宿 - みる会図書館


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1. SFマガジン 1973年2月号

かくはん 人の怨霊として、ひとつに具像化された。 まく攪拌された国民は、そのためにかえって、かっての騎馬民の故 怨霊は、飛騨盆地に近い出羽平に封じこめられた。そして、その郷である東アジア世界と切りはなされ、これらの地域に対して一人 忿怒の形相を鎮めるため、官選の日本書紀では怪奇な姿をもっ謀叛よがりの肥大した優越感を育ててしまった。女真族の建てた清や、 人として扱いながら、その一方では、その怨念を懐柔する策もとら十四世紀から続く李王朝や、越南の阮王朝などと、日本が没交渉で ちょうりようばっこ れた。ある伝承によれば、・宿儺は最初の天皇を船山へ運び、そこで いるあいだに、新しい外来の力が、東アジア世界までも跳梁跋扈し 即位させるようはからったという。つまり、はじめは外来の征服者はじめた。 にも好意的だったのだろう。宿儺が討伐を受けるのは、騎馬民族征それは、唯一の神を信じる偏狭な宗教体系をもち、かれらの価値 エリミネート 服王朝の最初の天皇 ( 応神 ) の時代ではなく、二代目の仁徳の時代体系と矛盾する存在は、情容赦なく排除することのできるーー、東 になってからである。征服の基礎がかたまり、もはや宿儺の利用価アジア世界の醇朴な人々には、とうてい対抗できそうもないコーカ 値がなくなり、飛騨に独立した宗主権を許しておく必要がなくなっ ソイドの一群だった。 たからであろう。 外来のカの脅威に敏感な宿儺は、この新しい外敵にむかって、久 それから千数百年、出羽平の山塊のなかに封じこめられた宿儺しぶりに闘志を湧きたたせた。しかしながら、宿儺は、ある力によ は、移ろいゆく時の流れを見まもっていた。その歴史のなかでは、 って止められ、行動にうつることができなかった。 けさ かっての征服者と、日本列島土着の人の別は消え、ひとつにまとま 出羽平のすぐ近くにある袈裟山に、一人の遊行僧が逗留しはじめ った民族、国家が成立していった。 たのである。この僧は、山塊のなかに封じこめられたまま蠢動しは すくな 宿儺は、この長い年月に、ひそかな満足をお・ほえたにちがいなじめた、宿儺に気づくだけの法力をそなえていた。そして、僧は、 い。はじめ、征服者の大和は、宿儺の忿怒をやわらげるため、今で ここしばらくのあいだにおこる天変地異をしずめるため、ノミと槌 は祭神すら判らなくなりかけている水無神社などをたて、宿儺を監 をふるいはじめた。 視させようとした。しかし、実際はその必要もないくらいで、宿儺 袈裟山千光寺の住職俊乗が、旅の僧のするがままにまかせておく は半醒半睡の状態で、出羽平の山塊のなかに眺っていた。 と、やがてひとつの像ができあがった。円空と名のる僧は、やがて そして、たた一度だけ、宿儺は目ざめかけた。元禄のころだ 0 寺宝とされる両面宿儺の像を彫りあげて去 0 てい 0 た。 けう た。宿儺は、地下水脈の流れる開口から、外の世界をうかがいしる いったん動きだしかけた宿儺は、ふたたび希有の天才円空の彫っ ことができた。そして、ひとつの変動の芽生えに気ずいた。 た像の法力によって、山塊のなかに封じこめられた。 この日本列島のうちに、たいへん均質な国家ができあがってい おれと中川氏は、そうした事情に気づきはじめていた。そこで、 に割りこみ、これまで判ったことを知らせ る。そのことについて、宿儺は昔の怨みをもちだすつもりはなかっ山城氏のインタビュー た。もちろん 、非礼は判りきっているが、すでに異変がおこってし た。しかし、その均質な国民ーー土着の農耕民と外来の騎馬民がう とど ・ヘトナムグエ / しゅん ー 04

