わしがそれを人にしゃべるのを心配するのかね ? 」 あ、山羊魚のほうは ? 」 「魔法使いと思われたくないんだよ、ドック。だって、あんなもの 「あちらはキャプリコーン、磨羯宮さ」ドックはス。 ( ーの目から筒 が見えるのは千里眼のせいだろ ? それに、あの筒で目がむずむずをはずしながら答えた。 するしさ」 「ドック、ヴァーゴやキャプリコーンが、ランスや、テランスや、 「いやはや、アイソトープも顔負けのたわごとじゃな ! あれでむサンスや、スタースの名前の一つだってことは、おれも知ってるよ。 ずむずせんほうが、・ とうかしとるよ。よしそっちの目も試してみよだけど、絵があるとは知らなかったな。ただの名前だと思ってた」 う」 「きみは・ーーああ、そうか。もちろんきみは、時計も、星・ほしも、 ふたたびスパーは叫びをあげたくなったが、ようやく声をかみこ黄道十二宮も見たことがなかったろうからな」 ろした。やはり目がむずむずしてきたが、こんどは逃けなかった。 スパーは、いまドックのいった言葉のことをもっと質問したかっ こんどのは、ほっそりした娘の絵たった。それが女だとわかったの たが、いつのまにか死人色の明りがなくなって、その代りにもっと へり . は、ぜんたいの形からである。しかし、その形には縁があった。彼明るい光の帯がぐっと幅をひろげてきているのに気がついた。 は : : : 細部まで見わけることができた。たとえば、その娘の目は、 「すくなくとも、きみの記憶にある範囲では、という意味だがね」 まわりのぼやけた一色の楕円形ではない。 目の両側には、真白な : ドックはそうつけたした。「つぎの休曜日までには、新しい目と歯 : 三角形がある。そして、二つの三角形に挾まれた薄い革色の円のをこさえておくよ。もしこられるようなら、もっと早くにきてみな 真中には、それより小さく黒い、もう一つの円がある。 さい。もっとも、遊曜日の夜あたりには、わしのほうから〈こうも その娘は銀色の髪の毛をしているが、齢はまだ若そうだった。縁りの巣〉へ出向くかもしれんがね」 が見えると、かえってそうした事柄が判断しにくい。その娘を眺め 「ありがとう、ドック。じゃ、もう帰るよ。キム、行くそ ! 休曜 ていると、さっきクランの〈穴〉でちらっと姿を見かけた、プラチ日の晩は店が忙しくなるんでね、ドック。遊曜日の晩がさかさまか ナ色の髪の女が思い出された。 らやってきたみたいにさ。ほら、とびこめ、キム」 絵の女は、肩をむきだしにしたキラキラ光る白のドレスを着てい 着くまで 「〈こうもりの巣〉までひとりで帰れるかね、スパ たが、どういう魔法のしわざか、それとも未知の力によってか、髪には暗くなるよ」 の毛もドレスも足のほうへまっすぐ伸びていた。しかも、彼女のド 「だいじようぶさ、ドック」 レスには : : : ひだが寄っている。 しかし頭から厚い頭巾をすっぽりかぶせられたような夜が降りる トック ? アルモディー ? 「この女はだれだい、・ と、最初の枝廊下の途中でもう彼はドックのところへ案内へたのみ 「いや。ヴァーゴ、つまり処女宮じゃよ。縁が見えるかね ? 」 たと にひきかえしたくなった。ただ、キムの軽蔑だけがこわい 「うん、はっきりと。あ、そうだー ナイフみたいにね。じゃ え、猫があれ以来彼に一言も口をきかなくてもだ。まばらな走り灯 へり へり まかっ 幻 4
