センス・オ・フ・ワンダー - みる会図書館


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1. SFマガジン 1972年4月号

″センス・オプ・ワンダー″だけで、小説が支えられなくなってく ルべレスは、の中にファン達が見出すものを「原生状態のまま る状況は、当然、作家達にとって問題であり得ないはずはない。 の想像力」である、とし、その意義は「本能と幻覚の解放の手段、 また流産した超自然美の創造の手段」として認めている。文学者での分野の多くの作家達は、この欠落を、小説技術で支えようと努力 あり、「大人」であるアルペレスにとって、の骨格としてのを始めた。 ″センス・オ・フ・ワンダーは見えず、それに触発された肉だけが最も無能な作家は、既成の大衆小説の無台を的 ( 非現実的の ″センス・オ・フ・ワンダ 1 意 ) 設定に置きかえただけだった。しかし、そうした大衆小説が本 見えたと考えられるのだが、そこに、 質的に″うまい″作家は、文芸的後進地域だった界には、喜ん 以後のの世界を見出すことができる。 セで受け入れられた。我々 ( ファン ) にとって、は決して手離せ 我々は、ともかく、ひとつの神話を越えなければならない。″ ない対象であり、完全な満足は得られないにしても、何らかの形で ンス・オ・フ・ワンダー″から″ナンセンス・オプ・ワンダー″へ。 を楽しまずにはいられないのだ。恋愛、アクション、単純な社 会性 ( 即ち、科学のイメージ以外の何か ) 等の導入ーーはこの 3 ″サイエンス・フィクションみの 地点で既に変質を始めている。 限界 四〇年代、五〇年代と、これらの変質し始めたは、それなり ″センス・オ・フ・ワンダー″が基本的には、昔物語のタイプ、モチに開花した。 ハインラインは想像力の貧困を通俗性と筆力の中に埋没させた。 ーフと相似であり、それは初めての読者にとって普遍的に存在する ものの、「驚異」のショックをひと通りくぐりぬけると、それは意アシモフの凡庸さは救いようがないが、とにかくファン好みの話題 だけは提供した。シマックはやはり凡庸かもしれないが、ハインラ 味を喪失して行く、そうした比喩的に「大人」になった読者にとっ かなり優れた小説も イン同様、通俗性と感性が共鳴した場合には、 て、は任務を終えるのだろうか。 ″サイエンス・フィクション″は、中核としての科学のヴィジョン書いた。しかし、これらの作家は、基本的には″サイエンス・フィ クション″の作家であり、″科学のヴィジョン″という骨格を持っ と不可分に結びついて発展してきた。その為、″センス・オプ・ワ ンダー″の欠落が、″科学のイメージ″を幹としたサイエンス・フていた。 同し通俗性は持っていても、より文芸的な作家達もいた。・フラッ イクションに、一般の読者を引きとめられなくなるとしたら、その ドベリは、〃センス・オ・フ・ワンダー″を感受し得る″感性をその 化石化と閉回路 ( 科学者のための小説 ) への後退は必然だったろ う。 tnv-k は、新しい何かを読者に提供はするが、それ以上には進まものを主題として、″科学のヴィジョン″を欠落させたまま ( それ ー″を単なる触媒に利用はしたが ) 出発した初めての作家だったし、ヤ ないで、また出発点へもどる、それを″センス・オ・フ・ワンダ 体験と名付けてもよい。その循環構造は、確かにのひとつの顔ングのメロメロ小説やベスターのスタイルばかりの小説も、″サイ エンス・フィクションの基本要件からは隔ってしまっている。 である。 しかし、″サイエンス・フィクション″にとって、単純な意味で また、別の傾向に走った作家もいる。アルペレスは言う、「頭のに しい作家は、真剣さに代えるユーモアをもってして、このジャンル の″センス・オ・フ・ワンダーの欠落は致命的ではなかった。 こ

