彦 - みる会図書館


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1. SFマガジン 1972年1月号

はない。たとえ十日かかろうと、敵に発見されぬことが肝要であ束とはいえ、蛮族の王が呉れた名を、そのまま名のっているとなれ る。 ば、日代の宮における立場が不利になるにちがいない。そうしたこ 弟彦と珍彦が先頭にたち、抜剣して枝葉を切りはらいながら進んともわきまえずに、蛮族の名を使おうという王子の心底がわからな 。あるいは、愚鈍なのかも知れぬ。だが、もしかすると、この王 でいく。中ほどのところに、タ・ハーナ姫と横立がつづき、王子と犬 しんがり 彦が殿軍をつとめる。こうした隊列が定めてあるが、行軍のあいだ子には、そうした些事に拘泥しない大きな器量が、そなわっている のかも知れぬ。犬彦は、この王子の印象を、いずれとも決めかねて は、ほとんど守られない。な・せなら、夜すすむことが多く、困難に であうたびに、それそれの持場をはなれ、手助けしなければならな かったからだ。 副将格の弟彦が、隊列の末尾に駈けよってきたのは、そのときで 王子ヤマトタケルは、多ぐの場合、あらかじめ定めたごとく、大あった。大彦は、ふたたび眼を光らせた。この弟彦という男、美濃 いなぎ ちぢか 和の大彦とならんで、行軍をつづけた。王子は、この剣士とは、まの乳近の稲置という豪族の次男だというが、それにしては、大和の ったく面識がなかった。もともと、王子のほうが日代の宮にいるこ王子にむか「て、いかにもなれなれしい口調で話しかける。弟彦が とが多くなか 0 たので、顔を知らない臣下はかなり沢山いる。犬彦兵士のてまえを考えて、この王子とのあいだに隔りを設けているつ も、その一人であり、特に兄の大碓の王子のもとに身をよせているもりになっていても、大彦の眼には、やはり親しみすぎているよう で奇異に写るらしい 者であるから、この弟王子が知らないのも当然であろう。 あわうみ 「王子よ、明朝には、伊都国に近い漁師の村落に着くであろう。こ 犬彦のほうも、北方の淡海 ( 琵琵湖 ) の産であり、不吉な宿命に かぜひめ 呪われた弟王子のことを、単なる導としてしか知らなかった。正統こは、風媛の生まれた土地じゃ、伊都国を奇襲する手助けをしてく れるにちがいない。だが、王子よ、わしは、ひとっ奇妙なことに気 な王位継承者である大碓の王子を脅かす弟ということから、なにか 怪物めいた雰囲気をもっ若者を想像していたのだが、この先入観にづいた。実は、われらの一行の兵士の数が、三人ばかり増えてお は少しも正しいところがなかった。犬彦は、この王子についての印る」 美濃の弟彦は、王子と犬彦にしか伝わらぬよう、きゅうに声をひ 象を、みずからの観察を通してまとめていかねばならなかった。 おうすみこ 「小碓の王子さまは、何故あってヤマトタケルと改名なされましたそめて言った。 「なんと、兵士の数が増えておると ? 」 か ? 」 「さきに手にかけた熊襲の王より、与えられた名じゃ。臨終の相手王子は、問いかえした。ここに伴ってきたのは、大和以来の生残 りの者どもの他は、新来の二人の剣士のみである。おたがいに顔を に誓った約東を、反古にすることはできぬ」 王子は、新しい名の由来を話した。大彦は、この王子が、智恵に見知っているから、おたがいに見忘れるはずがない。それにもかか 欠けているのではないかと、まず疑ってみた。いかに臨終の際の約わらず、兵士が三人ふえ、しかも、その三人が誰なのか、まったく いまわ こうでい 9

