の麻酔薬のようなものですよ」グラスをわたしに手渡す。 「よろしい。現実の感覚に対してきみの肉体が鈍くなればーーー眠り わたしたちはかなりいそいでハイボールをのむと立ち上った。メ に近づけばーー・きみへの印象はそれだけいっそうよくなり鮮明にな ルポルンは部屋の奥の扉に歩みよって開き、灯りをつける。つづい るのだ」ボタンをいくつか押しダイヤルを微妙な指先でひねる。 てわたしがその小さな部屋をのそきこむとそこはなにか潜水艦の操「さあ、しばらくビーナスという単語に心を集中して」と指示す 縦室を思わせるイメージ。金属壁の小部屋。窓はなく扉もわたしたる。わたしがそうするとたちまち装置の内部からかすかにうなるよ ちの通ってきた一箇所だけ。 うな音がきこえてきた。するとメルポルンは満足げに頷きながらス 壁一面がたなになってそこには無数のダイヤルやスイッチや小さィッチを入れ、音はやむ。 な真空管。飾りたてたラジオに似ているがスビーカーやイヤホンは「これできみの波長はわかった」彼は説明した。「わたしのはもう 。とても深い快適そうないすが二つ部屋の中央に並んでいる。 セットしてあるーー同時に二つ以上の異なる波長を放送することが 「体験はとても単純となるだろう」メルポルンはやわらかにいつできるのだ。ドラマのなかの二つ以上の役柄を放送することもでき る。たとえば、これからわれわれの受信するレコードにおいてはき た。「装置の細部に入るのは作動しているのを見てからにしよう。 しかしこう説明すればよかろう、部屋は完全に防音されていて外部みは見知らぬ世界で目覚める男でありわたしはセルダという若い女 の騒音はいっさいはいってこないのだと。さらにわたしはこれをちの感情と知覚を受信できるように波長に連結してある」 ようど体温に保っている。こうした予防措置は音の印象や器具の熱そしてもう一つの椅子に進みでて腰をおろす。 冷の刺激による干渉を避けるためだ。ただひとつの理由でわれわれ「さて準備はすべてととのった」彼はいった。「わたしがこのいす がこの部屋にとじこもらなければならないのもここがとくにこうしの肘にあるボタンを押すと灯りは消える。一瞬のちにはわれわれは 機械の刺激のもとにあるだろう。なにかが起こるとも思えないが」 た印象の受容に適合しているからなのだ。 このラジオに似た器具はある距離をおいて作用する。わたしはし微笑。「もし起こったならきみにもわかるだけの意識はあるだろう ばらくきみの波長をテストしてみるつもりだ。それがわかって器具からわたしの完成したこの電気装置でわたしの執事を呼びたまえ。 。しかし事態が悪 をセットすればきみはわたしの知るかぎり世界中のどこにいても物ふつうの会話の調子でビーターというだけでいい 語を受信できるようになる。受信装置は必要ない、これは直接に脳化するとはどういうことなのかわたしには考えられないよ」 わたしたちは手をのべ合って静かに握手する。 に作用するのだ。しかしきみは純粋な受信のためにはこの理想的な 「幸運を」わたしはいった。「こいつの成果はわたしにもあなたに 環境がなければならない」 わたしは小さくあくびしながら椅子のひとつに腰をおろした。ダ対するものとほとんどかわらないようですよ」また笑いながらメル イヤルをいじっていたメルポルンはわたしのあくびに気づいて満足ポルンは答えた。 げにいった。 「それではきみにも幸運を」 3 掲
フランクリンがアインシ、タインの新しい理論をもちだしてーー・し動きだした。 「そんなパーティなら参加してみたいものですな ! 」車のなかから ばらくはそれをさかなにしていたのだが、なんのことなのかわかっ ている者はひとりもいなかった。そして話題はすこしづつずれてい男は叫んだ。 わたしはまたあの当惑したような感情に顔をしかめてなかへ入っ ったがどれも科学的新発見の話だった。 その最中のどこかでパークレイが加わってくる。来客をつれてい たーーー五十才くらいで軍人のような、かざりけのない好感のもてる 人物だった。