うのは坂本一族のものだけではなかったろうか。 値打ちはありそうだ。 才谷は才谷川の流れる山あいの地名だが、そこに土佐坂本家の祖な・せなら、竜馬は成人すると背中に黒々とした毛を生じさせてい である坂本太郎五郎の墓をはじめ、大浜姓の縁者など、数多くの墓る。胸毛ではない。背筋に生えたのだ。 たてがみ がたてられている。 鬣。 もしそれを馬のたてがみと見るなら、生れたばかりの赤ん坊にな 才谷はむかしは佐比谷と書いたらしい。寺があり、佐比「寺と言 った。してみると墓守りのサイは、サヒが訛ったのだろう ぜ父親が竜馬という二語の組合せの名をえらぶことができたのだろ うららかな春の光を浴びて、そのサヒ谷へ、竜馬がゆく。 竜馬には生れつき持病があった。いや、奇癖というべきかもしれ父は八平、兄は権平、祖父は八蔵、曾祖父も八平 : : : 代々を辿っ ない。不意に呆けに襲われるのだ。幼時にはその呆けが一日に何度てみても、八郎兵衛、七兵衛、次兵衛、市兵衛、太郎左衛門、太郎 となく竜馬を襲った。竜馬はそのたびに茫然と虚空をみつめ、身の五郎と、坂本本家には竜や馬など生き物の名を与える習慣は見当ら ない。わずかに兄権平の娘が春猪とされているが、その子の鶴井、 まわりの事象のいっさいに気づかなくなった。 よばあ 寝小便たれ、はなたれ、泣き虫 : : : 竜馬の幼時にはそのような悪兎美、亀代などが生じるのはずっと後年のことだ。 八平は恐らく八郎兵衛、七兵衛の流れにある家伝の名だろうか 罵がついてまわり、権平も随分肩身の狭い思いをしたものだった。 ら、竜馬は本来七平か次平 : : : 竜の夢のことがあったにしても竜平 事実夜半呆けが見舞うと竜馬はしばしば寝小便をした。そして呆 くらいが妥当なのではなかろうか。 けから醒めるときは火のついたように泣きだすが常たった。明朗で おまけに竜馬は顔面に数点の特異な黒子を有していた。 素直な健康児だった権平にしてみれば、そんな竜馬が江戸くんたり まで留学に行くようなことになったのが不思議でならないし、気が もめてもいる。 竜馬生れて面上に数点の黒子あり、其の長ずるや、背に鬆々たる 幸という母親が竜馬を産むとき、彼女は強烈な幻覚に襲われ、驚黒毛を生ぜり。竜馬深く之を秘して、暑中未だ嘆て襯衣を脱せず : ・ 乱しながら分娩したという。父の八平はそのあと幸に幻覚の内容を 訊ね、怪龍が口から炎を発して襲いかかり、その炎が胎内の子にま 坂崎瀾者『汗血千里駒』 ( 明治十六年発行 ) で透るようだったとして、竜馬と命名した。 : : : 果して幸のみた幻 覚がそのようなものだったかどうか、事実は誰にも判っていない。 ただ、竜馬を出産する母体に何らかの異常が起ったことだけはた権平は竜馬の呆けを持病と心得ていたらしく、事ごとにいたわっ しかだろう。 たという。しかしその呆けはどうやら病いというほどのことではな引 しかしなぜ竜馬という名がつけられたか、たしかに穿鑒してみるかったらしく、少年期に向うと間遠になりはじめ、日根野弁治につ こう ほう
竜馬は町人とも武士とも判じがたいその老人に頭をさげ、あがり やくってみせていた。 まちに腰をおろした。 「かたじけない」 しぶきが跳ねて足もとを泥まみれにされていた竜馬は、遠慮なく「どこの : : : といっても世間なみの愛想でしかないな」 老人は言いかけて苦笑し、「土州侯のご家来衆じやろう。失礼た ひょいと軒下の水溜りをとんで戸口から中へ入った。 が丸に三葉柏のご紋が浮いてでているような : : : 」 中にはただっぴろい土間があった。 「田舎者だなあ、俺たちは」 「そこにいなさい。この雨はすぐ通りぬける雨だ」 竜馬はあけすけな態度でサイに言った。「これでもすっかり江戸 「そうさせてもらいます」 竜馬は鉋くずのちらばった土間を物珍らしそうに眺めながら礼を。