっていくことがはっきりとわかり、 てます。声を立てます」 長時間見続けているとそのあまりの異和感のために、なかば気が変「君は昨夜、風呂の湯が熱過ぎたために、うめたといったな。そう になってくる。異和感も、出版物から感じるそれよりはずっと重、だ。それが問題だ。それこそが事件の鍵なのだ。君はその時、風呂 く、しかも多い の湯を、水道でうめたか、ケツでうめたか」 テレビは今もおれの部屋の中へ、このビル内の他のあらゆる部屋 これらの情報は、おれの神経の末端に触れるだけで、何ら精神の の中へ、このにせものの世界のあらゆるにせものの住居の中へオフ中核部へは突き刺さってこない。しかし、それ故に恐ろしいのだ。 イスの中へ、その異和感をまき散らしている。 すべての末端をこれらの情報に捕えられた時、おれはがんじがらめ

7. SFマガジン 1970年11月号

になっている。もしも情報がおれの精神の中核部を突き刺したとしもとの世界に戻れるのだ。おれがもとの世界に戻れた時、おれは情 ても、おれにはまだ行動の自由が残されている。だが、考えてみれ報による呪縛から解き放されているのだ。 ばこれこそがにせものの世界のにせものの情報たるゆえんなのであ このにせものの世界のにせものの情報を、はっきりにせものであ ろうけれど、その情報に何ら本質的なものがなく、単に末端的な、 ると証明した時、おれは呪縛から解放されるに違いない。そして今 しかも見せかけだけはいかにも本質的くさい情報であった場合は、 のところ、むろんそんなことは証明されていない。証明されていな そして、すべての情報がそんな情報ばかりであった場合は、それは いからこそ、つまりそれがにせものか本物か自分で確信が持てない おれの行動の自由だけでなく、精神の自由さえ奪ってしまうのだ。 からこそ、おれはがんじがらめにされているわけであって、にせも そしてそれこそ、おれが情報による呪縛と名づけているものなのでのだと思う理由が単なる異和感でしかない間は、おれは呪縛から解 ある。 き放されることはないのだ。それが証明される迄は、おれは情報か 事実、現在のおれは、このビルの最上階の八階にあるおれの部屋ら解放されることはないのだ。 から外へ出たことがないのだ。 情報が本質的でなく末端的であり、ゆえに本物ではなくにせもの 食事も部屋で、テレビを見ながらとる。すべて注文し、持ってきであること、それはどうすれば証明されるだろうか。情報の源をさ てもらうのである。食事をしながらテレビを見ることが可能であるぐればいいのだ。そして、情報が末端的であることを最も露骨に示 している媒体がテレビである以上、テレビを放送している場所へ行 というのに、どうしてわざわざテレビのない屋外へ出て行き、どう き、テレビを放送したり、放送させたりしている人間に会って、彼 してわざわざテレビのないところで食事をしなければならないとい らのすべて、彼らの放送のすべてがにせものであることをつきとめ うのか。 そうだ。そう考えるということこそ、おれが情報に行動の自由ばればいいのである。 そういうことができるものだろうか かりでなく、精神の自由さえ奪われかけているということになるの だ。では行動の自由、精神の自由を得るためこよ、 冫。いったいどうすやって見なければわからない。 行動にとりかかろう。 ればよいのか。いうまでもない。 この情報による呪縛から解き放さ この部屋を出よう。 れることが必要なのだ。では、情報による呪縛から解き放されるた に、いったいどうすればよいのか。それは、このいやらしい 脱走してやるそ。 おれは部屋を出た。 にせものの世界から、もとの世界へ脱出すればいいのだ。脱出。そ れは如何にして可能か。どうすれば脱出できるのか。 自分の部屋を出るのは、この前万年筆を買いに出た時以来二カ月 逆もまた、真なり。 ぶりである。このにせものの世界では、さすがににせものの世界ら 情報の呪縛から、解き放されればよいのだ。それによっておれはしく生活全般にわたり、すべてがルーズな調子で生きていけるよう 2