2. SFマガジン 1973年2月号

い第を、をはを 3 ~ : 員 3 洋た 33 ~ おれは、宿儺のことを語りあえる仲間を見つけ、おおいに喋 りまくった。もちろん、宿儺のことを記録した原典は、あの日 本書紀の記述しかない。後世にあらわれた宿儺についての説明 は、たいてい書紀の記述を潤色したものにすぎない。 おれたちが話しあったのは、そうした表面に現われない歴史 の背景だった。宿儺を、飛騨王統をつぐ最後の王と考え、応神 ・仁徳とつづく河内王朝によって亡・ほされた人とすることに、 誰ひとり異論はなかった。そう仮定してみると、なぜ両面とし て描かなければならなかったかを、説明しなければならない。 そこから先は、それぞれの人がもつイマジネーションしたいだ から、話がおもしろくなってくる。仁徳の側の正統性を主張す るため、宿儺をこととらに妖怪じみた姿に描いたとも考えられ る。また、古代ローマで出人口を守護するといわれた双面の神 ャーヌスにも、よく似ている。おれは、子供のことから考えて いた双児の怪盗のイメージを話してみた。 もちろん、おれの説は、すぐさま反対にあった。といって も、それぞれに根拠のあるこことを喋っているわけではなく、 それそれのイマジネーションを披瀝しているたけだから、相手 の話していることに反対しても、それを翻えさせるための説得 をくわえることはできない。 議論ははてしなく空転し、酒盃だけが空になっていった。し かし、そこで話されたことは、 力ならずしも無意味ではなく、 土地の生まれでないおれには、ずいぶん参考になることもあっ 高山市の東の山頂に、袈裟山千光寺という寺がある。そこに 7 宿儺堂があり、円空が刻んだ両面宿儺の像が安置してある。そ こ 0 ひれき

3. SFマガジン 1973年2月号

た。イラストレーションの地の部分に印刷してあるので、いかにも承の元になる背景があるにちがいないと思っていたが、宿儺に関す とこにも見 判りにくかったが、この伝承の出典が記してあった。そのときになる記録は、どうやら書紀の仁徳六十五年の条以外には、・ ってはじめて、おれは、両面宿儺という畸型の怪物が、いわば日本当らないらしいのだ。 教の・ハイ・フルとでも言うべき「日本書紀」にでてくることを知っ そんなわけで、せつかく久しぶりに出会った宿儺の絵は、おれの 心に新しい失望をもたらすだけに終った。せいぜい収穫があったと よぽろ / 、・は おれは、さっそく、そこに記されたとおりに、日本書紀の仁徳天すれば、膕踵と原文であらわされている、宿儺の膝の構造が判っ たことくらいだった。膝の裏側がないということは、つまり、宿儺 皇六十五年の条を開いてみた。いろいろな書物を集めていた父が、 書紀の実物をそろえていたからで、もしそうでなかったら図書館への膝がどちらの側にも屈折できることを意味している。それだけ判 ってみても、幼ないころ、いかにも子供らしく疑問におもった。尻 行ってみるほどの熱意はなかったであろう。 の穴とか男性性器の位置とか、そういった他愛ない疑問は、依然と その全文のロ語訳は、だいたい、こんなふうになるのだろう。 すくな 六十五年、飛騨の国に、一人の男がいて、宿儺といった。その人して解決されないままだった。 おれは、ふたたび、宿儺と遠ざかった。大学そのものに手酷く裏 となりは、体ひとつに二つの顔があり、それそれの顔が反対を向い うなじ ていた。頭の頂上で合わさっているから項がなく、それそれに手足切られ、失望のどん底におちこんだおれは、そんなことにかかわり よぼ一つ ~ 、・は がついていた。そこに膝はあるが膕踵 ( 膝の裏側の肉 ) はついてあってはいられなくなった。入学してから一年半あまりたち、成績 いない。力がつよく脚がはやかった。左右の腰に剣をはき、四つの不良ーー主として出席点の不足による理由から、おれは大学を放校 手で弓矢をつかった。このため、天皇の命令にしたがわず、人民をになり、今すぐにも食・ヘていく心配をしなければならなかったから 掠奪して楽しんた。そこで、 ( 仁徳天皇は ) 和珥氏の祖にあたる難 たけふるくま わねこ おれは、アメリカナイゼーション世代の一人として、いわば唯一 波根子の武振熊という人を遣わして、宿儺を誅殺させた。 結局、宿儺に関する記事は、書紀の原文にして九十字たらず、ロの特技として身についた英語をいかして、もぐりのガイドをやって 食いつなぎ、ルボライターをやっているという男と知りあい、その 語訳しても二百字くらいの、ごく短いものでしかなかった。 ながいあいだ、おれにとりついていた宿儺という怪物は、この書手伝いなどしながら、マスコミの渦中で生活するようになった。 いろいろな仕事で、いろいろな土地をまわるうちに、取材の仕事 紀の伝承にもとづいて造りだされたものにすぎなかった。 をおえて歓楽街にくりだし、手軽な一夜の慰安を手にいれるとい おれは、ある程度、失望した。もちろん、幼ないころのように、 ほうろう いやおう う、放埓をくりかえしながらも、嫌応なしに各地の空気のなかに滲 活字になっているものは全て信用するほど、純情ではなくなってい た。したがって、宿儺の伝承を、かならずしも真実の歴史と受けとみついた土地柄といったものを、感じないわけにはいかなくなっ 9 めていたわけではない。しかし、もうすこし、もっともらしい、伝た。ラスヴェガスを想わせるネオンの街も、朝の光のなかでみると なに