が死亡することはあっても、予測された死亡日を越えて人間が生き小惑星帯にはいり、《会社》所有の空城をめざして減速に移ってい ることは、二一〇〇年以来なくなったのだーーそしてそのとき以た。目に垂れかかる白髪を払いのけたかれは、展望窓の外に視線を 来、診断ならびに予測の技術はわずかに進歩した。ただし、そうし凝らした。幾千もの小惑星がそこの空間に浮かび、厳密に計算され て知りえたことの内容を医師が患者に告げることは、法律でかたくた就道をめぐっていた。 禁じられているのはいうまでもない。 どの星も、ひとりの人間の夢が実現されたものであり、そのひと そんなことは知らないでいるほうがいいのだ。 つひとつが異なっていた。かれは初期の二、三のものについて噂を かれはシートに坐りなおし、目を閉じた。すでに動力は切られて聞いたことがある。たとえば、毎日四時間ごとに大規模なスポーツ いて、船は音もなく火星をさして、そしてその彼方をさして進んで行事が行なわれる星、岩を噛む急流と、恐れを知らぬ動物たちでい いた。かれは眠れなかった、いや、眠りたくなかった。あとに残しつばいの、ハンターの楽園と言われる星、エロチックな夢が実現し てきたものにたいし、かれはいかなる悔恨も感しなかった。子供もた淫蕩な星 : ・ いないし、ローラとの結婚は、たんに便宜上のものでしかなかっ 船は、そのなかのひとつ、・ほんやりした影になって見える天体の た。財産はほとんど親から相続したもので、かれの一生にこれつぼ運行速度に合わせて航行していた。やがて、かすかな音がして、双 っちの幸福ももたらしはしなかった。地球それ自体もいまでは化石方のエアロックとエアロックが連結された。 だ。わくわくするような出来事は、すべてよその世界で起こってい 「着きました」声が言った。 る。なのにかれは、そこへ行く資格を与えられていなかったのであ シオドア・。ヒアソルは、 かたくこぶしを握りしめて立ちあがっ た。呼吸がひどくはやくなっていた。 が、それももう過ぎたこと、いまのかれはみごとにそれを振り捨「着いたか」かれはおうむがえしに言った。 ててしまったーーそれらすべてを。 そしてドアのほうへ歩いていった。 問題なのは、前途にあるものなのだ。 かれ自身の世界、かれにびったりの、かれの馴染める人びとの住それからかれはなかにはいり、船は去っていった。 まず感じたのは、その匂いだった。湿った、よどんだ河の匂い む世界。 かれは肺いつばいにそれを吸いこみ、それを味わい、楽しんだ。そ 胸のなかで心臓が高鳴り、目が輝いた。 これではいかん、とかれはおのれに言い聞かせた。あまり興奮しれは街の上に、甘い、目に見えぬもやのように垂れこめていた。 河。 すぎないようにしなければ。 なっかしきミシシッビ。 陲眠薬を二錠飲むと、かれはうとうととまどろんた。 そのときかれはそれを聞いた。目がうるんだ。音楽、鐘の音のよ つぎに目を覚ましたときには、船はすでに火星と木星のあいだの 3 5
そう聞えた。 どこかの店へ入り、何かを食べたら、目の前にかかっていた膜の その太い腕の上の方に見上げるように大きい米軍の兵隊の体があようなものが少しずつうすくなって来た。 冫いた。カウンター って、・ほくを棒切れでも持ち上げるように軽々と引き起した。 ・ほくは五反田の駅の近くの大きなレストランこ の上の時計が十時半を指していた。目の前にいる米兵は目が灰色 外国人の匂いがした。ソ連兵のそれとはちがった匂いだが、しか し日本人では決して無い強い臭いがした。同じわきがでもアメリカで、髪は栗色だった。にこにこして、ぼくの目をじっとのそき込ん 人のは違うんだと・ほくは思った。しかしどこがどう違うかとても言でいて、時々視線が合うと、ウインクしてみせた。 いあらわせそうもなかった。 ぼくは親子丼を食べ、カッ丼を食べ、その上へサンドイッチを食 べてから、チョコレートパフェを飲んだのだった。これほど満腹し その兵隊が・ほくと腕を組んで通りへ歩み出した時になって、そい つが・ほくのミルク代を払ってくれたこと、どうやら主人は二本分のたことは生れて初めてだった。食堂でこんなものを食べるのも初め てたったし、人にこうしておごって貰うのも初めてだった。 ミルク代を取ったらしいことにぼくは気づいた。 満腹とともに分別が、十五歳の少年らしい分別が戻って来て、ぼ ・ほくの理解力はどこかで分解して、なかなかもと通りにならなか った。行動が先になり、しかも次々とぼくはぼく自身の外へ走り出くはなぜこの米兵がこうしてぼくに御馳走してくれるのだろうと、 ふしぎに思い始めた。