「そうじゃ。この永禄八年、足利将軍義輝が三好、松永の手にかか城を築いて地名も岐阜と改めてしまっている。 った折り、ご舎弟の一乗院門跡覚慶は甲賀の和田館に奔り、諸方を権爺にも政治的な細かい動きはよく判らない。まして飛稚は毎日 転々としたのち、名も義昭と改めて今は織田に頼ろうとしている。近くの小川へ行って魚とりに興じているばかりである。体練の日課 、あんばいに羽根を伸ばして その義昭と織田を結ぶはたらきをつとめておる者が二人いる。一人もなく、ワタリの稽古もないので、いし は細川藤孝、もう一人は明智十兵衛というお方じゃ。飛稚はその十いるのだ。権爺はそんな歳相応の振舞いを、まるで自分が遊んでい るかのように嬉しそうに眺めている。まもなくいや応なしにおとな 兵衛どのにつける。権爺は十兵衛どのを存じておろうな」 「知りませいでか」 の世界へ、それもしい織田軍団の一部に組み込まれなければなら ない飛稚の、残り少い子供の日々だと思っているからであろう。 権爺は随風を鋭くみつめて言った。 二人は小さな百姓の家に宿を借りている。 「十兵衛どのはすでに山科家の命で仕度につかわされてござった。 いくさ 「戦はするべきでない」 かの人に飛稚を引き合せるまで、しつかりと教えてやってくれ」 権爺は寝物語にそう言って聞かせる。「あってならぬのが戦し 「承知 : : : 」 ゃ。人が死に、家が焼け、作物が枯れる。それはみな、この世の宝 権爺は喉に何かっかえたような声で短く答えた。母の存在しない ヒ一族にあって、権爺は父とも母ともっかぬ立場にあるのだ。末ッじゃ。宝を失って互いに何の得があろうそ」 「じゃが敗けねばよかろう。人は生れるし家は建て直せる。作物は 子に当る飛稚との別れが近いことを思うと、何かしら物かなしいに また種を播けばよい」 相違なかった。権爺はしきりに目をしばたたいていた。 飛稚が言った。灯の消えた組末な寝間の闇の中であった。 「違うそ飛稚。次の作物が稔るまでには時がかかろう。家を建てる 九 には新しく木を切らねばならぬ。切った木がまた生え、その太さに 暑い日が続く中を、【権爺と飛稚は慌ただしく飛地蔵をあとにしなるには何年もかかるのじゃ。人死は死んだ者の損ばかりではな 。飛稚は権爺が死んだら悲しかろう」 「うん・ : ・ : 」 足利義昭はこの七月の半ば、それまで頼っていた朝倉家を去り、 浅井家の保護のもと、下旬までには美濃に入る予定であった。二人「権爺が死んだら飛稚はなぜ悲しい」 はそれに間にあうよう指示され、勢田から野路、草津、守山、篠「俺は権爺が好きじゃ」 お 原、鏡と、文字どおりとぶような旅を続け、不破の関を越えて稲葉「そうじやろう。わしも飛稚が好きじゃ。なぜ好き合うのじゃ」 権爺はひどく哲学的な質問をした。 山の西郊まで来ていた。 この前年、織田信長は美濃に押入って稲葉山城を陥し、すぐに大「・ : ひとじに 5 3
っしりと肩の張ったおとな、ひとつはすらりとした子供の影であ「めでたいことじゃ。飛稚もやっと白銀の矢を見るようになったか のう」 権爺の声はだいぶくぐもっていた。 「不思議なことがある。あれは何だったのだろうか」 少年の声であった。 「どうした権爺。泣いているのか」 わっぱ 「童め、何を言いさらす」 「あれとは何じゃ。言わねば判らぬ」 権爺はわざとらしく、急に威勢よく言う。 「権爺。俺はたった今妙なものを見たのだ」 飛稚と呼ばれた少年は、そう言って空を見あげた。ここからな「何か悪さをしただろうか。夜中に黙って寝間を出てはいけなかっ たのか」 ら、森が終っているので湖の上の空がひとめで見はらせた。 