2. SFマガジン 1972年4月号

的″センス・オ・フ・ワンダー″に頼ることがもはや不可能な段階 で、″サイエンス・フィクション〃はリアリズムこそが生命であ あした 4 明日はどっちだ ! る。既成の絶対的″目盛りみの存在、ここで″サイエンス・フィク ション″は決して越えられない障壁に直面していると同時に、決定 的に文学としての性格を放棄せざるを得ない。何故なら、文学とは ″明日のジョー〃のように、我々は駆け出すことも出来る。 「地図」だからだ。 2 、 3 を通じて、これまでのの基本理念とその生み出した ″サイエンス・フィクション″が「死ぬ」理由は他にもある。″サに対する僕なりの評価をしてきた。 をある程度読み進んた読者にとって、〃センス・オプ・ワン イエンス・フィクション″が描き出す高度の蓋然性を持った多様な ″現実″は、それが″現実的″であればある程、相互に他の作品のダー″は決して還ってこない神話であり、〃サイエンス・フィクシ リアリティを奪い合って、全ての作品を単なる″作りもの″にしてョン″は、「科学」が肥大して自走を始め、作家の手から隔って行 しまう。それはさらに進んで、我々の一般的に認識している″現実く状況を別にしても、本質的に認識の一面性 ( 一枚の「地図」 ) と 世界″をも解体して行くだろう。それは、作家達 ( 科学者達 ) の意いう文学としての致命的欠陥を持ち、それに加えて、唯一の生命県 志に反して、ファンを、すばらしくアナーキイにしてしまっ証であるリアリズムこそが、回帰的に自己のリアリズムを破壊して こ 0 行くパラドキシカルな構造を持つが故に、閉じた卑小なジャンルに しかし、この地点で、″サイエンス・フィクション″は立ち止ましかなり得ない、と綜括した。 一見、悲観的に見えた ( 数年前までは、本当には死ぬと信し らざるを得ない。残された道は、例えばクレメントの「重力の使 命」 ( この作品自体は、詩的イメージを併せ持っている ) のようなていた ) この状況は、しかしがその幼児性を振り切る為に絶対 完全な遊びになかに後退することしかない。 ( これは、ひとつの求に必要な地平だった。 心点であり、のなかのひとつのジャンルとなり得るだろうが、 は今、その中核としての″サイエンス・フィクション″を置 総体とは縁もゆかりもない。それを、中心理念を誤解したことき去りにしたまま、それによって触発された無限の〈書き様 ( 「書 から、不毛な論議がくり返されてきたーー念の為に言っておくが、 く」自由な空間 ) 〉のなかで変質した。 僕は″今語っているのだ ) 勿論、先に書いたように、基本的な″センス・オプ・ワンダー ″サイエンス・フィクション″は死ぬ。しかし、それは″センス・ を備えた″古典〃は読まれ続けるだろう。それは、″センス・ オ・フ・ワンダー〃の心理ショック同様、我々にひとつの決定的認識オプ・ワンダー〃がそうでなくなる時 ( 日常感覚としての相対性が を残してくれた。文学的に極めて後進的だったが、私生児の文意識された時 ) まで、をり続けるに違いない。それは出発なのだ。 この″サイ 学として疾走し始めることができたのは、他でもない、 ″サイエンス・フィクンヨン〃が無力化し始める地点で、核の無い エンス・フィクション″に原因したアナーキズムたったと言えるだ は、拡散を続けてさたが、その突出部として〈新しい波〉があ ろう。 り、それを契機にに全面的に展開を始めている。 そのなかに大きな三つの流れを見つけることはさほど因難ではな ニュー・ウェープ に 9

3. SFマガジン 1972年4月号

する「驚異」は単純で生のままである。我々がその形式を知りつく粋なは、学実験を見守っている十一歳の少年が感しるのと 6 5 してしまえば、その「驚異」は克服される。我々はさらに複雑で屈同じ種類の驚異の念を喚びおこそうと試みる。リアリスティック 折した「驚異」へ進んで行くことができる。 であろうと試みる。 ( 中村保男訳、傍点筆者 ) の提供する「驚異」は、より具体的で新鮮 ("Now こ ) であ o ・ウイルスンは、ベルの「夜明け前」を例にして、前記のよう る。その為に、十代の少年ばかりでなく、二十代あるいはそれ以上な作品は、一九二五年以降に出版されたのごく一部分を占めて の年齢の人間を捕えることができる。 いるにすぎない、と言っている。とは言うもの、この定義は、我々 純粋な衝撃力において、はるかに勝っているにしても、のが神話のように持っている、あののイメージ″を実によく言 「驚異」は昔話のそれ同様、類型的なタイプとモチーフしか持って いあてている。″センス・オプ・ワンダー″とは、この「化学実験 いなかった。これは「昔話」と同しく克服し得る要素である。しかを見守っている十一歳の少年が感じるのと同じ種類の驚異の念」に し、の驚異Ⅱセンス・オ・フ・ワンダーは、我々にとって決して他ならない、と僕は考えている。 克服したい対象ではない。もしそれが感受し続けられるなら、いっ しかし、この″科学のイメージ″のタイプとモチーフはにお まででもそこに留まっていたいものである。我々はいつまでも無垢 いて、かなり貧困だった。外面的に、を分類するなら、それは、 日幼児性を模倣しようとする ( 伊藤典夫氏が以前、時々言っていたほんの数えるほどの類型に分けられてしまう。を読み進み、そ ″童心〃とはこのことだろう ) 。だが、我々の感性は、のタイ。フの単純な「驚異」の型をお・ほえることで、「化学実験」は″科学の とモチーフを知悉することで、否応なしに拡大し、の衝撃力は驚異マジック″ではなく、現実にくみこまれた既知の日常となっ 消失して行く。「驚異」は、説明された既知の「驚異」となり、純てしまう。しかも、幾度もくり返された「驚異ーのなかで、我々の 粋な″センス・オプ・ワンダー″は失われる。 心は拡大され、類推をお・ほえた心は、もはや単純な「驚異」を感受 ″センス・オ・フ・ワンダー″とは、優れた読者側の″感性″の問題し得なくなる。そして、の中心理念へと考えられてきた ) とし であり、その体験は一回的である、と考える訳だが、その一回性ての″センス・オ・フ・ワンダー″は消減する。 は、の説明癖によって助長される。は「驚異」を提出し、 しかし、そうだとしたら、は「昔物語」同様、 ( 比喩的な意 それを名付け説明する。そこで「驚異」は「驚異」でなくなる。名味での ) 幼児性から脱却できない化石化した一ジャンルへと退化す 前を持った「驚異」など存在しないのだから。 る以外に道は無いのだろうか。 ところで″センス・オプ・ワンダー″とは何か。それは、やは実際、いくつかの古冊は、そうなりつつあると言える。基本 り、合理主義の化物としての″科学″のイメージ ( ″科学″そのも的な″センス・オ・フ・ワンダー″のタイ。フをほとんど発明したと言 のではない ) ではないか。 えるウエルズの諸作は、その思想性を剥奪されて、完全に化石化し コリン・ウイルスンは「夢見る力」 ( 竹内書店 ) で、次のように た「子供向け」読物になってしまった。ヴェルヌもまた、その華麗 書いている。 な文体を切り刻まれて、同じ運命を辿っている。 最も純粋なとは、ほかでもない、その効果をもつばら科しかし、が提供したのは、それだけではなかった。は付 学のヴィジョンに頼っているフィクションということである。純加的に、世界を拡大した。「現代小説の歴史」の著者、・・ア