4. SFマガジン 1973年2月号

ばかりのっている、小学生には少なからず刺戟の強すぎるしろもの 儺の絵を見つめた。そのうち、はじめに受けた鮮明な恐怖は、しだ ・こっこ 0 いに影をひそめ、やがていくつかの疑問が浮かんでくるようにすら ホルマリン漬けの胎児たちは、本来なら双生児になるはずの二体 なった。宿儺の像には、二つの顔があるといっても、頭部はひとっ しかなく、したがって、前からみても後ろからみても、身体の前面が重合してしまい、グロテスクな畸型になったものたった。腰のあ りようめんすくな だけがあるという形になっている。そうなると、膝の関節は、どちたりで結がっているものが多かったが、なかには両面宿儺と同じよ ら側に曲がるのか ? 尻の穴は、ついていないのか ? などといつうに背面でつながり、その結果、前後に顔がある形になっている畸 たような、いかにも子供らしい他愛のない疑問が浮かんできたのた形も混じっていた。 しかし、それらの畸型児には、生気がなかった。それも当然のこ おれは、宿儺の絵の恐怖には免疫になったものの、今度はその怪とで、すべての胎児が手足をすくめ、縮んだようなポーズで目を閉 奇な形に興味をお・ほえるようになった。もとより子供のことだかじーーっまりはじめから死んでいたのた。 ら、文献の信憑性を疑ってかかる知恵はな、。、 しつのまにか、おれそのことについて、弘子は、いま大人になった現在でも通用する は、宿儺の存在を信じるようになった。 ような、立派な説明を与えてくれた。つまり、多重畸型というの さんとうろくび それから一年ばかりのうちに、西遊記を読んだりして、三頭六臂は、いわば致死因子でーーーというところを、神さまが死んでしまう に変身した悟空の挿し絵に接したりしたが、それが宿儺の像には結ように、はじめから仕掛けをしておくのだと、弘子は子供らしく説 びつかなかった。西遊記の絵が、誇張が多くカリカチュアライズさ明してくれた。 れているのと比べ、宿儺の絵は、妙に生々しくリアルだったからで両面宿儺の実在を信じていたおれは、弘子の説明に賛成はできな ある。 かったが、それにかわる有効な解釈をひねりだすこともできなかっ た。しかし、その時点から、おれにおける両面宿儺のイメ 1 ジは、 おれは、とうとう、宿儺のことを、誰かに話さずにはいられなく なり、とうとう同級の弘子に喋ってしまった。そんな途方もないこすこしづっ変りはじめた。 とを話して判ってもらえるのは、弘子のほかにいなかったからだ。 おそれおおくも、天皇に刃向う極悪人ーーーといったような元の本 弘子は、同学年のうちではいつもおれと成績の一、二を競いあってにあった皇国史観のヴァリエーションは影をひそめ、ホルマリン漬 いた。いわばライ・ ( ルだが、妙に気のあうところがあった。おれたけの哀れな胎児のイメージが付けくわえられた。その結果、おれに ちは、二人とも大人の本を読んでいたから、おたがい子供じみた同おける両面宿儺は、かなり勝手に解釈され、いわば被害者に等しい 級生とっきあう気がしなかった。 存在に転落してしまった。 弘子は医学部教授の娘だったから、おれの話をきいて参考資料をあの兇悪そのものとしか思えなかった二つの顔は、哀れな小数者 5 ひだ 持ってきてくれた。それは産科の専門書で、多重畸型の胎児の写真だけがもっ虚勢にすぎなかった。実際の宿儺は、飛騨の山奥に生ま