2. SFマガジン 1972年1月号

判らないのだという。どの顔も見知った顔ばかりで、いっこうに疑るべき説明を与えてくれる人物は見当たらなかった。さっそく、老 わしいところはないが、全員の人数を合わせてみると、出発時より人をわきへよんで、あらましを話してみると、横立の顔色が変っ 確かに三人ふえているという。 「王子よ、これは、なにかの妖術のせいでござりましよう。大和よ 「まったく奇妙なことがあるものだ。ともかく、ここまで来れば急 えみし ここに兵士をとどめて、夜明けまでに怪事の原因をり遙かな北方にある蝦夷の土地では、一座のうちに知らぬまに入り ぐ必要もない。 こむ童子のことが、伝えられておりまする。しかも、この童子が入 つきとめるとしよう」 王子は、伊都国に近い海岸の岬に、一行三十余人をとどめ、そりこんだことは、そこにいる人々には判りませぬ。しかし、この童 の夜の休息を命じた。これまでは、邪馬台にけどられぬよう、でき子は、たった一人。いま、われらの一行には、余分な者が三人いり るかぎり昼の行軍をさけるようにしてきた。いま、目的地のちかくまじっておりまする。おそらく、何者かが変身して、われらをたぶ に迫り、夜昼いれかえた日課をただすべきであろう。王子と弟彦らかしておる : : : 」 は、切りたった岩場のうえで、すわりこんでいる兵士たちを数えあ老人がそこまで言いかけたとき、王子は、おもわず大声をたて げた。その結果、たしかに三人だけ増えていることがわかった。 やた 今そのことを知る者は、二人のほかには、そこにいあわせた大彦「八咫の鏡をつかえば、その者の正体をつきとめることができる」 だけであった。石占の横立ですら、まだ知らされていない。兵士が 王子の問に、老人は、黙ってうなずいた。この奇怪な事件が、ど このことが不吉なことにつながるかどうか、まだ判んな意味をもつのか判らないが、第三者が一行のなかに入りこんだ 三人ふえた ! ことだけは、ほ・ほ動かせない事実であろう。 っていない。 うずひこ 「皆の者、武器をおいて立ちならぶがよい。今、われらの一行のう 「王子さま、珍彦に告げても、よろしゅうございまするか ? 」 ちに、何者ともしれぬ相手が、変身して忍びこんだ。その正体を見 犬彦が訊いた。 「よかろう、弟彦の言によれば、あの者は智恵者だという。兵士た定めるまで、動いてはならぬ」 ちに聞こえぬよう、そっと伝えるがよい。わしは、石占の横立に尋王子は、兵士たちを見やって、きびしく言いわたした。どの顔に も見覚えがあり、大和をでてより、想い出の糸でつながっている。 ねるとしよう」 かれらを疑うのは、もとより王子の本意ではないが、そのうちの三 王子は、大彦の申し出をゆるした。 休息する兵士たちを見まわったかぎりでは、見なれぬ顔は一人も人は、この一行のうちにいるべきでない相手なのだ。 まじっていなかった。それでいて、数だけは三人ふえている。王子弟彦、珍彦、犬彦の三人は、それそれの武器を手にして、王子の やた 側に立ちならんだ。さらに、石占の横立が、八咫の鏡を手にして、 には、この奇怪なできごとの吉凶を予測することができなかった。 = イ冫カ一歩すすみでた。 この事牛こし、 一行のうちに従う法術師の石占の横立のほかに、 か・かみ 4-

3. SFマガジン 1972年1月号

た。弟彦も王子も、この老人の領民を、下人の若者のために役立てそがせるため、船で浪速の津へ直行するよう命じてある。その途中 るつもりになっているらしい で竜王に襲われれば、溺死はまぬがれまい。亀甲の卦によって安全 3 きみ 「王子さま、弟彦の公、ありがとうよ」 とでたものの、いまだに一抹の不安は残っていた。 だが、すくなくとも、王子の視界のうちにあるかぎり、船には異 若者は、しおらしくうなすいてから、老人のところに歩みよっ 常はなかった。空は晴れわたり、一片の雲もなく、東海竜王の妖異 「爺さま、元気でいろよ。王子さまも、弟彦の公も心配ないが、あな気配は、いささかも見あたらなかった。 んただけは心配だからな。爺さまがくたばっちまうと、憎まれ口を「王子よ、どうやら、尾張の田子は、無事に大和へ行けるようだ」 きく相手がなくなっちまって、おれ、淋しいもんな」 弟彦は、下人の若者をのせた船が視界の外に消えると、はじめて 尾張の田子は、じっと老人を見つめた。その顔には、別れを惜し笑顔をみせた。その手には、矢をつがえた弓が握られている。竜王 む人なっこい微笑が浮かんでいた。つい今しがたまで、ふくれ面をの眷族が現われたなら、ここから援護するつもりだったのであろ していた老人も、おもわずほろりとなった。老人は、またしても、 う。弟彦は、つがえた矢をおさめ、さらに話しつづけた。 小面にくい若者の手に、みごとにはめられることになった。なんの 「ところで、冬が去ったのちに、どのようにすればよかろうか ? 」 血縁もないし、知りあってから、まだ三月あまりしかたっていない 弟彦のいうところは、王子にもよくわかった。王子ひとりをのそ にもかかわらず、この若者が他人のようには思えなくなる。年恰好けば、ほかの全員が、いつでも望むときに、海を渡って帰郷でき る。 からいえば、ちょうど孫というところであろうか。憎まれロのなか にも、老体を気づかう真情があふれている。まことに憎めない若者「いずれ、その時までに、なんとかして渡海の道を見つけるしかな であった。 王子は、その答えるほかはなく、人々をしたがえて、もときた道 尾張の田子を乗せた船が、水門をはなれようとしたとき、三人の 男が駈けつけてきた。いかつい体格の男たちは、ここに滞在し便船を帰りはじめた。 みなと 水門を見おろす丘のうえに、二人の男が現われこのは、そのとき を待っていた大和の剣士であった。尾張の田子の出発が急であった ため、いそいで駈けつけようやく間にあったということであった。 であった。二人とも、がっしりした肩幅の広い体で、太身の剣を てだれ つわもの 三人の強者が乗船してくれれば、海賊や妖怪の害を恐れることもなっけ、みるからに手練らしい剣士であった。 うずひこ 「珍彦、いよいよ、われらの出番じゃ。仲間の三人は、大兄の王子 い。三人は、ただちに乗船を許され、田子とともに大和にむかうこ さまに知らせるため、尾張の田子に同行して、大和へむかって船出 とになった。 王子ヤマトタケルは、漕ぎだしていく船を見送りながら、かすかした。残るは、われら二人。心してかからねばならぬそ」 「いかにもそうだ。大分の津へ向かった仲間の五人は、ことごとく な不安をおぼえた。尾張の田子には、王人の兵士をつけ、旅路をい みなと おおきだ なみはや おおえ