・ハークレーの紹介によるとメルポルン氏といった。男 メルポルンの物語 はすこし南部訛りがあった。 どうしたわけかメルポルンとわたしが部屋のすみに引寄せられ た。会話をつづけているうちにほかの者は消えてい「た。政治の話服を脱いで風呂に湯をは 0 ているうちに昨夜の断片はわたしに戻 ってきてゆっくりと結合していく。 題に移ったりウイスキーのテー・フルに退却したりして、のこされた メルポルンはわたしが映画製作者のポーシ = のために働いている のはふたりだけになっていた。 メルポルンは魅力的な話し相手だった。話題は物質の理論から古ことを知って関心を示していた。 代クレタ文明まで広い範囲にわた 0 ているうえにそのすべてを貫く「おそらくあなたはいっかわたしの手助けをしてくれることになる 高度な科学の糸をもっている。話しぶりはまるで広い知識と経験をでしような」考えこんだようにそういった。 ? メルポルンさん」わたしは尋ねた。 「どうやってですか もった人物のような : : : 歩道をあるいているわたしに断片的に戻っ てくる彼の会話は一かけら一かけらにシペングラーの文章の明晰「それはあとになってお話ししよう」 なそめかして答える。「あなたの仕事についてきかせてほしい」 さと深遠さがある。 そこでわたしは将来つくられるであろう映画の構想を語った。彼 車道をわたってア。 ( ートに入ろうとしたとき早朝夕クシーが一台 ゅ 0 くりと通りかか 0 た。運転手はすぐに停止してび 0 くりしたよは熱心な興味を示してきいていた。 「わたしが想い描いているのは今日つくられているいかなる作品を うにわたしを見る。 「どうしたんです ? 」と話し亦けてきた。「ずぶぬれじゃありませもしのぐものです」わたしはい 0 た。「しかもそれは、創り出せる ひとがだれかいれば現在でも可能なものなのです。音と色とを備え んか。湖に落ちたんですかい ? 」わたしはまごっいて笑った。 てわれわれの日常の生活を忠実に、色合いや声の調子や都会の騒音 「ごらんのとおりさ」と答える。 ーー・路上の交通だとか午後の竸技のスコアを呼ばわる新聞売り子ー 0 「乗せてってあげましようか ? 」 ーまで生き生きと自然に再生する、そんな映画です。わたしの映画 「いや」わたしはいった。「うちはここなんだ」男は笑う。そして こ 0
よってなんら害されることはなく一定の時間ののちには帰還するで び、ときおりセルダがいくつか事実をいいそえた。それらはいまは 重要ではない。わたしが話さねばならないのは物語自体であり、わあろうということ、このことは保証できよう。ここに休息し心を平 たしがのちになって純粋に仮想的なものだと発見した社会組織の細穏に保ちたまえ。あなたは安全であろう」 そうして彼は向きをかえて去った。わたしはしばらく途方にくれ 部ではないのだ。 わたしたち三人はその朝を会話についやしわたしの見たことのなていたが奇妙な世界での生活の奇異さと驚異のなかにすぐに忘れて いもう一人の男の登場までつづけられた。男はノックもなしに入っしまった : ・ てきたのだがエドヴァルもセルダも驚いた様子はなかった。男は そして湖は ? メルポルンは ? 〈局〉の代議員であった。 グリーグの夜想曲は終った。わたしはまゆをひそめてかみそりを ー男はそういって強烈にわたしを見た。 「あなたが・ハレット ? 置き、レコードをとりかえるために居間へ入った。衝突しあう記憶 「そうだ」わたしは答える。 「わたしはあなたにこう告げるよう指令されている。あなたの来訪群 : : : これらはどこで出会ったのか ? 一方には湖の冷たい水のな かでのめざめーーーわずか一時間たらすまえの。そしてメルポルン、 は一時的なものでありあなたはわれわれがまだ正確には計算してい ないある一定の時間の終了とともにあなたの以前の生活に還されるそしてクラ・フでの奇妙な会話。そして最後には夢からのうつろいに であろう、と。あなたは〈局〉に登録されておらず適当とおもわれも似たこの孤絶されたおどろくべき回想。 