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検索対象: SFマガジン 1972年7月号
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1. SFマガジン 1972年7月号

現実的といわれるように、具体的な人格を仲介として愛情の世界にまだまだ幼児期より青春時代にかけての女性コン。フレックスに悩ま 結びついているのですな。このトイをごらんなさい。彼女はあなたされている。本質的にいえば、あなたにとって女の体とは日常的事 という人格そのものを愛している。たとえあなたからどんな仕打ち物の世界にとどまっている不透明な存在です。どうですかあなたは ミス・トイの驅を抱くとき不安を感じませんか。特に彼女の解剖学 をうけようとも、いまではあなたなしには生きていけない。彼女と 世界内存在としての彼女の″世界″をむすびつけているのは、あな的な部分、つまりはっきりいえば性器に対して不安と嫌悪をお・ほえ たなのですよ。だから、もしあなたを失えば、彼女は″世界″とのませんか : : : 」 連繋を失ってしまうのです。しかし、あなたはちがいます」 よどんだ。ちがうといえば明ら 「それは : : : 」といって・ほくはいい 、え、ぼくだってミス・トイを愛していますよ」と・ほくは抗弁かに嘘だった。 「あなたがいま経験している愛情体験は、ミス・トイの驅そのもの 「そうでしよう。でもその意味がちがいます」と氏は断言した。 を通じてではなくて、もっと空想的なはずですよ。ミス・トイが強 氏によれば、・ほくは幼児期より青春期にかけて、強圧的な女性圧的な″あちら″の女ではないことをあなたは知っている。女性に たちによってゆがめられているというのだ。確かにそういえるかもはちがいないが世界が異なっているのです。丁度あなたが空想する しれない。ぼくの母親は美貌の持主だったが、性格的には貴族的で世界に住む女神のように。あなたはミス・トイを媒介として自由な 頑固だった。父親は彼女に劣等感を持っていたらしく、そのために空想的世界を構築することができたのですな。″あちら″の女性に 両親同士は不和だった。事実、母親の方が社会的地位も高かった。対しては不能であるはずのあなたが、ミス・トイに限って例外なの はそういうわけです。フェチストたちは、女性そのものに対しては 家庭にはいたことがなく・ほくの世話は育児器にまかせられていた。 これは″あちら″ではごく一般的なことで、子供たちはよちょち不能ですが、女性の外面的な要素、たとえば衣服や靴などを仲介と あるきする頃から教育機関に入れられてしまうのだ。ぼくの育児係して愛の神話的世界を空想し、その中でのみ自分の愛人を激しく愛 はヒステリックな女性で、しつけにはひどく厳しかった。 することができるのですな」 「つまりそういうわけで、あなたは女性の持っ具体的な姿、裸体そ反対する理由はみあたらなかった。″あちら″の世界で・ほくはひ のものよりは、女性の身辺にあるもの、たとえば衣服とか手袋や靴とりの女を愛し性交しようとして失敗し、軽蔑されたことがあっ により深い関心を抱いているはずです」 た。彼女がドレスを脱ぎ、行為のために必要な部分をためらいもな 「かもしれませんね」とぼくは正直にいった。「でも・ほくは、ちゃく見せたとき、・ほくは激しい嫌悪感に襲われてその場を逃げだして んとミス・トイの身体に対して : : : 」 しまったのだ。それまで、その娘が・ほくのところにおき忘れていっ 「それはそうですよ。ミス・トイは″あちら″の女ではないのですた皮手袋を抱きながら空想していた愛情の輝かしい至福にみちあふ から。あなたの空想していた女性だったのですから。でもあなたはれた世界と現実との隔りを、・ほくは思い知らされた。まもなく・ほく