これがあの炊事夫のよく言った自由圏の腐敗 していた。・ほくはぼくに追いつけなかった。 兵隊の腕の中から身体をすりぬけさせようとしたのもそうだつなのだろうか。 た。なぜ逃げなければならないのか念頭になくて、・ほくはただこの改めてつくづくと相手を見た。眉毛は無いようにうすく、それが この男を年とって見せていたが、実際は二十歳くらいかと思われ 大きな、意外に若い男であるらしいアメリカ人から逃げようとした のだ。 しかし、男はぼくの考えをちゃんと察していたように、軽々と・ほ階級は何だろう、ソ連軍兵士のならたいてい判るのだが : : : しか くを小脇にかかえ、とても逃げられないと思って諦めるほど手軽にしただの兵隊じゃない、下士官か準下士官くらいだ。衿についてい ほくを扱ってから、人形でもおろすようにそおーっと地面に足をつる金条の具合で何たかそんな気がする : : : ぼくが腹の上に手を置い て満足の意をあらわすと彼は けさせた。 「今夜は、おれンとこへ泊れよ」 「お腹がすいているかい ? 」 と一一一一口った。 ゆっくりと米語で言った。 「友達が大勢いるぜ」 「ごちそうするよ」 ・ほくは首を振った。そのくせもう逃げるのは止めていた。なぜだ ・ほくは疲れていた。実際今日は事件が多すぎた。何か変った目に 9 ろう ? 涙が出た。 逢ってみたくて、それをまた仲間に認めて貰いたくて、うずうずし
にかく、われわれはみんなその病気に罹った。レテの水を飲んだわ 「ごめんよ、ドック。実はーー」 けじゃ。しかし、えらく年寄りになると、最初のころを思い出すこ 「いいさ。まあ、とにかくおはいり。ゃあ、よくきたね、キム ともある。おい、じっとせんか」 もしよかったら、きみはそこらを見物していたまえ」 「じゃあ、ステュクス熱のせいなんだね、ドック ? おれが〈こう 這い出したキムは、ス。 ( ーの胸をひょいと蹴ると、典型的な猫の もりの巣〉より前のことを思い出せないのは」 視察旅行にとりかかった。 「かもしれん。きみはいつごろから〈巣〉で働くようになった ? 」 視察の対象は、スパーの目でもわかるほどたくさんあった。ドッ クの診察室の中の支え綱は、どれも端から端までいろいろの物がク「知らないよ、ドック。ずっとだ」 「少なくとも、わしがあの店を見つける前からじゃな。あれは、こ リップ止めしてあるーー大きいのや小さいの、光ったのやくすんだ の、白いのや黒いの、半透明なのや曇 0 たの、ありとあらゆるもやの第四船倉にあった〈ラムダム〉が店じまいしたときじゃった。し もや。それらが影絵のように浮きだしたむこうには、スパーの怖くかし、あれから数えても、まだ一スタースほどにしかならんよ」 てならない、だが、いまはそのことを考えるひまもない、あの死人「だけど、おれはすごい年寄りだ・せ、ドック。どうして昔のことを 色の明りの壁がある。そして、その一端には、それよりもっと明る思い出さないのかなあ ? 」 ー。ただ、頭が禿げとるのと、歯 「きみは年寄りじゃないよ、スパ い光の帯。 「気をつけろよ、キム ! 」猫が支え綱にとびつき、滲みから滲み〈がないのと、月の露に侵されとるのと、筋肉が萎びとるだけじゃ。 そう、それにきみの心も萎びとる。さあ、こんどはロをあけて」 と動いていくのを見て、スパーは声をかけた。 ドックの片手がスパーのうなじを押えた。もう片手はロの中をさ 「キムは心配いらんよ」ドックがいった。「それより、きみを診察 ぐっている。「少なくとも歯ぐきは堅い。これなら、やりやすい しよう。目をじっとあけとりなさい」 ドックの手がスパーの頭を押えた。灰色の目となめし革色の顔そ」 スパーは塩水のことを話そうとしたが、やっと彼の口から手をひ が、一つに滲んで見えるほど近づいてきた。 うん、まばたきはせずにおれんさ。そきだしたドックがいったのは、こんな言葉だった。