の水に馴染んだつもりでいたんだがな」 「江戸はいっから」 言った。雨音がやかましく。 「もう半年近くにもなります」 「見たか、今の老人を」 老人は苦笑したようだった。「毎年夏はこのようなタ立が通りま すか」 竜馬はサイに脇腹を小突かれて目を剥いた。 「馬の背を降りわけると言ってな」 「俺のおやじそっくりだった」 竜馬は首をすくめ、サイに言った。 「どれ」 「同じ馬だが俺はふりこめられた」 竜馬は不遠慮にうす暗い座敷のほうへ身をのり出した。 「これは失礼。そのようなお名前でしたか」 出あいがしら、といった具合で、老人が奥から小さな盆を片手に 「坂本竜馬と言います」 ぬっと姿をあらわした。 サイはむつつりと竜馬を見つめていた。 「どうなされた」 「竜馬 : : : 」 老人はじろりと竜馬にとがめるような視線を送った。 老人の眸がキラリと光ったようだった。 「いや、これは無礼をいたしました」 「この者が国に残した父親とそっくりだと申「ここはどんなご商売の家です」 竜馬は頭を掻いた。 「大工の棟梁の家です」 すものですから」 「なんだ : : : 」 「儂がですか」 「しかし並の大工ではありませんそ。 , お城奥深くまでお出入りを許 老人は白髪、白髯。サイの父親とみまがうばかりだった。「冷え される御作事方大棟梁のすまいじゃ」 た麦茶だ。とにかくひとっ : 「それでですか」 「これはご親切に」 208
に公家公達にかこまれて、何もせす御所の奥に坐っているような真そのさなか、竜馬の江戸留学期限が来た。 その間一度竜馬とサイは日光山をおとずれ、やはり産霊山の芯の 似はしない。みずから民百姓町人のためにいつも何かをしているつ もりだ。権威があれば下じもを足繁く見舞い、搾取する小役人を抛山は江戸らしいと見きわめをつけていた。 り出してやる。奢る大名はこらしめてやる。権威とはそのためのも「見えるか。どうだ : : : 」 のだ。権威を守るためにことさら身を高きに置き、奥深くかくれすサイは愛宕山の頂上であぐらをかいて坐った竜馬のうしろで、じ むのは本当の権威ではない。真に朝廷が日本万民の父であり宗家でれったそうに言った。 六月の夜のことである。 あるなら、徳川三百年の間、一度ぐらい幕政に注文をつけてもよさ そうなものではないか。身を永らえるだけが能なら、泥亀もまた偉「どうも呆けが来そうな気分がしたのでここへ登ったのだが : : : ま 大であると言わねばなるまい。二千年の皇統を誇っても、万民の為あそうせかすな」 に何もせぬのではただの無駄飯ぐらいだ。あれはひょっとすると一一「藪蚊でたまらぬ。早く呆けてくれ」 「そう言われてもなあ」 千年の無駄飯ぐらいかも知れんぞ」 竜馬はため息をついた。 竜馬の怪気焔はとどまるところをしらないようだった。 幼児からしばしば竜馬を襲う呆けとは、一種の異常感覚に陥ちこ むことだった。呆けが来ると竜馬は上古のヒが常に見ていたように 外界を見られるのである。 生きとし生けるものの明日への願いが凝って白銀の矢となる。 俺が土佐から出たら世の中が動きはじめたようだ。 : : : 竜馬がそ んなことを言いはじめたのは安政元年に入ってからだった。。ヘリー むすびのやま くもつだ 東 ? , 産霊山へ雲伝ふ が来た。。フウチャーチンが来た。日本全土が海外の勢力に目を向 いはかむぬし しろがね 白銀の矢を祭へ主 け、揺れはじめていたからだ。 が、そればかりではなく、この頃実際によく大地が揺れた。六月 には近畿に大地震が起り、竜馬にしてみれば前の年の関東大地震と かって、山科言継卿はヒのために、正倉院御物中から、そのよう 、自分が江戸へ出るとすぐ世の中が揺れ出したような実感があな歌を記した宝物を、ヒのために賜ったということだった。 ったに違いない。 その白銀の矢とは、常人に見ることのできぬ生きとし生けるもの の明日への願いであり、その願いは各地の産霊山にとんで集り、そ 事実世相も揺れている。 日米和親条約が調印され、下田と箱館が開港した。それに関連しこから更に芯の山に届けられているという。 竜馬は呆けるとそれが見えるのだ。この愛宕の山に坐って彼が呆 て渡米を企てた吉田松陰が捕われ、佐久間象山も投獄された。 ひむがし 2 ー 2