2. SFマガジン 1972年7月号

なぜなら、そうした変化に、抵抗なく適応できる自信を持ってい っ親切だから、そうした要望にも、できるだけマジメに答えようと るものは、実は誰ひとりいないはずだからである。彼らはその個人 する。 たとえばばくだったら、原則的には、を名乗るからには科学個人の気質や性向に応じて、たとえばスワッビングには嘔吐を催 的予測を盛りこもうとして、経ロ避妊薬の展望からはじまって、人し、ホモ・セクシ、アルには不快を感じ、マゾッホには侮蔑を覚え 工授精や人工排卵コントロール、精子や卵子の保存技術、そしてやなければいられないのだ。 にもかかわらず、変化は確かに起っている。そうした変化は、好 がては実現するであろう人工子宮の開発、人工胎盤の完成、また男 女の生みわけエトセトラについて、こんなふうに語らないわけにはむと好まざるとにかかわらず、同時代人全体を足もとから不安定に するたろう。それはあたかも、地層の地滑りのように、その時代の いかないだろう。 「こうして、女性は、妊娠・出産という苦痛から解放されます。夫すべての人間を動揺させるだろう。そうした動揺は、既成のモラル 婦あるいは恋人たちはふつう経ロ避妊薬の常用によって避妊を実行やその周辺の個人的な性向と衝突しあい、はげしい摩擦を起すだろ して性生活を楽しみ、もし子供がほしくなったら優生学的・医学的う。それは、やがて現在のそれとは較べものにならないほど広範囲 テストを受けてのち妊娠し、もし望むならこの段階で男女の選別をに、根深く発生するだろう。 行ないます。妊娠一カ月後に受精卵は母体からとりだされて、母体性の氾濫をいわれるいま、すでに見られるフリー・ラヴ的風俗 と全く同じでより理想的な生理機能をもつ人工子宮に移植され、あは、しかし、まだ社会通念としてのモラルに反する行為とみなされ とは完備したホルモン学、生理学、遺伝学的看視と処置を受けながている。いわばそれは、小数派の自己主張でしかないから、大多数 ら成長するのを待てばいいわけです。」 の人々は、常識的平均的な〈基準〉の側に立って、それらを反社会 的な行為とか、妄執とか呼び、責めることができる。 また、こんなふうにも説明するだろう。 だが、衝突や摩擦がエスカレートし、変化の幅が拡大するにつれ 「ある時代から先、人口調節は国家的あるいは世界的な。フロジェク トとなるばかりか、ある場合には、計画産児はその時代の倫理的要て、そうした〈基準〉は実体を失ってしまう。人々は、とっ・せん依 求にすらなるでしよう。生まれた子供は一定年齢に達するまで国家って立つべき支柱を見失って狼狽するーー、そしてそのとき、モラル の保育施設で養育され、こうして従来の家族制度を保存するためのの地滑り現象が、あるいはなたれ現象がおきるのだ。 最後のきずなも失われるでしよう。かくてーーふるい意味での一夫ディヴィッド・メースは、男女両性の結びつきは三層のケーキ型 一婦制結婚制度はしたいにすくなくなり、期限を切って結婚生活をの社会に向かって移行しつつあるという。それは、多数の人が性の 行なう契約結婚制度が一般になる。これは、スウ = ーデンの社会学自由に満足し、結婚という形式を踏ますに長期あるいは短期の同棲 者 = アヒム・イスラ = ルのいわゆる連続的「夫第卸やスワ ' ピン生活を営む第一層と、結婚と離婚を繰り返しながら生涯に数回の結 ヒッビー的共同体制などよ婚生活をするいわば ( リウッド式の第二層と、従来の一夫一婦制を グを制度化したような相互ポリガミ 1 、 りははるかに実行容易な点で、より一般化するのではないかと思い承認する第三層とから成る三重構造であるという。 だがそれはあまりに図式的だ。おそらく、このメースの図式は、 ます」 だが、こんなことをいっているうちに、どうしようもない空々しモラルのなたれ時代と時期的に一致しー・・ー社会には、ふるい家族制協 度と純潔と男性上位の一夫一婦制にかじりついて生きようとするも さ、アホくささを感じてしまわない作家はいないはずだ。

