ー 1 を集 アメリカのマンガ家て最も 鋭い文明批評て定評のある ファイファーの作品群の中 から厳選した代表作 ! ! がです ・特集・ 号円で フランス漫画の展望 4 0 中 伝統あるフランス漫画の歴史と体質を明らかにする第 発 とともに現在のフランス漫画界の傾向をさくる。 《評論》 伊藤逸平・小野耕世 《マンガ》 ポーレット・ーコマもの 空コ十ン SF 界にその名も高いロバ ート・ E ・ハワードの原作 をタイナミックに劇画化し たアメリカン・コミック ! ! 日本唯一の 海外コミック 専門誌 ますます好評 ! ! 5 ぐ 刻叫十ト , ト アメリカ・アンタ - ーグラウ ☆フランス漫画界の第一人 ンド・コミック界の巨匠ロ 者ボスクのくリひろげる、 バート・クラムが描く退廃と 工スプリとサタイアに満ち 混乱の世界。映画化公開 ! ! た 1 コマ・ナンセンス ! !
俗が保存されているようにみえた。 も守られている。そして、ここには、高山祭りの屋台が保存されて もちろん ' 市内に入るあたりには、他の地方とも共通するけばけいるのと同様に、沢ガ = の領域とな 0 ている清流が残されている。 ばしいモテルもあった。ディスカ。ハ 1 。ジャパンの見地からすれ市内を流れる宮川には、鯉、金魚、鱆などが、元気に泳いでいるほ ば、たしかに目触りにはちがいないが、この都市のもつ自己完結的どである。 な性格からみれば、他所者の身でいちがいに非難もしきれない。こ おれたちは、高山市内を通りぬけ、市街地を出ぬけたあたりで、 の都市のうちにも、市民の生活があり「その限りにおいて、通常宮川の流れをわたり、美雪の生家である山城家にむか 0 た。 の世界が営まれている。それを、他所者のひいきの引きたおしみ市の中心から北にはずれたところで、おれは美雪の命ずるままに たいなおせつかいで 2 古き良き過去へと凍結させることはできな ハンドルを切り山城家のまえに車を乗りよせた。 もともと車の生活をするように作られていなかったのであろう。 モテルの類をのそけば、この都市には、これまでおれが廻りあるヘつだん車寄せのようなものはなく、屋敷の入口は狭くな 0 ている じゅんぶう いた他の地方都市より、日本固有の淳風美俗が保存されているとい が、塀と土蔵のあいだのやっと車が通れるくらいの露路をぬける えよう 。いかに情報伝達の早い現代でも、ここばかりは、国をあげと、そこに間ロ十間以上もあるかと思われる大邸宅が建 0 ていた。 ひわだぶき てのコーカソイド化の風潮に、汚染されていなかったのだ。 板張りの二階建に、檜皮葺の屋根がのっていろっ豪壮といえる造り 牽強附会にわたるかもしれないが、高山で生まれ育った美雪が、 になっていた。 ザリガ = というものを見たことも聞いたこともないのが、飛騨の国「着いたわ」 の独自性のひとつの証拠といえよう。幼ないころ、沢ガ = をとった美雪は、二間もある玄関の土間へ、おれを導いた。 記憶は持 0 ているが、このグ。テスクな甲殻類については、なにも黒光りのする垂木は、輻三十センチ以上もあり、立派な柱としつ 知らよ、。 オしつまり、ここには、関東一円ではきわめてポ。ヒュラーな かり組みあわされている。美雪からきいた話だが、この屋敷ができ ザリガ = が、ま 0 たく棲息していないのだ。アメリカを原産地とすたのは、明治のはじめのころ。梅村騒動のときだったという。中央 るアメリカ・ザリガニは、またたくまに日本全土に拡まっていっ から派遣された梅村某という県令が、若さのあまり急激な改革をや た。これに対する、日本原産の = ホン・ザリガ = は、もともと北海りすぎ、とうとう一揆をまねいたという。その時代に建ったものと 道から東北にかけてしか棲息しなかったが、このアメリカ。ザ一一ガすれば、もう百年からたっている古い屋敷ということになるが、根 ニという、貪欲な生活力をもっ帰化動物には抗すべくもカくしだ太のゆるんだところなどはなかった。玄関のところは、六畳くらい いに棲息する場所から駆逐されてい 0 た。ところが、この飛騨盆地に相当する = 一和土があり、敷台からあが 0 たところは四畳敷に壗飃 は、地理的に隔絶しているためだろう、ほかのコーカソイド文化のがおいており、建物を左右に分断する形で、幅一間の廊下が、まっ 汚染をまぬかれているのと同様に、アメリカ・ザリガニの脅威からすぐ奥へつづいていた。 4 9