飛稚は心配そうである。 「何を見た。聞かせい」 「よい。それより一緒に謡うてくれ」 権爺も空を見あげて言った。「睡っていると、ふと目が覚めたの 「何を : : : 」 じゃ。誰かに呼び覚まされたようじゃった。だが人の声ではなかっ 「ヒのうたじゃ」 たぞ。体の奥にずんと響く唸りのようじゃった。なぜか知らぬが、 気が騒いで寝ておれなんだ。権爺を覚まそうかと思ったが、それよ「よし」 りも不思議に気がせいた。空が見とうてならぬのじゃ。俺は走って少年は老人の機嫌が直ったと見て、うれしそうにうたいはじめ た。老人の声がそれに和す。 外に出て、ここへ来て空を仰いでいると、叡山から東へ向けて白い しようみよう それは奇妙な合唱であった。節まわしは幾分声明に似ているだ すじが走って消えたのじゃ。流れ星のようでもあるが、あんなはか こレ」洋」 ないものではなかった。くつきりと、勇ましいほどに鋭く飛んで消ろうか。語は異国のもののようであった。或る時は絞るがごとく、 或る時は滑るがごとく、高く、低く、細く、太く、二人の声は巨杉 えた白い光じゃった : : : 」 の森にしみこんで行く。 飛稚は指をあげて夜空に白光の軌跡をえがいて見せた。 このうたを、老人は飛稚が赤ん坊の頃から教え育てて来た。そし 「そうかそうか : : : 飛稚は白いすじが東へ飛ぶのを見たのじゃな」 て何年か前、五智院の僧が飛地蔵の近くで飛稚のうた声を聞き、飛 「また飛ふかも知れん。権爺よ、しばらく見張っていまいか」 飛稚はそう言 0 て権爺の顔を見たようであった。権爺は急に飛稚地蔵の者は琉球王の流れではあるまいかと言いふらしたことがあ 9 こ。北に和爾庄、南に新羅明神のあったこのあたりは、今を去る九 のうしろへまわって両肩に手を置き、少年の髪の匂いでも嗅ぐよう 百年の昔百済人に与えられた土地と伝えられるだけに、そうした飛 な姿勢になった。「どうしたのじゃ、権爺」 肩をおさえられた飛稚は、首をねじ曲けて老人をふり仰ごうとし躍が案外真顔で論じられる土地柄であった。 - 」とよ ・ : 五智院の僧は博識をひけ あれはたしかに琉球の語であった。 たが、老人には手に力をいれてそうさせなかった。 ごんじい わに しろかね 8 2 3
飛稚は六をかかえあげるひまもなかった。 するとどこかで「応」という野太い声が聞えた。見ると地蔵堂の ひもろぎ 「権爺ツ、堂の中じゃ、神籬じゃ」 左手の杉木立の中で、権爺が大きく飛びあがって白刃をかわしてい 彼は堂へかけのぼって言った。 る。 「知っておる」 「飛稚か。来るでない。逃げよ、逃げよ」 権爺は答えた。だが大勢の兵に囲まれ、ひどく息を切らせてい 権爺は言った。その時右の杉木立でも彼を呼ぶ声がした。 よりたま しぶき た。飛稚は堂へとびこんで二股になった伊吹の向きを、依玉と平行 「飛稚ア : : : 」 六が必死で杉木立の中をかけまわっていた。二人の雑兵がそれをにそろえ、神籬の中央に鏡を背にして立った。 いま行くそ」 夢中で追いまわす。 権爺の声が堂のすぐ傍でした。飛稚は掌を合せ、切を結んで心気 「逃げい。森から出るのじゃ」 今度は飛稚が六にいう番だった。だがいかにはしこくても、六はを凝らせた。 「と : : : 飛、わ、かツ」 普通の子供だった。一人が杉の巨木を逆にまわりこみ、別の一人に 追われた六の出会いがしらに刀を突き出した。六のか細い胴を肉厚飛稚の目の前に権爺が切れぎれに言った。その背後で槍がきらめ いた。権爺は右肩を大きく割られ、血にまみれていた。 の白刃が一気につらぬいた。 