3. SFマガジン 1972年7月号

「そうです」といって氏はくつくっと愉快そうに笑った。「私にしなんですね。少年時代あの話をきいたとき、私は強い感動をおぼ は、相手の女の首をしめて、仮死状態にしてから事を行なう趣味がえました。私は自分があの話の中の王子のように思えましたな。私 ありますな」氏は自分の倒錯ぶりを説明した。別に恥じている様は自分の体温で冷たくなった王女をよみがえらせるのですよ。この 子はなかった。「な・せ私が屍姦症を好むかといいますと、女が冷め場合、王女は冷たい世界の表象にすぎません。私は懸命になって大 たくなっていくあの皮膚感覚がたまらないからです。青ひげを御存きく成長しようとした。私をとりまく世界よりも大きくなって、私 知ですか。歴史上有名な人物です。あの男は、稀代の結婚詐欺師でが冷たいと感じていた私の未来社会をとかそうとしているみたい すが、そのたびに殺害した女をもてあそんだり、ときにはその一部に。むろん私の意図は挫折しました。結果的に私は″過去″へ逃亡 を食べたりしました。ちょっとそっとするやつですが、実は : : : 」しなければならなかった。でも私はなぜ中世を選んだのでしよう。 「あなただったのですか」と・ほくはきいた。 最初の逃亡地として。あの時代は暗黒時代といわれておるでしょ 「いやそれはちがいます。が、私が″こちら″でつくった子孫の一う。そのイメージが私のあこがれていた墓地の雰囲気と妙にびった 人かもしれないと思うことがありますな。つまり、我々はよく似てり一致していたからですよ」 いるのです」といって顔をしかめてみせた。 氏の話は面白かったが、ぼくには知識がなかったので半分も理 氏の自己内省的と称する告白によれば、屍姦症は物質の持っ外解できなかった。氏は言葉をとぎるとまたいった。 貌的な冷たさと関係があるのだそうだ。性行為は決して単なる生物「ところであなたの場合ですが : : : 」 学的生殖行為で説明しつくされるものではない。刺激と快感という ・ほくは言葉をまった。 生理学的反応たけではないのである。それ以上に、世界内存在とし「あなたはフ = チズム的性格の持主のように思えます。もっとも未 ての人間が、″世界の中のその場所にいることと深くかかわりあ来社会の男性は傾向的にフェチストといえますがね。社会そのもの っているというのだ。 が男性をそのような傾向にしむけているのです」 「私の場合は、幼児期の体験がやはり私の傾向を支配しているよう「なぜですか」とぼくは尋ねた。 に思えます。活動的な昼の世界よりも、万物が静まりかえる夜の世「女性が強権的力をもって男性を圧迫しているせいでしよう。″あ 界の方が私を安定させるのです。な・せなら強迫的な昼の世界から私ちら″では男性は女性化さえしております。そういう社会では、男 を守ってくれるのは闇ですから。 性の性的不能はありがちですし、また女性の同性愛的傾向も増加し ナルシズム がちです。フェチズムは、自己愛が女性的傾向であるに対して、男 それから氏は自分の幼児時代の体験のことを話した。墓場のこ とや死者たちゃ、墓碑の冷たさや硬直した死人の顔の印象。寄宿舎性に多いのですな。男は女性の場合よりも想像力が強い生物です。 生活のこと、少年時代の恋のこと、その対象の死、等々 : 男はより一般的な、個人的形態を超えた、精神的な、いわばより空 0 「御存知ですか。″眠れる森の美女のお伽話を。つまりあれと同想的な関連および表象の世界に住んでいるのです。一方女性はよく

4. SFマガジン 1972年7月号

えてみよう。爆弾は肉体です。もし意識と肉体が分離できるものなびつけられた一種の心霊的原子であるのですよ。そして我々の意識 らば、時間流の中で爆弾を積んだ爆撃機のようにとびつづけているの野とは、これらの心霊子と、より肉体的な起源を持っ知覚との集 私という存在はどうなるだろうか。ある瞬間、私の意識は私の肉体合体であるのです。 : : : 」 を切り離す。意識はそのままとびつづける。それは非物質的存在な カリントンのことは・ほくもよく知っていた。精神感応現象を説明 のだから物理的法則によっては支配されないだろう。一方、肉体はするのに、彼の説ほど合理的な説明はないといえた。たとえば、実 爆弾が機体より離れるように意識から次第に遠ざかっていく。この験者が見ているある図柄を隣室にいる精神感応能力者にあてさせる 場合かって多くの人々が考えていたように、死の状態とは肉体から実験があるが、この場合、被験者の心霊子が実験者の心霊子に感応 意識が離れていくのではなく、あくまで肉体の方が意識より遠ざかするというのだ。確かにこう考えなくては心霊現象をはじめとする っていくのです。 様々な超心理現象は説明できないのである。肉体という物理的存在 「むろん意識というものが肉体を離れて独立しうる存在かどうかと以外の何か非物質的ではあるが実在するある何かを想定しなくては 。その端的な例が念動現象である。心霊子は非実在的なもので いう点については、私も大いに悩みました。が、私は医師として色 色な臨終に立ちあっているうちに、意識とは肉体に宿っている超越はないはずだ。論理的にいっても、それは有的存在であり、かっカ 的な存在だということを確信するようになっていたのです。この私 ( エネルギー ) さえ持っていなければならないはずであった。 我々の時間流でもこの方面の研究は、あの新マニエリスム期に大 の信念をさらに勇気づけてくれたのは、二〇世紀の人で、カリント いに発展させられていたといえるのだ。そのあるものは、フッサー ンという超心理学者の説でした。この学者は一般に″アングロサク ル現象学と合体して現象学的超心理学理論となった。これこそ時間 ソン数量派″といわれる精神感応現象の数量化に貢献した一派の一 人でしたが、むろん当時は認められてはおりませんでした。事実、旅行の基礎理論に重要な真献を果したのであある。 超心理学現象が本格的に研究されだしたのは、二一世紀になってか「むろん私のとった方法とあなた方の時間旅行法はちがいます。私 らのことですから。 の場合はどうやら意識の転送までは可能となったのですが、肉体と 「カリントンのことなら私も知っていますーと・ほくはおもわず叫ん いう物質的存在まで転送するにはエネルギーが不足でした。特に私 のような単独の密航者にとってはなおさらでしたよーと氏はいっ だ。「我々の時間流にもカリントンは存在していました。たしか、 ・フシコン ″心霊子といいましたね。彼の説では、人間の精神は知覚と心像た。 と心像群とでなり立っていて、これを総称して″心霊子謝と呼ばれ「 : ・ : だったでしようね」と・ほくは相槌をうった。「超心理学現象 ている : : : 」 の解明の中でも、念動現象のメカニズムが完全に究明されたのは一 「そうです、そうです」と氏はこたえた。「それは非物質的では番あとでしたから」 あるが実在し、独立に存在している有であり、連想の糸で互いに結「すると、やはり時間旅行理論は念動現象から発展していったので ー 05