行く手には、決して俗人の目にふれることのないヒの畸形の女、 到着そうそう若侍の一人が竜馬をなじるように言った。 オシラサマが棲む屯河洞があった。 いったいにその頃の土佐には長大な剛刀がよしとされていた。一 竜馬はその目も鼻もなく、毛髪もない全裸の怪女が大嫌いだっ種の地方的なファッションと思ってさしつかえない。若い竜馬はそ た。それを見るとおのれの血の背後にある陰惨なものに目がくらむの流行に敏感で、いち早く長大な刀をさして歩いていた。その若侍 思いだった。しかし、一人の武芸者として、ヒの宝であるその怪刀とて、長い刀をよしとした頃があったくせに、今は江戸にかぶれ、 はぜひ手に入れたかった。 飾りもののような華奢な差料を、御家人風にだらしなく落し差しに していた。 「江戸では長い刀を差しては悪いのか」 竜馬は本気で訊ねた。しかし余り表情の豊かでない彼が低い声で 竜馬が江戸に入ったとき、江戸の町々はその二月に起った大地震言うと、皮肉な逆問に聞えた。 の被害からまだ完全には立直っていず、何やら取乱した風情たっ 「みつともない」 「みつともない : : : 」 江戸の土佐藩邸はいまの東京都庁の場所にあった。竜馬が着くと「そうだ。土佐の者がみなそのような泥臭い人間かと思われるでは 藩邸の若者たちは、 子′し、か」 「なんだ、地震があったのは竜が近づいていたせいか」 「迷惑かな」 とからかった。竜馬はすでに高知城下において、日根野道場の俊「迷惑だ」 英として一目置かれていたので、江戸の青年藩士たちの中にも知り「斬れればよいではないか」 合いが多かった。 「斬るばかりが能ではないわ」 しかし江戸とは妙な土地だ。ふしぎに人間を気取らせてしまう。 「ほう。武士の刀は斬る為にあるのではないのか。そのように着飾 土着の江戸人なら、他国者に対し江戸の風に馴染まぬのを、田舎 って、女に好かれようとでもいうのか。そのようななまくら刀でご 者として軽視しても当然といえる。それは江戸に限らずどの土地に奉公がなるのか」 もあることで、よそ者を小莫迦にするのは珍らしくない。 「なにつ」 しかし江戸に入った他国者が、土着の江戸人以上に江戸の風を鼻若侍が立ちあがった。蒼白になり、かためた拳がふるえている。 にかけるのはどういうことだろう。土佐藩邸でもそれは例外ではな 「刀は長いほうが得だ。ほれこのように」 、新参の竜馬のお国ぶりがことごとに笑いの種にされた。 竜馬も立ちあがり、左手で長い刀を鞘ごとっき出した。長身の竜 0 「なんだ竜馬、その長い刀は」 馬がそうやると、リ ーチがまるで違い、抜刀して斬りつけてもとう
羃府の硬直した頭脳には、海外に秘事を売る売国行為としか理解し京の土を血に染めて行く。 当然だろう。普通の人間にヒが斬れるわけがない。恐らく隊士の 2 得なかったことを察しているからだ。 2 竜馬は土佐動皇党の一員として活動をはじめ、やがてその党主とうちヒは十人くらいのものだろうが、それが指揮をとれば並の人間 もいうべき武市瑞山とも袖をわかって脱藩し、以後独自の道を行くも並の人間でなくなる。それ以上の働きができるに違いない。 ことになる。 仲間の新選組に斬られる数が増すにしたがい、竜馬の心には血族 竜馬脱藩は文久二年三月二十四日夜。その一カ月後には伏見寺田同志のどうしようもない憎しみが根をひろげるのだった。 ・ : やはり竜馬が出ると世が揺れ出すようそして竜馬も有名人になっている。 屋の騒動が起っている。 。