わたしが浴室に戻って冷たい水にとびこんだときわたしの心は突 るところへ行き来するのは自由だが目にするものはいっさい干渉し てはならない。あなたは観察者である。あなたはエドヴァルかセル然メルポルンへと収束する。あの夜ーーーたぶん昨夜であろうわたし は彼といっしょにクラブから歩いて帰っていた。ふたりとも考えこ ダが説明するであろうわれわれの生方式に従うよう期待されてい んでしばらく沈黙をつづけていた。やがてわたしたちは車道にさし る」 軽く会釈すると男はふりむいて去る。だがわたしは男を引きとめかかる。そのときだった。メルポルンがなにごとかいったのは こ 0 なんだったのだろう、あれは ? しュ / 「い , 刀・カ、刀子 / ノ 、よ、・、レットさん、あなたの夢を実 「待ってくれ」わたしはいった。「わたしはだれなのか、どこから彼はこう、つこ。 現させてみたくはありませんかな ? 」 ってくれないか ? 」 来たのか、い 「まだわれわれにはわかっていない。あなたに関するわれわれの知 識はある通常でない方式、現在〈局〉で処理中の一連の新たな実験 人生の部屋 のなかからもたらされたものです。できることならのちほど説明し よう。いすれにしてもおそらくあなたは正常な人生における不在に 3
りこえ水のなかへ落ちこんだときーー現実には自動車道のわきをの 昨夜、ーー・そして今朝。昨夜、食事のあとで一杯やりにクラ・フに立 寄った。そしてメルポルンに会った。今朝、湖の水のなかで目覚りこえて冷たい湖へ落ちていたのだ。 この時間のうちにわた夜明けだった。 め、家へ戻って着がえをした。十二時間 しは二か月を生きた。恋におち、そして死んだ。いまわたしは仕事 電車をおりて路上を歩きながらわたしは周囲をせかせかとうごい にでかけなければならない。 アパ 1 トを出て自動車道から西にまがり路面電車にむかいながらていく群集のなかに埋没している。すべては終り子供のころのあの わたしは何度も短い曲の断片を口笛でくりかえしていた。グリーグ古くからの夢のひとつのように去ってしまった。けっして忘れるこ があれは去 なのか ? それともだれかこの世界ではきいたことのない作曲家のとはないだろうーー・けっしてセルダを忘れはしない ってしまったのだ。存在しなかったものなのだ。セルダを夢のなか ものなのか ? もう路上には人々がいる。まゆをしかめながら一心に通りすぎてにおいたのはメルポルンの残酷、無慈悲な冷笑だ。だが彼はそれが 仕事にでかけていく。そして電車が近づいてきてプレーキ現実のなか〈まで持続するとは決して思い到らなか 0 ただろう。 彼女にふたたび会えるとは、たとえ人生の部屋のなかであろうと をきしませながら交又点で停止する。 いまではあらゆるものが単純だ。電車を待ちながら、そして電車も決して思わない。わたしはメルポルンの家を発見できないであろ に乗「て街を下りながらわたしはそれらを眺めわたす。メルポルンうということを知 0 ている。タクシー運転手のとった道には注意し はあれほど多くの可能性のなかでこのただひとつのものは予想しなていなかった。そしていまではたいして興味はない。ただの夢だっ たのだ。わたしは愛した女を失ったのだ、夢のなかで。 かったのだ。 わたしは〈ノーフォーク・ランチ〉の扉をひらく。おそくなった わたしたちは椅子に腰をおろし、そして冒険がはじまったのだっ 朝食の時間はあまりない。テー・フルのひとつについていつもと た。わたしは動き回り場所を移動する知覚を感じた。子供のころは よく家や町を歩き回っている夢を見たものだ。階段の途中や扉のままったく同じように給仕に話しかける。 しそいでくれ・・ーーベーコンエッグだ、いつもと同 えで目覚めるのだったーー・・夢遊病だ。反射作用がそれをおこなった「やあ、ジョー。、 のだ。わたしは椅子を離れ人生の部屋で物語の影響をうけながら部じ」 「コーヒーは、・ハレットさん ? 」 屋を出たのだ。いまではそうした一瞬一瞬をすべて思い出したのだ 「ああ、コーヒーもだ。いそいでくれ」 が、そうしたときにはわたしは現実世界のふちに宙ぶらりんになっ 会社に遅刻したところでどうということはない。そこではわたし ていたように思えるーーなにか固い物体でのつまずき、街灯のした の顔、タクシー、人の声。わたしは暗い路上を眼を閉して歩きながもやはりときには残酷な夢のつくり手なのだから。 ら自動車道のほうへー夢遊病だ。そして川の堤防を夢の中ですべ 325