5. SFマガジン 1972年7月号

すね。となると私の予想どおりだった」 我々の談笑はさらにつづいた。が、まもなく夜のとばりがおり、 「そのとおりでした。一世紀も前にそうお考えになったあなたに感ぼくは上の空だった。夜の匂いをかぎつけていた・ほくの血がぎだ 服したいくらいです。時間旅行研究者は念動現象を合理的に追求ししていたのである。 ていったあげく、例の″心霊子″の構成原子を発見したのです。予 想通り、それは非物質的原子でした。理論物理学をはじめとする二 〇世紀物理学は、この原子の発見で根本的に崩壊したと当時いわれ たくらいです。非宇宙的物質ともいいうる有的実質でした。いや実夜は吸血鬼の活躍のときだった。ばくも仲間たちとつれ出ってよ 質というのは正しくないかもしれませんね。宇宙を有的実在とするく女たちを狩りに出かけた。ミス・トイには内緒で、数人の娘に吸 ならば、それは有的虚在といった方がよいかもしれません。いずれ血鬼菌を移したりした。でも、こうした享楽的な日々のうちにあっ ・フシコン つもっ にしてもこの心霊子的エネルギー、つまりプシネルギーが我々の時ても、″時間流の芽″の中に捕われているという気分は、い 間旅行機のエネルギーなのですよ」 いてまわっていた。それは鎖でつながれた囚人の気分と似かよって 氏は幾度も大きくうなずいていた。 いた。この場合、ばくの鉄鎖とは時間流自体の持っている構造的な 「 : : : そんな理由で私は肉 体の方はあとから送ってもらうことにしたのです。私はある信頼で論理の鎖であるのだ。でもよく考えてみると、それは原因と結果の きる少年にそのことを頼みました。約東通りしてくれた場合、私の因果の鎖なのである。つまり・ほくは自分自身に起因する結果によっ 遺した財産を相続できるように手配したのです。その間のこまごまて、逆に縛りつけられているのだ。・ほくをここへとじこめたのは・ほ した手続は慎重にとりはからいました。私は自分の肉体を棺桶に入く自身なのだ。そう考えるたびに妙な気分になってくるのだった。 ・ほくは自縛されているのと同じだ。原因が自分自身にあるというの れて冷凍倉庫にあずけました。あの頃、冷凍睡眠による未来旅行は 違法でしたからね。むろん少年が私の指図通りやってくれるかどう はやりきれない。でもある意味では、・ほくはこの世界の神でもある かという保証はなかった。でも結果的には彼は約束を守ってくれたのである。神という存在は″世界″の第一原因であるのだから。そ ようです。前にもお話したように、私は″こちら″で無事、自分のして、ひょっとすると、神とは・ほくのように自縛されている存在な 肉体をうけとりました」 のかもしれないなどと、思ってみたりしていた。 「でも、よくわかりましたね。自分の肉体だと。記憶とは大脳の細とあれ、月日は過ぎていった。 胞につけられた痕跡のはずですよ」 まもなく・ほくは、この″時間流の芽″の異様性に気づいていた。 「ああ、そのことなら私は医師として十分承知していました。でもどうも、この世界の客観的構造はひどく稀薄であるらしいのだ。脆 ″心霊子″にだって記憶はあるのです。原始的な本能にちかいもの 弱という他はない。・ほくの無意識が時空構造の客観性を弱めている です。渡り鳥の帰巣本能にちかい一種の記憶が : : : 」 のだろうか。この世界に意味を与えているのは、・ほく自身なのだろ : ルドスリー・フ