5. SFマガジン 1973年2月号

も、ひとつの証拠である。それから数十年、自暴自棄のような戦争筋をみただけで、どのあたりまで来たか判るらしい。 へと追いつめられるのだが、すくなくともこと西欧文明の摂取採択「高山祭りで混雑するんだろう ? いいのかな、関係ないおれなん 9 には、きわめて慎重に取捨選択のフィルターをかけていたことが判かが泊っても」 る。それは、遣唐使によって漢土の文明が紹介されたときも、まっ 「かまわないわ、古い家だけど広いから。高山祭りには、いろんな てんそくかんがん たく同様であった。あれほど唐文化にかぶれながら、纒足、宦官な人がやってくるわ。あたしが子供のころは、知らない人がたくさん どは採用していない。その意味で、取捨選択の能力は、この国民に泊ったわ。一泊して帰っていったあとも、結局どこの誰とも判らな そなわった天賦の才というべきだが、戦後は、その歯どめが消えかったなんてこともあった」 た。なぜなら、この国民のなかから、コーカサイドに奉仕する裏切「ところで、きみのお父さんには、迷惑をかけるな。おれのため 者がでて、教育という重大事までも、かれらコーカソイドの意向をに「両面宿儺の会の人たちを集めてくれるなんて」 むかえる方針へと、売渡してしまったからである。 おれは言った。 おれは、ようやくにして、戦後世代の構造的な欠陥に気づいたの美雪の父親が、両面宿儺の会というものを主催しているときいた ・こっこ 0 とき、おれは、とびあがらんばかりに驚いたものだった。 すくな 宿儺の本拠であった飛騨へ行くからには、おれ自身なんらかの収 そして、おれは、、 しま、日本人の心の故郷ともいうべき飛騨へむ穫を期待していたわけだが、そのことを美雪に話してみると、意外 にも彼女の父親が宿儺の会というものをやっているというのだ。会 かっていた。この山奥の地方が、最近にわかに脚光を浴びるように なったが、あながちディスカ・ハー ・ジャ。 ( ンの目玉商品に仕立てら員は、十人たらずの小じんまりした会で、飛騨に多くのこっている れたためばかりではない。この地方には、コーカソイド化の波がお円空仏の観賞会から派生したもので、郷土史家やら教師やらを会員 いまはやりの山頭火の先輩とし よんでいない一面があり、それがまだ魂を売渡していない日本人にしているという。そういえば、 て、放浪の彫刻家であった円空は、ながく飛騨に滞在し、両面宿儺 に、多くの共感を呼ぶからだろう。 名神高速道路の小牧インターチ = ンジをおりて、国道四十一号線の像も刻んでいる。 をおよそ一時間ばかり走ったときになって、ようやく美雪は眼をさ「そのことを言ってやったら、父も喜んでいたわ。もちろん、会員 ました。 の人たちも、あなたがくるのを待ちかまえている。飛騨人のほか 「もう、こんなところまできたのね。いっ名神高速からおりたのに、宿儺のファンがいるのが嬉しいんじゃないかしら。なにしろ、 宿儺というのは、逆賊として、戦前の皇国史観の時代に、ずっと冷 か、ちっとも知らなかったわ」 美雪は、リクラインさせたシートを戻し、大きくのびをしてから飯をくわされていたわけでしよ」 言った。眼をさましたばかりでも、道に沿ってながれる飛騨川の河「日本書紀の紀年をそのまま信用し、宿儺が実在したものと仮定す

