騎馬 - みる会図書館


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1. SFマガジン 1970年11月臨時増刊号

弁韓の騎馬の民が、旧来どおりの支配を続けているあいだに、東彦は、ときたま、部族の本隊と分かれて、伽耶の国にある野営地 はく亡い 西におこった斯盧、伯斉の両国は、ますます強固なものになってい へ行ってみることがあった。ここには、漢人の法術師左慈がいるの しようぶ った。農民を訓練して兵士となし、騎馬の民の尚武の伝統をたもつで、漢土のことなど詳しくきかせてもらえたからである。そればか けんげき 斯盧の国では、男子は成年に達すると、ただちに乗馬や剣戟を教えりでなく、左慈が本隊と分かれて、伽耶の国にとどまっていたの こまれ、国家のため身をささげるという掟がつくられた。また、楽は、ここが一族の筑祀の場所だったからである。部族の本隊は、各 こくな かなやま あんら とりで 浪の府に近く、多くの影響を漢から受けている伯斉の国では、文武地を転々としているが、谷那の鉄山や、安羅の砦などの拠点には、 百官を定め、それに従って兵制を定めるという、いわば漢王朝の縮かなりの守兵が残してある。そういった拠点のうちでも、もっとも かや 小版のような国家へと成長していった。これら東西の両王朝は、し重要なのが、伽耶にある祀の場所である。なぜなら、部落の将来 だいに附近の小王国を併呑し、それそれ辰韓、馬韓の全域へと統合に関する重大事を、祖先の霊のまえで合議する場所だからである。 をすすめていった。 この合議制は、騎馬民族に共通するものだった。彦の部族につい よこど 彦の部族は、これら両国の境界を越えることもあった。鹿を横奪ては後にのべることにして、ほかの種族についての記録を、簡単に りされたときは、対岸の近くに村落があったから、行手を妨げられ引用してみよう。 たが、もともと南鮮の人口は、それほど密ではない。越境する気な 〈勇健能理な者を選んで、侵犯者と決闘させ、飃ん ( 首長のことか ら、どこからでも侵入することができた。だが、敵領内ふかく進む ? ) と為す。それそれの部落には小帥がいるが、世襲ではない。数 ことはできなかった。それそれの国に組みこまれた村落には、自警百千の部落が集まって、一部梃をなしている。大人は、部落にいる 組織ができあがっていて、よその騎馬の民が入りこもうものなら、者を召しよせ、木を刻んで信頼を誓わせる。この部落には文字は伝 たちまち早馬をとばして急を告げる。うかうかしていると退路を断わっていないが、敢て違反する者はない〉 たれ、全減しかねないほどである。いつの場合も、ほうほうの態で ( 『魏書の条』 ) 戻ってくるのが、せきの山という有様であった。 この鳥丸は、東胡の一族で、遼河の上流によった。二〇七年、 しかも、東西両国の勢力は、日ましに強まってくる。部族の武器 魏の曹操に亡・ほされている。 こくな くろがね かなやま をつくる鉄を産出する谷那の鉄山さえも、伯斉の国に奪われる始末 であった。 〈その言語と習俗は、鳥丸と同じだった。檀石槐という男は、長大 忙がしい明暮れのうちに二年がたち、十八歳になった彦は、一族勇健で、智略が衆にぬきんでいた。そのため、部落は長れて服し 随一の弓の名手として知られるようになった。口さがない女どもた。法を施し曲直を禁じたので、敢て犯す者がなかった。ついに推 は、一族の始祖である東明聖王に、彦をなぞらえるような不敬な真されて大人になった。檀石槐の死後からの諸大人は、世襲になっ 似をするほどであった。 た〉 けいか、 はくせい たいじん かや