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の段階で米国が竸争を止めたとしたら、極めて愚かしく見られるベトナム戦争と重ね合わされ、無差別に虐殺されるべムが、ベトナ だろう、という考え方がある。彼らは人生の実際的な部分に心をム人と二重写しに・なる時、確かにこれまでのを色濃くおお 0 て いアメリカ的な「自由と平和」幻想のオプチミズムは、白けた戯画 奪われてしまって、宇宙に対する夢や驚異を感しる方法を忘れて に反転して、消えていった。そうした幼稚なアメリカニズムが初期 しまっている プラットは、世界が夢のない時代をむかえ、もそうした背景のを本質的に支えていたのは事実だろう。それが、時代変化と 共に必然的に姿を消していったのは事実だけれども、″センス・オ を反映して″センス・オ・フ・ワンダー″を失った、と説明する。 ・フ・ワンダー″とはこれだったのだろうか。 しかし、そうした社会との相関関係だけで″センス・オ・フ・ワン プラットとシュネデールの二人を比較することで第一に気付くの ダー〃の欠落を説明することは可能だろうか。 マルセル・シ = ネデールは同様な状況分析から逆の結論を導き出は、説明が共に、二人の個人的な事情を説明しているに過ぎないと いうことである。とすれば、″センス・オプ・ワンダー〃がか す。「現代フランス幻想小説ー ( 白水社 ) の序文で彼は次のように セ ら消減した、という認識はプラット個人のものかもしれない。″ 言う。「人間は冒険と自由を渇望しているのに、どこにいっても、 彼に差し出されるものは前もって示された未来だけなのだ」そしてンス・オプ・ワンダー。は確かに存在するのだけれども、プラッ トにとって ( より広く、それが消えたと感じるファンの多くにとっ 国家は個人から安全とひきかえに自由を奪っていった。「人間は、 組織化され、殺菌され、法律化されて死ぬほど退屈な世界に埋没すて ) 時代の変化とは無縁な所で、感受できなくなったのではない る。そこでは一切の無政府主義、一切の大胆な試みが抑圧されてしか、と考えることもできる。 こうした発想は、我々日本のファン ( それも若いファン ) にとっ まう」・・ーー現代に英雄は存在しない、と彼は言う、往時の征服者達に は権力に屈しない個があった、しかし現代の宇宙飛行士達は国家のて容易である。の誕生当時から現在まで、その道筋を共に辿っ てきた英米の作家やファンと異なり、日本でのの歴史は十年そ ロポットでしかない。それだからこそ、とシュネデールは言う、 「このような脅威を前にして幻想的なものへの依頼は、ノディエやこそこであり、日本のオールド・ファンは、その時点での「現代 ネルヴァルの時代よりいっそう緊急なこととなる」 ( プラットの言」こそが出発点であり、さらに一一一口えば、僕のような二十歳前後の 葉をかりるなら ) 「夢や驚異を感しる方法を忘れてしまった」時代ファンにとっても、その出発において″センス・オ・フ・ワンダー は確かに存在していた。僕等は全く時代的配列を無視された形で だからこそ、幻想的なもの、驚異的なものは、精神の「僅かばかり の自由」として人々に求められる、それが今日の幻想小説の隆盛をを与えられ、しかも、その初期において″センス・オ・フ・ワンダ ″をどの作品にも確実に感じ、現在ではそれを失っている。こう 支えている、と彼は説明する。 シ = ネデールの言う「幻想的なもの、驚異的なもの」がそのまました状況は明らかに社会変化とは無縁である。 ″センス・オプ・ワンダー〃と置換出来るわけではないが、少なく時代変化とは無関係に、このような同一体験をくり返す、という のは、我々の通過してきた「昔物語」「御伽ばなし」の体験構造と とも、こうした説明も可能なのである。 たしかに、近年のから、明確に時代を反映して欠落した部分酷似している。こうした「昔物語」はいくつかの限定された話の型に ( タイプ ) とその要素 ( モチーフ ) の組み合わせであり、その提供 は存在する。一連の宇宙小説が描き続けてきた異星への冒険小説が