こっこ 0 「坂本竜馬こそ不逞浪士の元凶だ」 翌る文久三年二月四日。 新選組にもそうした抜きさしならぬ敵意が拡がって行く。だが竜 脱藩して本格的活動に入った竜馬を追うようにして、江戸小石川馬は決して他の志士たちと同じようにはこの時局を考えていなかっ 小日向柳町の試衛館から、錚々たるヒの一群が動き出した。清河八た。 郎による新徴組隊員募集が小石川伝通院で行われ、同六日編成終「徳川が倒れるのは時間の問題だ」 了。あっという間に京へ向って旅立った。 そう見ている。時代とは時にゆるく、時に烈しく、結局は左へ左 このあと新選組成立までの事情については語る要もない。 へとまわって行くものだという原理を見抜いている。倒幕連動とい ただ近藤勇ら関東のヒの一群が京を練歩くについては、幕府体制ったところで、いずれは倒れるに決っていると信じているから、他 護持の他に、御所の守りを堅めるかっての勅忍としての誇りがあつの志士たちと同じ行動をとるはずもない。竜馬は独自の道を歩いて 、るの。こ。 たに違いない。 それなに新選組は : : : 少くともその幹部であるヒの者たちは、 「阿呆が : : : 」 竜馬は新選組の導を耳にするたびそう言った。言わずにはいられ竜馬ひとりを最大の敵としてつけ狙っていた。 「どうも危いな」 なかった。竜馬はあの強力な集団と手を組みたかった。能書きばか りで頼りない仲間の志士たちとは違い、彼らは選りすぐったヒだっ サイが言った。神戸の幕府海軍操練所の一室だった。 「どう危いのだ」 た。この時代に生き残った最後の神の末裔たった。 しかし、その神の末裔が、どうみても十年とは保ちそうもない徳「味方の動きがだ」 川幕府に仕えて、その護持に汲々としている。何という浪費、何と文久四年三月一日に改元があり、年号は元治となっている。「長 いう勘違いだ。 州は京を追われ、残った連中が恥をそそぐのだと言って死にものぐ だが新選組は日に日に強大になって行く。志士の多くが斬られ、 るいになっている。下手をするとリョウはまきこまれるそ」
にいて時流の渦に洗われている内、彼らは彼らなりに無闇な佐幕家 元治は元年だけで終り、時代は慶応に入った。 ではなくなっている。ヒの性質として、保守派であるには違いなか武州一円のヒの首領、というよりは、今は十余人に減ってしまっ ったが、秩序を破壊し不安をもたらすだけの急進派にくらべれば余たヒを辛うじて団結させている日野の夢玄斉老人の娘竜子は、どう 程ましだと思えた。その点サイは根っからのヒであったようだ。 やら竜馬の懐にとびこんたらしく、今は伏見寺田屋にいる。 が、皮肉なもので、竜馬は急に多忙となり、ほとんど京坂の地へ 「王政復古もよい。将軍退位もよい。幕府解体もまたやむをえま い。しかしそれらは秩序に従って徐々に行われねば悲惨が多すぎ寄りつかない。 る。彼らはロに正義を唱え、ふたことめには天下万民のというくせ 四月に京都にあらわれて、それっと手配するといつの間にか姿を に、やることはまるであべこべだ。暴を以て日常のこととし、礼に消し、五月には鹿児島にいる。熊本、長崎を歴訪し、しきりに海事 至ってはまるで頭にもない野番人だ」 のことを画策しているらしいという情報が竜子を通じて入り、油断 土方と近藤はそう言い、やや健康をとり戻した殺人機械沖田総司していると六月下旬不意に京へ現れ、またすぐ姿を消す。 も、 慶応元年は遂に空しくすぎ、新選組はサイを疑いはじめた。 「俺は朝敵を斬っているだけだ」 裏をかかれているらしいというのだ。サイの立場はなかった。竜 と確信ありげに言い放つ。 馬や志士たちを裏切り、そのうしろめたさを勤皇一本におのれをし 竜馬はあれで正しいのだろうか。 ぼりこむことで辛うじて打消しているのに、今度はそのより所であ サイの心にそうした疑問が湧きだしていた。 る新選組から裏切り者の疑いをかけられる。 