2. SFマガジン 1970年11月臨時増刊号

ここで耆老が、鹿を奪った土掘りどもの言葉を理解できたのは、 けた鹿をかつぎながら、森のなかへ去っていくところだった。 しろ 「判ったか、彦。やつらは、もはや以前の土掘りではない。斯盧の 洛東江の両岸の両韓族が共通の言葉を使っていたからである。 くにたみ 国民なのだ。騎馬の兵が守ってくれぬときは、自分で守ろうとす 「なんだと、土掘りどもが戦うだと ? 」 彦は説きかえした。そんなことが、あるはずがなかった。かれらる。弓矢の扱いも教えられた。戟の振りかたも学んだ。だから、昔 騎馬の民が暴れこめば、女のようにふるえあがり、おとなしく穀物のようには、たやすく殺せぬようになった」 をさしだす。それが、彦の知っている土掘りどもであった。 耆老は、はずむ息を押さえながら、族長の息子に言いきかせた。 だが、耆老のいったことは、嘘ではなかった。対岸の土掘りども「なぜだ。なぜ、臆病な土掘りどもが、戦うようになったのだ ? 」 冫いっせいに立ちならび、弓矢を射かけはじめた。一の矢を射は 「それは、期盧へやってきた騎馬の民が、やつらをむやみに殺さぬ なした者が退くと、うしろの者が進みでて二の矢をはなっ。そのあからだ。土掘りのつくった穀物のうち、必要な分を取りたてるだけ いだに、河原の向こうの森から、戟や弓矢を持った男たちが、駈けで、残りを返してやるからだ。しかも、もし、敵が攻めこんできた つけてくる。 りしたら、騎馬の民が守ってやるからだ。見ろ、あそこをー 耆老は、岸辺にすわりこんだまま、対岸を指さした。そこには、 彦と耆老は、飛んでくる矢を払いながら、激流の中央で馬を乗り しずめなければならなかった。狙いも不確かなうえ弓勢も弱いの二十騎ばかりの一隊が、こちらをにらんでいる。おそらく、土掘り しろ で、どうにか防いでいられるが、し 、つこうに進むことができない。 どもの知らせで、駈けつけてきたにちがいない。期盧の国の騎馬で ある。 それどころか、水勢に押されて、しだいに下流へながされていく。 「うぬ、土掘りどもめが ! 」 「おれには判らぬ。なぜ、土掘りどもを守ってやらねばならぬの 彦は喚きたてたが、どうすることもできなかった。すでに、下流か。なぜ、やつらを殺してしまわぬのか 2 はるかに押し流されていく仲間もある。しかも、いかに弱い弓勢と「よいか、彦。土掘りを殺してしまったら、誰が穀物をつくる ? はいっても、そのうちには手傷を負う仲間もでてくるにちがいなやつらに穀物をつくらせ、わしたちに必要なだけもらう。そのかわ りに守ってやるのだ」 ひこきろう とうとう、彦と耆老も、そのまま馬首をかえして、もときた岸へ 「土掘りから穀物をもらうことなど、おれには我慢できない」 戻りはじめた。ようやく、岸辺にあがったとき、一行は人馬ともに彦は、反撥した 0 だが、。この若者の心も、手痛い目にあって、ゆ 疲れはてていた。しかも、仲間の一人は、矢の当たり所が悪かったるぎはじめていた。 はくせい と見えて、水におちたまま姿を消し、から馬だけが戻ってきたにす弁韓の東西には、斯盧の国、伯斉の国というものができあがりつ ぎなかった。 つある。それに対して、弁韓だけが、遅れをとっている。ここに移 7 かち′一ぎ 対岸の土掘りどもは、これ見よがしに勝鬨をあけ、棒にくくりつ ってきた騎馬の民は、気まぐれに農民の部落を襲って、穀物を掠奪 しろ しろ