5. SFマガジン 1972年4月号

めるの混迷を物語っていて興味深い ) その過程で、は本来 は、文学のなかの一ジャンルではない。前掲の文章の″ロツの私生児性を回復してきたのだが、そうした神話 ( 求心点としての 5 ク″をと入れ換えることが全く自然なように、その無境界神話であって、それらのに対する価値は大いにある ) の中でも 性で両者は極めて近似だ。〈作品〉は、小説に限られる訳では特に重要なのは「″センス・オプ・ワンダー″と″サイエンス ( ・ ないが、それに限って言えば、は「文学」と同様な拡がりを持フィクション ) 〃である。 っ漠然とした作品集合体である。ひとつのジャンルには、何らかの 求心点があるわけたが、はそれを持たない ( あるいは「文学」 2 ″センス・オプ・ワンダーから 同様、無数に持っている ) 。の唯一の特性をあげるとすれば、 ″ナンセンス・オプ・ワンダー″へ それはこれまでの「文学」が基本的には禁止してきた小説空間を、 ″センス・オプ・ワンダー この魅惑的な言葉は、の中心 より自由に「書ける」空間として解放した点だけだろう。「推理小 説」のような意味で、は″ジャンル〃ではない。それは″ロッ理念として存在し続けてきた。それはの蛛力の大半の集東点と ク″が「音楽」と等置できるように、「文学」であり、その他であして誰もが暗黙に了解してきた言葉だ。そして、を読み始めた る。 読者が、確実に感じとりながら、何時の間にか何処かへ消えていっ に関する論議のほとんどが決定的に誤ってきたのは、この点てしまうものとして。 である。即ち、一般を論じるのは、「文学」一般を論しるのと = ー・ワールズ″誌一四三号 ( 年、六ー七月号 ) の「おたよ 同義でありながら、そこにジャンルとしての求心点を求めようとしり欄」に、当時″ビョンド 誌の編集長だったチャールズ・。フラッ トの手紙が掲載されているブラ , トは、 " ~ ス・オプ・ワンダ てきたのだ。そして、この過程で、幾つかの神話が作られ、を 体制化、硬直化させていった。それは「推理小説」のように、終極 〃という言葉が、今日ではもはや陳腐なきまり文句でしかなくな 的にはマスタベイティング・コマーシャリズムへと閉じて行く小説った、として、現在のが″センス・オ・フ・ワンダー″を喪失し と、総体としては決して閉じられない ( 閉じようとすることで自己た理由について、次のように言っている。 の求心点を回帰的に破壊する ) の構造を見誤った結果だった。 ほとんどの人々が見落していると思われるものは、センス・ は、一ジャンルでないと同時に、文学ですらない。それは一 オブ・ワンダーがからだけ消減したのではなく、この世界全 種の感性・理念のようなものだ。シ = ルレアリズムがそうだったよ体から消減したという事実である。過去において、我々は、全て うに、現在、はひとつの契機として内部化されつつある。 の冒険は偉大であり、エキサイティングであり、刺激的であり、 の無境界性は、一口ック以上だと言うことも出来る。 ( 言ってみれ その中に身を置くなら、実際どんなものでも価値がある、という ば、ロックは、の音楽的表出である、とも考えられる ) 単純な理由によって、月世界への旅行や宇宙へ飛び出して行くこ 六〇年代後半、が大きく変換して行くなかで、の求心点とを欲したものである。現在ではどうか。米国が ( 切りつめられ として考えられていた多くの神話は崩壊していった。 ( ウォルハイ た予算で ) 月旅行の計画を止めないでいる唯一の理由は、国家威 ムの「宇宙製造者」的珍妙な論文さえあらわれるのは、求心点を求信のためである。ソ連との競争による新奇な剌激に加えて、今こ