クロード・モリテルニ氏 ( スタジオにて ) 氏よ、、 じてくれ、彼が描いている新聞連載「ンガ「秘密情報部員一 なま かにもマ コリガン」の生原稿を一枚くれた。もちろん、フラッシ ンガ家と ュ・ゴードンも、描いてくれたけれども、彼は、生年月日 いう感じでいえば、もう四〇代のはずなのだが、若く、二〇代のよ ・カュ / うに見え長身のいい男だった。 おおまか ビジネス・マン化しているアメリカのマンガ家たちをみ で、ゆっ 1 ト・クラム ていると、サンフランシスコで会った、ロく たりと、 などのアングラ・マンガ家や、マ 1 ベルや AO のコミッ 楽しい ク・・フックのマンガ家たちのほうが、いかにもマンガ家ら 親切な人しかった。シンジケ 1 ト・システムは、マンガを漂白して で、彼のしまうだけでなく、マンガ家の体質まで変えてしまうので 作品を訳はないのか。アンダーグラウンド・コミックスが抬頭して している くるのも無理もないと、つくづく思う。マンガ家らしくな こと、 いマンガ家たち。 私一は、、つ ススカル氏は、もう二度と、あんな苦労をしてまで、ニ れしく思った。やはり、マンガ家はビジネス・マンのよう ューヨークで、コミック大会をひらくのはごめんた、とい に、ギスギスしていては、楽しくない。 っていたつけ。 ルッカ大会で、アメリカのマンガ家が壇上にならび、参 会者と交流をはかる場面があった。「アメリカのマンガの 6 三人の男、運命について語る 将来について、どう思うか」という質問に対し、ただひと り、「アンダーグラウンド・コミックスに、突破口がある と思う」と答えた男がいた。アル・ウィリアムスンだっ ルッカのナポレオン広場にあるレストランに、われわれ こ 0 三人がすわっていた。 後で、ウィリアムスンに会ったとき「アングラ・コミッ 三人とは、プラジルからやってぎた、フランシスコ・ア クスについて触れたのは、あなただけでしたね」といった ラウジョ教授 ( 彼は、世界でただひとりの、コミックスに ら、「そうなんだ。そこが問題なんだ。みんな、あの連中ついての教授だといわれている。・フラジル大学のコミ = ニ はすっかり体制になってるんだよ」と答えた。 ケーション部のチーフだ ) と、マンガ家のロべール・ジジ ウィリアムスンは、たいへんな人気で、いつも人にかこ ( フランス ) と私である。 まれていたが、私のインタビューに時間をやりくりして応「では、あなたが、あの、世界でただひとりのマンガ学の
久里洋ニ氏とディビッド・パスカル氏をかこんで ( ルッカにて ) グラフィスの「コミックス」を見るディビッド・パスカル氏 ( ニューヨークにて ) グ、メキシコ、 / ルウ = ー、オランダ、ルーマニア、スペ借りきった形になる。必要な会場や設備は、一か所にまと イン、スイス、ハンガリー、 ロシア、ウルグアイ、スウ = まっている。といっても、どんな小都市でもいいというわ ーデン、アメリカ : : : であり、以上の国からは、マンガ家けこよ 冫をいかないだろう。やはり、魅力的でなくては、遠来 かジャーナリストか、またその両方か、とにかく、だれかの客をむかえるにはふさわしくないだろう。ルッカは、小 が参加していることになる。 さくて美しいから、 いいのだ。 ( フランスでは、アヌシー ルッカ大会の名誉会長は、当然のことながらルッカ市長で、国際ア = メーション・フ = スティヴァルが一年おきに であり、実際のディレクターは、ローマ大学のコミック・ ひらかれるのも、まったく同じ理由にもとづいているので アート研究部門のリナルド・トレイニである。 