4. SFマガジン 1972年1月号

姫自身が神剣紛失の責めをおうことになる。この姫は、王子の勇気で、ほんの数日もかからなかった。王子の腹心の武人は、この刺客 と宝剣の神威を信じ、その帰還にすべてを賭けたのであろう。だの片割のもっ剣の技倆を評価するあまり、この男の素姓を見抜くこ 3 が、誰も知らぬはすの神剣もちだしの件は、刺客の仲間により大和とができなかったのである。 へ伝えられることになった。その意味では、大分の津において王子 の手にかかった五人の刺客の死も、むだではなかったことになる。 3 ふたたび伊都国へ 主の大碓のもとに、弟の王子ヤマトタケルを陥れる材料を送りとど けることになったからである。 「なるほど、われらは、なにくわぬ顔で、王子の帰還の旅に同行を尾張の田子が大和へむかってから一月ばかり、筑紫の冬は、なに 申しでるだけでよ い。なにも暗殺を行なうまでもない。すきをみごともなく過ぎていった。邪馬台の騎馬も、冬のあいだ英気を養っ あめむらくもつるぎ て、天の叢雲の剣をすりかえるだけで充分ではないか。そうすれているのであろうか、不気味に鳴りをひそめていたが、それがかえ ば、神剣紛失の罪をえて、この王子の生命は失われたも同じことって不吉の前兆のように見えた。邪馬台の領土で経験したことを思 えば、王子としては、かりに渡海の手段が見つかったにしても、こ うずひこ 冫。しかなかった。これまでのところでも、女 珍彦は、相棒の大彦の意見に、さらに卑劣な計略をつけくわえのまま帰還するわけこよ、 た。この二人の剣士の素姓は、王子の一行はおろか、筑紫の兵士た王ヒミコの率いる騎馬の兵士は、筑紫の島の東北の一劃だけを支配 ちにも知られていない。剣技の指導のため、大和からっかわされたするにすぎない大和の勢力を、じゅうぶん駆逐するに足るだけの数 武人ということになっている。事実、人づきあいのいい珍彦のほうを誇っている。敢えて大和の領土を併呑しようとしないのは、大和 は、弟彦のもとでおこなわれる再訓練に協力し、弟彦の弓に対しからの援軍が到来することを恐れているからにちがいない。 王子ヤマトタケルは、ここに滞在する機会を利用し、ひとつの計 て、みずから剣技を担当し、それなりの成果をあげていた。ヤマト タケルと共に育てられた弟彦は、この王子を害そうという人間を、 画を実行に移すことにした。邪馬台の事情に詳しい李二や風媛の話 決して許そうとはしない。だが、この武人は、戦術家ではあってによれば、韓半島からの兵力の増強は、今も続いているということ あや も、策略家ではない。美濃の豪族の次男として生まれただけあつである。現在、韓半島から漢の国までが、すさまじい動乱の最中に て、気の長いほうではないが、疑りぶかいという性質は、まったあり、戦火に国を追われた流民たちが、韓の半島へと流れこみ、一 ちちか しようぶ く持ちあわせていない。美濃の乳近の一族は、代々つづいた尚武の旗あげる機会をうかがっている。そうした連中のなかでも、腕に自 家柄であった。弟彦も、剣士としても一流であった父の血をうけ、信のある男どもは、その腕を生かしてくれる主を求めている。半島 勇武な人を貴ぶ性格であった。そこに現われた一流の剣士である珍の諸国は、そうしたあぶれ者やくいつめ者の巣になっているとい 彦をみるなり、たちまち意気投合し、酒をくみかわす間柄になるまう。漢の国の動乱の余波は、この半島の突端までも押しよせ、この