3. SFマガジン 1970年11月臨時増刊号

ずであゑ耆老を介して、なにくわぬ顔で尋ねると、ここに集めらによって漢土を追われ、半島へ流れついた無頼漢に等しい連中であ れた兵馬は、かれらの追手でなく、逃散した農民を取りもどすためる。 いっせいに殺到する軍兵をまえにして、哀れな土掘りどもは、ま だという。砦の隊長は、彦の一行にむかって、高圧的に同行を求め た。慣れぬ沼沢地で作戦するため、案内する者を探していたのであったく為すところを知らなかった。呆然と立ちすくみ、丸い眼を見 る。もし断われば、砦に止めおかれるに違いない。翌朝には、楽浪開くばかりであった。かろうじて、軍兵にとりすがる男どもは、沼 沢のなかへ押したおされる。泣きわめく女どもに、下馬した兵士が からの急使が到着して、なにもかも明るみにでてしまうだろう。 族長は、やむなく同行することを承知し、漢の兵馬とともに、南挑みかかる。 をさして出発した。 彦の心の底から、怒りがこみあげてきた。掘るべき土すらもない 農民を取りもどすといったのは、帯方の荒地へ逃けこんだ連中の農民どもを、ただひたすらカずくで連れもどそうとする漢人ども。 どんな権利が ことにちがいない。さほど危険な任務ではないので、集められた兵その漢人も、土掘りだというではないか。いったい 馬は、精鋭とはほど遠い一隊であった。そして、かれらのあいだにあって、この半島に暴威をふるおうというのか。 は、のんびりした怠惰な雰囲気がみなぎっていた。もし事情を悟ら「親父さま ? れたら、ただちに追手に変る一行と、しばらく行を伴にすること彦は、族長を見やった。軍兵の狼藉を傍観できなくなったからで は、あまり気持のいいものではなかったが、この様子なら戦って勝ある。 てない相手ではないと知ったので、彦たちも気分をおちつけること「やつらは敵じゃ。よいか、わしの命令を合図に、襲いかかれ ! 」 ができた。 族長は、ついに断をくだした。かれら騎馬の民の敵味方の判断は は、たいへん柔軟性にとんでいる。これまで味方であったものでも やがて、一行は、帯方の荒地へ入りこんだ。この畩路のあいだ、 彦は、魏の姫につきしたがっていた。漢兵に気どられてはまずいのも、俄かに敵になることもありうる。その場合に要求されるのは、 なり で、美しい衣裳をはぎとり荷のなかに隠し、かれらの部族の態をさより敵であるか、もっとも敵であるかという、比較級、最上級の判 せてあるが、泥を塗った顔にも、おのずから生まれがでてしまうの断である。漢人のように、華 ( 文明 ) ーーすなわら味方、夷 ( 野 か、その美しさは変らなかった。もし、漢語で助けをもとめたりし蛮 ) ーーすなわち敵というような、二元的な判断をくだすことはな きろ ) たら、ただちに刺しころすよう、耆老に命じてある。 楽浪を逃がれてきた土掘りの部落へさしかかったとき、漢人の兵族長の命令をうけた一行は、魏の姫と耆老だけを残して、いっせ しっせいに抜刀した。舌なめずりして腕をまりあげる 士たちは、、 いに楽浪の軍兵の背後から襲いかかった。味方の人数は、敵の半数 にもみたないが、不意討の効果は絶大であった。楽浪の兵の半数 5 者もいる。いちばん獲物のありそうな小屋を物色す者いる。か れらは、最盛時の漢の正規兵とは違う。魏、呉、蜀の三カ国の動乱は、目ぼしい物や女を求めて、すでに下馬していた。そこへ殺到し

4. SFマガジン 1970年11月臨時増刊号

の民ですら敢えてしない、恐るべき残虐行為であった。 「楽浪には、なんという ? 」 りようとうこうそんこう この頃、遼東の公孫康は、漢室の衰亡に乗じて自立をはかり、魏「鉄や玉だけを届ければよい。やつら漢人は、もともと土掘りだそ 7 そうそう の曹操とむすんで中原へ進出しようとしていた。兵馬や糧食が、こうな。欲しければ、自分たちで土を掘って、穀物をつくってみろと の目的のために、無限に調達されていた。かっての最盛時の漢の正言ってやれ。やつらが、どんな顔をするか」 規兵であれば、これほどまでに農民を搾取しようとはしなかったで彦が言いおわると、族長は、大声をあげて笑いだした。 は ~ 、せい あろう。だが、もともと、公孫康には、朝鮮半島をまともに経営す「よく言うた。伯斉が朝貢に行ったときは、下賜品すらなかったと いう。つまり、奪られ損というわけだ。むこうが、その気なら、こ るつもりなどない。曹操との同盟が成功し、中原に入ることさえで ちらにも考えがある。相手は漢ではない。公孫康という男だ。その きれば、そのあとのことなど、い っこうに問題ではないのだ。 彦は、腹たたしかった。漢人は、かれら騎馬の民のようにかっと男には、われらは、なんの義理もない」 なって農民を殺したりしない。家に火をかけたりもしない。だが、 族長は言いはなっと、荷駄の穀物をおろさせた。かれら自身すら ひも かれらより、はるかに冷酷である。漢人は、半島の蛮夷を、まった餓じいのを我慢して手をつけなかった穀物を、ここにいる流民ども かす く人間とみなしていない。騎馬の民は、村落を襲って、女を掠めてに与えようというのである。 犯す。だが、その女がいい女であれば、かれらの部族の一員にくわ下馬した一同が穀物をくばりはじめると、あたりは流民でいつば えられ、正式に妻にされることもある。だが、漢人は、女を奪って いになった。やせこけた頬に、はじめて笑いがうかぶ。押しあう子 きんじゅう も、あくまで下婢として召使うだけである。禽獣と変らない蛮夷のどもたちの顔に、元気があふれる。 へいり 女を、本気で愛したりしない。いらなくなれば弊履のごとく捨てさ 一行は、荷駄の穀物をのこして、伏しおがむ流民たちに送られ、 る。それが、漢人のやり口である。 身軽になって帯方の荒地をあとにした。 ととくふ 彦はだしぬけに、水草を踏みならし、泥をはねあげながら、父の それから三日後、彦の一行は、楽浪の平州都督府へ入った。 族長のもとへ馬をすすめた。 彦にとって、なにもかも珍らしいことばかりであった。数千の人 「親父さま、朝貢の穀物を、こいつらにやってしまおう。どのみ家が立ちならぶ風景も、はじめて目にするものであった。通りに なち ち、楽浪の府へやってしまうものだ。それなら、もともと土掘りか は、軍兵の姿が、あちこちにあった。鞭をもって奴婢を追いっかっ ら奪ったものだから、土掘りに返してやればよい」 ている者もいる。けばけばしい鎧をつけた漢兵の姿は、むしろ滑稽 彦の言葉をきいて、族長は、しばらく考えていた。老境にはいっ にみえた。あれでは、身軽には戦えまい。むしろ、耆老のように片 た族長は、ここ数年のあいだ彦のいうことを、たててくれるように袖だけつけていれば、弓をひくときも自由がきくだろうと、彦は考 なった。氏族代表の合議のとき、彦に有利なようにと、今から心がえたりしていた。 けているらしい 通りをぬけると、ところどころに土塁があり、そのむこうに城壁