「さあ、こんど 「目をあけとれというにー はできるだけ大きく口をあけて」 れはかまわん。そうか、やはり思ったとおりじゃ。水晶体がなくな ドックはスパーのロの中へ、なにかハンド・ハッグのように大き ) のリケッチア病の副症状で っとる。こはレテ星 ( 流れる忘却の川 く、めつぼう熱いものを押しこんだ。「よし、強く噛んで」 な、感染者が十人に一人の割りでやられるんじゃよ」 ス。ハーは火を噛んだかと思った。あわてて吐き出そうとしたが、 ) のことかい 「というと、ステ = クス熱 ( 黄泉の国の憎しみの川 頭と下あごにかかったドックの手が、そうはさせなかった。思わず 「そのとおり。もっとも、おなし地下でも川ちがいのようだが。と彼は手と足をばたばたさせた。目に涙が溢れてきた。 幻 2
にした、ひどく無気味な邪教だが、その邪悪な呪術のひとつに〈魔 ら同級生たちの目にあったあの冷酷な白い光を見出してしまうのだ 性の目〉というのがある。邪眠ともいうが、その妖術使いの不吉な おれは、追われる身の犯罪者の心理をはじめて知「た。自分をめ目に見つめられた人間の身には、恐ろしい災いが降りかかると信じ ざして、網がジワジワとひき絞られてくるたまらない不安と焦燥。られている」 おれは、三輪真名児の黄金色に光る妖しい瞳を思い浮べて、悪寒 おれはついに、広場に集う鳩の群れの目に白い光を感して慄然と に慄えた。あれこそ、まさしく邪眼そのものではなかったか。 した。魔女はあくまでも標的を追いつめようとしているのだ。 おんみよう 「陰陽道や密教にも、無気味な呪法がたくさんある。日本で有名な うし 0 のは、〈丑の刻参り〉という殺人呪法だ。神木に、憎い敵を象るワ ラ人形を五寸釘で打ちつけ、呪い殺す。現代でも行なわれている呪 的場センセーと連絡がとれたときは、しんそこ嬉しかった。セン術に〈呪い針〉というのがある。ワラ人形に四十九本の木綿針をさ : これと似た呪術はアメリ しこみ、四つ角に埋めて敵を呪うんだ : ・ セーは北海道での取材を終えてよっやく帰京し、留守中に届いてい カ・インディアンにもあって、だれかに危害を加えようとするとき たおれの伝言を読んだのだ。 0 、 トへ飛んで行き、センセ 1 の肥満体を見たときは、安堵のは、敵を象る小さい木像を作り、これに針を打ちこんだり、矢を射 こんだりする。 あまり膝の力がぬけた。 迷信とはいえ、こういった呪術や妖術は、旧石器時代から連綿と 「えらいことになったな」 センセーもやや顔色を失っていた。太くまるまっちい指先で、お続く、人類全体の古く根強い文化なんだ。科学技術時代という現在 でも、ジンクスだとかッキだとかいって、オマジナイはすたれな れの手紙をめくる動作を意味もなくくりかえしていた。 人間はだれでも、たとえ理性では否定していても、心の深層 「大養のいうことを信じないとはいわないが : : : 」 部、潜在意識に、呪術信仰を秘めているといってもいい。詮じつめ 困惑しきった声だった。 その証拠に、黒人宗教のプ れば、だれもが神秘主義者なんだ。 「魔女存在というやつは、世界中の民間伝承に跳梁しているんだ。 ゥードウーの呪いは、文明人で合理主義者と威張っている白人に対 ヨーロッパの魔女伝説だけでなく魔術の起源はおそろしく古くて広 、。魔女の棲む呪術世界は、人間文化の基本なんだから : ・ : ・科学技してさえ、ちゃんと効くんだぜ」 術万能の現代でも、西インド諸島の ( イチを中心に、アメリカ南部センセーは立て続けにタ・ ( 0 を灰にしながら、早口に喋 0 た。 「もちろん、合理的に解釈すれば、ただ単に優秀な催眠術者にすぎ へかけて、プウードウーという黒人魔教が実在する。人形を媒介に して呪いをかけたり、ゾンビーといって死人を奴隷にして労働させないのかもしれん。すくなくとも、〈魔性の目〉なんていう、おど ・フゥードウ 1 は、アフリカ原住民の妖術をもとろおどろしい代物より、もっともらしくてありそうな話だ」 たりするんだ。 っこ 0 、 0