むすびのやま 「産霊山を : : : 芯の山を」 「とび」 六は絶叫し、操り人形のように雑兵の太刀に踊った。子供をさし槍が腰の辺りを突きさした。権爺は息をつめ、白眼を剥いた。槍 が引かれると、それについて権爺の体は堂の下へ転げ落ち、飛稚の 殺したその兵は、うろたえ気味にそれを引き抜くと、足もとに倒れ た血まみれの小さな体にや 0 と正気に戻 0 たらしく、ぼんやりと見視界から消えた。それにかわ 0 て白刃をひ「さげた兵が二人駆けあ 、刀子ー おろしていた。 わっぱ 「なぜ六を殺した。な・せじゃ、なぜじゃ」 二人は同時に叫んで切りかかって来た。飛稚は目を閉じて祈念し 飛稚は無防備な姿勢で茫然としている兵にとびかかり、その胸を 拳で叩いた。その兵ともう一人の兵は、しばらく泣き奐く飛稚のな すがままにじ 0 と見つめていたが、やがて慚じたようにポソリと言依玉と伊吹の間に青白い光が走り、その線を超えようとした兵 は、稲妻に打たれて大きくはねとばされた。 や くさ 「おつ、殺ったそ」 「響じゃ。勲びや」 外の兵が叫び、堂へ乱入した。数万ポルトもあろうかという・ ( リ 二人は逃げるように森を去って行く。 ア 1 が作動し、乱入する兵は次々に焦け死んだ。 「おい・ほれ、死ねツ」 ぶき 0 5
あげた。いずれあらためて : : : 」 よう。よいな」 飛稚はこくりとうなずいた。 棒の僧はあわてて一礼すると逃げるように飛地蔵の森を立去って 行く。 「早うござる」 権爺が抗議した。「飛稚はまだやっとわたりをはじめたばかりし 「おう、飛稚か。大きうなった」 ゃ。それに織田と言えば諸国の牢人も二の足を踏むと言う程の厳し 「お久しうございます。随風さま」 い家中 : : : 」 飛稚はこわごわと言って権爺のうしろへまわった。 「今のとびよう、見事であった。飛鹿も、猿飛らもその歳では今少「権爺。育てる者が無うなって気の毒じゃな」 しじゃった。飛稚は筋がよいらしい」 随風は皆まで言わせず口をはさんた。「その歳で子らが一人も無 「何の、それどころか。飛稚はすでに白銀の矢を見てござりますうなってはさそ淋しかろう。しかし諦めい。昔はいつも子の十人は ぞ」 いてにぎやかじゃったこの飛地蔵も今は飛稚一人になっている。ヒ のよりどころが無うなって、皆里者なみの暮しをしはじめたからじ 「ほう、そうか。見たか」 随風の顔に徴笑が浮んだ。秀でた額、整った眉目。幾分面長で耳ゃ。あの百済寺の鹿さえ、小鹿をわが子と呼び、父と呼ばせている 朶がひどく豊かであった。肌はしつかりと陽に焼けてたくましい。 有様じゃ。だがそれもいっときの辛抱よ。儂はヒを昔のヒに戻して どこか面ざしが飛稚に似ていた。 みせよう」 「昔のようにでござるか」 「あれは六月の末じゃった」 権爺は飛稚の同意を求めるように言い、 「その頃随風さまは諏訪「そうじゃ」 か鹿島へわたられたのではござらぬか」 「出来ましようか」 と訊ねた。 「出来る。飛稚が儂のワタリを見たのは多分あの夜のことであった 「いかにも。飛鹿毛、猿飛らにも逢うて来たそ。みな息災であった。ろう。あの夜、儂は御所で勅忍の宣下を受けて参ったのじゃ」 白銀の矢を見たなら、やがてあの者たちにも逢うことになろう」 権爺はのけそって愕いた。 「勅忍。それはまことでござるか」 随風はそう言い、飛稚を見つめて何やら考える様子だった。 「いかにも。応仁、弘元以来のことじゃ」 「ともかくあれへ」 「して、めあては何でござる [ 権爺はいそいそと随風の裏手の家へいざなった。 家に入り汗を拭った随風は、飛稚と権爺を前に置いて、ひどく冷「織田の天下を招来するのよ」 随風は雑作もなさそうに言った。 い言い方をした。 「飛稚がひとり立ち出来ると聞いて思いついた。飛稚を織田につけ「それで飛稚を織田へ : 4 3