8. SFマガジン 1970年11月号

たいへんである。 テレビ電話の研究が本格化しはじめた当時、その使用法や使用目 つぎに氏は、鼻と耳の運動にうつった。鼻の先を上下左右に振動的として、 ①顔形や文字を送受する させつつ、鼻の穴を間欠的に開閉し、それと同時に両耳を独立に・ハ タバタさせるのである。 ②図形や文字を送受する フッヒッフッ という議論がく このふたつのどちらが正しいありかたなのか りかえしなされた。また実験も行なわれた。ビジュアルがデ・ソン デ・ソンナ氏の顔面はますます汗でひかり紅潮してきた。 さらに氏は、アゴとノドボトケの無関係連動にうつった。鏡をもナ氏に質問した問題である という説もあ つ手がふるえてきた。 高いお金を払って顔など送ってもしかたがない 「お持ちしますわ、あなたー との主張もあった。 れば、顔を見ることこそ重要なのだ アンナは自分もその真似をして顔面筋肉を躍動させながら、夫の この議論の決者は、その後の歴史がつけてくれた。 練習を手伝った。 はじめは、ものめずらしさに、お偉方が顔を眺めあい、やあや フッヒッフッ あ、とあいさつをかわした。 デ・ソンナ氏は必死で練習をつづけた。眼球の運動、ホクロの連 そのすぐあとで、第一の実用期がやってきたが、この時期におい 動、マッゲの振動、頭髪の振動などもあった。 ては、主たる使用者は中以上の企業であり、重役が課長さんたちを 「ふうーツ」 監視するときの他は、業務に必要な図面の類を送ることに主力がそ 氏はときどき息をつき、額の汗をぬぐったが、またすぐに、練習そがれた。大きな手描き文字も伝送された。顔のほうは脇役になっ をはじめた。 たのだ。 フッヒッフッ なお、まえにもすこし述べたが、第一の実用期の後半に、テレビ 電話の画面はすべてカラー化され、大型となり、周波数帯域幅も四 これがつまり、デ・ソンナ氏がもっとも不とくいとする″体操〃千メガサイクル ( 現在の放送テレビは四メガサイクル ) にまで拡張 された。つまり現在のカラーテレビの千倍だけ鮮明な画面となった だったのである。 正式には " 顔面体操″であり、その目的は、この時代のもっとものだ。 つぎに、第二の実用期がやってきた。この時期においては、人々 特徴的な側面ーーーっまり″顔像文明″ ( あるいは百面相文明 ) の画像表現能力が極限的に進歩し、″マンガ体″と呼ばれる技術が における情報伝達効率の向上をはかることにあった。 顔像文明とは、テレビ電話をはじめとする画像伝送・処理装置の発達し、テレビ電話は画像による会話のメディアとなってさかえ た。家庭にも進出してきた。 発達と切ってもきれない関係にあった。

9. SFマガジン 1970年11月号

「便所というものは、衛生上は、きわめて近代的でなければいか いのか、さつばりわかりません」 ん。しかし、外観は古典的にしてみたい。そこに苦労があった」 「″先生″は教えてくれなかったのか ? 」 「はあ」 「″先生″って、あまり好きじゃないんです。顔を動かすのもきら 「わたしはいろいろ考えた。その結果、これまでの便所には、重大いです」 な欠陥のあることを見出した。というのは、便所には大便所と小便「それはまあな : : : 」 デ・ソンナ氏はしばらくだまって考えていたが、やがて、意を決 所とがあるが、人間の排泄はそれだけではないからなのだ」 したようにいっこ。 「はあ」 「きみは、テレビ電話がはじめてできて、″ティーチング・コンビ 「人間は大と小のほかに、ガスを出す。な、そうだろう ? 」 ュータ″が完成するまでの歴史を知っているかい ? 」 「はあ」 「そこでわたしは、大便所と小便所の中間に、″・ カス所″というも「知りません」 「わたしは、個々の原理についてはよく知らない。いま先生 のをつくった。これがきみ、大成功でなあ、たいした評判になった にぎゅうぎゅうしぼられているところだ。しかし、システムの大ま 「はあ」 かの歴史はよく知っている。研究生活に必要だったからな。簡単に 「そのおかげで、外観は古典的でも、内容は近代的なトイレができ話してあげようか・ : た。いまわれわれがもたれている、この壁の向こうはトイレなんだ が、まったく臭気がせんじやろう : ビジュアルはだまっていた。しかし、デ・ソンナ氏は、その表情 「多少はします」 に、無関心をよそおいながらも、はげしい好奇心が動いているのを 「うん、まあ : : : きみは若いから鼻がいいんだな。しかしとにか見てとった。 で、デ・ソンナ氏は話しはじめた。 、古典的なーーっまりきみ好みのーー・・校舎ができるようになった のだ」 「でも」ビジュアルといったその生徒は、はじめて体を動かした。 「中味はクラシックじゃありません」 「どうしてかね ? 」 「テレビジョン放送の歴史は古いが、テレビ電話の歴史は、それよ 「テレビ電話だのなんだの : : : 変なものばかりあります」 りも遅れている。テレビジ彑ン放送は、一個所で放送して、それを 「変なもの ? 」 多数の受信者が一時に受けるから、あまりお金がかからないのだ 「変ですよ。ぼくら、どうしてあんな機械で勉強しなければならな が、テレビ電話のほうは、ひとりひとりが、放送者と受信者との両

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テレビ教育日寺イ弋 石原藤夫 画 = 水野良太郎 すでに功成り名遂げた 57 才の有能な老科学者が なぜに高校生活に情れたか ? 来るべき画像文化をえくる 作者独擅場のユーモア S F / 宀冫を