あり、理想的なケースである ) こんな・せいたくな大会は、大都市ではできない。 では無理た。東京でも、ニューヨークでもむずかしい。協 3 ニューヨ 1 クの孤独なマンガ家 カ態勢がととのわず、混乱がおきるだろう。大都市での大 会などはどうということもないが、費用だけはかかりすぎ るほどかかってしまう。 実際、今年の四月に、大都市のニューヨークで、はじめ だが地方都市が協力すれば、いわば、大会が、一都市をて国際コミックス大会がひらかれ、ルッカにや「てくるよ うな人たちはみ んな参加したけ れども、実際的 な運営に当っ た、アメリカ漫 画家協会の海外 部長ディビッ ド・パスカル氏 ( 彼は、ルッカ 大会の重要な運 営委員で、大会 のポスターは、 毎年彼が描いて 3 いる ) のはなし によると、内幕 )
バリのマンガ仲間との ランチ ( 上 ) バリのコミック専門書 店 ( 下 ) はひどいものだ 0 たらしのンガの諷刺はおそろしく鋭く、知性の深さを感じさせ - 4 。まず、金がない。ョるが、同時に、その画風が彼の孤独を示していた。 ミックスの権利をもっシ アメリカ漫画家協会のメン・ハーのなかでも、彼は異端に ンジケートは、もうけに属するだろう。私の知る限り、彼ほど広い視野でコミック ならないことには金を出スをとらえているアメリカ人は、他にいない。彼は最近、 さない。 スイスの国際的美術雑誌「グラフィス」のコミックス特集 ニューヨークのヴィレ号 ( 二号連続 ) の編集を担当した。私は、彼の依頼で、日 ッジの近くにあるパスカ本側の資料を、ずいぶんたくさん送ったものだ。 ル氏宅で、パーティをひ しかし、編集 らいたとき、そのせまい の最終決定権は 家に百五十人もの人びとスイス側にあ がおしかけ、応対がたい り、彼の強硬な へんたったという。人の主張にもかかわ あいだを縫うようにしらす、日本のコ ミックスは一点 て、家内は飲みものを配 ったものたよ・ーーと、彼しかとりあげら は笑った。会場がないかれなかった。そ ら、自分の家を提供したのことをパスカ = ル氏は、しきり のだ。それは、苦しかっ たが、それなりに楽しか に、私に対して ったよ、と彼は言う。ニすまながってい こ 0 ューヨークの自宅では、 彼は、私に対してとてもおしゃべりだった。自分のマンガ 二号にまたが に関する考えを、とうとうとしゃべりまくった。それは、 る「グラフィス」 ちょっと異常なくらいだった。 のコミックス特 ディビッド・パスカルは、日本に三回ほど来たことがあ集号は、それだ る。日本語を、少ししゃべるが、私にむかっては、照れけまとめられ て、日本語をつかわなかった。彼の作品は、もう十年近くて、ハートカ も前に、当時の「漫画読本」に掲載されたことがある。彼ーの単行本にも
いなおされる。 きは、根太のゆるんだド・フ板や、コールタールを塗った電信柱や、 新聞配違の自転車など、日本にしかない情景をもっ世界にかえる。 金属活字は、グーテンベルクによって、発明されたと説かれる。 それは、おれみたいに、日本的なもの、アジア的なものを排除すグーテンベルクより、はるかにはやく、朝鮮において実用化されて るよう、意識的に教育された世代にとっては、なんとなく異様な、 いた史実は、意識的に無視される。 だが逞しい風景だった。 マルコボーロやヴァスコ・ダ・ガマには、多くのページをさいて ちょうけん おれは、いつのまにか、仕事で行くさきざきの土地で、神社仏閣も、漢の張驀や明の鄭和については、ほとんど何も触れない。 こうした偏向教育は、小学校からはじまり、自然科学、社会科学 などを訪れるようになった。べつだん、抹香くさい動機からでたこ とでもないし、いわんや、天皇を頂天とする国家神道に奉仕する気など、ありとあらゆる分野にわたる。右も左もなく、イデオロギー などさらさらない。しかし、由緒ある神社の境内に立ち、自然と調とは無関係に、日本の社会の上層部にいる人々は、日本人の全てを 和してたっ白木の社殿などを眺めていると、古代人の素朴な感情が徹底的に洗脳するため、一致協力してことにあたっている。 