「見知らぬ同志では好き合えん。死人同志も好き合えん。生きて知も信長に使を発していた。ふたつはひとっ源から出た動きである。 ・ : それには長い月日が義昭は越前朝倉家の諒承のもとに一乗谷を発し美濃へ向ったので 3 り合うて、ことばを交えずばなるまいが。 ある。七月十六日には近江の浅井長政の館に迎えられ、そこを二十 要るぞ。知り合う前も、知り合うてからも」 「そうじゃ。ずっと生きておらんでは知り合えん。知り合うてもす二日に出た。かつぎあげれば天下の権を握ることさえできる足利義 : ・でも今夜の権爺は面白いことを昭は、これら強剛の間では一種の利権の種でもあった筈なのに、何 ぐ死んだのでは好きになれん。 の問題も出ず順送りに新興の織田へ送り渡されている。 : : : 随風ら 聞かせる。何やら当り前のことばかりじゃ」 ヒの高度な政治的活動があったに違いない。 飛稚は闇の中でクスクス笑った。 「大切なのは作物や家ばかりのことではないということじゃ。作物 も家も人も、みな長い時がかかっておるということじゃ。時ばかり 十 は二度ととり戻せん。戦に勝っても戦に敗けても、時を失う。宝を : ヒのうたにあろうが」 失う。おろかなことよ。 その日、足利義昭は五百余人に警護されて昼すぎ西 / 荘の立政寺 へ入った。勿論権爺も飛稚もその行列を見物しに行った。 権爺は寝たまま低くうたいはじめた。 もものたなつものな 百穀成る 「何じゃ、つまらん男よ」 ひつぐ いえっ 家給ぐ日嗣 権爺は馬に揺られて来る足利義昭をひと目見てそうつぶやいた。 あめのしたたいらぎ 天下太平なむ しかし飛稚のほうは、一行の光頭に騎乗している明智十兵衛という あめのした 「ヒは天下をたいらけくするために働いて来た。ヒの者は人を殺め人物を見て、天地が逆さになる程びつくりしていた。 る術を用いんのじゃ。争いには逃げるのみよ。よいか飛稚、くれぐ 秀でた額。整った眉目。ゆたかな耳朶 : : : 随風と瓜ふたつであっ れも争うではないそ。このたびのように、一度ヒが働きにかかった 「権爺、権爺」 からには、必ず戦をおさめさせねばならぬ : : : 飛稚、睡ったのか」 飛稚は低声で呼んだ。 闇の中に軽やかな寝息が聞えていた。明日は二十二日。細川藤孝「何じゃ、血相を変えて」 「あれは随風さまか」 と明智十兵衛が、足利義昭と共にこの西ノ荘へやって来るという前 の晩のことであった。 すると権爺はニャリとした。 信長が美濃を平定した時、京の御所の方針はきまったようであっ 「里者なみに言えば随風さまの兄者じゃ」 た。正親町帝は直ちに勅書を発し、美濃・尾張の御領地回復と幕府「随風さまの : : : 」 たね の再興を命じている。同時に越前一乗谷にあった前将軍の弗、義昭「ヒの長はひとっ胤の者のうち、いちばん下が継ぐきまりじゃ。明 しひと あや おさ