「〈ウインドラッシ↓が、ザ・シップって呼ばれることもあるのの〈穴〉だ、と彼は気づいた。どうやら、あの背中の鋭い痛みは、 は、知ってるわ。その白い丸も見たことがあるーー絵でね。でも、麻酔薬の注射だったらしい そんな夢みたいなこと考えるんじゃないわ、スパー。あたしの中へ だが、クラウンは彼の目の飾りもとらなかったし、彼の歯にも気 はいって、なにもかも忘れて」 づかなかった。スパーのことを、昔ながらの歯ぬけメクラと思って スパーはそうした。おもに友情からだった。足首を支え綱へ留め いるのだ。 るのも忘れた。スージーの体にはもう魅力がなか 0 た。彼はひたす地獄大とらせんのあいだに、支え綱に縛られたドックと、その隣 らアルモディーのことを考えていた。 にクリツ。フ留めされた大きな黒い・ハッグが見えた。ドックはサルグ おわると、スージ 1 は眠った。スパーもポロぎれで目隠しして、 ッワをかまされている。きっと声を立てようとしたのだろう。スパ 眠ろうとした。禁断症状は、この前の睡曜日よりもほんのわずかま ーはそうしないことにした。ドックは灰色の目をあけていて、彼を しになったたけだった。そのほんのわずかのおかげで、 トーラスへ見ているようだった。 月の露の袋をとりにいくことだけはしなかった。だが、そのとき、 きわめてゆっくりと、ス。ハーは痺れた指を手首を縛りつけた結び まるで筋肉がひきつったような鋭い痛みが背中をおそい、症状が急 . 目の上へ動かし、ゆっくりと全筋肉を収縮させてから、ひつばって 激に悪化した。一度、二度、と痙攣が起こり、苦痛が耐えられなくみた。結び目は支え綱の上を一ミリほど滑った。ゆっくりと動いて なったとき、意識がなくなった。 いるかぎり、地獄大にはさとられないはすだ。彼は間隔をおいて、 ス・ハーは正気づいた。頭がズキズキしていた。体が支え綱ヘクリ この動作をくりかえした。 - ップで留められているだけでなく、縛りつけられていることに気が それよりさらにゆっくりと、彼は顔を左に向けていった。廊下へ ついた。両手首が一方へ、両足首が反対の方向へと引っぱられておの ( ッチのジッぐ / ーが閉まっていること、犬とドックのむこう、黒 り、手も足も感覚がない。鼻が支え綱をこすっている。 いらせんのあいだに、がらんどうのキャビンがあり、その右舷の側 光でまぶたの裏が赤く見えた。彼はそろそろと目をあけ、そしてはいちめんの星・ほしであることーー、見えたのはそれだけだった。そ 地獄伏が隣の支え綱を曲けた後肢をのせて身構えているのを知っのキャビンへのハッチはあけつばなしで、黒い縞になった非常 ( ッ た。地獄犬の大きな鋭い歯が、おそろしくはっきり見えた。もし彼チがそのそばで揺れている。 がもうすこし不用意に目をあけていたら、地獄犬は彼ののどにとび おなじゅっくりした動きで彼は顔を右へめぐらした。ドックが横 かかっていたかもしれない。 へしりそき、彼に目ざめの気配がないかと見張っている地嶽大が横 彼は自分の鋭い金属の歯を擦りあわせた。顔への攻撃なら、すくへしりそいていく。手首の結び目は、二センチほど近づいてきた。 なくとも歯ぐきよりはましな武器で迎え撃てる。 最初に見えたものは、透明な長方形だった。その中にもたくさん 地獄大のむこうに、黒と透明のらせんが見えた。ここはクラウンの星・ほしがあり、船尾寄りに煙ったオレンジ色の丸がある。煙はて 228