5. SFマガジン 1972年1月号

いったん水中に沈んだ汗血は、乗手の王子を背にのせたまま浮きひらめき、電弧がよぎった。 あがり、水をかいて泳ぎはじめた。人ひとりの重量を背負っている 王子は船着場を見おろす丘のうえから、はるか東の空に起こりつ ので、名馬は波間から首だけをだしているにすぎない。さすがのつある異変を見つめながら、はじめて汗血の不可解な行動の原因を 弟彦も、矢をはなつのをためらった。こちらからみると、王子の背知った。西域の名馬は、この天候異変を獣特有の本能で察知し、な が近くにあり、その向こうに見えかくれしながら、汗血の首が見えんとかして人々に伝えようとしていたのであった。 る。タテガミを振りたてながら、名馬は船から遠ざかっていく。も 船着場のあたりでは、弟彦やタ・ハ 1 ナ姫が、立ちさわいでいた。 し、狙いをあやまてば、王子の背を射ちぬくことになろう。 をいったん乗りこんだ船をおり、名馬の背に連れさられた かれらよ、 王子の行方を見定めるなり、ふたたび陸上にのぼったのであった。 王子ヤマトタケルを背にのせた汗血は、力強く水をかきながら、 かなり船からはなれると、今度はくるりと馬首をめぐらせ、船着場弟彦をはじめとする数人が、こちらへ駈けよってくる。かれらは、 から離れたところにある岩場へ、まっすぐに向かいはじめた。そこ丘のうえに止まった汗血を、射とめようと思っているのであろう は、弟彦の強弓をもってしても矢のとどかないあたりで、どうやか。三方にわかれて丘を登りはじめた。そのあとから、タ・ハーナ姫 ら、汗血のほうは、弟彦の矢頃を見はからっているようであった。 や石占の横立もつづいてくる。これらの人々は、東の空に起こりつ 岩場をかいて上体をあらわした汗血は、鞍上の王子にむかって一 つある異変には、まったく気づいていないらしい。事実、さきほど 声いななき、ぬれたタテガミを振りまわし、水気をはらいとばし 船のうえから見わたしたかぎりでは、異常な気配はまったく見あた た。それから、ふたたび歩きはじめ、しだいに歩調をはやめた。並らなかった。弟彦の率いる兵士たちは、にわかに乱心した駿馬の背 足からはじめて駈足にうつったのは、背にのせた主人を振りおとさから王子を奪いかえすことのみを願って、行動を起こしたのであろ ぬための心づかいらしい。 西域の駿馬は、まっしぐらに駈けた。その全身は、名のように薄王子は、汗血の手綱をあやつり、まっしぐらに丘を駈けおりた。 桃色に染まっていた。血のような汗がふきだし、純白な毛をつたわ名馬は、主の手綱さばきによく従い、さきほどの狂乱ぶりを忘れた り、このような色に塗りかえる。この名馬が、名の由来となった特かのように、弟彦たちめがけて走りおりた。いちはやく異変を感知 徴を示すときには、激しい運動をしたのちゃ、なにかの原因で気をした名馬は、そのことを主の眼で確かめさせるため、見晴らしのい たかぶ 昻らせているときである。 い丘に登って見せた。そして今、王子は、みずから異変を目撃し、 王子ヤマトタケルは、海岸の丘のうえに駈けの・ほっていく駿馬の丘をおりて臣下に知らせようとしている。名馬は、主の態度からそ 背で、水平線の彼方にひとかたまりの黒雲が湧きたつのを見つけれと察し、本来の柔順さをとりもどしたのである。 た。奇怪な形をした雲の峯は、おどろくべき速さで拡まり、たちま疾駆してくる駿馬に向きあい、弟彦は弓矢の狙いをつけたもの とばり ち南の空を漆黒の幕でおおいつくした。黒雲のそこかしこに電光がの、王子を傷つけることを恐れ、射はなっことができぬまま立ちす 2