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れなくなった。その一方、ここでは、宿儺に畏怖すべきものとして という。 「なかなか眠らないと、宿儺さまがやってきて掠っていくって、よの属性をそなえたまま、人の心に生きつづけているのだった。 おれは、まもなく、美雪といっしょに、山城家をでた。ここから くおどかされたものだわ」 美雪は、おもいだすのも恐ろしそうに、わざと身をすくめてみせ市街の中心まで、歩いてもいくらもないが、宿儺の遣跡をまわって みる予定があるので、車にすることにした。 長い星霜にわたって、この屋敷を支えてきた梁や垂木は、すっか市の中心の小学校の校庭に駐車場があり、県会議員をしていると う山城氏の名をだすと、すぐさま一台分のスペースの都合がつい りくすんだ色にかわり、それなりに落着いた雰囲気をかもしだしてい いるが、それは大人の感想というべきだろう。 おれと美雪は、まず、古き良き飛騨の街並が保存されている、上 明治以来、手をくわえたのは、電灯を引いたことだけで、障子の 外は雨戸だけという造りのままにな 0 ているから、ここで寝ている三之町のあたり〈行ってみた。この通りには、千本格子の家並が、 よく残されていた。それらの家々が、こうじ屋であったり、民芸品 子供にとっては、ちょっとした脅しでも、じゅうぶん役にたったに 店であったり、酒屋であったりする。なかには、ウイスキーの O ちがいない。 「しかし、宿儺が人掠いだというイメージは、大和朝廷中心の日本で有名にな 0 た旅人宿というのもある。 「ディスカ。ハ ジャパンが成功したわけかしら、最近は高山に 書紀史観のままだな。本拠の飛騨ですら、そう思われているのは、 も、たくさん人がくるようになったわ。なんだか信じられないくら 宿儺にとっては心外だろうよ」 いなのよ」 「でも、そこまで言ってしまうと、うがち過ぎじゃないかしら。た しかに宿儺は飛騨のものだけど、やはり住民すべてから恐れられて美雪は、祭り目当の人の波をかきわけながら、土地に生まれ育っ た者には判らないというように、首をひねってみせた。 いた存在にちがいないわ」 異変がおこったのは、まさに、そのときだった。 美雪は、無邪気にいった。 おれは、一瞬のあいだ、自分の眼がどうかしたのかと思った。周 たしかに、ここには、大都会から追放された影の世界がある。こ かすみ なげし の朝の光りのなかでみても、奥まった十畳の座敷では、欄間や長押囲の街並が、・ほんやりと霞がかかったようになり、眼の焦点が合わ のところには闇がのこっている。近代文明がもたらした光の洪水ないような感じになった。しかし、行手の通りを眼をおとすと、べ つだん揺れているわけでもないし、自分の靴先までしつかり見とど は、ここではまだ一般的ではない。 大都会のあらゆる権威ーー・神や仏をはじめとして、政府や大学けることができた。 や、軍人や警官など、かって庶民のうえに君臨していた全ての存在混雑した見物人のなかにも混乱がひろがりはじめていた。悲鳴を は、今ではカのない虚像になりさがり、もはや恐れの対象とすらさあげる女もいるし、他人をつきとばして走りだす男もあった。 すくな さら はりたるき おかみ こ 0 9 9