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の裏をかいているが、それはこのジャンルを否定するのと同じことすことに成功している。そのイメージは、他の文芸的な作家、例え である」 ( 「現代小説の歴史」 ) この言葉を援用すれば、・フラウンやばプラッドベリ等より、はるかに緊密で美的だとさえ言える。クラ シェクリイ ( 彼については「明日を越える旅 , 「ロポット文明」の ークは、レムに比べればいささか落ちる、とは言え安定した、より リアリズムの濃度のある未来世界を描出する。その中で、哲学的思 二大傑作で、現代の作家として充分な地位を勝ち取っている ) 等は、前者に比べれば″サイエンス・フィクション″的だとは言索にふけろうとさえする。クラークの場合も、しかしその認識地図 え、むしろその解体作業に力を貸している。 は公認のものを出ることはできない。 こうした作家達は″センス・オ・フ・ワンダー″の補償として「小 優れた″サイエンス・フィクション″が、単純な″センズ・オプ ・ワンダー″の不感性をのり越えて、より重複し屈折した「驚異」 説」の改良を重ねていった訳たが、そうした状況に触発されて初め て、独自の「想像力」が解放されていったと考えることができを提出し得る、というのは、これらの例が示す通りである。 しかし、″サイエンス・フィクション″にとって致命的なのは、 る。 ( 驚くべきことは、日本のファンの出発が、こうした或る 意味で″サイエンス・フィクション〃を否定するような作品であつ高度に緊密な作品構成を可能にした″サイエンス〃そのものの限界 たにもかかわらず、そこにやはり核としての″センス・オ・フ・ワン性なのだ。 ダー″が流れていることである ) イヴァン・・サンダースンの言葉は興味深い このように、が文芸的側面を要求されるようになるに従っ ・ : はよく逃避の文学といわれるが、それは読者にとっ 「科 て、「科学」に対するオプチミズムは必然的に姿を消した。 てではなく、書き手自身にとっての逃避メカニズムなのではない 学」はもはや作家にとって決定的な「驚異」ではあり得ず、しかも ・ : の根本原理は懐疑ではなく順応主義であって作家 「科学」は二十世紀初頭とは比べものにならない速度で質・量共に たちが最も怖れるのは、確立されたと彼等が考える事実にしつか 拡大を続け、作家の手から遠去かって行く。彼等に残されたもの り基づいていないものを創造し、あるいは現行の論理によって不 は、それまでのによって解放された広大な ( ほとんど無限の ) 可能視される ( たとえ蓋然性はあっても ) ものを想像することな 時間的・空間的″イマジナリイ・ランド″と「科学の方法」だけで のた」 ( 「宇宙人との邂逅」序文一二六号 ) よよ、つこ、。 ″サイエンス・フィクション″は「可能性」から離れることは出来 しかし、我々は、クラークやレムといった、極めて優れた現代のない。 ″サイエンス・フィクション″は決定的に二次元なカエルで ″サイエンス・フィクション″作家の存在を忘れる訳には行かなある。 。彼等は、単純な科学的驚異のイメージには不感症になった O ・ウイルスンやサンダースンの言葉を待つまでもなく、″サイ ファンに、全体的アナロジイに基づく複合した科学のイメージが素エンス・フィクション″は「科学」の認識体系を全面的認識の基礎 晴らしい小説世界を構築し得ることを証明した。 に置く、リアリズムの文学である。そこで形而上学的な器官、内臓 最高のサイエンス・フィクションのひとっと言える、レムの「砂や性器や、 Head だけで作品を作ることはタ・フーである。「科学」 漠の惑星」は、我々の認識地図 ( 公約数的な ) をそのまま異邦へ移の″目盛り〃を捨てることは、″サイエンス・フィクション″にと 植して、極めてリアリスティックに異星の異質な生命形態を描き出って、全てのリアリティを放棄することに他ならないからだ。一回 に 8