センセーにはやはり、ほんとうのところはわからないのだ、とお 2 れは絶望すら感じた。三輪真名児の黄金色の瞳を見ていない人間に 2 対して、どうやって信じさせたらいいのか。その邪眼を目にしたと きは、しつかりと魔力に掴まれてしまうというのに : 負け大のように敗北感に打ちひしがれたおれに、立ち直るきっか 「催眠術はともかく、こいつは恐ろしく難題だそ、大養。三輪真名けを与えたのは、鏡明の妹だった。 児を告発すれば、一一十世紀の魔女裁判だ。笑いものになるどころか 的場センセーと会った日の晩、中学三年生の少女は怯えた小動物 のような姿を、おれの前に現わしたのだ。 おまえのほうが精神病院行きだ。だから、むやみに魔女の話などい いふらしてまわるんじゃないそ」 なすすべもなく、かっての担任教師とわかれておれが帰宅するの 的場センセーは語気を強めていった。 を、少女は暗く冷たい吹きさらしの路上に立って待っていた。 こわばった白い小さな顔には、恐怖の翳が色濃くきざまれてい た。以前の快活な美少女の面影はなかった。おれは胸をつかれるよ 2 うに感じた。その顔に表われたいたましい恐れの色が、病院の牧村 雷に撃たれたような思いがした。事態の真の恐ろしさが、やっと由紀を思いださせたからだった。 のみこめたのだ。 「どうしたんだ、洋ちゃん ? 」 アフリカ奥地の後進国はいざ知らず、文明国家ではもちろんのこ おれは夜の寒さとは異なる悪寒に身震いしながら尋ねた。なにか が起きたのだ。 と、邪悪な妖術師を処罰する法律は存在しない。悪魔や魔女といっ た超自然的存在は、根本的に否定されているからだ。 「鏡明がどうかしたのか ? 」 ほっそりとした少女の目に 1 みるみる涙がふくれあがった。 三輪真名児は、まったくなにひとっとして法律を犯していないの だった。したがって、彼女はこの上なく安全な立場にいた。真名児「兄さんが : : : 気が変になったの」 と、少女はむせび泣き懸命にこらえながらいった。 が凶悪な殺人者であるにせよ、彼女を罰することは不可能だった。 おれは冷水を頭から浴びせられたような気がした。 「こうなると、十七世紀以来、野蛮なヨーロッパ人がやったみたい に、魔女を捕えて殺す以外に手がないのかもしれないな」 前夜、鏡明は妹の洋子を襲ったというのだ。しばらく前から、少 なぜセンセーはそんな言葉を呟いたのだろう。おれは地の底へ沈女は兄の様子がおかしいと気づいていた。鏡明は性格がまったく一 みこんで行くような、底知れぬ恐怖感とともに、茫然と聞いてい変してしまい、家人といっさい口をきかなくなっていた。話しかけ ても、白い目を向けるだけという有様だった。 が、少女を怯えさせたのは、妹に向ける鏡明の異常な目の光だっ 3 4
る。夜の闇に迷子になった幼い子どものように怯えきっている。ど 「だが、おれだけは、あんたの思い通りにはならないぞ。あんたか うにもならない圧倒的な、理不尽な、迷信的な恐怖。おれがこれま ら身を守る方法を知ってるからだ。あんたのその目を見なければい いんだ。あんたはその目で、みんなに催眠術をかけて思い通りに操で学んできた科学的な思考が根底から崩壊して行く。真昼の明るい ってるが、おれには通用しない。いいか : : : 」 光ですら、おれの崩壊を支えるには、あまりにも無力だ。 おれは大きく深呼吸してからいった。 いまのおれを駆りたてているのは、どこかへ逃げだしたい、魔女 の凶悪な力の及ばぬ遠方へ逃走したいという、やみくもな衝動だ。 「この学校から、すぐに出て行け。どこか遠くへ行ってしまえ。二 度と戻ってくるな。さもないと、あんたのこれまでやったことを : ・ おれはこわい。おれはすでに、魔女によって呪われているのだろ ・ : あんたの正体を世間にパラしてやる」 「あなたがなにをしようと、知 ? たことじゃないわ」 おれはこれまで慣れ親しんだすべての日常性に亀裂が走り、砕け と、三輪真名児は、おちつきはらった声でいった。 散っていくのを感じていた。それはまさしく、悪夢の感覚だった。 「あたしを追いだそうとしたってむだなことよ。それより、覚えてあらゆるものが奇矯な変貌を遂け、グロテスクで残忍な素顔を露呈 いらっしゃい 。あたしに楯突こうとするなんて、ほんとに憎らしし、おれを監視しているのだった。おれの親しい友人たちは、ひと り残らず、悪意にみちた敵に変ってしまった。これは夢だ。グロな いやつね。