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・う第一第らドを ャ = = 0 な、を 0 い f す、 3 、 0 驪 ' もないわけだから、あんたは、宿儺の会に人る資格じゅうぶん ちゅうわけじゃ」 ききおわったとき、中川氏がいった。 この人のいうとおりである。宿儺のことは、百科 ュー・カ 辞典にもでていないし、ふつうの歴史書にのっているわけでも ない。きわめて地方的な特殊な伝承だから、おれ程度のことで も、じゅうぶん両面宿儺の権威になれる。 「ま、せつかく、飛騨へござったんじゃ。あとは、実地にみて いただくとええ。ここにや、宿儺さまの遺物が、残っとるで な」 山城氏が言ったところで、さきほど台所のほうへ引っこんだ 美雪が、酒肴をととのえて入ってきた。 それからは、酒盛になった。広い屋敷うちでは、酒盛になっ ているのは、この部屋だけではないらしい。むこうのほうから も陽気な唄声がきこえ、山城氏が席をたっていった。トイレに たったとき、台所のところをとおると、数人の女たちが、酒の かん 烱つけやら、煮物の盛りつけなどに、忙しく立働いていた。な にか人の出入りがあると、近所の女たちが手伝いにくると、美 雪からきいたことがある。いまだに、飛騨の旦那衆の成令は、 いきとどいているらしい。そのなかで、女たちを指図している 中年の婦人は、美雪によく似ていた。おそらく美雪の母親にち 力しなしが、さきほどから一度も宴席にでてこようとはしなか っこ 0 おれは、応接間にもどり、すすめられるままに酒盃をかさね た。ロあたりはよくないが、噛みしめるようにロにふくむと、 うま味のでてくる辛口の地酒だった。 96

8. SFマガジン 1973年2月号

十一台の屋台のあいだには、手甲脚絆やら衣冠東帯やら、古めか各人の性格や教養によっても少しづっ違っていた。 しい衣裳に着がえた人々がつづく。それは、まさしく日本の祭りだ おれは、ライターを捨てた。なぜ、そうしたか判らない。しか った。その土地にしみついた土の香のする芸術であり、コーカソイし、タ・ ( コをつける専用の道具があるという事実に、我慢できなく ド世界からなんらの影響もこうむっていない、数少ない文物のひと なったのかもしれない。それは少くともおれにとって、畸型的なコ つだった。 1 カソイドの技術文明のシンポルのひとつだったのだろう。 ここにいる人たちは、二度目に異変を経験したにもかかわらず、 なかには、洋画ポルノの上映館を襲った者もあった。また、レコ 誰一人としてとりみだしてはいなかった。おれをふくめた全員が、 1 ド店を襲った若者たちは、外国の二流、三流のアーチストの手に あの異変の影響をうけて、なにかの暗示を心にうえつけられたにちなるディスクを放りすて、めちやめちゃに踏みつぶした。ペッドを がいない。そのせいで、おれたちは、なにごともなかったかのよう放棄する家庭もあったし、ミシンやテレビを壊す家もあった。 に、屋台見物に戻っていられるのたろう。 それそれの人の内的世界において、行き過ぎたコーカソイド化の 「あっ、金森さん、ここでしたか ? 」 シンポルとみなされたものは、すべて破壊されずにはすまされなか おれたちは、不意に話しかけられた。昨夜の呑み仲間になった、 ったのだ。 宿儺の会の中川氏が立っていた。 おれたちが駈けつけたとき、山城氏は、テレビのインタビューを 「いまのを、ごらんになりましたか ? 」 受けているところだった。 「ええ、確かに見ました。そして、その影響がもう現われはじめ、 「もともと、両面宿儺というのは、飛騨土着の神人で、いわば外来 一部では暴力沙汰もおこっていますが、ともかく、むこうで、山城のものに亡ぼされる、悲運の英雄というところでしような」 氏が報道陣につかまっています」 山城氏は、この異変のもつ意味を、まだはっきり呑みこんではい 「わかりました、行ってみましよう」 ないようだった。ごくふつうの解説書にもでているようなことを喋 おれと美雪は、中川氏に導かれ、山城氏がいるという陣屋跡にむっていた。 かった。このたびの異変のとき、誰もが宿儺という名を聞いている今ここで起こったのは、そんな生易しいものではない。異変をお というより自然に思いだしているが、そんな形で宿儺の会が注こした主は、おれたちの心に語りかけ、はっきり宿儺と名のった。 目されることになるとは、思ってもいなかったと、中川氏は話して それは、かって外来の力に押しひしがれ、あえなく抹殺されたも くれた。 のの怨念が、ひとつに凝集したものにちがいない。おれが幼ないこ あの異変の渦中にいた人たちは、心のなかで何かに目ざめた。そろ、あれほど恐怖した忿怒の形相には、外来の征服文化の陰に埋も れは、日本人あるいは東アジア・モンスーン米作地帯の住民としてれてしまった、飛騨の苦悩が象徴されているのだった。宿儺という 0 一人に托された怨念の数々は、歴史の陰に沈んでいった数千数万の の、一種の自覚のようなものであり、その反応のあらわれかたは、 てつこうきやはん