とがいかに困難なことであるか。そこでわたしがつくった物語はわ ふうにしてきみは部屋のなかで一つの生涯を生きるのだ。現実には たしが夢見ていた理想的な生活ーーー未来といってもいいし他の惑星 二、三時間以上費すことなしに」 での生活といってもよかろう」 このとき車は暗い自動車道へまがり数百メートルほどの広い芝地 タクシーはかどを曲って車道から抜け出ると裏通りの迷路に突入 にそってメルポルンの家へ。暗闇のなかにそれは大きな家、ヴァー した。わたしはメルポルンの一言一言に完全に心を奪われていたの ジニアにみられるような植民地時代の邸ーーーほんものであり近年み でいまどこにいるのかということにはべつに気もとめていなかっ うけられるようなジェファーソンがギリシャ建築から借用したしみ た。車道の上手のほうにある都市はニュ 1 ヨークのグリニッジヴィ レッジのようにやたらに曲りくねる街路でできている。そこの住人のない白い円柱のほかにはなにもないまがいものではない。 と 2 、 たちは夜中にうちへ帰る道をどうやってみつけるのだろう ーティの帰りなどには、たぶんなにかを目印にしてーー未開の タクシーが去るとわたしたちは広いポーチへの数段を昇りメルポ インディアンのように木に傷をつけるのだろうか、とこのことを考ルンは錠をはずした。玄関のホールは静かで上品なたたずまいを暗 えるといつもわたしは混乱してしまう。 示するかのようにほんものの味わいの特徴である簡潔さがあった。 「この機械をつくり上げたあとも」メルポルンはつづけている。 メルポルンはわたしの帽子を脱がせてくれ自分のといっしょにホー ルの奥の小物部屋まで用心深くもっていった。そして深く絨緞をし 「完璧な試運転の記録を組立てるのに一年かかった。問題なのはき みの有声映画と同じようにやはり同調なのだが、ただあらゆるものきつめた階段にわたしを案内して自分の書斎へ。わたしは興味をも を同調させなければならない 音響や視覚だけではなくタッチもって書斎のなかを見回したが彼のいう人生の部屋のようなものはど 味わってみるのだ。そして思考の。フロセスも含まれねばならん。しこにも見あたらない。 かしわたしには好都合な点もあったーーあとで説明するがすべては「ここではありませんよ、バレットさん」わたしのせつかちさをみ 心を通じて直接にうけとられるのだから純粋な想像の。フロセスによすかしたようにわらいながら彼はいった。「すぐに行きますよ。ま って記録することができるのだ。それにわたしは逆行したり無関係ずハイボールを一杯さしあげるべぎでしような」戸だなからスコッ な印象を削除したりする方法もうみだした。それでもまったく驚異チの瓶とソーダとグラスをえらんで出す。ウイスキーを注ぐまえに 的な複雑さだった。 戸だなから小さな箱をとりだしてあけると小さなカプセルを二つ抜 「わたしのこの最初のレコードの難点をわたしは日常生活の物語をきとる。そしてそれを一つづっグラスに入れた。 避けることによってのりこえた。事実わたしのつくったものはまっ 「これは害のない薬剤です」と説明した。「あなたの肉体の神経を たく物語とはいえない。きみにもたやすくわかるだろう、交通の騒まひさせてあなたのすわるいすだとか無関係な知覚とかが装置から 音のメドレーだとか微妙ないなかの物音の無数の変奏をもちいるこあなたのうける印象のさまたげとならないようにするのです。地方 田 6