6. SFマガジン 1972年1月号

くんだ。 柱のなかでうねうねと動きまわっていた。 「逃げろ、竜巻が襲ってくるそ」 「弟彦、射るな、南の空を見よ ! 」 王子は、弟彦の気配に気づき、汗血を乗りすすめながら大声で呼弟彦は手近なところにいた兵士たちに号令し、四方へ散開させ びかけた。律気な弟彦は、目のまえまで汗血が近づくのを待ち、害た。このあたりにいる兵士たちは、荒れくるう汗血を捕えるため、 意のないことを見定めたのち、はじめて言われるままに背後を振り弟彦に従ってきた者ばかりで、残りの大半の兵士たちは、他の馬ど むいた。 もを鎮めるため船にとどまっている。だが、今は、船まで戻って警 そこには、南の空を黒一色に塗りこめ、異変が拡まっていた。黒告している暇はない。 雲の下は、海と空との境界もわからぬほど、べた一面に天色に変わ 王子ヤマトタケルは、やむなく老人の横立を弟彦に託し、みずか り、雷雨と瘴気に閉ざされているようであった。宙空に電光が走っらは最愛のタ・ ( ーナ姫とともに、岩場のひとつに身をかくした。 うなも きつりつ たかと思うと、海面が波立ちさわぎ、むくむくと水柱が屹立し、天頬を刺しつらぬくような烈風が吹きあれ、豆粒のような大きな雨 高く突きあげ、渦巻きになって昇っていく。灰色の水柱は、うねり滴が降りそそぎ、竜巻の本体が迫ってくる。すでに、大空には晴れ ながら上天の黒雲に達し、左右に揺れながら近づいてくる。天をあた部分はなく、日輪は部厚い黒雲の彼方に影をひそめ、咫尺を弁ず おいでそそりたっ水柱めがけて、電光がひかり、電弧がうちよせることもできぬほどの闇が近づいていた。 あめむらくも る。 岩かげに身をかくした王子は、ずぶぬれの衣服の下に、天の叢雲 つるぎ の剣を抜きはなっていた。この神剣の切れ味がどれほどみごとなも 「者ども、船をおりて、身をかくせ ! 」 弟彦は、とっさに船着場のほうに向きなおり、両手を口にあててのであろうと、東海の支配者たる金竜の鱗には通じるまい。人間に 怒鳴った。しかし、その大声も、巨大な竜巻の前触れとなって押し化身していた竜太子を斃すにあたっては、鱗の継ぎめを刺してかろ うじて討ちとることができた。だが、この銀竜の親である東海竜王 よせる、激しい風に掻きけされ、船までは届かなかった。 よわい は、幾千年の齢をつんだ金竜で、広大な神通力を駆使するという。 「竜巻しゃ。東海竜王がまきおこす、風雨の術じゃ ! 」 ようやく駈けよってきた石占の横立が、息せききって話しはしめ強大な金竜には、さしもの神剣も無力なものになるのにちがいな る。王子は、すぐさま馬をおり、横立とともにやってきたタ・ハーナ 姫を、胸に受けとめた。 俄かに速さをました竜巻は、岸辺の船めがけて襲いかかり、すさ まじい猛威をふるった。二隻の船は、人馬もろとも宙空に巻きあげ 暗雲たれこめる空の下をすかしてみると、巨大な竜巻のなかに、 黄金色に輝くものをかいま見ることができる。それ自体ひとつの生られ、渦まくうねりに呑みこまれた。虚空の一角から、あふれで 物であるかのようにうごめく太い髭や、白磁のような牙の生えそろた、兵士や馬匹が礫のように投げだされ、海中へ転落していく。電 こんりゅう あぎと った顎や、黄金の岩磐のように見える背の鱗など、金竜の本体が水光がよぎったとき、渦の外側から獰猛な竜王の顔がっきだし、一声 こがね つぶて 2 2