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恐ろしいのは ( と、モーリス・・フランショの『来ら、偶然は起こるだろうか ? そこでの偶然は〈つばかりではないだろう。 るべき書物』をひっくり返しながら、・ほくは考えくられた偶然〉となり、宿命は〈どうにでも変えら「テク = ックの世界においては、人は、作家を称讃 る ) 、いま・ほくたちの眼の前で現実に起きる事件や、れる宿命〉となる。しかし大多数の小説は、もし、画家を富ませつづけることはできる。書物をう ・ほくたちを囲む新らしい状況が、小説に対して創造含めたところで、〈偶然〉と〈宿命〉が気ちがいみたやまい、図書館をひろげることはできる。芸術が有 的な刺激をもう何も与えてくれなくなった、といういに舞いさわぐ現実の虚像にすぎないし、さらに悪用であるとか無用であるとかいう理由でそれに何ら 事実だ。誤解されるといけないから、手つとりばや ) いことに、今日・ほくたちの身のまわりに起こる事件かの場所をあてがっておくこともできる。こういう く説明しておこう。・ほくたちよりもずっと以前の世がどれもこれも異質化してしまっている。以上好ましい場合でも、その運命は、おそらくもっとも 代が経験してきた出来ごとには次の二つの方向性がにセンス・オプ・ワンダーを満たしてくれるものは好ましからざるものである。明きらかに、芸術は、 あった。ひとつは〈偶然〉、そしてもうひとつは〈宿いくらでもあるし、どんなに凝った小説よりもはるそれが至上のものでない限り、何ものでもない」 命〉 つまり因果関係。現実の出来ごとに劇的なかに意図的で意外な出来ごとはざらにある。しかも ( プランショ『来るべき書物』、傍点は筆者 ) そう 効果と、驚きにはちがいないがある種の抗しがたいそれらの最も衝撃的な特徴は、現実に起こっているいえば、・ほくも図書館だけを肥やすために、ずいぶ 説得力を伴った衝撃とを与えるのは、この二つの要という事実そのものにあるのた。それらがリアルタ一ん欠食したつけなあ。 素なんだと、・ほくは体験上信じこんでいる。・ほくたイムだからといってしまえば終わりだけれど、ときそれじゃあ芸術の王位を復権するにはどうしたら ちの知っている歴史は、その意味では一つの・ ( カ長に〈偶然〉が悪意ある企てに変わり、〈宿命〉がないいんだろう ? ぼくたちはいま、模索のただなか あるじ い小説なのだ。だから現実の出来ごとに付随して起んの東縛力も持たない落ちぶれた主人に堕落してしにいる。そして現実の時間意識を超絶したかなた こる〈偶然〉と〈宿命〉は、・ほくたちの日常感覚に一まうことを、どうやったって否定できない。現実に一に、新しい芸術の王座をきずこうとしている。ポル 罪のない刺激をチクチクとくわえる。まわりじゅう起こる出来ごとのほうが、はるかに烈しく・ほくたちへスも、・ハタイユも、ロ・フ日グリエも、パシ = ラー アベックだらけの映画館で、たたもう気はずかしくの感覚を刺激するのだ。だからここではもう、〈出ルも、みんなそうじゃないか 観た『ラヴ・ストーリイ』も、仕事時間にちょっと来ごと〉は小説を生む素材なんかじゃな、。 逆に、 さて、この恐るべき現実のさなかにあって、 脱けだして鑑賞した『アンドロメダ : : : 』も、そう小説は現実に起ころうとする出来ごとに手を貸すだを日々の糧とする人々のあいだにもなんらかの反省 したものは現実の出来ごとからなにかしらの教示をけの第二義的な存在におちぶれる。ドイツ・ロマンと刷新とが起こり、また次の世代内に既存 もらって創りだされたものだから、たしかに現実の派が躍動していた時代に、こともあろうにゲーテをへの痛烈な批判が生じるのは、どう考えたって当然 事件 ( もちろん、そんなものはありつこないが ) よ眼の前にしてヘーゲルが発したことば ( このエビソだ。けれど、もしも新しい文学空間を求めるたけの りはるかに面白い。けれどその面白さは、要するにード、 プランショの論集をながめていくとイヤになことなら、以外の文学に行ってしまえばいい。 現実から生まれた偶然と宿命の引きうっしでしかなるほど出てくるでしょ ) 、「芸術はわれわれにとっプランショやレリスや、それから・ ( タイ「一やジョイ 。それよりもたとえば小説が、一切の事物から離て、すでに過去のものである」というやつが、そのス ( 翻訳されたばかりの『フ = ネガン徹夜祭』を見 れて、言語だけによって創りたされる空間だとしたまま実感として胸に浸みてくるのも、けっしてにく一る ) には、残念ながら既存にはまるでなかった LJ- 、ス・キ , ャナ , っくりだされた〈偶然 ! ( どうにてもなる人・宿命】団精一」 2