た。「権爺よ。飛稚はえろうなった。月に苧一匹ではきついこと すると権爺は嬉しそうに目を細めた。もう何年も前から、権爺は 七月になっている。 こうやって叡山の僧を飛地蔵に招き、飛稚の体練をさせて来たので 一片の雲もない空に、太陽が白光りに照り熾っている。 ある。そして今、どうやら月に布地一匹の謝礼が実ったらしく思え その強い日ざしも巨杉の葉に遮られ、飛地蔵の森は堂に至る中央る。 の小径だけが、しらじらと眩しく見えていた。 「飛稚、今日はもうよい」 「殺してくだされ。容赦は要らぬことじゃ」 権爺は杉木立の中へ声をかけた。 権爺が大声で喚いた。 「話に聞いておるが、飛地蔵の子は代々みな筋がよいそうだの」 「おうさ 世間ばなしをはじめるつもりらしく、僧は袖をたくしあげて風を どこかで錆のきいた声が答え、ぶうんと二度ばかり風の切れる音入れながら、地蔵堂の椽へ腰をおろして歩み寄って行った。 がしたかと思うと、白く輝いている小径を飛稚がうしろ向きにさっ が、誰も気づかぬ内に堂の扉が押しひらかれていて、そこに草軽 ととび越えた。 ばきの雲水が立ちはだかっていた。棒を小脇にかい込んだ僧はそれ 「まだじゃ、ほれツ・ に気づいて一瞬身構えかけ、その途中で竦んだように動かなくなっ 十ー 十二、三の童児とは思えぬ鋭い声で追って来る逞しい僧に挑みか ける。僧はもちろん叡山の者であろうが、六尺余りの角棒をふりま「長い間の体練相手、ご苦労でござる」 わし、だだツ・ ・ : と一気に小径を踏み越えると、鋭い矢声と共に危雲水に言われ、棒の僧は何やらロごもっている。 険な風音をたてて飛稚に打ち掛って行く。 「や、随風さま ' いつの間に」 戞、と乾いた音を立てて僧の棒が杉の幹を打った。今までそこに権爺が愕いて声をあげた。 いた飛稚はふわりと僧の頭上四尺ほどを飛び越え、あっという間に 「暑い日じゃのう」 巨杉のどれかに隠れ込んでしまった。僧は棒を構えキョロキョロと随風と呼ばれた旅の僧はひらりと堂からとび降り、「変りない あたりを見まわした。足の踏み込み気息の間合、どう見ても上手のか」と権爺をいたわるように言う。 境に達しているようだが、飛稚の逃げようは明かにそれを上まって「ず、随風どのとな」 、る。 棒つかいの僧は随風の名を聞いて畏怖したようであった。その筈 「ちいつ。やめじゃ : である。随風と一 = ロえば当時叡山に鳴グ響いた天才的な学僧で、天台 3 僧は相手を見失って舌打ちし、棒をトンと地に立てて構えを解い座主すら疎略には扱わぬと言われていた。「こ、これはご無礼申し からむし
ひもろぎ くから子弟の養育地としていたようである。 据えて言った。権爺はそれを三角形に配置し、「こうすれば神籬と ひもろぎ ヒという神族の裔の不思議のひとつは、母がないことである。ヒ なる , と教えた。里者が神籬を言う場合、それは神降りする聖所 に、常磐木、玉垣などをめぐらせ、仏法で言う結界をつくることで はすべて男であり、女は全く存在しない。ヒの婚姻を強いて言え つまど ば、妻問い、である。完全な訪問婚のかたちをとり続けている。天ある。神の依る樹木、岩石、井泉などがその対象となり、臨時に神 しめなわ 柱をたてて注連繩を張り、中央に楙などを立 地創造の折りに生じた神の末裔とあれば、それもむしろ当然であっ霊を招請するには、、 たかも知れないが、祖先の祭祀に婦が加わることを認めない掟なのてたりもする。だが、権爺の言っている意味は少し違うようであ ひもろぎ である。彼らは一族以外の者を、里人、里者と呼び、必要なときそる。どうやら上の神籬とは物理的なカ場のことらしい。 の里者の婦を任意に選んで情を通じていた。それはあたかも渇きを「神籬を作ったなら、次にその中に入り、背筋を伸ばし両足を揃え 最寄りの泉でいやすのに似ている。そして孕めば男児のみを攫うよて立つ。よいかな」 うに連れ来り、一定の養育地に置いて成人を待ったのである。 「こうか」 そこがひえである。従って血縁的な兄弟の観念は薄く、かわりに可飛稚は権爺のまねをして姿勢よく直立した。陽の光で見れば、十 一「三の少年である。