7. SFマガジン 1972年1月号

国だけが平和を保つことは難しくなっている。さきに王子に討たれここは、先手をうって伊都国を叩くべきにちがいない。この重要な うがん た烏桓人の残党は、この国をうかがう連中のうちの、ほんの一部に拠点をとりあげてしまえば、邪馬台の勢力が回復するまで、かなり しゆくしん ゅうろう せんび すぎない。粛慎人、邑擱人、句麗人、浅人、鮮卑人など、数多くのの時を稼ぐことができよう。 民族が、この半島へ流入し、先住の漢人、韓人などに寄生し、さら 王子ヤマトタケルの一行は、冬の旅路をかけて伊都国めざして出 に海をこえて筑紫にくる機会をうかがっている。 発していった。このたびは、最愛のタバーナ姫も同行した。女王ヒ 女王ヒミコの招きに応じて、海をこえてくる荒くれどもは、増加 いっそ ミコの魔力をおもえば、どこにいても危険は同じであろう。 する一方であった。かれらが上陸するのは、筑紫の北にあたる大和のこと、王子の手もとに置くほうが、安心していられる。筑紫の兵 みなと まつろ の領土に近い、伊都国の水門であった。これより西にある末盧国士は、数少なく、訓練も充分でない。そうした兵士を危険な賭けに みなと も、半島への門戸として開かれているが、水門としての条件がわる徴用するのは、王子の希望ではなかった。そこで、同行するのは、 く、そこから邪馬台への陸路が遠いため、いったん末盧国についた二十人ばかりになった大和以来の兵士だけに限った。弟彦は、これ 船も伊都国へ回航してから人と荷をおろすのだという。 だけの兵力に加えて、練兵の折に知りあった二人の剣士を、主の王 王子ヤマトタケルが考えた作戦は、この伊都国を奪還し、邪馬台子に引きあわせた。 いぬひこうずひこ への人と物資の補給を断っことであった。もし、この作戦が成功す犬彦、珍彦という。尋常でない使い手だというから、兵力の乏し れば、風媛は晴れて故郷へ戻れるわけであるが、王子が作戦の断行い折から、大いに力になってくれるであろう。王子は、弟彦の紹介 いさりおさ を決意したのは、かならずしも漁師の長の娘に同情したためばかりになる剣士たちを、ためらわず配下に加えた。 ではなく、さきにあげた諸般の事情を考えあわせたうえでのことで伊都国を奇襲する部隊は、ト・ ′しんまりとまとまったものになっ かんけっ まなくろ あった。 た。汗血をはしめ三頭の馬と、愛大の真黒をくわえても、それほど だが、美濃の弟彦は、この作戦について、戦略的な見地から、つ目だたない一隊であった。 よく難色を示した。もし作戦が成功すればよいが、失敗した場合に 王子ヤマトタケルの一行は、夜陰にまぎれて、隠密裡に筑紫の領 は、邪馬台を挑発する結果になり、逆に筑紫の領土へ攻めこまれ、 土をはなれて、西へ向かった。さきに邪馬台と遭遇したときの経験 最悪の場合には、筑紫の島の西北に残る大和領土生ことごとく失から、騎馬の通れるような平坦な土地を進むことをさけ、できるか うことになるであろう。弟彦の危惧するところについて、王子も考ぎり困難な森林や沼沢を進んでいくため、道ははかどらなかった。 つるくさ 慮しなかったわけではない。その可能性も充分ありうるが、ここ湿原にはまりこんだ馬を押しあけたり、下生えの蔓草に脚をからま は、先手をとって敵を制するという心理的な効果を狙って、この作れた真黒を助けだしたり、予測していなかった困難が、つぎつぎに 戦に賭けてみるべきであろう。 ふりかかってきた。道中にたえきれない老人の横立とタ・ハーナ姫 9 王子ヤマトタケルの説得にはって、ついに弟彦も意見をかえた。 は、強力な汗血の背に運ばれることになった。もとより急ぎの旅で

8. SFマガジン 1972年1月号

た。さきほど、李二たちが近づいたときには、狂ったように棹立ち を思えば、船旅に脅えたとは考えられぬのだが : : : 」 王子も、考えこんでしまった。 になり、はけしく威嚇したものであった。だが、余人はいざしら 2 あるじ あらが 一刻もはやく大和へ帰りつきたいときに、このような椿事で門出ず、主と定めた王子には、抗うことをやめたのであろうか、馬首を 低くさげて身をすりよせてきた。 を邪魔されようとは、ついそ思ってもみなかった。 おおきみ 大和へ戻ったあかっきには、父なる大王に申しあげ、タ・ハーナ姫「皆の者、持場に戻るように ! 」 を妻とする許しをもらう。それは、この王子が、異国の王女に誓っ 王子が声をかけ、兵士どもが櫂にかけよろうとしたとき、ふたた たことであった。だが、疎遠であった父王や、悪意を抱いている双び汗血の様子が一変した。ばっと跳びさがるなり、さきほどと同様 おおうす 児の兄大碓の王子が、おいそれと承諾するはずもない。王子は、遠に前脚をふりあげ、王子のほかには一人たりとも近づけまいという 征の恩賞とひきかえにしても、タバーナ姫を妻にしようと決心して意志を示した。 後尾に戻ろうとした兵士どもは、ふたたび恐怖に打ちひしがれ、 だが、大和へ帰還をいそぐ目的は、そのためばかりではない。大総崩れになって退却する。それを見とどけてから、汗血は、ゆっく 和の日代の宮の人々は北九州の三十余国を統合し、日毎に大和の領り王子に近より、馬首を下げ、尾をふりあげて背をたたいた。 やまたい 「わしに、乗れというのか ? 」 土を蚕食しつつある強敵邪馬台国について、ほとんど何も知らぬに 王子が尋ねると、名馬は、その言葉がわかるかのように嘶いてみ 等しい。その人々に向かって、女王ヒミコの率いる軍勢について、 すみやかに警告しなければならない。 せた。 兵士たちは、二頭の馬に牽制され、船首のほうへ追いこまれたま「よかろう、これまで、われらを助けてきた汝を信じよう」 あぶみ ま、手も足もでない有様であった。 王子は汗血の鐙に足をかけ、鞍上の人となった。汗血は、黄金の 「王子、このままでは、動きがとれぬ。どうか、決断をー 馬銜を光らせながら、首を左右に振り、王子が手綱をとったかどう あずさ 美濃の弟彦は、愛用の梓の弓を手にして、王子を見やった。弟彦かを見定めようとした。名馬は、それから前脚を二かき三かきした の言わんとするところは、王子にもよくわかる。船中を騒がしたきかと思うと、だしぬけに空中へおどりあがった。狭い船底のことで よのつね つかけは、西域の名馬にある。この名馬を射殺してしまえば、尋常あるから、助走するだけの広さもない。だが、汗血の巨大な体驅 ふなべり は、背に王子を乗せたまま、軽々と宙にうき、船縁をおどりこえて の馬にすぎぬ他の四頭は、人間の意に従うであろう。 「待て、弟彦、いかに帰国を急ぐとはいえ、われらとともに働いたしまった。 とも 舳に立っていた弟彦は、突然の出来事におどろき、おもわず息を 汗血を、殺すことはできぬー 王子は、ひとまず弟彦をおさえ、足場から船底にとびおり、ふた呑んだ。人馬一体となって水煙をあげ、海中へおちこむ。はねかか る水しぶきをあびて我にかえり、弟彦は弓矢をとりあげた。 たび汗血に近づいた。意外にも、汗血は、じっと動きをとめてい いなな