5. SFマガジン 1970年11月臨時増刊号

くられた。以前には、家に火をかけ、女を犯し、男を斬りすて、それらは、非常に早婚であるため、長男と父親の年齢のひらきが少な いので、父親が死ぬころになると、長男も老境に入っていて、族長 のあげくに、手ぶらで戻らなければならないことさえあった。それ を、人ひとりの血を流すこともなく手にいれてみせたのだから、得になったとしても、それからいくらも働けそうもない。したがっ 意の法術とやらを使って土掘りを手なずけたとしか思えないほどでて、次代の族長になるのは、父親が中年ちかくなってから生まれ た、末のほうの男子である。これが、ふつうにいわれる騎馬民の末 あった。 「明日は、本隊が戻ってくる。重大事を合議するためである。ある子相続制であるが、かならずしも、末子とは限らない。 なぜなら、族長の決定は、それそれの氏族の代表によって、選挙 いは、それは、次代の族長の選出であるかも知れぬ。そののち、お でおこなわれるからである。ただし、族長の候補は、ある一定の氏 まえは、父とともに、楽浪の府へ出発することになろうー を、ようど 老いた法術師は、彦の問には答えず、べつな話題にとりかかっ族の出身でなければならない。匈奴についていえばそれは攣氏族 であり、時代はくだるが、モンゴルについていえばポルジギン氏族 た。単に土掘りどもの機嫌をとれといったわけではない。むしろ、 土掘りどもが安全に生きていけるように、騎馬の民のほうから取りである。つまり、被選挙権をもつ者は、かならず一定の選ばれた氏 はからってやらなければ、祭祀のある伽耶の国すら危くなるだろ族の出身でなければならない。たいていの場合、その氏族は、、天か いらくだったというような始祖伝説を持っている。たとえば、期盧ー う。彦にも、そのことが判りはじめている。左慈は、それに気づ ・まくしやくきん ー新羅では、朴、昔、金という三つの天降姓のうちから、選挙で王 たので、あえて答えようとしなかったのである。 当面の問題は、今朝ほど早馬で知らされてきた、本隊の帰還のこがでている。王権が金姓の世襲になったのは、後になって中国の影 とである。合議をおこなう準備をしておけと、伝えてきた。恒例の響をうけてからであり、さきにあげた鮮卑の例と同じである。 これを農耕民である中国の王朝と比べてみると、いろいろな相違 合議ではなく、族長の判断によって招集される、突発的な合議であ り・ゅ′ノは′ しゆったい る。かならずや、なにか重大な決定を迫られる事態が、出来したに がよくわかる。たとえば、漢の王朝であるが、高祖劉邦は一介の布 ちがいない ( 平民 ) の出身である。ー権臣の一族が、どれほど権力を握って 「おれが、族長に選ばれるのか ? 」 も、かれら騎馬民族のあいだでは、首長になれる氏族は、先祖代々 彦は、たずねた。そうだることを望んでもいたし、そうなるにちさだめられている。政権を奪ってみても、その氏族の出身でなけれ しようあく ば、どんなことをしても人心を掌握できない。 がいないという自信もあった。ただ、そのことを、漢人の左慈に、 保証してもらいたかったのである。 漢の場合には、呂氏の専政がくつがえされると、以下の皇帝は、 けん 彦は、族長の息子のうち、生きのこっている者の最年長である劉氏の子孫に継承された。相続するのは、正腹の長男であって、建 ちょ が、それだけでは次代の族長になれるとは限らない。ふつう、騎馬儲 ( 立太子 ) のときから、次期の帝王にと定められているから、他 3 の民では、長男が継ぐという例は、きわめて少ない。なぜなら、かの兄弟から臣礼をもって仕えられる。どれほど無能な太子であって かや れんてい