容貌は公家の子にも珍らしいほど、すずやか 朋の意識で結ばれていた。 恐らく上古ヒの盛時には、この比叡の山はヒの子供のみがかけまであった。 わる別天地であったに違いない。ひえの周辺に里者が住みつき、増「よそごとを思わず、ひたすら行きたい場所を念ずるのじゃ」 飛稚はしばらく目を閉じて考える。権爺がその両手を合せてや え、やがて神秘な一族の別天地は崇められて里者の聖地となった。 八指を伏せ、二指を外へ揃えて立たせる。 : ・考えてみれば、延暦寺開基以来、この地が多くの学僧を呼び集 め、一大文教地区に変貌して来たのも、ヒの養育地としての遺産を「だめじゃ。行先は判らぬわ」 飛稚が言うと権爺は哄笑した。 うけついだ為と思えないことはない。 とこへでもというわけに 「まだよい。今日は形だけじゃ。したが、・ その証拠かどうか、叡山の数多い坊舎で僧たちの勤行が始る頃、 飛地蔵でも飛稚の教育が始っていた。ただし、僧らの学ぶのが仏のは行かぬそ。先きにこれと同じ御鏡が無うては」 「それなら知っておる。いっか権爺に連れて行ってもろうた大和の 教えであるとすれば、こちらは神の道である。 教師である権爺が飛稚に対して神の道という時、そこにはいささ百済寺じゃ。あそこで小鹿にこれと同じのを見せてもろうたそ」 かの抽象理念も混ってはいない。文字どおり、往古の神が用いた道「そうじゃ。百済寺にもある」 のことである。 「ほう・ほうにあるのか」 「おうともさ。ワタリを覚たらそのあとは諸国の神籬の場所を知り 「、、伊吹じゃ」 権爺の講義に余分な飾りはない 9 いきなり地蔵堂に三種の神器をに旅をせねばならぬのじゃ。その場所へ行き、けしき、たたずまい 3
馬武者の一隊が追い抜いて行く。 比叡山に襲いかかったと 六が言った。たしかにそうに違いな、。 山上から銃声が聞えはじめた。朝靄がどんどん消えて行く。飛地いうことで、だれもかれも頭へ血をのぼらせていた。 蔵はまだ遠い。 「でも権爺がいる。権爺はわたれぬのじゃ」 坂本の街並みにまず火の手が挙った。方々で鐘をつきはじめ、そ飛稚は額の血をこぶしでぬぐい、きっとなつって言った。「俺は れが湖からの風に入り混って、飛稚には熱病の耳鳴りに聞えた。 行く。六はここにおれ」 騎馬隊が山下を焼きまわり、のがれ出た人々を蹴散らす。僧もた飛稚はとび出した。 くましい馬借たちも、逃げ場を失って山上へのがれて行く。 「それなら俺も」 「斬れ、斬れ」 「よせ、出るな」 かち 何度もそういう叫びを聞いた。声の中を徒の兵が大挙して山へ 大声で叫び合いながら道へとび出すと、兵はうろたえて切ってか 這いの・ほって行く。槍の穂先がきらめき、火繩銃が吠えた。 、刀ュ / 「何をする、人でなしめー ひらり・・ : 幼い時から叡山の武芸僧にきたえられた体練が物を言 飛稚は叫びながら汀を走る。六も走る。しかし道は直線になってった。驚くべぎ跳躍力で白刃をかわした。 いた。鏖殺命令を受けて逆上した兵が、狂ったように町家、宿坊に 「飛稚ア : : : 」 襲いかかっていた。 六がはるか後方で叫んだか、その時すでに飛稚は小径へ走りこん 懐かしい汀であった。魚を追い、水を浴び、生まれてこの方遊びでいた。 くらした岸辺であった。飛稚は飛地蔵の小径から一直線に通じてい 「待てえツ」 るその個所へ来ると、体を斜めにして森へ曲った。草も小石もすべ 兵は追って来る気配であった。 て幼馴染であった。 森の突き当りに赤いものが見えた。 「飛稚危い。とまれ、とまれ : : : 」 「権爺・ : : ・」 六が叫んでうしろから飛稚をつきとばした。飛稚はつんのめり、 飛稚は叫んだ。