6. SFマガジン 1972年7月号

叙事詩の中のあるものは同時に小説であり、偉大な小説のいくつか物語ではない。おなじように、善と悪ーーーあるいは生と死、男と女 は、大部分において詩である。すぐれた作家の手にかかれば、舞台 の葛藤は、その概念が蔦藤を演ずる主役となったときのみ、論 劇としては徴妙すぎるか複雜すぎるドラマも、偉大な物語になりう文ではなくドラマとなりうる。 る。とくにユーモア ( スラツ。フスティックは別にして ) は、舞台よ シリアスな非作家の主題の範囲は、偏執的な内省と苦悩にみ りも平らな紙の上の手法に適している。舞台には、 / 説での。 ( ースちた倫理性の再評価に限られているように思える。そして、彼らは べクティヴの歪みに相当する手法がないからた。しかし、舞台の上この題材をいかに物語にするかを知らないように思える。 もちろん、ビートニクたちは小説を書こうと試みたわけではなか であろうとページの上であろうと、コミックスであろうとギリシア 劇のコーラスであろうと、ストーリイテリングにおいてただ一つ欠った。ただ、いま思い出してみて、彼らが小説を書くまいと試みて くことのできないものは、客観化されたドラマティックな行動であ いるのではなかろうかなどという疑いを、一九五一一年のわたしは一 る。それは写実的にも、象徴的にも、夢幻的にも、予測的にも、回度も持たなかったようだ。 想的にもなりうる。証言でも、体験でも、聞き書でも、空想でもあり 一方の″文学的″タイ。フ、″文芸誌″の常連作家たちは、たしか うる。どんなテーマを説明することも、どんな洞察を脚色すること に小説を書こうと試みてはいたが、ほとんどがそれに成功してはい も、どんな観念を行動に表わすことも自由である。それは二人、三 なかった。彼らの語法は優雅で、その洞察はしばしば深遠だった 人、四人、そして稀にはそれ以上の人物を持っことができる。 ( た が、それでいて上も下も知らないように見えたーーっまり、彼らは いていの場合、三人を越えると、それらはいくつかのグループにまこの地球でもなければ、現実の宇宙、あるいは鮮明な空想の宇宙の リンまー とまり、そして、物語の目的のためには、二つないし三つの混成人中のどこでもない、辺土の中で書いているらしかった。この点で、 物となってしまう。 ) しかし、たた一つの人物を持っことはできな彼らは女性向けのスリック雑誌の作家や、劇画のコンテの作家と変 わるところがないように、わたしには思えた。 もちろん、たた一人の人物しか登場しない物語、ただ一人の人物そして、ビートニクは、エスタブリッシュメントの文学者の中で しか明らかでない物語もある。しかし、その場合には、環境のどのも、粗野で、時にはグロテスクな、一つの奇形種に思えた。これは 部分かが一種のアニミズム的性格を帯びる。 同時に、まさしくノース・ビーチ側から見たサイエンス・フィクシ ョンの姿でもあったにちがいない。正反対に指向したこの二つの反 敵対者なくして主人公はない。物語の中では、この二者の対決が 演じられる。この二つの基本的要素が欠けた場合、それは詩、評乱軍は、おたがいに対する関心の不足から、中道に対する双方の見 論、あるいはモノローグであるかもしれない。しかし、それはドラ解が実はどれほど似かよっているかを知らずにいた。文学・芸術派 のアヴァンギャルドの目には、サイエンス・フィクションの文学的 マではなく、また小説でもない。 地位向上への努力、つまり、彼らが軽蔑をもって捨てさったその既 精神病学的な内省は、それが回想されたドラマ、象徴化されたド ラマ、あるいは妄想のドラマと関わりあうときにのみ、小説を作り成権威に受け入れられようと腐心しているさまが、道化に映った。 上ける。症状の記述は、トラヴ = ローグとおなじように、不気味に近代テクノロジー社会を全面的に拒否しようという彼らの試みから グイナミックス も、魅惑的にも、またときには美しくもなりうるだろうが、それはすれば、そのテクノロジー社会の動力学に夢中なわれわれは、十九