6. SFマガジン 1970年11月臨時増刊号

だが、妃が休めていられるのは、産後の体だけであった。筑紫にが、すでに判っている。したがって、ここに永住することは不可能 である。 定着した部族の人々は、つぎつぎに妃の采配をあおぐため訪れた。 妃は、産屋のうちから指令して、四方へ物見をたした。すると、 すでに王族も諸将も、王たる仲っ彦を信用しなくなって第る。した がって、妃が妊娠の重荷から解放されると同時に、今後の問題など東方へむかった物見から、興をそそる知らせが届いた。筑紫の東の やまかげ をもちこむようになった。 瀬戸をわたると、また陸地があるという。その山陰にひとつの国が 筑紫の島のうち、倭の支配下にあるのは、北部の海岸と平野だけあり、出雲という。そこが豊かな国であることは、すでに筑紫の者 であり、南方の山嶽には、土掘りでも騎馬の民でもない、まったく から聞きおよんでいる。だが、物見の知らせでは、それより遙か西 かす に、海行しても陸行しても行けるところに、またひとつの国があ 別種の原住民がいて、しばしば侵攻してきて、糧食を掠めとってい なみはや くまそ くという。かれら熊襲の民は兇暴で、手のつけられない相手であり、名づけて浪速の国ということであった。 はりま る。このことは、妃をむかえた筑紫の長老から、すでに聞きおよん この国は、出雲の国、播磨の国などと対立しており、金銀の山な でいる。 す宝の国であるという。しかも、この浪速の国のさらに東方には、 くがち かり / 、ら 土掘りでも騎馬の民でもない種族を、妃は知らなかった。これは涯しなく陸地がつづき、狩倉の獲物にことかくことはないと伝えら 無理もない話で、東北アジアで知られる生産様式をもっ種族ではなれる。 妃は、この知らせに接して、大喜びして、日の神オオヒルメムチ いからである。中国をとりまく北方の世界では、常に集約農耕民と に祈りをささげてから、ただちに諸将をあつめ、遠征のことなどを 騎馬狩猟民の対立が続けられていた。だが、その両者の葛藤のなか 取りきめることにした。 に、山嶽民が介入することはなかった。かれらは、雲南からインド シナ半島にかけて棲息する種族で、北方アジア世界とは無縁であっ 一隊は、出雲に先行して、浪速を討っための助力を乞い、最悪の た。筆者の考えでは、インドシナ系の海洋民族とともに、この列島場合にも、牽制して中立を守らせる。そのあいだに、本隊は舟行し へ漂着した山嶽民の子孫だと思う。当時は半農半猟の生活をしてい て浪速の国にいたり、ただちに戦闘にとりかかるものとする。兵馬 たらしい や糧食の手配なども、こまかく取りきめておかねばならない。 妃は、物見の者の知らせから、この熊襲族が、交渉できる相手で こうして、妃の日常は、まえにもまして、多忙をきわめた。生ま ほむだ めのと はないと悟った。今のところ筑紫の北部は平和であるが、いっ背後れたばかりの品陀の王子を、乳人にあずけておかねばならないほど を襲われるか判らない。だからといって、犠牲をはらって平定したであった。 ところで、なんの役にもたたない。態襲の土地は貧しく険しく、倭ようやく戦備がととのったとき、この遠征のことが、王の仲っ彦 人にとって利用価値がないからである。 の耳にはいった。まだ体も定まっていない妃は、ただちに王のもと 筑紫の北部だけでは、急増した大人口を養うことはできないことに呼びよせられた。 うぶや 9