母でもあり、父でもあった。随風が飛稚にとって 道の少し手前でころがって、したたかに額を石段で打った。額が割里者のいう父に当ることは知っていた。しかし随風に父を感じたこ れ、思わず押えた手を戻すと、・ヘっとりと血がついていた。 とは一度もなかった。彼にとって権爺こそ父であり、飛地蔵だけが 森の鴉がけたたましい羽音をたてて、一斉に舞いあがった。二十故郷であった。 人ばかりの兵が森へかけこみ、叫びかわしていた。三、四人が森の その故郷の家はいま、羽目から火を噴きだしていた。すでに火を 出口に頑張っていて、白刃が朝日を受けて不気味に輝いた。 かけられ、軒から白いけむりが這いのぼっている。 「権爺・ : ・ : 」 「行けば斬られるそ」 9- 4
かな 「火だ。焼いてしまえ」 吽 : : : 底深い響きが起り、白光が明減した。銑臭い匂いが発し、 外で何人もが叫んでいた。すぐ堂の三方で火の発する風音がしやがて飛稚の姿が消えた。堂が焼け崩れ、権爺の死体を炎にくるま れた柱が打った。六の死体を火の粉が襲った。 た。飛稚は神籬に籠ったまま、印を結んでいた。 なぜだ。犬走りの六はなぜ死んだ。権爺はなぜ死んだ。なぜ人は飛稚はいつものワタリよりずっと烈しい衝撃を味わっていた。そ 人の手にかかって死なねばならぬのだ。敵もない、味方もない。あこにも炎があった。石の広い道の両脇で、びっしりとたてこんだ しノ、き、 るものは人を殺す戦ばかりだ。ヒの神はどこにいる。神もまた死に家々が燃えていた。煙の中を二輪の不思議な乗物にまたがった者が ' 絶えることがあるのか。人々の明日への祈りは、ただ白銀の矢とな背をまるめて走り去った。さきのとがった頭巾をかぶり、荷を背負 むすびのやま るのみで、虚しくどこかへ消えてしまうのか。産霊山はどこにあった人々が、悲鳴をあげながら逃げ惑っていた。時々空から何かが る。芯の山は・ 降って来て、それが地に当るとまた新しい火の手が挙った。轟々と 飛稚は泪も湧かぬ乾き切った絶望の中でそう思った。火が堂内に空を往くものがあり、時折り強い光が鳥のような銀色の翼を照しだ 姿を現わし、轟と鳴った。 した。虚空に炸裂するものがありそれが夜空に火を散らせた。ヒュ 俺も死ぬ。 : そう感じた時、飛稚はひとつのことを思いつい ーと何か鋭いものが降って来るのに気づいた彼は、落ちていた三角 の頭巾をかぶった。 かあ 死ぬ前に神に会おう。芯の山の神のいる神籬へわたろう。場所は 「お母ちやアん : : : 」 いくさ 知らぬ。わたれぬかも知れぬ。それでもわたろう。行って戦をすぐ はぐれた子供が泣きながら炎の下をくぐって近づいて来た。稚 にとめてもらおう。権爺を生かしてもらおう。六を生かしてもらおはその子の手をひき、人々の去った方角へ駆けだした。 う。六と京へ戻ってユズに子を生まそう。そしてその子を権爺のと ここにも戦がある。飛稚は自分が異る時代に紛れこんだのを本能 ころへ連れてこよう。権爺と六とユズと、みんなで暮すのだ。六の的に覚っていた。 しくさ お母も生かしてもらおう。 いっから続いている戦なのだろう。まさか比叡のときから続いて 神 : : : それがどんなものか、飛稚は一心に考えた。まだ見ぬ場所いるわけでもないだろうが。飛稚はそう思った。自分は神を求めて のまだ見ぬ相手ながら、心気を凝らして念すれば、ひょっとして行ここへわたった。しかし見知らぬ場所へのワタリは鬼の世へ落ちる けるかも知れない。いったい神はどんな顔をしているのだ。どんなという。してみるとここは鬼の世なのか。神はいないのか。 場所にいるのだ。 飛稚は昭和二十年三月十日未明の東京の下町を、どこともいっと みかが 飛稚は御鏡に向い、神を想像した。想像した神のもとへ行こうとも知らぬまま、火に追われて逃げていた。 願った。炎はすでに天井を這い、神籬は火につつまれて堂は焼け落 ちる寸前であった。 かあ うん 、くさ 5