9. SFマガジン 1972年1月号

はるか東の海上に朝日が昇りはじめる。さしそめた黎光を鏡にう 八咫の鏡によって陽光を投射された兵士は、みるみるうちに変貌 け、老人は、兵士の一人ひとりに当てた。まず異国の王女タ・ ( ーナしていった。それは、死後数十日かけて朽ちていく死者の肉体の変 姫、美濃の弟彦、それに王子自身ーーこの三人は、神鏡の照りかえ化を、ほんの一瞬のあいだに圧縮して再現したのであった。人々 らせる曙光を浴びても、すこしも変化しなかった。弟彦が代わっての見つめるまえで、その兵士の肉体は、にわかに腐敗して土に帰し 鏡を受けとり、珍彦、大彦、それに石占の老人を、あらためて照らていくのであった。 しだす。はたして、この三人にも異常はなかった。 空ろな眼窩からただれおちた眼球は、大地のうえで膨張したの さきま一り ひから 残るは、諸国から徴用され防人として王子の一行に加わった兵士たち、腐った液を吐きだしてびしげ、千乾びた形になった。皮膚や肉 はらわた ちばかりになった。一列にならんだ兵士たちをまえにして、石占ののそげおちた胴体には、異常に膨満した臓腑が残され、まもなく悪 老人は、ゆっくりと陽光を反射させていった。はじめの三人は、な臭をはなっ液体を放出し、からからに乾きはて洞穴のような骨のあ にごともなく過ぎた。そして、四人めの兵士にむけて、陽光をあて いだから地面におちた。 たとたんに、その男の口から、すさまじいうめき声が漏れた。陽光腐敗の進行は、兵士の体の各部で並行して起こっていた。首から のうしよう をさけようとしなかったのは、その男みずからも、この神鏡の威力上は、腐れはてた脳漿が流れおちると同時に、頂天にこびりつく一 によって害をうけるとは、いささかも思っていなかったからであろ東の髪のほかには、なにも残らなくなり、落ちく・ほんだ眼窩と鼻腔 とが、ぼっかりと口をあけているばかりになった。四肢の筋肉は、 男は、直立したまま、両手で喉をかきむしった。すると、喉・ほとどす黒く変色し、だらりと弛緩してから、地面におちた。 けのあたりの皮膚が、そろりと剥げおちた。男の両手指は、それに 王子たちの目前で、鬼気せまる光景は、いまや終りをつげようと もかかわらず、皮膚がむけおちて赤い肉筋をあらわにした喉首にさしていた。土中に埋葬された際には数十日かかるであろう腐敗の過 しこまれた。 程を、一瞬のあいだに済ませてしまい、兵士の体は白骨と化し、乾 同時に、男の容貌も一変した。額や頬の肉が土気色にかわり、腐 いた音をたてて横倒しに砕けちった。 った体液をじくじくと滲出させながら、俄かに溶けくずれた。あた 王子は、そのとき、心のどこかに抑制されていた記憶が戻るのを りに立ちこめる死臭のなかで、男の眉毛が溶けおち、額の髪がひと感じた。白骨の兵士の正体にまつわるような記ー ( 意よ、周囲の人すべ つかみほども脱けおちた。眼窩の覆いの肉がはぎとられ、丸い眠球ての心のなかに封じこめられ、想いだせぬように仕組まれていたら だけが突出し、一本の筋だけで顔面に垂れさがり、やがて脱落ししい。その記憶が、白骨の正体があらわれると同時に、何者かの呪 縛からときはなされ、人々の心に甦ったのであろう。 さきもり 王子は、恐怖のあまり、動くこともできぬまま、その場に立ちっ 見覚えがあるのも道理、白骨の兵士は、王子の配下の防人の一人 くした。 であった。だが、その男は、すでに此の世の者ではない。さきに邪