医師は休養と健康回復が必要だといった。もう一度日々の生活やのうちにわたしが得ていた知識によれば、そうした近年、無線放送 によってなされているものをはるかにしのぐことができた。 人間や無生物に心を向けなければならないともいった。そこでわた わたしが利用した方式は商業的な放送とは多くの点でことなって しは去った。それから数年間わたしは旅をした。科学的なあらゆる あとでお話しで ことから自分を引きはがして人生の事業に没入した。ほとんど毎夜いる。いまはそれに深入りしている時間はない を徹して冒険者となりかって研究に注いだのと同一の情熱をもってきるだろうが、高度に技術的な点が多くいまだに秘密にしている。 いいだろうか、わたしの目的というのはラ 刺激を味わった。芸術に、絵画と文学と音楽に復帰した。酒と食事こんなふうに説明すれば ジオが音響でおこなっていることを一つ一つの感覚においておこな と女の鑑定家となった。人生の実験者となった。 うための手段を開発しそれらを融合することだ、と。電送写真の問 けれどもすこしづっ熱情は去っていった。わたしは道楽に厭きは じめていた。ついにそのことに気づいたときわたしは世界を巡って題がいちばん簡単だった・ーーのこりの問題にはほとんど超人的な労 珍奇な価値を体験していたのだが、わたしの心は静かに無意識のう力が必要だった。 しかし最大の仕事はそれらを結び合わせることだった。そしてそ ちに以前の問題を捉えていた。人生における転変はわたしに視野の 広さを与えてくれ、わたしの任務の達成に必要な理解力をそれだけれをおこなうためにわたしが用いた知識は実験室のなかで得ただけ ヨーロッパやアメリカの 鋭敏にしてくれた。つまりわたしは活力を回復して再びそこへ復帰ではなくわたしは地球上を巡り歩いた 大学やサロンだけではなくインドやエジプトや中国の・ ( ザールや寺 したのだ。精力は増し、精神の健康も増強して」 院にまで。わたしは古代と近代との両文明の知識を結合せねばなら メルポルンはここで息をついた。相手の欲求を感じとってわたしなくなって電気科学に新たな因子を創造した。それに名称を与える メンタル・テレ・ ( シー は ( イボールをすすめ、自分にも一杯ついだ。彼は奇妙な表情でそとして最も簡潔で知的なものを考えるなら心的感応となりましょ うか。しかしそれはそれ以上のものであり基本的にはあなたの映画 れを味わった。 「最近ではこういうものをウイスキーと呼ぶのかね ! 」放心したよとおなじくらい簡潔で物質的なものです」 わたしはメルポルンがつづけて発見の話をしてくれるものと思っ うに眺めながら静かな皮肉をみせる。わたしは話のつづきを聞きた ていた。ところがここで彼は黙りこんで瞑想し、わたしたちが見上 っこ 0 げるとみんながひきあげていくところだった。スコッチの壜はから 「お話をつづけて下さい」わたしは促す。 「あとは単純ですよーーしかしこれが物語の本体だ。つまりわたしになっている。 ークレーが叫んでいる。わたし は仕事においてとるべき道を変更せねばならなくなって新しい角度「もういいかね ? メルポルン」・ たちは立ち上った。 に進んだのだ。このころには無線電信術が広く開発されていてわた しの興味をそそる特色が数多くあった。ところが最初の熱病の歳月「こんなに遅くなっているとは気づかなかった」メルポルンは答え 307
はとても注意深く組立ててあるので、映写技師がどの部分で中断し本質のなかにある相ことなる側面すべてを一つに没入できるような てもスクリーンに示されている情景は意匠においても構図において興味の対象が必要だと感じた。芸術家と科学者とをともに兼ねるチ っ 1 ャンスをわたしに与えてくれるようななにかを。四半世紀も昔のこ も色調においても調和がとれてロックウエル・ケントの絵画のよう とです。映画と蓄音機が世に現われはじめていた。それらはわたし に力強い感動を生むのです」しばらくおいてわたしはつけ加える。 「これを実現できるならわたしはほとんど何だってさしだしますが必要を感じているまさにその分野を与えてくれるように思えた。 よ」 わたしの考えたのもあなたとほぼ同じだったが、ただそれを裏づ メルポルイは共鳴して考えこむようにわたしを見た。 