7. SFマガジン 1970年11月臨時増刊号

どうけい きろう かし、騎馬の民は、正面から大兵力と戦うことをしない。敵の兵力 耆老は、あくまで、嘆願論であった。漢人の文化に憧憬をいだく 男としては、伝えきく強大な漢の国と戦うことなど、思いもよらぬを分散させたり、後方を攪乱したり、指揮官の離叛をはかったりし 6 みつぎもの ことなのだろう。貢物は、指定された量目には届かないが、半分よて、敵を奔弄するのが常である。事実、匈奴の騎馬は、強大な漢を り多くを調達できたわけであるから、嘆願すれば許してもらえるだむこうにまわして、数世紀のあいだ戦ってきた。ただし、彦たちの きろう 部族にとって戦術的に不利な点は、この半島の突端に追いつめら ろうというのが、耆老の言い分である。 「今年は、それですむかも知れぬ。だが、来年も同じ要求がでたられ、騎馬の機動力を生かしきれないことであった。 こうちゃく 合議は涯しなくつづいた。そして、双方の主張が膠着状態になっ どうする ? とても調達できるものではない。そもそも、これほど たとき、漢人の左慈が口をひらいた。この老いた法術師は、ただの の無理難題を、漢の国は、これまでもちだしたことがなかった。こ 傍観者として、この席につらなっていたのであるが、ついに黙って れには、訳があるはずだ」 いられなくなったらしい 彦は、傷ついて戻った耆老の努力を認めてやりたかったが、ここ りようとう こうそんこう 「この度の無理難題は、おそらく遼東大守の公孫康の腹からでたも では反対の立場をとった。 はくせい しま漢土では、霊帝の権 のにちがいない。漢土の知らぬことじゃ。、 「いや、伯斉の国がある馬韓には、かって漢の真番郡がおかれてい しよく たという、しかも、伯斉は、漢に朝貢をつづけてきた。この伯斉に威が失堕し、魏、呉、蜀の三王が鼎立している状態で、とても朝鮮 対してすら、この度の要求がっきつけられている。われらごときは半島までは、手がまわりかねておる。この機に乗じて、遼東の公孫 康が自立しようとはかり、そのために、多くの物資を調達しようと 耆老は、言いかけて、きゅうに黙った。いちばん多くの影響を漢しているのだ」 人からうけ、それにならって国造りをすすめている伯斉の国です左慈の言葉がおわると、人々は、ざわめいた。 あの強大な漢の国が、亡びかけているという。前漢の武帝のとき ら、この度の無理難題をまぬかれなかった。まして、弁韓の騎馬の 民が、要求されたとおりにしなければ、たちまち制圧されてしまうより三世紀にわたって、朝鮮半島に君臨しつづけた漢帝国の支配 が、今や揺るぎはじめているという。 だろう。考えるだけで、身のちちむ思いのすることであった。 部族のうちの誰ひとりとして、そんなことを考えていなかった。 「このままでは、われらは破減するばかりだ。戦ってみなければ、 耆老のように漢文化にかぶれている者ばかりでなく、騎馬の民の誇 勝敗はわからぬ」 彦は、なおも主戦論をとなえ、氏族の代表を煽りつづけた。騎馬りにかじりついている彦ですらも、漢が亡びるとは思わなかった。 しゆくしん 事実、遼東から粛慎 ( 満州 ) 、朝鮮にかけての一帯では、漢帝国 の民にとっては、漢と戦うことも、それほど無謀なことではない。 ふつう、農耕民の征服戦は、圧倒的な大兵力で相手の領土を併呑すは神にすら等しい権威をもっていた。 る形をとる。もし、それが不可能なら、征服戦など行なわない。し族長は、しばらく瞑目していたが、やがて最後の断をくだした。

8. SFマガジン 1970年11月臨時増刊号

た分隊が、まず馬を追いはらう。沼沢のほうへ暴走しはじめた馬蹄し、 伽耶自にそって弁韓地方へなだれこんだ。 の轟きにおどろき、小屋から跳びだしてくる軍兵どもは、すっかり これに対して、騎馬の民は、各地の山野を転々として、正面から 7 へいたん あわてふためいている。なかには、大切な剣を鞍にくくりつけたまの決戦を避け、後方を脅かし、兵站を攪乱する戦術をとった。 まの男もいる。 だが、所詮は、兵力に乏しい倭人の力は限られている。ついに、 その間に、族長と彦は、主力を率いて、馬上の敵に攻撃をかけ弁韓の南部の伽耶一国に追いつめられてしまった。そして、せつか た。すっかり油断しきっていた楽浪兵は、馬を乗りしずめるのが精く弁韓の山野に伴ってきた流民どもも、敵に奪いかえされてしまっ いつばいの有様である。しかも、岩場と沼地に足をとられた軍馬た。 は、重い鎧を支えきれない。転倒する人馬が続出した。 戦乱のあいまに、彦は、魏の王女を妻とし、一女をもうけてい 彦は、馬を駈けさせ、剣をふるった。行手をはばむ敵を、容赦な た。だが、王女は、 いっこうに部族になじもうとしなかった。くる く斬りたおした。不細工な鎧をきた武者は、面白いほどの目標にな 日もくる日も、魏の国へもどりたいと、くりかえすばかりであっ っこ 0 た。幼い娘を膝にのせ、いつの日か魏の国へ帰るときのことを、夢 小半刻ばかりのうちに、戦闘は終った。楽浪の兵は、一人のこら見るように話しつづけるのであった。魏の都がどれほどすばらしい ず斃され、騎馬の民の一方的な勝利であった。 ところか、魏の人々がどれほど優雅な暮らしをしているか。そうい いつのまにか、集結した一行のまわりに、土掘りどもが、集まっ った他愛ない話を、まだ判りもしない娘にむかって、憑かれたよう てきた。 に喋りつづけるのであった。 「ありがとうごぜえますだ」 やがて、戦況は、ますます悪化していった。もはや、伽耶の国す 「どうか、わしらを連れてってくらっせい らも危くなっていた。そして、ついに、族長は、合議を召集した。 土掘りどもは、嬉しそうだった。彦は、これほど元気に満ちあふ だが、打つべき手は、すべて打った。合議にはかってみても、妙計 れた土掘りの顔を、これまで見たことがなかった。 が生まれるとは思えなかった。合議の席は、はじめから、沈みきっ ていた。ひとりとして発言をなす者はいなかった。 4 「この上は、部族を二分するしかない。そして、一隊は海をわたっ て、南の島へ逃がれることだ。そうすれば、たとえ伽耶の一隊が亡 それから二年のあいだ、彦の部族は、血みどろの戦いに明け暮れびても、一族の祀を絶やさずにすむであろう」 した。これまで戦ったことのない強大な敵であった。遼東からは、 重くるしい空気を破って、発言したのは、漢人の左慈であった。 公孫康の軍兵が、つぎつぎに送りこまれた。楽浪の府を発した大軍「なに、南の方に島があると ? 」 こうそんぼちょうしよう っしま は、公孫模、張敞の二人に率いられ、続々と南下し、帯方を占領「そうだ。南へなかうと、まず対島につく。さらに南すると一支に