サイは身のあかしをたてるために調べはじめた。 「聞く所によると諸外国にも産霊山があまねく分布しているという ではないか。ロンドン、パリ、ワシントン : : : 世界各国の首都はみ折しも竜馬は薩長連合の立役者として働いており、近藤たちには な産霊山芯の山のあり場所た。サイよ、俺は望みを世界に変えた竜馬殺害が急務と課せられている。 そ。この国の王として世界をこの手につかんでみせる。だから当分 サイは、もし自分にかけられた疑いが幾分か当っていて、竜馬に はこの国のことを、桂、大久保、西郷らにまかせようと思う。彼らこちら側の情報が洩れているなら、その洩れロはただひとつ、竜子 はそれを喜んでやってくれるたろう」 でしかないと思った。 そう言う竜馬の言葉を、近頃のサイは平気では聞き流せなくなっ サイは伏見寺田屋を見張りはじめた。 ていた。不遜 : : : そう感してしまう。 と、慶応二年一月十九日の夜、伏見蓬来橋ぎわの寺田屋へ、果し そのことは、サイもまた時代の流れに身をまかす若者の一人であて竜馬が姿をあらわした。サイはなおも見張りつづけ、竜子がそれ るということらしかった。彼はとうとう新選組に自分の居場所を感を新選組情報網に告げるかどうかたしかめようとした。 じ、竜子を竜馬にそれとなく引き合せてしまった。 竜馬はすぐ翌日出て行った。しかし同行者を残しているので、 226
はこの世のけがれじゃそ。天地間の汚穢じゃ。神は汚穢を祓うため「・ : 「竜馬。どうじゃ」 にある。人の心の欲を祓うのじゃ」 「知らぬ」 「わからぬ」 「死なぬ命が欲しい 「そうじやろう。うぬごときヒの名を汚す裏切り者に何が判ろう」 か」 「俺が何を裏切った」 「ヒを : ヒの祖先がやっと築いた徳川の世を、うぬは不逞のや「ないな」 「とすれば、おのれの肉を離れて魂たけになることじゃ。女もな からの先きに立って切り崩そうとしているではないか。これほどの 、男もない、親子もなければ兄弟もない。物も持たず場所もとら 裏切りがどこにある」 むぎよう 「考え方の違いだ。徳川も天皇も、もうこの世には何ももたらす力ず、ただ天地の間に無形で在るだけの、一切空のおのれを望まねば ならぬ」 がない」 「産霊山はそのためにあるのか」 「黙れ小僧」 「そうよ。生きとし生けるものをして、おのずから生を棄てさせる 「よし、それなら俺は裏切者でよい。しかし欲を祓う神があるの ため、ひとつずつ願いを叶えて行くのじゃ、さすれば天地間の生の になぜ人間は永劫に幸せになれぬのだ」 「ひとっ叶えばまたひとっ : : : 竜に訊ねてみるがよい。さあ竜子、穢れは祓い潔まる。人のしあわせなど祈るが愚かじゃ」 答えてみろ。人なみに扱われたいと、それだけが望みじゃったろう「恐ろしいことをいう老人だ」 「うぬが弱いのた。判ったかこの裏切者めつ」 が」 老人の手に両刃の剣が握られていた。明かにそれはかって猿飛の 「次は竜馬に抱かれたいじゃ。その次は竜馬の心をみたいじゃ。佐助が用いた伊吹の剣たった。 そして次は竜馬といつも一緒にいたい。その次は未来永劫竜馬と離「お竜、逃げろっ」 ・ : もっとしあわせに、もっとしあわせに。そう叫ん竜馬はそう言うと自分も逃げ出した。だが屯子は女。とうてい長 れたくない。 クラスのヒの相手ではない。追いっかれ、地に転げまわって父親の でおったのではないのか」 怪剣を辛うじてかわしている。 「そう。その通りよ」 「自分の子を殺すのか」 竜子はヒステリックに言った。 「みろ。欲ははてもない。それがすべて叶えられてみい。最後はど竜馬は立ち戻り、竜子と夢玄斉の間に割って入ると刀を抜き放っ うなる。死にたくないじやろう。たが人は必ず死ぬる。その時次はた。 怪刀対怪剣。 何を叶えてもらったらよい」 : そうじやろう。だがそのような命があろう あれ 2 3 ー