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廊下の天井があまり高いので、白熱電球の明かりだけでは、うす和洋折衷のインテリアで、四、五人の先客が待ちうけていた。 「こんにちわ、皆さん、金森さんをお連れしたわ」 ぐらい影ができてしまうくらいだった。 「陰気な感じでしよう ? き 0 と明治以来の因習がしみこんでいる美雪は、テープルをかこんでいる人たちのあいだに、おれを案内 だり のよ」 美雪は、弁解するように言 0 た。こうした旧家に生まれたこと「ま、かけてくれや。このとおり広い屋敷だで、誰かござ 0 ても、 で、自分まで旧式な時代遅れな人間と思われかねないと、警戒してわからんでな、出迎えにもでとらんが」 年輩の人が、おれにむかって、すわるべきところを示してから、 いるようだった。 「いや、そんなことはない。とても立派だ。いちがいに因習とか封はじめて山城平太夫と名のった。古めかしい。 ( ーソナル・ネームの 建的とか片づけるが、封建的であ 0 ていけないとか、家族繝度がわほうは、山城家の代々の当主が名のる掟にな 0 ている名だというこ とだった。 るいとかいった証明は、まだ一度もなされていないんだ」 「そうかしら。あたし、あなたが、こんな陰気なところで育った女「金森です。お世話になります」 は嫌いだなんて、言いだすかと思 0 たのよ。でも、あたし、好き「なんでも、あんた、宿儺さまに興味を持 0 とるということです な。この土地のもんでもないのに、珍らしいことだ」 よ。この家で育ったことを、むしろ誇りに思っているくらい」 美雪は、安心したらしい。おれを廊下の奥〈案内した。板敷の廊そこにいた中年の男が話しかけてきた。この土地で歴史の教師を しようじふすま しているという中川と紹介された。そのほか、おなじ宿儺の会の人 下の右手は、障子や襖になっているのに、左側には壁がつづいて、 ノブのついたドアがある。それについて、おれは、美雪から予備知が二、三人で、おれをふくめても何人にもならない、こじんまりし 識を与えられていた。この家屋敷の右半分は、明治からのものであたパ 1 ティができあが 0 た。 へんちゃ みんちゃ それから、おれは、両面宿儺というものだけを共通の話題とし る、左半分は元は土間になっていて、台所とか、馬屋とか、便所と かに使われていた。そして、その土間のあたりで、小作人たちが食て、はじめて紹介された人々との会話に入りこんでい 0 た。 べったん隠す必要もないので、おれは、問われるままに、これま 事したり、屋内作業をしたりしたのだという。いまの当主の山城氏 での人生における宿儺とのつながりを、なるべく押さえた語り口で は、この土間のところをつぶして、家の外観だけはそのままにて、 内側に応接間やらダイ = ング・キチンやらを造築したのだ。外観は話しつづけた。ここでは、おれは、単に他所者であるばかりでな もとのままだが、屋内の左半分にはセントラル・ヒーティングもっく、一座のうちでは明らかに最年少である。あまり図々しくみえな という計算も働いていたから いように振舞わなければならない、 いているという。 ! 」 0 なん 美雪は、左側のドアノブをまわし、ひとつの部屋へおれを導きい 「ま、宿儺さまのことは、日本書紀にでているだけで、ほかには何 れた。そのなかは、派手ではないが、センスよくデザインされた。 5 9