10. SFマガジン 1972年1月号

ヤマトタケルに討たれた。大兄の王子さまのご命令では、大和に仇が、東海竜王の風波によって難船し、予期せぬ大分の津へ流れつい なす弟の王子を、正面から討ちとれのことだが、尋常の手段では、 た。つまり、ヤマトタケルの一行の到着が予想される筑紫のほう てだれ とても討ちとれぬ。ここはひとつ、われらの正体を伏せたまま、ヤに、むしろ手練の刺客が配置されていたわけで、大分の津に向けて マトタケルの様子をみて、寝首を掻くしか手段はあるまい。のう、 あった刺客のほうは、万全を期するためにすぎなかった。しかし、 かしら 犬彦 ? 」 そのうちの頭だっ剣士は、なみすぐれた使い手であったが、王子ャ 「そのとおりだ。われら二人は、来春、ヤマトタケルが大和へ向かマトタケルと剣をまじえるまでもなく斃されている。 おおうす あめ おとひなもり う道中に、・せひとも同行しなければならぬ。旅路の草枕の折なら、 「大分の津の弟夷守の知らせによれば、小碓の王子のもっ剣は、天 むらくもつるぎ かならず、かれを斃す機会があるはずじゃ。決してあせってはならの叢雲の剣だという。このことを大和に伝えさせたのは、まさに上 出来であったな」 うずひこ うずひこ 珍彦、大彦と名のった二人の剣士は、うなずきあった。この二人珍彦という剣士は、不気味な笑いを浮かべた。ここに残った二人 おおうすみこ は、日代の宮にいる大碓の王子が、弟のヤマトタケルを討ちとるたの剣士は、配置された五人のうち、もっとも腕がたつばかりでな ひしろおおきみ め遣わした刺客の片割れであった。大碓の王子は、日代の大王の長男く、なみなみならぬ知恵者であるらしい おうすみこ で小碓の王子と呼ばれるヤマトタケルの双児の兄であった。この兄「もし、われら二人が、道中において暗殺に失敗したとしても、 王子は、つねに自分を一段高い立場におき、他人の不正を弾劾する碓の王子も無事ではすむまい。大和王家の重宝のひとつを持ちだし やまとひめ ことを好み、自ら正義を行なうと公言しながら、おのれの私行はすたのだ。この剣を貸しあたえた叔母の倭姫も、剣を使用した小碓 おおうすみこ こしも反省することのない人物であった。この王子は、双児の弟との王子も、罪をまぬかれまい。まこと、われらの主、大碓の王子さ して生まれたヤマトタケルが、大和王家に仇なす宿命をもつものとまの喜ばれそうな知らせだ」 いう伝承を信じ、薄幸の弟王子を迫害することによって、自分の 二人の剣士は、話しつづけた。これら刺客に命令しているのは、 心中のねたみやそねみをことごとく正当化してぎた。かって、筑紫大和にいる大碓の王子であると判明した。双方の弟王子を討っため おおきだっ の南にある大分の津へ、ヤマトタケルの一行が流れついたとき、大に、この兄王子がうったのは、おどろくほど周到なものであった。 碓の王子の遣わした五人の刺客が襲いかかり、逆にことごとく討た万一、弟王子が無事に生還したとしても、無断で神宝を持ちだした れるという事件があった。この折、大碓の王子は、大王から熊襲征科により断罪できるという。大和を発つにあたって、伊勢神宮の斎 ふにん やまとひめ 討を命じられたヤマトタケルを途中で討ちとるため、これら刺客をきの姫として赴任していく叔母の倭姫が、最愛の甥の王子に神剣 遣わしたのであったが、火の国への関門である大分の津ばかりでなを授けたのは、生還を期しがたい使命を与えられた王子への、でき く、この筑紫の府にも別の五人の剣士を遣わしておいたのであつるかぎりの愛情を示すためであった。そこには、叔母の倭姫のなみ 5 なみならぬ覚悟がうかがえる。もし、王子が帰還しなければ、この た。事実、このとき、ヤマトタケルは、筑紫の援兵を借りるつもり