いまに死ぬより恐ろしい目にあわせてあげるから」 悪夢だ。 「脅迫したって平気さ。あんたの催眠術にかからなければいいんだ ・ : そっちこそ、おれの警告を忘れるな : : : 」 たのむからもうやめてくれ ! おれは、正常な世界に戻りたいの 「あたしの正体を知っているといったわね。だけど、こっちもおまだ。 えの正体がわかったわ : : : 」 9 三輪真名児は嘲りの笑声をたてた。すさまじい悪意がこもってい た。おれの体毛は一本残らず逆立った。魔女の嘲笑に追われて、お おれは現実から逃避した。 れは応接室を走り出た。 三輪真名児はついに仮面を脱ぎ、凶まがしい魔女の素顔を剥きだ無力感にむしばまれて、学校へ寄りつくこともならず、盛り場を うろっき、無為に時間を潰しているおれは、はたから見れば怠学中 しにしたのだった。 の非行少年とすこしも変らなかったろう。・学校へ行く勇気がなかっ た。それが罪悪感を生み、よけいひどいことになった。・ とんな場所 にいても、魔女の執拗な監視の視線がっきまとうのを意識してしま おれはいま恐れている。心の底からの恐怖に圧し潰されかけてい う。盛り場の雑踏の中にいてさえ、見知らぬ群衆の目の中に、鏡明 、 0 4
きつけた。そうしているうちにようやく・ほくのいつもの論理を辛う明るい単純な美しさを持っていて、・ほくの気に入った。肖像にして じて取戻すことができた。 も北地区のレーニンより、南地区のワシントンの方がずっとハンサ ムだった。全体の色が写真で見たよりこくがありすかしも花模様で ぼくはしやくりあげながら、ふるえる指で何度目かに軍票を拾い あげた。あいつらは決してぼくを傷つけることはできない。強者はきれいだった。 決して弱者を辱しめる事はできないのだ。傷つき辱しめを受けるの ・ほくの心はほんのいっとき学校の教室へ戻っていた。級友たちに は征服者であり強者であってその反対ではない。あいつらは鼻歌を軍票を見せていた。 唄い、ぼくは泣く。あいつらは金を投げ与え、・ほくは拾う。それが ( 大崎本町でカレーライスを食べたよ ) と・ほくは得意になって話していた。 何よりの証拠た。この軍票を・ほくが自分に役立てるときに、彼らは ( 八十五セントだ。春日町で七十カペイカで食べるのとおんなじ 益々悪者になる。・ほくがこの金を本当に捨てたら、彼らはそれでい だ。肉なんて、殆ど入っちゃいないや ) 。 く分かは免罪になるのだ。 ぼくは街へ出てからもまだ涙を時々掌で汗といっしょに拭うよう どうして・ほくの心が急にそこへ帰って行ったかが、間もなくわか な始末だったが、空腹に負けて一軒の食堂に入った。気分が沈み切 って自分がいやでたまらなかった。やっとのことで親子丼を注文しった。お茶の水の川と同じ黒い水が食堂の近くを流れていて、匂い かけ、昨夜チャールスにそれを食べさせて貰ったことを思い出しが夏の午後のむっと来る湿気と共にどこからともなく入り込んで来 て、あわててやめた。カレーライスを頼んだ。 ていたのだ。それは・ほくにいろいろなことを思い出させたのだ。・ほ 満腹は中学生にとっては安定の第一条件だった。・ほくたちの年齢くがなぜここにいるのか、どうしてこんな所で南地区の軍票を眺め では魂はどこよりも胃袋の上にあったのだ。カレーライスを二つ食てなどいるのか。これからどうするつもりなのか。 杉子がその時むしように恋しくなって、・ほくはひとりで顔をあか べた時、ぼくは自分がそれほど悩むべきことでもないことで悩んで いたような気がしていた。金を捨てないでよかったと思い、釣銭にらめた。芝草のちくちくする痛みが裸の腕を徴かに刺すのを記憶の 中に感じた。大きなまだ子供つ。ほい杉子の目がり泣いて 貰った四ドル十五セントと五ドル札をならべてよく裏表を眺めた。 の目はかって一度も。ほくを咎めたことの無い目た。だんだん物思わ 五ドル札にはワシントンの肖像が印刷してあり、大型で緑色だっ たが、一ドルの軍票はそれをそのまま一廻り小型化したたけのものしげになってゆく目だ。