「連中に呼ばれたら行かずばなるまい。こんなことをしているのだのちのちごたっくのはごめんだ」 からな」 「すぐ発ったほうがいい」 竜馬は幕府海軍操練所で、修業生を募っている最中だった。いか「よし。行きがけに京へ寄って連中に顔だけみせておこう。よんど に先きどりとはいえ、敵方兵力の増強に一役買っているのだから、 ころない用で江戸へ入ると知らせたほうがよさそうだな」 その釈明の為にも長州一派の呼出しには応じなければ立場がなかっ 「口実はあるのか」 . こ 0 「あるさ。何とでもなる。それより、江戸へ入ったら勝さんに本当 「そうだろう。連中が何を企んでいるか判るか」 に献策してくる」 「何をだ」 「御所に放火して天皇を長州へ動座させようというのだ」 「そういう奴らをひとまとめに蝦夷地へ送ってしまうことをだ。余 みなまで聞かず竜馬は失笑した。 りめちゃくちやをされるとこっちがやりにくいからな」 「天皇を奪れば賊名は消えるか。単純だなあ。しかしたしかに賊名竜馬はそう言って笑った。 は消えるさ。長州兵にとりかこまれれば、あの人は何十本でも長州 のために勅状を書くだろう。幕府よ降参なさい。長州はいい子で 十 す。諸国は長州人の言うとおりにしなさい。 いやはや」 サイはむっとしたように竜馬を睨みつけた。 池田屋事変。 「リョウのそこが気に入らない」 元治元年六月五日。祗園祭の宵宮に起ったこの事件は、サイが壬 「はて : : : 」 生の新選屯所へ現われたことで始った。 「天皇を何かというとないがしろに言う」 な・せサイは壬生へ行ったのか。その答はひとっしかない。 「ほう、サイも勤皇か」 竜馬と共に幕末動乱の世を駆けまわっている内、サイはサイなり 「やはり俺もヒだ」 の個性を発揮しはじめたのだ。 「莫迦な」 サイは竜馬ほどアナーキーではなかった。ヒの正統的な一員とし 竜馬は舌打ちした。「お守り札みたいなもんだそ」 て、サイにとっては志士たちが膝を正して言う勤皇論が耳にこころ サイは屯馬の子供つぼい言い方に思わず苦笑してしまう。 よかった。日を追ってその勤皇論は一方でますます純粋になり、一 「まあいい。 それより何か口実を作ってしばらく江戸へでも行って方では単なる建前と化して行った。 勤皇が建前でしかなく、天皇や公家を道具のように扱いはじめた 「そうだな。御所が焼けるのは見たいが、それに引っぱり出されてのは、回天の事業を実際に動かしている中心指導勢力だった。 222
の道場だらけだ」 はいったいどうしたことだろうと、本気で竜馬の顔を観察しはじめ こ 0 「日野宿 : : : 」 「藤堂平助では不足か」 竜馬の顔色が変った。 「いや。しかし名前がいけない」 「日野がどうかしたのか」 「いや。 : : : 古いことだ」 竜馬は言ってから唇をすぼめ肩をそびやかした。藤堂姓ならそれ 竜馬は言った。 もヒにきまったようなものだった。 たしかに古い。その辺りはヒによって古くから知られた関東西端 の産霊山だ。東進するヒが基地として用い、ヒの宿が訛って日野宿 九 となっている。いわば関東におけるヒの本拠地で、そのため家康は ここを天領とした。 安政五年正月、竜馬は千葉定吉から北辰一刀流の免許皆伝を得 そこに育った天然理心流の指導者が、あの伊吹の怪剣を持っ近藤た。それは竜馬の人生にとって、現代の大学を卒業したに等しい意 勇という人物なのだ。とすれば、徳川を守るヒはまだいくらもいる味を持っていた。桃井春蔵について鏡心明智流を学んだ武市半平太 らし、。 とは、土佐藩邸に同宿して、いわば同寮生であったし、豊後の村上 「天然理心流を使う人間で、あの試衛館とかかわりのない人物はい 圭蔵、長州の桂小五郎などもこの時期江戸にいて、次代をになう ないだろうか」 錚々たる人材と共に、日本有数の剣士として故郷の土を踏むことに 「どうする」 なるのだ。 