7. SFマガジン 1972年7月号

セックス・モラルの改変を、はげしく要求されているのだ。そして罪悪感に目をつぶっても、中絶に踏みきる良識を持っている。 実状は、改変の見通しのつかないまま、その過去の権威だけが、不その証拠に、わが国の人口増加率は、アジアではもちろん最低で あるばかりか、先進国の中でもかなり低い上昇カーヴを維持して、 安定化し、壊れようとしているのだ。 科学も、この傾向に積極的に力を借している。避妊薬、ーーとくに西欧諸国から、奇蹟とさえ評価されているのだ。もしこれが、たと モー = ング・アフター・ビルなどの経ロ避妊薬の普及は、おそらえば東南アジアなみ、インドなみの上昇カーヴを持 0 ていたら く、どんな思想的要因にもまして、セックスの解放促進に役立つだ現在の日本がどれほどちが 0 た立場におかれていたか考えてみるが 、、 0 つまり日本人は、殆んど本能的ともいえる・ ( ランス感覚で、 ろう。さらに、中絶処置が医療施備や技術の充実によってきわめて セックスの生殖からの自律性を自らかちとったといっても、オー 安全になったことも、以前にはとうてい考えられなかったほど、セ ーな表現ではないのだ。 ックスの自律性をたかめたはずである。 こうした傾向は、経済的余裕と生活水準の向上とともにさらに強 もちろん、わが国に、強硬な中絶反対論者がいることもーーそし て、心情的に ( とくに表面的に ) その立場に組するかなりの数の市められようとしている。それが、優生学的にも正しく、合理的であ るという考え方に、異論を持つものは少なくなりつつある。こうし 民層のあることもまた事実である。彼ら・はわが国を堕胎天国といっ て自らおとしめるのがーー、そして、そうした処置を行なう医師たちたいわばワールド・ = ンセンサスともいうべき意識が、旧来のセッ を一方的に犯罪者扱いにし、処置を受ける市民たちを痴呆扱いにすクス・モラルの改変を促し、変動を求めているのだ。 そして、その結果社会に、少なからぬ動揺や混乱がおきようとし ることによって、正義の味方面をするのが何よりも好きだ。だが、 要するにそれは、よくてせいぜい無力なセンチメンタリズムであるている。 この状況は、ちょうど、科学、技術が、その自律的な自己拡大に か、心情的自己満足であるにすぎず、問題の解決にはこれつぼっち の役にも足たない。どころか、しばしばそれは、何とかして犯人をよ 0 て生産性をたかめ社会を高能率化していき、その結果さまざま 仕立てあげてリンチにかけたいという兇暴な欲望を満足させようとの矛盾を惹き起しているのによく似ている。あらゆる情報も、それ している偽善的な権力亡者である場合が多く、問題の解決を、さらに基く予測技術も、そうした矛盾をすべて予防することは不可能 だし、とくに、そのために悩む個人個人の不幸を防ぐことには、全 に遠くにおしやっているにすぎないのだ。 法の欠陥に便乗して暴利をむさぼる悪徳医師を糺弾することとこくとい 0 ていいほど役には立たない。 れとは別問題だ。正義の騎士ぶ「て生命の尊さなんそを説教する程それと同じことが、セ ' クス・モラルの問題についてもいえるの 度のことで問題が解決するなら、もともと問題などおきはしないのだ。セックス・モラルは、明らかに改変される時期に来ている。し かしそのために起る混乱を、とくに個人個人のそれを。予防するた である。 だが実は、そうした心情的中絶反対論者の市民たちもテレビの = めの目算はない。その意味では、最近もてはやされているライヒ = ースショーや人前でなければ、こうしたことに、ちゃんと気がつも、ウイルソンも、。 ( ッカードもーー他の多くの社会学者たちの仕 3 いている。ロでは別のことをいっても、心中ではセックスと生殖と事も、不十分なもののように、ぼくには思われる。というよりも、 がもはや同一次元のものではなく、両者は切り離されなければなら思想やイデオギーがこの問題を処理できるほどには、状況が熟し ず、したがって、やむを得ない場合には、社会から押しつけられるていないように思われてならないのだ。