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四六判 日 cn ノウェノス 上製本夫 最新刊 、ノ筒井康隆五七 0 円 異和感に満ちみちたこの世界か 牙の時代 原 ら自由気ままな世界へ向けて、 時間流を狂わせ空間さえも歪め 作・小松左京 石 て始まる必死の脱出行ーーーナン 装幀・角田純男 センスの司祭が放っ奇想天外荒 全生物遺伝子の共通の根に起こる基礎情報の内発的変 唐無稽な型破り最新カ作長篇ー 雄 化に進化の神秘を探るカ作ー・・ー『牙の時代』 おのれの内的世界に交錯するイメージのうちに「意味」 義 を通じて「無意味」をつくりだそうとするユニークな 半村良九 00 円 文学世界観ーーー『小説を書くということは』 人類誕生以来の連綿たる歴史を 日本界の第一人者が、膨大な情報と鋭利な感覚を 貫く巨大な恐るべき血の秘密、 駆使して創みだした新機軸六篇をここに結集ー 荒 その底に潜む暗黒のエロチシズ 続刊 ムとはーー期待の新鋭が雄大な 構想で意欲満々放っ書きおろし 喪われた都市の記録 LL サスペンスミステリ巨篇ー 有 作・光瀬龍 サイボーグ・プルース平井和正六ニ 0 円田 装幀・金森達 黒人であるがゆえの苦悩と誇り アイララーーー地球人の胸に無限の郷愁を呼びおこす幻 をその超人体に秘めかくして巨 の星 : かって遙かな太古、宇宙をよぎる異相空 ち第大な敵に挑戦する闇の戦士《サ 間の侵入の前に一つの惑星が砕け散った。それが、栄 イボーグ特捜官》ーーー情念の作 華を誇った太陽系第五惑星アイララの最後であった ! 本紙掲載の連作シリーズ《都市》、に、意表をつく新構 ~ ′家が非情のタッチで描く衝撃の 想のもと新たな三百枚を書き加えて、宇宙と次元にわ 未来ハードボイルド巨篇ー たる雄大無比のドラマを展開する著者会心の野心作ー 脱走と追跡のサ / ヾ 石の血脈 サイボーグ・プルース

9. SFマガジン 1972年4月号

ってくれ ! 』 ( 宝塚市、御手洗毅君 ) とかえっ で映画館によって「怪獣△△△現わる」と好き な題名をつけて上映しているようですが、配給 て欲求不満を起こしているようだった。 8 ともかく次の機会 . ( 三年後 ? ) には、かって 会社の ( ユナイト ) では「大怪獣出現」で 同じ時間帯に放映し、小、中、高校生から圧倒通しています。この作品は一日一万円ぐらいで ード』のような大借りられます ( 三五ミリ版 ) 。 的に支持された『サンダー 仕掛けの映画を作ってほしい。ジュニアは ハ松左京「復活の日」が日活の映画化予定 に入っていたといわれますが、どうなったでし 新平家なんか見てないもんね。 三日月にこしかけた女の子ニコニコ、お星さ ようか ? ( 神奈川県二宮町・沼田剛君 ) ポルノ路線をしき、ついに警視庁の手入れを まの女の子ニコニコ ( 写真 ) 。メリエスの世界 最初の映画『月世界旅行』の一シーンを連受けて大ミソをつけている日活の予定リストか 想するが実はトウイギーちゃんが主演する新作らは除外されたようです。もっとも「ポルノ復 ミュージカル tthe Boyfriend 』 ( ポーイフレ活の日」なんていうのも面白いとおもうのです ンド、カラー パナビジョン ) の幻想シーン。 が。大映で製作されるはずだった「日本列島沈 に物このほかいろいろ出てきまーす。 ( 星と月が出没」も倒産により中止となり、小松氏は一銭に てくりや単純なトータル・スコー。フはすぐに紹もならなかったとポャいています。 介しちゃうんでーす ) 昨年のフェスティ・ハル及びシネマテ ークで集めたアンケートによれば『メトロポリ ス』『光る眼』を見ていない人が圧倒的に多 読者からのお便りを二、三通。 く、上映を希望する声が多かった。『亡をころ 群馬高崎市オリオン座で『 0 0 7 ダイヤモ を君に』『宇宙戦争』『二〇〇一年宇宙の旅』 ンドは永遠に』といっしょに『怪獣メラキ』 も意外に多く > 映画では『プリズナ—Z 0 という中篇が上映されている。「原子怪獣あら 6 』『一九八五・人類絶減への警鐘』 ( 本欄未 わる」の改造版ですか ? ( 高崎市・・ 0 君 ) その中篇は tThe Monster That Challen ・紹介、ごめんね ) の他「鉄腕アトム』がかなり ポーイフレンドの一場面 なんとか観賞できるよ ged theWorld 』 ( 一九五七年作、五巻、日本あったのはビックリー う努力中です。既報″映像フェア″三月中 足りないという声が多かった。原作の異常なサ封切一九六一年、封切題名・大怪獣出現 ) でク にどうしても『メトロポリス』が入手できず、 ラーケンと称する全長三メートルのハサミ虫と スペンスも生かされず、ウォルト・ディズニー ィモ虫をあわせたような怪物が、カリフォルニ予定を縮小して一日だけ開催し、七月にあらた のスリラー映画 ( 少女がネコ泥棒をつかまえる めて野田宏一郎お昼のワイドショウ ( ? ) アの砂漠の沼から出現する作品です。・ といったたぐいの良家の子を向けサスペンス が二、三本ある ) を連想した。読者からのお便の怪物や『白鯨』のクジラを作った怪物作りを含めた世紀の映像フ = アを開くことにしまし た。なお『メトロポリス』は現在日本にフィル ・ローマンが実物大の怪獣クラ の名人オージー りでも『大体なんだ、あの時間移動の方法は ? ムがありません。 1 ケンを創作し、電気や圧縮空気で動かしたと タイムトンネルのそれとくら・ヘると月とスッポ ンではないか。とにかく、もっと映画をや いわれます。わずか四三分のモノクロ中篇なの