かん 生んだ神ながらの道といった発想も、なんとなく理解できるような長髪、ジーパン、ロックといったような外面的なことではない。 気になった。 そうした表面的なものはどうでもいい。というよりむしろ、長髪や おれは、アメリカナイゼーション世代のいわば順当な出世コース ジーパンに対して、新しく入ってきたという理由だけで、ジェネレ からはずれたとき、はじめて日本的なものの存在に気づいた。それ ーション的な拒否反応を示す人ほど、心の奥深く根ざす対コーカソ ドロツ・フ・アウト をいわば落伍者としての心情的な共感であったかもしれない。 イド劣等感をいだいている。そして、内面から日本人を改造しよう ロツ・フ・アウト 戦後の四半世紀、日本人の手から落ちこ・ほれていたものを、ふたたとする動きに、すすんで奉仕するようになる。 び拾いあげる喜びであった。 おれは、体制の枠組から放りだされ、一匹狽としてしか生きられ かって、征服者日本人は、東アジア世界の人々にむかって、神社なくなってはじめて、数々の矛盾に気づきはじめた。 ラスティック の礼拝を強要し、日本の文物を強制する、悪名たかい皇民化教育を今この国では、たいへん急激に、日本人のコーカソイド化教育 ほどこそうとした。その日本人が、今度は同じ同胞にむかって、左 が、押しすすめられている。全ての日本人が、コーカソイドの立場 右のイデオロギーを問わず、一致協力して一つの価値体系を強制からものを、 しい、コーカソイドの行動様式でうごくごとを、すこし し、四半世紀にわたる偏向教育を遂行してきた。 も疑問に思っていない。かって、この国の人の行動を律していた フォーク市ェイズモーレス そこでは、日本人は、朝鮮人や中国人の仲間ではなく、コーカソ習俗や掟は、今では影をひそめてしまっている。 イド ( 白色人種 ) の一員であるかのように教えられる。コロン・フス それほどまでにコーカソイドに奉仕した結果、日本人はかれらの のアメリカ到着は、アメリカ発見と言いかえられ、ゲルマン民族のあいだで市民権を獲得できるのだろうか ? かって、明治の日本人 大退却は、コーカソイドの立場から、大移動というきれいごとに言は、欧米諸国とおなじような文明開化がなったあかっきに、日本人 0 9
を大人とも思わない、傲岸な不遜な態度がでてしまう。およそ可愛なかの傷跡として残っていたが、十年ばかりの歳月には勝てなかっ たらしい。もはや、夢にも現われなくなった。 気のない大人子供に見えたにちがいない。 しかし、エスカレーター式に、小学校、中学、高校とつながる地それは、同時に、おれのなかにあった日本的なもの、東アジアの 方大学の附属校では、成績がよいということは、なんにもまさる免モンスーン米作地帯に共通する価値観との訣別でもあった。はるか 罪符だった。おれと弘子は、級友たちから遊離した存在でありながな古代、飛騨の山奥で謀叛をおこした畸型児、ーーそんなものにかか わりあっていることが、そもそも奇矯なことだった。そんな古めか ら、教師からは一目おかれていた。 急速なアメリカナイゼーションが進み、日本的なものが次々に崩しいものは捨ててしまい、近代的な合理精神を身につけていかない 壊していく変革のなかで、おれたちは、脱日本人をめざして勉強しと、時代から置きさられてしまう。そうした恐怖のほうが先だっ こ 0 た。戦争にまけたのは、デモクラシーにほど遠い日本の封建制のた 高校時代には、日本史の授業には、すこしも興味を持たなかっ めだった、といった類の単細胞的な反省がおこなわれ、日本人とし ての旧時代の穀から抜けだすことによって、アメリカ人とも対等にた。日本の歴史というのは、天皇を中心とした皇国史観でつらぬか さっそう 交際してもらえるという、人種偏見などひとかけらも考慮していなれ、ひいては狂気じみた侵略戦争に帰結してしまう。いかにも颯爽 おめでたい展望がひろく行なわれていた。