「立会ってみたい」 安政五年四月、井伊直弼大老就任。その六月勅許を得ぬまま日米 「一人適当なのがいるよ」 修好通商条約に調印。七月ロシア使節江戸入り。将軍家定没。日蘭 「それは有難い」 修好通商条約、日英修好通商条約、日仏修好通商条約など続々調 「お玉ガ池に来ている男で、もうすぐ目録だそうだが、それが何で印。孝明帝これに反対して譲位の希望を表明。尊皇の世論沸騰。梅 もたまに試衛館へ行っているらしい。やれと言えば天然理心流で立田雲浜捕繩。老中間部詮勝入京。安政の大獄はじまる・ : 会ってくれるだろう」 い。だが筆者にその間の竜 この時代の歴史はまことにめまぐるし 「そうか、玄武館の人か。で、名は」 馬の動きをことこまかく追うゆとりはない。産霊山秘録は吉田松陰 「藤堂平助」 処刑の裏にひそむ芯の山の秘事を挙げて護者への説明を迫ってい 「藤堂 : : : 」 る。しかし松陰処刑の資料をいちいち挙げる必要はなかろう。読者 竜馬は大声で言った。重太郎は平素表情を変えない竜馬が、今日はすでに幕府が何を惧れていたかを知っており、、吉田松陰の行動が 幻 9
青白く光「ている。一人が椽先きで中腰にな「て目を凝らし、鋩子 てい届きそうもない。 のあたりを観察した。 「よせよせ。そいつは腕だけが自慢の男だ」 「珍らしい。火焔ではないのか : : : 」 先輩格の一人が若侍をなだめた。 刃文が切先きで不動明王が背負う火焔のように揺れ動いてみえ 「そうだ。ビラ。ヒラ侍は茶屋女とでも遊んでいるのが似合いだ」 「許さん」 「こちらは進んで行くだけだ。刺されるのがいやなら打ち払えばよ 若侍は椽を躍りこえて庭の土を踏んだ。「勝負せい。大口は叩か い」 さん」 竜馬は無雑作な青眼でゆっくりと押して行く。若侍はそう言わ すると電馬は部屋へ集って来た誰かれに万遍なく笑顔を向け、 「これは腕くらべではありません。ほんのち = 0 とした刀くらべでれ、恐怖と屈辱にか「とな 0 て、黄色い大声をあげて竜馬に打ちか す。万一相手に怪我をさせたらこの場で直ちに腹を切ります。そのか 0 た。 ような事はまかり間違 0 ても起しませんから、ゆ 0 くりとごらんく斜め上段から打ちおろす若侍の刀を、竜馬が軽く小手をひね「て はねあけた。二筋の白い光の帯が交差し、一方が更にふたつに分れ ださい」 てとんだ。キーンという鋭い音が男たちの耳に残った。 と、見世物の口上のようなことを言い、ふらりと庭へおりた。 長い刀のことから、こんなことにな 0 たのだが、竜馬がぶらさげ「おう : : : 」 一斉にどよめきが起った。若侍の刀は脆くも真ふたつに折れ、先 ている刀は、土佐にいた頃からはやりに従って持っていたなみの刀 ではない。オシラサがヒの神器である伊吹を鍛えなおした怪刀だ端がはるかかなた〈とんで庭の土につきささ 0 ている。 日 ' 、まうカよい」 「刀は長く岡しを 伊吹という』の神器が、い 0 の頃からこの世にあるのか、知るす竜馬はそういうと刀を納め、鞘に入れた。若侍は息を呑んだまま べもない。しかし、それが神武の更に昔〈さかのぼることはたしか手もとに残「た折れ刀をみつめている。 「凄い刀を持っている」 男たちは羨しそうに言って散って行く。 かって同じように伊吹を鍛えなおした刀を、猿飛の佐助が用いて 「土佐は土佐。なまじ江戸の風をまねると土佐のよさまで失ってし いた。それは先きが両刃の剣になっており、途中から四角い棒とな 0 て、刺突と打撃の具た 0 た。しかしいま、竜馬がすらりと抜き放まう。僻地には違いないが土佐は強兵の国だ」 こしぞ 竜馬は若侍に訓すように言った。 ったのは、腰反りの、大切先をもった見事な日本刀だった。 と椽に集「た男たちの間に驚きの声があが「た。竜馬の持 0 刀は千葉定吉は有名な神田お玉ガ池の千葉周作の弟で、土佐藩邸に近 8 2