10. SFマガジン 1972年4月号

アテイチュード 以上、悪くできようはずがない : ・ 動が感じられる。クラリオンは態度としての「この計画に要した金銭やその他もろもろの問題 傑作なのもある。ロバ】 ・サーストンの "TheI であって方法や条件からの規定ではない。ただは、やがて、たとえば火星探査への役に立つかもし Last Desperate Hour" ( 「最後の絶望的な時間」 ) し念のためにいっておこうーーどの作品も、自分のれない。しかし地上はどうか、いつになってもわれ さなぎ を離さない。グレイズ夫人のちょっとした仕草にもじゃない。 もがいているにちがいない。 ラヴェル、ウマン、 銃をかまえる。「おっと、背中を向けるんじゃない スペースがなくなった。おまけに進行中の仕事も一アンダースの月面探査は、アメリカの青年層になん ぜ、奥さん」「あら、ごめんなさいヌードルズ。わ一終わりかけている。大いそぎでもう一冊紹介しておらの反応もひきおこせなかったと、外電が報じてい たしったら、忘れちゃって。コーヒー しカカ ? 」グこ、つ。 オールディスの自伝風評論集 "The Shape る。な。せ ? この技術のサ , ーカスが、かれらにとっ レイズ二世が台所にやってくる , ーー、「ガキめ、うる of Further T 三当 : ( 「遙かなるもののかたち」て無関係で無益なものだったからだ。かれらはも せえ」。すると二世は「ヤア、おじちゃん」。 1970 ) がそれだ。しかし自伝なんか十年早いよ。日う、中年男どもの夢の片棒をかついでなどいない。 の会話、じつはグレイズ一家に数十年このかた居候日の生活にチラリと顔をのそかせる未来のかたち、科学に対して、イギリスの青年もだいたい同意見な すぎると、人質だっていいかげん慣れてくる。 く文学者の槍玉にあげられる ) 、夢に関する新理論、一はない。それはいつも、そのなかで個人がめぐる球 さらにはげしいのは、その朝べッドで死んでいた一現実としてのファンタジー テクノロジーの役割、一でありつづける。テクノロジーはビック・ビジネス 相棒の葬式を、まるで祝いごとみたいにはしゃぎま一不動産的に見た月面、ついでに五十年以降のイギリを可能にしたが、いまそれはわれわれの利益と反し わって準備する家族たちの様子。さすがのアンク ( ス界回もっともコンビュ 1 ターと頭ている。応用科学はすでに宗教を蹴落として空虚な ル・ヌードルズも万策尽きて家出・ーー「むかしはも一脳の比較や、クリストファー ・エヴァンスの夢に関帝国の王座を占めている」 っとおれを怖がってくれた。あの緊張感、あのスリ一する新理論を書いている余裕がないから、ただ「あ科学による暗黒時代を到来させないために、いま ル ! それなのに、ナア、おれはもっといいとこへまりにもシラけた内容だ」とだけいっておこう。そスベキュラティヴ・フィクションは内部からの啓蒙 行くことに決めた・せ」 ( だけどとはいえなれにくらべてニュ ー・ワールズ誌を中心としたイギを聞始しなければならないだろう。そしてが純 いよ、これなんか ) リス作家の活動ぶりに関する記事は面白かった。し粋に芸術的な文学空間を形成できないのも、それか クラリオンが一様にコミュニケーションの問かしこの点についてはすでに Z ー 2 号にも一らまた態度としての的ポーズを棄て去ることが 題、つまりお互いの内的世界を交換することの困難部分翻訳があるので紹介の必要はなさそうだ。それできないのも、が将来コミ、ニケーションとい さをテーマにしていることが、これで多分理解して ) よりも、この本でもっとも興味ぶかかったのは、月うひとつの現実に結びついていく志向を留保してい もらえるんじゃないかと思う。他者との対話の代替面探査にたいするオールディス自身とアメリカ青年るからにちがいない。 物として、社会との対話の背反として、そこに否定層の受け取り方のほうだ。オールディスのみごとな からの出発が・ー・・・・新しいコミュニケーションへの胎文章を引用しよう。 6 125