10. SFマガジン 1973年2月号

こからさらに乗鞍にむかったところに、「、出羽が平があり、宿儺がた夜いっしょだった宿儺の会の人たちは、あれから帰ったのだろう。 8 てこもったという両面窟がある。もとは鐘乳洞だというが、いまで地元のことで近くに住んでいるのたろうが、北国の人は酒がつよい 9 は石柱も石筍もなく、溶蝕はつづいていないという。 ものだと感心させられた。 そして、この両面窟の下に、飛騨鐘乳洞があり、高山近郊の観光朝食をすませたあと、美雪の態度はかわっていなかった。どうや ルートにも入り、おおいに賑わっているという。 ら、昨夜の失態を気にしてはいないようだった。はたして良いこと そんなことをきかせてもらっているうちに、誰からともなく横に か悪いことかしらないが、酒のうえのことはとがめだてしないとい なり、そのまま眠りについてしまった。 う、きわめて日本的な伝統が生きつづけている土地のようだった。 その夜、おれは、酒の酔のためだろうか、久しぶりに宿儺の夢を「ゆうべは、いきなり宿儺の話になってしまったでしよ、それで案 みた。夢のなかの宿儺は、おなじみの忿怒の形相をしていなかっ内できなかったんだけど、もとからの家のほうをお見せするわ」 た。恐ろしげな形相にはちがいないのだが、それは亡国の王のふだ美雪は、廊下の右手のほうへ、おれを案内した。 んの表情にすぎないのだろう。そして、その表情には、笑いとまで そこには、天井の高い十畳間が、四つあった。田の字造りという は言いきれないが、どことなくさわやかな笑みが浮かんでいるよう のだそうで、富農としての格式にのっとって造られているらしい にみえた。 四つの十畳が田の字のように配置してあるが、それが全部客間にな 翌朝、おれは、美雪の声で目をさまし、おおいにあわてた。なに っている。 しろ、はじめて訪れたガールフレンドの家で、酔っぱらって眠りこ昨夜ここにとまった人たちは、遠くから高山祭りを見物にきた縁 んでしまったのだ。ずいぶんと、エチケットはずれなことをしたも者だそうで、朝寝坊のおれが寝ているうちに出かけたのだという。 のだと思った。 早くいけばいくほど、屋台の見やすい場所に陣どることができるか 昨夜のメイハー・は、すでに見あたらなく、おれ一人だけソフアにらだ。 横になり、毛布をかけてもらっていた。そこへ、美雪につれられて 四つの客間には、それそれ格式があり、玄関に近いほうが、いち 母親がきて、挨拶にかかったから、おれのほうもとりみたした。 ばん軽々しい客で、奥へ行くほど格式が高くなり、田の字の右肩の 「娘が、お世話になっとるそうで、よくござったのう」 ところにある一間は、山城家と対等あるいはそれ以上の客にだけ供 ざくろ 「いや、こちらこそ、昨夜は、とんでもない醜態を演じまして : される。その一間には、二間幅の床の間があり、みごとな柘榴の木 の床板がわたしてあり、白黒の濃淡たけで仙境をあらわした山水画 カかかっていた。 おれは、ただひたすら頭をさげるほかはなかった。 それから朝食がはこばれてくる。時計をみると、まだ七時まえだ ふだんは使われない原則になっているが、美雪の時代には、家族 った。女たちは、ほかの部屋へも朝食を運んでいるようだった。昨が多いせいもあって、二人の姉といっしょに入口の部屋に寝ていた ふんぬ