9. SFマガジン 1970年11月臨時増刊号

まくしやくきん た。この新羅は、朴・昔・金の三姓からでる麻立干 ( 王 ) と、韓族 ( 四世紀中葉 ) のとき以来、天降の金氏だけが王位継承権をひとり の六大貴族との合議制の国家で、漢文仏の影響をほとんど受けなかじめした形になり、以後ずっと金姓の王が世襲している。従って、 そうちょう った。そのため、独持の軍事組織ができ、全国の壮丁 ( 青年 ) すべ他の二姓の麻立干の朴・昔の両氏族は、王位から締めだされ、不満 かんきゅう てに兵役を課し、いったん緩急あるときは、数万の兵力を動員できをつのらせ、一味徒党を語らって任那の倭人のもとに身を寄せてい るように備えていた。百済のように、扶余の亡民である首長と、一る者もある。また百済では、漢文化の影響で王の選出制は薄れか 般の人民とのあいだに、和合を欠くようなことはなく、新羅の場合け、建儲 ( 立太子 ) の制度が定まりはじめているが、倭人との友好 には、全国民を一丸とする臨戦体制がととのっていた。この新羅の的関係から、かならずしも亡命者でなくても、多くの百済人が、任 都は慶州にあり、やはり北方では、高句麗と領土を接しあってい那に出入している。 た。仏国寺のような仏教文化で知られる古都慶州は、現在の大韓民また、任那には、これら隣接諸国で罪を犯した人間も、数多く逃 みまな 国の観光コースであるが、これは後になって百済、任那の領土を統げこんでいるし、五胡十六国の争乱に明ける中国本土からの漢人 一してからの影響であり、この四世紀末の頃には、仏教はおろか儒も、数知れず流れこんでいた。 みまき とりで 任那には、御間城という砦があり、ここに府が置かれている。御 教の影響さえ受けなかったと考えられる。 南鮮の二国に対して、統合の遅れを取りもどせなかったのは、任間城というのは、倭の言葉で、文字どおり任那の城という意味であ 那の国である。ここに侵入してきた族の残党である倭人は、いまる。これは、海に近い安羅の国にあり、祭祀の場所からも遠くない だに国家の経営には成功していなかった。かれら倭人の勢力は、こところにあった。砦のまわりには、交換の市もたち、亡命者や貴族 しらぎ の弁韓の旧領から北九州まで伸び、しばしば百済や新羅の領土までの家もならび、町らしい体裁をととのえはじへていた。 及んでいたが、征服者の騎馬民と土着の農耕民との溝は、依然とし任那全域の都といったところだが、それそれの地方にある安羅、 て埋められぬままであった。かれら倭人のあいだには、数知れぬ外伽耶、狗邪など農民の村落国家は、依然として存在している。同化 国人が従い、その軍事征服に協力していた。それらの外国人の多くに失敗した騎馬の民は、これら村落単位で支配し、そこから租税を は、隣接する高句麗、新羅、百済など征服王朝の王族の一党であっ徴収するだけで、東西の両王朝に比べると、著しく遅れている。そ た。かれらは、合議の席において王位を争って敗れた者たちで、国のことが幸いしてか、騎馬の伝統の軍事的な力を失わずにすごして 内にとどまった場合には生命を奪われかねないので、やむなく任那いるが、文化的にも政治的にも、統一にはほど遠い有様である。 の倭人の王を頼って亡命してきたのである。新羅、高句麗など、特倭の支配する任那にとって、当面の敵は、強大化する高句麗であ に倭人と対立している国家では、騎馬の民の伝統である合議によるる。扶余の東明聖王の直系にあたる、この騎馬民族国家は、しばし 王の選出がおこなわれ、そのため相続の内紛が絶えまなく起こってば南下して、任那や百済の辺境を犯している。百済は、四半世紀ば 9 なこっ いるから、亡命者が続出している。特に新羅においては、奈忽王かりまえに、国力をあげて高句麗を攻め、国王を戦死させるほどの キョノチュ ルカノ けんちょ くじゃ ていさい