ける発見物がなかったーーカラー写真もなく音響や視覚を調和させ 「それは可能かもしれませんな」しばらくしてそういった。 るための手段もなかった。実際、映画や蓄音機はまだおもちゃ以上 「というとどういうことです ? メルポルンさん」相手は葉巻をふのものとは考えられていなかったのです。だが、あなたとおなじよ かして考えこんだ。 うにわたしにもヴィジョンがあった。熱情があった。創造への強烈 よ欲望があった。 「そうですな、手軽には説明できるようなことではありません」とオ そういった。「奇妙だし新しいものだ。準備が必要ですな」 学位をとったあとわたしは異常ともいえるほど猛烈に働きはじめ 「わたしのほうはよろこんできかせてもらいますよーわたしは激した。希望どおり生活していけるだけの収入がえられるとわたしは実 験室をつくって、やりたいこと、ただ一つのことのみに熱中した。 い興味を覚えていった。彼は笑った。 「たぶんあなたにはわたしの人生をすこしお話ししたほうがよいよ歳月を注ぎこんだ。青春をーーーすくなくとも青春の最良の時期をー うだ」 ーその労苦に濫費した。音響と色彩写真が商業的に完成されるより 「ええ」わたしは短く答える。 はるか以前にわたしは独力で同様なプロセスを開発した。しかしわ 「わたしも子供のころにはあなたと同じようなことを考えていまし たしが欲しいのはそんなものではなかった。真のそれはわたしの理 たよ」と彼の物語ははじめられた。「高校でも大学でもわたしは自解を越えたものでありわたしはそれを達成するすべを知らないのだ 分を芸術家たと信じていた。すぐれた演奏者であり絵画や文学にもった。 手を染めた。けれどもわたしは大学院に進むための研究に戻りたく わたしは熱病に憑かれたように没入した。いまになって思えば一 なり、そしてなにかがわたしを科学にひきつけた。数学の研究は学種の狂乱、一種の狂気へと自分を駆りたてていたに違いない。人々 位獲得の時期まで延期していたのだが、結局これこそわたしを魅了にまじわることもなく味気なく鬱ぎこむようになっていた。ある日 していたのですな。また物理学にも好奇心をそそられた。 わたしの神経は崩潰した。実験室のなかにあるすべてのものを、模 型も装置もなにもかも打ち砕き、長年労苦を注いできた図面や用紙 修士号そして博士号と研究をつづけているうちにわたしは自分のに火を放った。
メルポルンがなにをいおうとしているのかわからないままにわた このとき車道にタクシーが近づいてきた。メル・ホルンはそれを停 めてわたしのために扉をひらいた。そして運転手にわたしの聞いた しは問いただすように相手の顔を見た。 ことのない住所を告げるとわたしにつづいて乗車した。 メルポルンの説明。「わたしの家にはある模型がある , ー・ーという より完璧な試作品が。数日まえに完成したばかりのものです。毎日「このほうがはやい」彼はいった。「どうやらわたし自身思いもよ のように実行を延期しては失敗ではあるまいかと恐れてーーーしかしらなかったほど興奮してしまった」 ターンして車道を走っているあいだにもさらにその発明物の話を もちろんそんなはずはない。わたしは一つ一つ数十回にわたって照 してくれた。 合してみたのだ。 「いうなればもうひとつの人生を生きるということだろうか、あの もしあなたが希望なさるならよろこんでわたしはお連れしよう。 わたしの探求の終局に達したいま、わたしはこの勝利をわたしと分部屋で一時間か二時間を体験するということは。おそらくきみはま だそれがどんなものなのか想像もっかんだろう。わたしは人間が現 かちあえる人物を必要としているのだ」わたしは熱心に彼をみたが 実の生活においてもつであろうすべての感覚を再生する手段を創造 この申し出が真剣なものかどうかは全くつかめない。 をしオ「どういうわけでわしたのだ。あらゆる音、におい、日常生活においては半ばまでしか 「しかし、メルポルンさん」わたしよ、つこ。 