いくさ : ・方をたれながら里の女房子を思い出した大将のものかも知れん。みな いことを覚っているようだ。太平の為の戦なら仕訪がない。 自分でも気づかぬ内に、明日のわが命を願うのじゃ。人とはそうい 針はそう決しているらしい。 う生き物よ。おかしいとは思わぬか。明日の命をそれほど願うな 永禄十二年四月。信長軍三万は京を出て山中越えで坂本へ出た。 しくさ 明白に天下平定の出兵であり、御所はその二十三日、元亀と改元しら、な・せ戦などはじめるのじゃ」 むすびのやま 「願いは白銀の矢となって産霊山へ入るのじゃな」 て門出を祝った。信長軍は越前に侵攻し、随風は気比神宮を謀略の 「そうじゃよ。したがそのことはヒのほかは誰も知らぬ。知らずに 拠点に活躍した。 あめのした 果然乱戦にな 0 大・信長の妹、お市の方を室として姻戚にあ 0 た祈 0 て明日を作るのじゃ。この世の人がすべて気をそろえ、天下の いくさ たいらぎ 浅井が信長の背後を衝き、家康、秀吉が活躍する転進作戦が生じ、太平を祈れば戦などすぐ終ろうものを・ : : ・雲伝ふ、白銀の矢奉れ、 むすび それはそのまま師川の合戦につなが 0 て行った。浅井、朝倉連合軍産霊の山の上に奉れ、というのはここのことじやわい」 は敗退し、小谷城にのがれて一段落とな 0 た。とにかくヒ一族のも権爺はしんそこじれ 0 たそうに言 0 た。彼はそのあと、ヒの伝統 くろみは、着々と成功してい 0 た。織田は正確な情報を得て不敗で的な使命感について、彼なりの言葉で綿々と飛稚に説いた。それは この時代ではすでに実用的でなくなった、古めかしい理窟かも知れ あった。 : ・ : ・随風、飛稚、百済寺の鹿父子などが神籬から神籬へと ない。しかしその分純粋であった。平和の為に戦うという新しい理 とび交い、彼らは毎日のように神秘な白光となっていた。 窟を、権爺はくそみそにこきおろしたのだった。 ひもろぎ 「神のいる神籬の場所を知っておればのう」 十四 飛稚は家を焼かれて泣き叫ぶ母親たちの姿を思い浮べながら言っ た。母のない飛稚には、平和に暮す母親たちを、この上もなく貴重 「合戦になると急に白銀の矢が多くとぶ。な・せだろうか」 なものに思っているらしい。それは盗みで命をつないでいる、京の 信長が姉川から戻り、京に人った寸暇を見て日ノ岡から飛地蔵へ 浮浪児たちの姿にもつながっていたようだ。 わたった飛稚は、ひどく深刻な顔で権爺にたずねた。 「神のいます神籬こそ、すべての神籬の芯じゃ。じゃが芯の神籬が 「ワタリの時に見える白銀の矢よりは細かろう」 くさめ どこか、昔のヒですら知らなんだ。ヒは神代からずっとそれを探し 「そうじゃ。嚏のあとで目の中にとぶ玉つぶに似ている」 飛稚が言うと、そのたとえがおかしいとひとしきり大笑いしたあ求めておるのよ」 権爺は言った。「それを探し当て、そこで願えば戦などすぐにや とで、権爺は諭すように説明した。 「それは人の祈りが凝ったものじゃ。明日の命が知れぬ時、人は明むはずじゃ」 日の命もあれよと思わず心から祈るものじゃ。それは陣中でばくち「俺はそれを探しあてたい。そして今すぐにでも戦を無うしてくれ に打ち興する雑兵が、賽を手にしてふと祈ったものかも知れん。糞と願いたい」 しくさ 1