10. SFマガジン 1970年11月臨時増刊号

つかさ 王〉というふうに記してある。そこでは、天を司どる天帝に対し だが、実際にそうなった例は、あまりなかった。なぜなら、漢の命 て、水を司どる神は河伯である。海神という発想はおこなわれなか令は、どんなときも妥当なことばかりだ「たからである。かれら漢 人は、朝鮮半島の住民から、不当な取りたてをしようとしなかっ かしひん みつもの かれらの部族は、畏怖すべきものとしてしか、海をみていなかっ た。貢物を持っていけば、それに見あうだけの下賜品があるのが通 た。そこにどんな神がいて、どのように仕えればよいかという定め例であった。つまり、朝貢という形をとる変則的な貿易であり、住 は、かれらの習慣のなかにふくまれていないことであった。 民に不利なところはなかった。楽浪の府は、いわば現地の代理店と 「彦、おまえも、あと二年ばかりすると、十八になる。おまえの父いう形だったのである。 親が、楽浪の府へ同行してくれるだろう。そのとき、おまえは、漢彦は、漢人が土掘りだという事実を知り、裏切られたような気持 人というものが、どのような連中か知るであろう。やつらは、土掘になった。たかが土掘りなら、恐れることもない。 これまで、畏っ ぎろう りじゃ。・こ・、、 ナカここの百倍もの大きさをもつ、漢の国をつくりあげてきたのが、むだであったことになる。耆老のように、漢の国のこ よろい た土掘りじゃ。そこでは、土掘りが、なにもかも支配している。そととなると、どんなことでもーーたとえ、鎧の片袖であっても うがんせんびぎようど して、まわりをうかがう、鳥桓、鮮卑、匈奴などの騎馬の民は、こ有難がる男もいる。また、彦の父の族長すらも、漢人から臣智とい の土掘りどもの下におかれているのじゃ う位をもらって、喜んでいる始末である。 左慈は、きゅうに話題を変えた。彦は、驚きのあまり、ロもきけ彦は、不思議だった。なぜ、土掘りにすぎない漢人が、それほど いすれにしても、二年後に楽浪の府へいけば、なにも なかった。漢人が土掘りの仲間だという話は、かれには初耳だった偉いのか ? からである。 かもることのように君えた。 きろう らくろう 耆老の話によると、楽浪の府にいるという漢人は、美しい衣服を ぎて、いつも威張りかえっているということであった。あちこちの ぜに 土掘りや騎馬の民がくると、毛皮や絹とひきかえに、銭や鏡や玉な どというものをくれるという。もちろん、かれら漢人が、土を掘っ それから二年のあいだ、彦の部族は、弁韓の山野をかけめぐり、 ているところを見たなどという話は、きいたことがない。 あちこちを移動していた。時には農民の抵抗をうけることもあった はくせいしろ かれら漢人は、句麗や扶余やなどの騎馬の民や、伯斉、斯盧、が、騎馬の民の移動力は、組織だった軍隊を持たぬ村落を、つぎつ とくろ 濱慮、伽耶などの土掘りの国を、はるかに超越した支配者として、 ぎに粉砕していった。以前なら、これほど頻繁に土掘りどもを襲う 必要はなかった。だが、今や、乏しい狩の獲物だけでは部族を養え 朝鮮半島の全域に君臨している。これに逆らうことは許されない。 もし、漢の命令に服さなければ、見たこともないような大軍が、北 なくなっているので、土掘りどもの穀物に頼らざるをえなかったの りようとう である。 方の遼東方面からやってきて、たちまち亡・ほされてしまうという。 かや ふよ 2 しち うやま