8. SFマガジン 1972年7月号

どんな知らせをもたらすかによる。原子力時代の大予言者としてジ彼らの予言を発表するというその行為だけで、事件の連鎖に直接作 ョン・キャンベルが得たものは、トラ・フル以外のなにものでもなか用したことは疑いがない。宇宙飛行と原子力の実用段階で、そのど った。宇宙時代の大予言者として、はじめてキャンベルは外部の世れほど多くの部分が、での通常的観点にそって発達したのだろ うか ? それは、その仕事が r-o とおなじく、一つの論理的発展で 界から当然受けるべき栄誉を手に入れた。アスタウンディング誌は 繁栄し、キャンベル自身の著作も何冊かの本になり、そして、大雑あるからか ? その仕事にたずさわっているものが、二十年、三十 誌は彼のもとから最良の作家たちを盗むのとひきかえに、彼をイン年、四十年前に、朝食のシリアルといっしょにアスタウンディング タビュ 1 し、彼の助言を仰いだ。 誌や、アメージング誌をむさ・ほり読み、そして最初の計算尺を手に アスタウンディング誌、のちのアナログ誌の内容のうち、その後する前からそれらの実現の姿を大まかにでも知っていた、専門家や のキャンベルの熱中の対象 ( ダイアネティックスなど ) や、教育、宗技術者であるからか ? また、その中のどれほど大きなパーセンテ ージが、生得の科学的性向からを読みはじめたのかーーーまた、 教、社会組織に関する彼の仮説の叙述に侵されなかった部分は、高 ーセンテ 1 ジがによって科学や技術畑の仕事を志 ーの一種、おもに宇宙飛行とそれに関どれほどのパ 度に発達した思弁的ストーリ 連するテクノロジーを扱った、いわゆる〈新地図〉エキストラボレすようになったのか ? それは臆測する以外にない。 1 ションと呼ばれるものに門戸を開いていた。〈新地図〉の作品群歴史的に見て、二〇年代中頃から一九五〇年までのアメリカ は、″理論と″研究〃の専門家によって最近探求された領域内のは、宇宙時代の百科辞典の役割を果たしたといってもまちがいない まだ埋められていない部分、だが、″技術″と″応用″の専門家にだろう。初期の″サイ h ンティフィクション″の作家は、いちじる よっていまや定着と拡大の段階にはいった部分についての、ときにしく福音唱道的だった。宇宙飛行、原子力、サーボ機構、汎世界的 は高度に技術的で、ときにはきわめて博学な説明を提供するものだ視聴覚通信網、水耕農園、必要資材の化学合成などが、実現可能で った。・フームの新しい読者をひきつけたのは、ほかのなによりもこあり、実現の日の近いことを、当時の彼らはすでに知っていた。基 。 - 彼ら本原理はすでに存在していた。技術のポテンシャルもすでに存在し の種のだった。宇宙空間は彼らの注意をひいた引金たが、 , の興味をたもちつづけたのは、戦後世界が提出してみせた数かぎりていた。欠けているものは二つだけだった。経済的な誘発刺激と、 一般大衆の受けいれ態勢である。第二次世界大戦中にロケットと原 ないフロンティアだった。 とにかく、これらすべての因子と、おそらくはわたしの見過ごし子力の突貫計画への誘発刺激が現われたとき、すでにはそうし た可能性を公共財産になしおえていた。そして、その発展のための たいくつかの因子が、相互に作用しあい、一般読者層に作用して、 ・フーム現象を作り出し、そしてマ 1 ケットの拡大につれて作品の質無数の具体的なアイデアが、原稿紙の上やファンの討論会の席上で を改善させたわけである。しかし、質的変化は、実は・フーム以前か試みつくされていた。 ら始まっており、そして本質的にはその根を、幼児期の宇宙産業を第二次世界大戦終結の頃、まだ専門家やロケット専門家以外 と には、宇宙飛行の可能性を″信している″人間は少なかった 生み出したとおなじ土壌の中におろしていた。 5 予言がそれ自身の実現に関与する役割は、よりいっそう興味のあいわれている。しかし、すでに一九三八年には、オーソン・ウエル ズのあの有名な火星人襲来のラジオ放送で、ニュージャージー州・せ る、難解な哲学的。 ( ズルの一つである。現代の予言者たちが、

9. SFマガジン 1972年7月号

うか。そうした数々の現象に・ほくはでつくわしていたのだ。 だ。が、世界の側が裏切りに裏切りを重ねてくるものだから、・ほく 元来・ほくは科学畑出身の人間であるだけに、事物の客観性の方をはいらいらのしどおしだった。こんな場合、・ほくにとって確実なの 信じていた。″世界″というのは、きちんとした枠組を持ち、整然はただセックスのみで、・ほくはミス・トイの肉体の中にますます溺 としており論理的で因果関係のはっきりしているものであるはずだれこんでいた。でも情欲はいっときの安らぎでしかないのだ。快楽 った。むろん論理ではわりきれないような現象も多くあるが、それがおわり、体を汗ばませたミス・トイの裸体から身を引き離すと は確率的な問題で、数学的にきちんと整理されるはずのものであっき、・ほくは一層みじめな気分におちいるのだった。そんな・ほくはよ く乱暴な振舞いにでる。彼女が裏切りの世界のまわし者のように思 だが、これは氏の言葉を借用していえば、単なる信じ方の問題えてきて、狂暴となるのだ。ミス・トイはな・せぼくが、急にそうな であるにすぎないらしい。「科学的客観性というのは、所詮、科学るのか理解できずに悲しそうな顔をしてみせた。むろん・ほく自身に 者がそれによってそう信している信じ方なのですよ」といって氏にだってわかっていない。狂ったようにあざだらけになるほど、ミ ス・トイの軅をぶちのめしているのだった。それからまた強い後悔 は愉快そうに笑ったものだった。いわれてみれば、そういうものか もしれない。科学の客観的方法が実証してみせたり、説明してみせの念がどっとわきおこってきて、急にやさしくなり、涙ぐんだ彼女 たりする真実性なんて、はかり知れなくえたいのつかみ難い世界のの傷ついた軅に頬をすりよせている自分に気がつく。少なくともそ 単なる一面でしかない。そんな疑いが強烈に・ほくを支配しはじめてのとき、「君を愛しているんだ」と何遍もうわごとのようにくりか えしている・ほくの告白は真実だったはずだ。 およそまともとはいえない、こんな状態であけくれている毎日が 事実、いま・ほくのいるこの″世界″は、まるで超論理的とでもい つづいていた。 う他のない数々の不可解な現象を・ほくのためにかいまみせるのだっ 「″あちら″で医師をしていた経験でいえば : : : 」とあるとき、ミ た。・ほくは一種の幻覚状態にあるのだろうか。吸血鬼菌の副作用の ためだろう力 、。・まくはこの新しい環境の構造的奇異性に適応しきれス・トイがたまりかねてそっと相談にいったらしく、氏は我々二 ずに、はじめはそう考えていた。でもこのあくまで″世界〃は秩序人を呼んでいった。「未来人の人格は、″こちら〃の人間には想像 をもってつくられていて、科学や論理によって説明しきれるとするつきかねるほど異常なのが通例なのだよ。トイはその点を考えてあ ・ほくの信念は、次第に崩壊させられていた。これでもか、これでもげなくてはいけない。未来人の異常さは、彼らの幼児体験からくる かと″世界″側が・ほくに新しい現象をさし示すのだ。 のです。未来人は″こちら″のように母親の愛情をうけて育てられ となると・ほくはもうどうしていいのかわからない。人間は自分をません。多くは試験管の中で受精され、育児器の中で育ちます。こ とりまく " 世界。の絶対性を信して安定している動物だ。価値観との未来社会のやり方は合理的だし、第一、女性の究極的解放を果し 6 か法則性とか信念体系とかいうものによりかかって安住しているのたという点で大きな意義があります。衛生的かっ能率的な育児シス こ 0