つまり、デモクラシとしない、魅力のないものに思えたからだ。 それにひきかえ、世界史や、人文地理ーーそのうちでも世界地理 ーというパスポートさえ手にいれれば、アメリカ人なみになるとい の授業は、無限の可能性を秘めているように思えた。フランス革命 、奇妙な未来を考える人が多かったわけだ。 ロ・コス そのころのおれには、そうした風潮に対する反省など、すこしものときの理性の信仰には、憧れに似た感情をいだいた。抹香くさい なかった。せっせと英語の勉強に精をたす、模範的な中学生だった日本の神道などとくらべると、神そのものの存在すら否定し、かわ りに理性を信仰するという新しい宗教には、限りない発展性がある にちがいない。 意よ、しだいにおれの心かのようにすら思えた。そのころのおれは、理性の信仰が、キリス そして、幼いころ恐怖した両面宿儺の記 1 を しきいきか から遠のいていった。しかし、識閾下のどこかに生残っていたのだト教へのアンチテーゼとして生まれたものであることすら判らず、 ろう。その無残な畸型の姿は、ときおり夢に現われることがあっただ単純にあこがれていた。 おれは、ヨーロッパの歴史や地理に、たいへん興味を持った。十 た。そんなときの宿儺は、ホルマリン標本の胎児のイメージを付加 されているため、腐った魚のような眼をしているくせに、四本の手字軍の遠征記や、。フルタークの英雄伝や、・・ウエルズの「世 に武器を持っているという、奇怪な形になってしまっていた。 界史」などを読みまくり、いつばしの西洋史マニアのような顔をし 高校に入ったとき、奇怪な宿儺の姿は、おれの夢のなかからも消てみせ、そのポーズが級友に受けいれられると知ると、さらにいっ 7 えた。幼ないころ、あれほど恐ろしかったイメージは、おれの心のそう西洋史の本をあさりまわった。 トラウマ
ロバート・クラム ( 右 ) と共に クスの特集をしている。今度は、本格的にやりたいらしい し、あしたの昼めしを、いっしょにくおう。ジャン・クロ 1 ・ハレラ」の作者 ) と、ローベル・ジジ 1 ド・フォレ ( 「・ハ ( 「スカ 1 レット・ドリーム」の作者 ) それに、だれとだれ 5 ビジネス・マン化するマンガ家たち と、だれを呼んどいてやるよ ! 」 そして彼は、パリのマンガ家たちが集る古い洞窟を利用 ルッカでは、パスカル氏 したレストランに私を と共に、アメリカから、 招いて楽しい時間をす Z O のメン・ハーが、何人 ごさせてくれたのだっ も来ていた。本年度 た。 ( マンガ家が集っ 会長のジャック・テイピッ て会食をする独得の雰 ト氏、それに、私にとってう 囲気というのはどこで れしかったのは、「フラッ も変りはない。われわ シュ・ゴードン」のアル・ れがあんまりはしゃぐ ウィリアムスン、「ビート ので、普通のお客たち ル・ペイリイ」のモート・ は目を丸くして、こっ ウォーカー、そして、私が ちを見ていたものだ ) 第訳した「イド王国の魔法 ルッカでも、・モリテ つかい」シリーズの画家、 ルニ氏は、私がっかれ プラント・・ ハ 1 カーが、・参 た顔をしていると、「お 加していたことだった。 つ、大丈夫か ? 」と気 アメリカのシンジケート をつかい、 系のマンガ家たちは、マン ハッ ! 」と空手のかっ ガ家というよりも・ヒジネス・マンという印象をうける。ア こうをしてみて、私を抱きあげるのだった。 メリカ漫画家協会会長のテイピット氏もそうで、アーティ セイの協力で、日本マンガ特集をやるーーと、予告を出しストというかんじが、あまりしない。もちろん、みんな、 ちまったんだよ。だから、早く資料と解説を送ってくれな愛想がよく、それそれ私に、絵を描いてくれたし、テイピ ット氏は、私が特に頼んだら、日本漫画家協会のためにも いか」と彼はいう。 では私がパスカル氏に送った「グラフィス」一枚描いてくれた。 そうしたなかでも、「イド王国」のプラント・ 用の日本側資料を手にいれて、すでに簡単な、日本コミッ