たしをえらんだのですーー今夜会ったばかりのこんな男を ? 」相手意識されないわずかな感覚ーーそのいっさいを。部屋はきみを支配 しきみに代って生きる。きみは自分の名前、この世界における自分 はわらっている。 、パレットさの存在そのものを忘れて仮想の国に肉体的に運びこまれる。それは 「わたしは孤独な人間、世捨て人も同然なのですよ さながら書物を読みながらその書物を現実に生き、映画を観ながら ん」と答えるのたった。 「さまざまな国に大勢の友人はいるーーだが親友はいないのだ。孤その映画を演じていることなのだ。 「それは人生とかわらぬほどリアルだが夢のようにはやく動く。あ 独な、魂を吸いとるような仕事に身を投げこんだ男のむくいです。 そして思うにあなたもやはりこの異常な仕事へのわたしの関心をわる部分ではゆっくりと着実に人生のテンボで通過するように思え る。また各場面のあいだの転移の瞬間になればきみの諸感覚は信し ずかながらわかちもっているのだ」 がたい速度で移動する。部屋はきみの心を占領するのだ。いまきみ 「そうですとも ! わたしは魅了されてしまったのです」わたしは がかくかくのことをおこなっているときみに告げ、それをおこなっ 「ではいっしょに来たまえ。わたしもまもなく老人となろう、そのているというあらゆる感覚をきみに与え、そしてきみは自分がそれ ときにこの仕事をわたしがつづけてきたのと同じようにつづけてくをおこなっていると信じこむ。そしてきみをある日から引き出して れる人間が必要となるたろう。おそらくきみこそその人間となろつぎの日へと送りこむときにはただぎみに一日が経過したと感じさ せるだけできみはまるでその日を生きたかのように感じる。こんな う」 引 5
た。「ハレットさんとわたしはお互いにとても興味をもつようになにおいてみられたことのないほど静かで平穏だ。だが眼は賢明にな ったよ」 その奥で心がすべて り年をとって、まるでーーー一夜のうちにー わたしたちは帽子をみつけてそこを出た。メルポルンとバ ークレの時代の知識を学んでしまったかのようだ。 ークレー ーは互いに無視していたことを謝罪して別れを告けた。バ 一夜にして ? わたしは日常生活とのあの最後の接触のあとに時 は疲れて寝床につきたがっていてほかの者といっしょに行ってしま 間の経過があったという感覚を捨てることができない。さながらわ ったが、メルポルンはわたしのところに戻ってきた。 たしはどこかでどういうふうにしてか何週間何カ月かをどこか新た 「もしわたしといるのが退屈でなければ」彼はいった。「すこしごな地平において生活し、そしてそれを忘れ果ててしまったかのよう に。いまだかっておぼえたことのないほど年をとり円熟したおもい 一緒しよう」 「退屈なんてとんでもない」わたしは答えた。「こんなに興味をひでありわたしが憶えていることはなにか遙かなことのように思え かれたのははじめてです。まるでウエルズかジュール・ベルヌの一る。 ちょうどこのとき居間の装置からの偶然の一旋律が一団の新たな 章を聞いているみたいだ」 相手は笑いながら小さく首を横にふり、わたしたちは沈黙したま鮮烈な印象をわたしにもたらし、それは奇妙でありながらある意味 でメルポルンに関する記憶よりもさらに親しみが感じられる。それ ま歩きつづけ湖のほうへ : がわたしのまえにひらいてくれたものはわたしが偶然にも関連して こうしたことすべてが急速に夢のうごきのような矛盾した効果をいたと思えるもうひとつの異質の人生、それは一見したところわた みせながらわたしに戻ってきたのは風呂の仕度をしているほんの数しが帰還したこの現実とはなにひとつつながりをもたす : ・ 瞬のあいだのことである。わたしはひげそりを置いてビクター蓄音 器にレコード盤をのせた。わたしは風呂に入ったり服を着たりする グリ 1 ーグからのある旋律 ときにも音楽への欲求を征圧することはけっしてない。そのレコー なにか冷たく静穏で、激 ドはグリーグの夜想曲たったとおもう しく甘い痛みと憂鬱のタッチがあった。 