それから・ほくに、誰よりも一番近づいて来 だった。十セントと五セントの軍票は、緑色であることに変りはなて喰い入った目なのだ。彼女は今日は学校へ来たろうか ? ぼくが かったが、肖像はなくて各々の価値をあらわす数字が、中央に幾何昨日の午後から姿を消していると知って、どんな気持でいるだろう 模様に囲まれてあざやかなオレンジ色で印刷されていた。 か。誰もまだ・ほくが越境したことを知らないでほかを探しているだ 9 紫や茶がかった北地区の軍票に比べると、こちら側の軍票の方がろうと思うと、勿体ないことをしているようなかすかな優越感が・ほ
はりアルモディーだとわかった。しかし、紫色の服を着た焦茶色の が合唱をはじめた。 もやもやと、【黒く細長い、耳のとがったもやもやに挾まれてみる スパーの耳にキムの朗唱がきこえた と、彼女は恐ろしくよく似合って見えた。 「ボクハネコサ。 スパーは、クラウンが彼女に耳打ちするのを聞いた。「キーパー ネジュミヲトルノサ に、しゃべる猫を見せろとたのめ」ひどく小声の囁きだった。いっ アイソモイイゾ。 にない興奮からの震えがクラウンの声にこもっていなければ、スパ ャロウニャニャロメ、 ーはそれを聞き逃したかもしれない。 イカシタコニヤハイ」 ほら、地獄大と 「でも、そんなことしたら喧嘩にならない ? 遊曜日の夜はふけていった。客はそくぞくとつめかけた。ドック はこない。だが、クラウンがや 0 てきた。踊 0 ていた連中がさ 0 との」アルモディーの声は、スパーの心臓のまわりに銀の触手をまと 一一手に分かれ、一区画の客がまるごと移動して、クラウンと、連れわりつかせた。スパーは、ド , クの持 0 ていた筒で彼女を見たいと の女たちと、地獄犬とに上席をゆずった。クラウンの一行はトーラあこがれた。きっとヴァーゴのように、いやもっと美しく見えるだ ろう。しかし、クラウンの女なのだから、処女であるわけがない。 スの三分の一を独占し、その下側にもだれもいなくなった。スパー なんてふしぎな恐ろしい世界だろう。彼女の目も革色・ーー・だが、ス の驚いたことに、犬を除いたみんながコーヒーを注文した。犬はク パーはもう・ほやけた滲みにはうんざりなのだ。アルモディーはひど ラウンに注文をきかれて、「。フラッディ・メアリ」と答えた。すご い低音で語尾を長くひきのばすので、「プローモー」という唸りとくおびえているようすだ「たが、抗議をつづけた。「クラウン、お ーの心臓は完全にとりこになった。 ねがいだからやめて」ス。ハ しかきこえない トーラスの反対側から、キムが批評し「だって、そのためにきたんじゃないかよ、べイビー。それに、わ 「アレレモコト・ハカイ ? 」 た。キムの近くにいる酔客たちは、けんめいに笑いをかみころしれわれにむかって " やめて。は言っちゃならねえ。おまえもそれは よく教えこまれたはずだ。いまからもう一度レッスンしてやっても いいが、今晩は妙なやつが目を光らしてやがるんでな。キーパー ! ス。 ( ーは、手がやけどするほど熱い袋入りのコーヒーをフェルト うちの新しいご婦人が、猫のしゃべるところを聞きたいという のホールダーに入れてくばり、地獄大の注文のカクテルを目動攪拌 器の中で作 0 た。もうへとへとに疲れていたが、一瞬、自分のこと仰せだ。連れてこい」 よりもキムのほうが心配にな 0 た。またもや、目の前で、顔のもや「あたし、別に : = = 」アルモディーはそこまで言いかけて、黙 0 て もやが泳ぎはじめる。しかし、リクサンドは黒い髪の毛、フアネ , しま 0 た。 キー。ハーが呼びかけているのと正反対の方角から、キムがトーラ トとドウセットはよく似た赤い髪とおかしな赤いまだらのある白い 肌で、見分けがついた。そして、プラチナ色の髪の青白い娘が、やスのそばをふわふわと漂 0 てきた。猫は支え綱で体の動きを止める 2 け