SF 昭和 35 年 4 月 12 日第 3 種郵便物認可昭和 34 年 12 月 1 日国鉄東局特別扱承認雑誌第 682 号昭和 48 年 2 月 1 日印刷・発行 ( 毎月 1 回・ 1 日発行 ) 第 14 巻・第 2 号 マガジン ☆ 3 大 SF コンテスト応募規定発表 アメリカ・ファンタジイ & SF 誌特約 ☆新春日本 SF 作家総特集 を & 月 0 〃
物のものとわかった。 放射線を防ぐ能力がどれほどあるのかはっきり 付近の岩石を分析したところ、何と足跡がつい しないが、効果が大きければ宇宙服の顔面を覆う第 地球最古の足跡 9 透明フード用とか、宇宙船の窓用としても役立っ たのは三億五〇〇〇年以前。従来発見されたもの にちがいない 月に人類の足跡を残し地球人は有頂天になってよりも一億年も古い、地球最古のものだったの たった一枚のガラスが、いま各国の宇宙科学者 いるが、自分たちの地球には ? オーストラリアだ。 の注目のまととなっているのだ。 足跡の大きさからみて、この動物は体長が七〇 のビクトリア州東部の奥地で、わかっている限り センチから一メートルほど。足は身体から直 英グーンヒリー・ダウンズに建設された ■世界最大の″耳″ 接出ており、前足の指は三本で、後足の指は 世界最大の地上局のアンテナ 五本。後足にはミズガキがついていたらし 宇宙の中継所、通信衛星を利用したマイクロ ウェープ通信は、情報時代の地球に無くてはな この動物の化石は発見されていないので、 らないものとなっているが、情報量の増大にと どんな姿であったかははっきりしないが、ミ もなって、″耳″の役割りを果す地上の通信設 ズガキからみて、水中に住んでいた魚から発 備も、ますます大型化してきた。 達、最初に陸上にあがった動物のひとつでは このほど英国郵政省がイングランド西部のグ ーンヒリー・ダウンズの北に建設した地上局 ないかとみられている。 は、世界最大、世界最強。大西洋の三万五五〇 科学者たちはいまこの足跡が発見された場 〇キロ上空に静止するインテルサット 4 号衛星 所で、化石探しに躍起となっている。発見で を利用して、一度に電話一八〇〇回線とカラー きれば、動物が四つの足で陸上を歩き回るよ テレビ放送の送受信を行なうことができる。 うになったころの事情が、わかるかも知れな グーンヒリーにはすでに二つの地上局が設置 《りミ」 0 し・カ / されており、インド洋上および太平洋上の通信 同時に科学者たちは、五〇年ほど前にグリ 衛星を利用して、アジアやオーストラリアとの ーンランドで発見された動物の化石との相似 通信を行なっている。 を検討している。この動物はイクチオステガ 今度の地上局は主としてヨーロッパや中近 と呼ばれる魚類と両棲類の間に位置するも 東、アフリカ、南北アメリカとの間の通信に使 われる予定だ。 の。その足跡と今度見つかった足跡は実によ パラボラ・アンテナは直径が二九メートルも く似ている。 あり、高さ一八メートルのコンクリートの塔の もしこれが同じ属の動物であると、北極に 上に取りつけられている。送信機は一〇キロワッ 最も古いと思われる動物の足跡が発見された。 近いグリーンランドと、南極に近いオーストラリ トのものが四台。操作はコントロール・ステーシ メルポルンのモナンユク大学教育学部のウェー アが、かっては地続きだったということになる。 ョンの指示により、自動的に行なわれる。 クフィールド氏は、植物を採集しているうち、砂地球物理学の分野には、かって地球の大陸はひ 経済的にはかなり苦しいといわれる英国だが、 とつだったという説がある。もし足跡の相似性が 宇宙通信にはかなりの力を注いでおり、この地上岩にへんなく・ほみがあるのを見つけた。 局の建設に二五〇万ポンド ( 約一一〇億円 ) を投じどうやら動物の足跡らしい。さっそく古生物学確認されれば、この説は生物学からも立証された ている。 のウォーレン教授に調査してもらうと、まぎれもといえるだろう。 なく動物、それも珍らしいデポン紀の両棲脊椎動