追憶される目覚め、また一つの場所、そこは峡谷を眺めおろす長 そして何気なく鏡をはじめて見た。驚きのあまりわたしはその場い緑の丘陵の斜面。ふたたび夜明けだった。太陽は背後の丘陵のた に釘づけになった。一夜のうちにひげが伸びてまるで荒野から戻ってがみをなすように頂点に顔をのそかせたばかり、頂上から高いほ てきた放浪者のようなのだ。ひげのしたでわたしの顔もいくぶん変そい樹々の影を草原のうえに投げかけている。眼下の谷には幅の広 化してなにか奇妙な変貌をとげてしまっているようにみえる。肉体い清らかな川の澄みきった水面が丘陵の曲線をつたってやがて視界 的には若返ったような感じがありその表情はいまだかって人間の顔のそとへ消え去る。対岸にもまた丘陵群がおなじように長い緑の斜 308
その瞬間に灯りは消えわたしたちは数瞬まったくの闇のなかに坐く土壌を調査したりよその都市の風習や記録を研究したりしていた っている : のだろう。 セルダは自分の時間の大部分をわたしに注いでくれた。わたしを この光景を、湖から戻ったあの朝に風呂に浸りながら思い出した とき、わたしは自分になにが起こったのかを次第に明瞭に理解しはさまざまな場所へつれていき、あの世界の自然の美をみせてくれた じめた。それでは、わたしがメルポルンに会ったのは明らかに昨夜のは彼女なのだ。もちろんなだらかな斜面や丘のいただきだけがあ であり最初のうちわたしが思い出していたのは人生の部屋での体験ったわけではない。アルプスに劣らぬ高い凶暴な岩石の山塊やアマ ゾンの密林とかわらぬ測り知れぬ深い閑静な森もあり河川も激流と なのだ。 なって岩に渦巻いたり山脈の断崖から数百メートルも落下したり。 だがそれだけではない。わたしの心は丘陵での目醒めにさかの・ほ はじめてふたりででかけたとき彼女は海を眺望する巨峰へつれて り、そしてリッチモンドという都市への着陸へ。わたしはエドヴァ いってくれた。そこにはもちろん飛行艇の着地できるような小さな ルのアパートでの会話を思い出す。そこのところでわたしはそれて 平坦地があった。そこでおりてあと百メートルほどは歩いて登る。 しまってメルポルンの回想へと戻ったのだった。 いま浴槽から出て体を乾し服を着ながらわたしはあの架空の都市道は深い雪のなかにあったが寒すぎることはなくほどよくひきしま でのふしぎな架空の冒険へと精神的に帰還していく。これが非現実って爽快だった。わたしたちはいつものトランクスとチ = = ックと いう恰好である。 だと思うことはいまだにわたしには不可能だ。それほどまでに鮮烈 わたしたちは頂上に立ちわたしの見たこともないような壮大な水 であり明瞭なのだ。 平線を見晴す。東には陽光のもとに深く蒼い海がひろがっていた。 海岸ははるか眼下に暗い線となっている。海ぎわの何マイルにもわ たって細長い草地と畑がつらなり、その彼方は森。北にむかうと山 脈が森林からはい登り海へとつづき、登りつめると巨大な荒々しい わたしはあのもうひとつの世界に二カ月近くーーと思われるほど断崖と岩石となって海を隠し、峰々が見渡すかぎりつらなって雪と というべきなのかー・ーー住んでいたことを思い出す。エドヴァルのア霧のなかへ。そして丘陵群はなだらかに西へくだり森となって峡谷 1 トの近くの部屋をあてがわれていたーーーそのあいだにはセルダにつながり、そこに流れるのはわたしが目醒めたときに見えた広い が、た。エドヴァルはわたしがおくるべき生活の細部をおしえてく河、山々からおりて谷へぬけると平坦になってゆったりと南の低い れた。だが彼はむしろ冷淡な人間だった。関心のあるのは古代の歴平野へ、そして東へむかうと海。峡谷にも平地にもいたるところに 史と考古学であり朝の時間は歴史図書館か書斎ですごしのこりの時都市が散在し、リッチモンドと呼ばれるものと同じように高く孤立 間は世界中を飛び回ってめずらしい発見のための探険にー・おそらしていることは知っていた。だがわたしたちのいる山はとても高い くレットとセルダ 田 9