10. SFマガジン 1972年7月号

ただ、それが新しい、形成途上のものだけに、まだきわめて量の限 ス派的な文学の関係づけの枠 ( これ自身はルネッサンスのアリス られた作品群についてでも、いちおうまとまった検討をするとなる トテレス派的平衡からの後退なのだが ) の声高な強調、といっ と、一九六〇年以降のそれらを除いた界全般を論じるのと、お た一見ばらばらな現象が含まれていた。もっとも″シリアス″な なじほどのスペースが必要になる。したがって、いまあげた作品の 小説においては、すべての強調の焦点を″思考″よりも″情緒″ どれについても、解説、解明、ないしは弁明といったことをしない ″感情″に置く傾向がますます強まってきたーー、まるでこの両者 が相反するもの、相容れぬものであるかのように。 でおく。″サイエンス・フィクションの先駆者をあげた第一のリ ストとおなじように、わたしはただ一つの位置を指さしているだけ そしてさらに である。さきの場合は、過去の数多い討論と定義さがしによってす でに測量のすんでいる地域だった。こんどのそれは、おそらくほか のどこよりも、わたし自身の直感の中に存在しているだろう地域な サイエンス・フィクションにとって、作家の真の研究対象は人 のである。 間である。人間、そして人間がなし、考え、夢見るすべてのこ ブレットナーは、彼の予言したその役割の中で、サイエンス・フ と、そして人間が知るであろうすべてのことーー理論と事実、宇 イクションの三つの″姿勢を特に重要なものとして挙げている。 宙の探求、自己探求、音楽と数学と機械。これらのすべては人間 ①それは自己拘東的でなく、またその読者を拘束するものでもな的価値と有効性をもっている。なぜなら、それは人間に関するも ティコトミー それは統のだからである。 。②それは類型化した虚偽の一一分法の文学ではない。 ) 合的である。 ( これらの姿勢の意味は、つぎに引用する一節に明ら かである。 ) このパラグラフの最初を、わたしはすこし言いかえてみたい 「あらゆる芸術家の真の研究対象は人間である。人間、そして : : 」というように。これをプレットナーメリルの不確定性理論と 文学においても他の芸術と同様に、知識の新しい複雑性や、旧 来の総合体の崩壊によって提起される疑問に対して、これまでにでも呼んでほしい。人間の認識する宇宙との関連なしに、人間を説 いくつかの反応が見られた。とくに今世紀のこれらの反応の大半明し描写することはできない。人間の宇宙へのオリエンテーション に共通する性質は、まさしく″知性の知的な放棄とも呼べる特との関連なしに、宇宙を説明し描写することはできない。 異な過程である。実際には、この″理性朝への反逆は、科学的方この評論の最初で、「どの時代の芸術も、その属する時代に蓄積 法ーー旧体系における″理性の非情な道具ーーーへの反抗であされた人間経験に根ざすことによって、はじめて存在価値を持ち、 る。理解が失敗に帰したことによって、また、理解しえぬものへまたそれが発生した文化の神経中枢のどこかに触れることができ る」と述べたのはこの意味である。今日でも、ギリシア演劇やエリ の長れによって、促進された反抗である。その反抗の程度にはい ろいろの差があった。その反抗は、多かれ少なかれ、意識的なもザベス朝の詩を読んで楽しむことはできる。しかし、現代作家がギ の、故意のものであった。それにはダダ的な完全否定、実存主義リシア演劇やエリザベス朝の詩を創造することはできないーー・模倣 的な当世風の絶望の劇化、さらには限定的、ネオ・アリストテレはできても。わたしのいう意味は、言語や形式の変りやすさだけで 5